第六章 殺意と永遠

   *

 まつり、俺、お前をころしたい。


 静かに言う。

 それをどこか他人事のようにきいている。

「いいよ」

 まつりは気軽にそう答えた。

 なんともない、とは言えなかった。やっぱり、怖いものは怖かった。

 でも。

 他の誰かに、なにかに、殺されるぐらいなら、彼に殺されたほうがましだった。

「ひとごろし、怖くない?」

 ただ、心配したのは彼自身の身の安全で。


 くるしいのは、ひとりでいてもふたりでいても、大勢でいてもなんにも変わらないことがある。

 つらいね。

 ささやいて、その手をそっと掴んだ。

 できれば、痛くないように。

 それでも無意識に力が入って、爪でちからいっぱいひっかいてしまう。

 ごめん、と唇を動かしかけて、とつぜん体が痙攣した。

「い、や」

 しにたくない。

 知らない、こんな感情知らないよ、あたし。

 体が熱かった。

 重たくなって、それがいやで無我夢中で暴れた。

 それを楽しむかのように、彼は口をゆがめ、ほら、やっぱり、と声に出さずにしずかに言う。

「しねよ、だって死んでくれるんだろ?」

 確かめるように、おさないことばが投げられる。

 いやだ、と少女は首を振った。

 いやいや、いやなの、だってこんな、こんな、


 こんなくだらない生き物に殺されるだなんて。

「今更気づいたのか」

 呟いて、もう動かなくなった体を見下ろす。

 奇妙に疲れた右手を振って、タバコに火をつけ、深呼吸する。

 薄くなった煙を、世界に吐いて、彼はこれでいいのかと自問する。


 やっぱり、彼を受け入れたようで、完全には許してはくれないのだ。

 それがひどくつまらなくて、悔しくて、何度だって確かめた。

 愛をささやく女どもも、からだをほしがる男たちも、すべて同様に、死ぬ前には彼を突き放した。

 そうでなくとも、どうせ二度とあえないのだが。

 ねえこれはゆるしてくれるの? これは? これは?

 それがエスカレートして、彼の熱情はとどまるところを見せない。

 壊してしまいたくなる。

 手に入る存在が、どうしてここまで愛おしくなるのだろう。

 どうして、愛おしくて信じて、そうしてふと我に返ってしまうのだろう。

 いっそもっと愚かに賢しらに振る舞えれば良かったものを。

 自分がだまされているという錯覚めいた確信が、彼を何度も警戒させた。

「しねよ」

 震える指で、新たなタバコに火をつける。吸い捨てたものは踏みつけて、足りなくて壁を何度も蹴った。

 すぐ近くで転がっている女を、見向きもせずに、ただ。

 祈る。


 死体から、一滴の涙がこぼれた。

   *

「死後硬直がとけかかってますね」

 淡々と言うと、あれ、と彼は声を裏返した。

「うっわーいい指してるなぁ」

「スガ、おまえ、しごと」

 器具を持ってうろついていた鑑識にいわれ、菅浩太ははあいと生返事を返す。

 写真撮影も終わったことだし、運び出して、さっさと現場を観察しよう。

 名残惜しげに指を放し、浩太は立ち上がりかけて中腰でとまる。

「……何、なにか、いいたいの」

 ズボンの裾を、彼女の手がしっかりと掴んでいた。

 遺体が何かの弾みで動くことがあっても、こんなに急には、起こらない。

 ましてや。

 ため息をつき、いちにのさん、と口の中で呟くと、浩太は後ろを振り返った。

「警部! 菅浩太、一身上の都合により」

「あー、用がすんだら帰って良いぞ。でもまだ終わってないぞ」

「いや今すぐがいいそうです、このひと全然待てなさそうなのでもう死んでるし早く言って楽になりたいそうなんですんません今やらせてください」

 数人が、体ごとひいた。

 遠巻きになった周辺の人間たちに、傷ついたような目を向けて、浩太はぱん、と両手をあわせる。

「なんですか、みんな。普段は調べたい調べさせろとかさんざんいっといて、いざとなったらそれですかそうですか」

「いや、だって、なぁ」

 コレが初めてではない警部が、ややびくついたような目を向けた。

「お前が検屍官以外で動くと、側にいてろくなめにあったことがねぇんだもん、よ」

 一斉に頷かれ、浩太はふんだ、とそっぽをむいた。

 確かに浩太が力を使うときはいろいろなコトが起きるし、よほどの術者や場慣れした者以外には出来れば側にきてほしくない。

 危険だから。

 ともあれ、この少女の場合には、そう当てはまりそうでもなかった。

「君は、ええと、何を言いたいのか聞いてあげたいのはやまやまなんだけど、できれば先に、ぶっちゃけちゃってすっきりしてぱっと消えられちゃうのもちょっと困るんで出来れば先に、君を殺した犯人とか凶器とか教えてくれない? あと時刻とかも。出来れば」

 すばやく的確に指を組んではほどき、くみかえ、浩太は視線を中空に据えたままだ。

 やがて少女の姿が周りにも知覚されるようになると、自然と息をのむ気配が伝わってくる。

 苦笑して、浩太は指を止めた。

「ごめんね、実体化、痛い? ちょっと俺だけ見てるってのもなんか俺だけのタワゴトみたいで嫌なんでさ、すまん」

 証人は、多いほうが良い。

 証拠としては取り上げられなくても、きっかけにはなる。

(これで、給料はかわらないんだから損なんだけどさぁ)

 と、浩太は今日も、捜査状況向上にむけて働いてみていたりする。

 眼前では、現場たる高校の制服を身につけた少女が、うつろな表情で宙を見つめていた。

   *

「いってきまーす!」

 日向はうきうきと綱をひいた。玄関から飛び出しかけた犬の身体が、大きく半円を描いて屋内に戻ってくる。

 はやくはやく、とせいている犬に、靴を履きながら少女は謝る。

「ごめんね、ちょっと待って、靴履くから」

「あれ? 日向さま、おでかけですか」

 ちょうど奥の部屋から出てきたばかりの明良が、ふすまを閉めて立ち上がる。

 頷いて、日向は犬に引きずられるようにして走り出す。

「散歩に行ってきまーす」

「夕方ですよ、危ないですよ!」

 明良は慌てて叫んだが、彼女の姿はもはや視界にない。

「……参りましたね」

「どうかしたの」

 先程しめたばかりのふすまが開いて、少年が顔をのぞかせた。かつては銀月王の名をかたって現れてきた存在を受け入れさせられた。名を冷羽、その存在は今では自分の身体を自分でそこにあるものとして知覚させる術を得ている。得ているというには語弊があるが、今、千明カレンとも名乗るかの者が完全には過去の通りではないことを考えるとそう言わざるを得ない。

 たすくはおそらく、銀月の一族の総締めである中城の血筋の者に現れた冷羽を快くは思っていないだろう。不意に現れて人格ごとのっとられて、不快でない方がおかしい。それでもたすくが、ひとりで一族を負う責を与えられていることを思えば、冷羽の存在で多少緩和されていたものがあっただろうにと哀れむ気持ちが起きないでもない。

 ……哀れむ?

 何を。

「明良?」

 長い沈黙に、たすくが首を傾げる。

 義務教育さえほとんど放棄させられてきた少年は、これだけ陰湿な旧体制の中でもまだ、些末なことで胸を痛めている。それをたすく自身以外には知る者はない。


「もうしわけございません。実は日向さまがおひとりでいぬ……犬神の散歩を」

 思わず『犬の散歩』と答えかけた明良の顔を見て、たすくは無表情に頷く。無表情というよりは、清廉すぎて生きた感じがあまりしない。

「『くろ』の散歩だね。すでに犬ではないとはいえ犬神も運動不足はイヤだろう。散歩させなければ」

 クロ、と名付けられた犬神は、凶暴性を潜めている間はただの大型犬にしか見えない。

 その犬神は日向に特になついている。

 しずくがこういう、動物だったのかなぁ。

 そう、日向は言ったけれども。

(しずくさまは、人間の姿をしておいででしたよ)

 資料はあまり残っていない。いや、研究所をおいていた第二次大戦中、データの多くが、侵略時に人手に渡らぬよう処分されたし、そうでなくとも被災によって失われていた。それでも、生き証人がまだいくらか残っている。そこから得たものによれば、しずくもキセも、人間と変わらぬ姿をしていたという。もちろん、常に本性をさらけて歩く妖物もなかなかいまい。

「ああ、でも、もう夕方だ。黄昏は招く声が大きくなる、ひとりでは危ない」

 たすくは茫洋と呟いた。ふいと壁際に向けられた視線が、目に見える何ものをも越えているような気がする。神がかる、という表現は、この主にこそ相応しい。

 真なる主人は銀月王だと、明良は年寄り連中から聞いている。

 そしてそれを掲げる一族をとりまとめるのが中城だと。

 しかし、今。

 見えもしないあるじより、眼前の少年をあがめることに奇妙な胸のうずきが生まれる。

 それは期待という名に似ている。

 なぜなら、――たぶん彼が若いから。

 見せてくれるのかもしれないと思えるのだ。

 幼いがゆえの希望を。

「もうすぐ日暮れです。夏の日は長いとはいえども、よからぬことを考える輩は多いですから、日向さまをおとめしよう思ったのですが」

「そう」

 短く言うと、たすくは不意に微笑んだ。打算のない、こぼれ落ちたような笑みだった。

「守ってあげて。どの人たちも、できれば」

 だって、皆、巻き込まれただけなのだから。

 その言葉が正しいとはさほど思えなかったが、明良の心は動いた。もとより、否を答える声を持たない。こうべを垂れて静かに応じる。

 たすくが指示を出すこと自体、あまり多くはない。それよりも周囲の重鎮達の望むままに采配を振るい、また最終的な責任を負って首を差し出すことのほうが任務だった。

 明良は、そんな彼が、部屋の奥で待つことより、動き、誰かを気にかけることをし始めたことに驚いていた。そしてそれは、決して不快なものではない。


 水瀬裄夜は新興古書店から出てきたその足で隣の書店に踏み込もうとし、いぶかしげに眉をひそめた。

「あーれー? ゆっきやー?」

 向こうから、大型犬に散歩させられている感じで引きずられている少女がやってくる。

「中津川さん……クロの散歩?」

 見れば分かる。

 日向は胸をそらせた。

「えらいでしょー?」

 どっちが。

 散歩をさせてあげている、というよりは、両方ともが、気の向くままに歩いているように見える。

「ねぇっ、一緒に行く?」

 目を輝かせて見上げてくる日向は、妙にテンションが高い。くろもじっとこちらを見ている。

 対する裄夜は、名残惜しげに本屋を振り返った後、

「いや、どっちでも」

 簡潔に答えた。

 しかしどこまでも不十分な答えである。

「どっちがいいのよ」

 日向が不満げに言うと、裄夜は明らかにとまどった。地面近くでは、クロがさかんに尾を振っている。風圧で細かな埃やゴミが舞い上がっていた。

「もういいっ、クロ、行こうっ」

 引き綱をぐいぐいひいて、日向は脇道にそれていく。その脇を、ビル達が落とす冷たい影が埋めていく。

 空を見上げ、裄夜は日暮れに気がついた。

「まっ……待って、中津川さん! 行くからっ」

 さすがに、日が暮れてから女の子をひとりで歩かせようという気にはならない。

 鼻を鳴らしてわずかに振り返ったクロの目に、どこか蔑むような光がちらりと走ったのを裄夜は見た。

「……なんだよ、そんな目で見なくたっていいじゃないか」

「何が?」

「いや、何でもないよ。それより散歩コースってあるの? ときどき暗くなってからマンションに戻ってたけどそれって散歩の所為なんだ?」

「うーん……前のアパートって引き払っちゃったでしょ、ほら、浩太さんが周りの人の記憶が戻るとそれはそれで厄介だからってなるべく市外にって言うから引っ越すことになって、それでしかも浩太さんちの近くに引っ越しちゃったじゃない。そうしたらクロを預かってもらってる明良さんの詰め所みたいな銀月の本宅みたいなところに近づいちゃったってだけの話よ」

 裄夜はビル一つ分の前を歩ききると、ようやく億劫そうに口を開いた。

「中津川さんって最近浩太さんに似てきたよね」

「どこが!? しっつれーな人だよね行こうクロッ」

 一声吠えて、クロがリードを引っ張った。いきなり走り出した一人と一匹に、裄夜は一拍遅れて付いていく。

「待ってよ中津川さんっ! 危ないよ!」

 肩越しに振り返り、日向が思い切り舌を出す。何だかむっとして裄夜は走る速度を上げた。


 この道をこれ以上進むと河原に行くのに遠回りになる。つまり、道を間違えた。そう判断し、日向はクロを引っ張ってビルの間を抜け、元の道に戻ってきた。一度一人と一匹に置き去りにされた裄夜が、追いつく寸前で急転回され、日向にぶつかりそうになって慌てて避け、再び彼女を追う羽目になる。

「中津川さんってば、もう」

「あっねえねえ、あれ何だろう」

 突然、日向が立ち止まった。クロが舌を出して尻尾を振りながら、早く先に行こうと時折綱を強く引っ張る。裄夜はくろの頭を撫でてから、日向の指さす先を見やった。

 ビルの隙間を人がのぞき込もうとしている。道路にはみ出した野次馬が鑑識の腕章をつけた者に一旦は蹴散らされ、すぐに戻る。人込みの後ろを通りながら、裄夜は日向より高い位置から状況を見て、首を傾げた。

 青いビニールシートが黒と黄の紐や立ち入り禁止のテープの向こうに広げられている。

「何だろう。事件かな」

「そういえばね、今日昼休みに特別教室のある棟で、誰か殺されてたんだって」

「ええ?」

 そんなことは聞いていない。殺人事件ならば生徒は即日家に帰されるのではと思ったが、日向は左右に首を振った。

「林みたいになってる山側の木造校舎で、だったらしいから。パトカー二台くらい来てたでしょ?」

「いや、見てない。多分校庭に出てたから」

「犬みたいだとか言われてたけど前の事件と混同して噂してるのかな。ねー、クロ?」

 引き綱をひかれ、黒い毛皮をうねらせて犬が振り返った。喉の奥で甘えるように鳴かれ、違うよねと日向は呟く。

「中津川さんには懐いてるけど、その犬、よく考えるとこの間まで人をく」

「すとーっぷ! 言わないの、それ言いだしたら困るの」

 河原に行く予定だったらしいが日向は早めに切り上げて帰ることに決めた。つい先程できたばかりの殺人事件現場の側を通ったのだ。さすがに、剛胆には行動できない。

「クロ、しっかりボディーガードよろしくね」

 クロは一声軽く鳴いてみせて、振った尾を裄夜に何度も当てた。

 背中をどつかれているような勢いを覚え、犬を見下ろして裄夜はその目がどう考えても敵対心を秘めていると感じる。

 しかしそれでどうこうできるわけもない。犬はしっかり日向の足下について、尻尾を立てて歩いている。

 ため息をつき、裄夜は少し距離を置いてから歩き始めた。

   *

 黒い影。

 足下でうごめくそれを見て、キセはわずかに目を細める。

 白い玉砂利が乾ききるより早く雨が降る。濡れた前髪から滴が垂れる。

 灰色の視界の中に、誰かが通る。

 一人、また一人。

 墓石に手を合わせた彼らの後ろを通り抜け、キセは一礼する。黒い着物姿の青年の神妙な表情に、人も軽く頭をさげた。


「いつまで、この茶番を続ける?」

 キセは、雲に遮られていてもなおある光が入り込めない、本堂の中に呼びかける。

 くろぐろとした床に、湿気の吸われる音だけが響く。雨音は瓦で止められていた。

 不意に、女が口の端をあげた。

「いつまででも」

 と、彼女は答える。

 しん、と静まりかえった本堂に座していた少女は、ひよこじみた柔らかな髪を揺らし、音もなく立ち上がった。衣擦れの音すらしない。今にも肌から滑り落ちそうな単衣が、ずる、とむき出しの木に触れたが、音はしない。

 色素の薄い肌に、かすかに桃色がかる髪が降る。

「私は、私をどこまででも追いかけてくるお前たちが憎い」

 虚ろな眼は、まるで熱を持ったように潤んでいる。けれど泣くことはない。彼女にはそこまでの感情の起伏がない。

 キセはかすかに鼻から息を抜いて、それから右手を、手前から本堂の奥へと軽く揺らした。動作の中途で現れた錫杖が金属の歌を歌う。

 錫杖の先を向けられて、女は忽然と、姿を消した。

「散らばりすぎている……だが」

 その、どれもが些細な欠片だ。

 トラップにしてもお粗末すぎる。

 本人が残したものか、本人が仕掛けたものか、それとも。


 キセはきびすを返し、居並ぶ多くの墓石を見つめる。

 そこには見知った者の名はない。

 名を捨てた一族の者らは、感傷的に墓を作らない。

「……深淵僧津、貴方は」

 近くで鐘が突かれている。

 押し黙り、キセは雨に打たれるに任せた。

 問いかけの答えは、自分たちが出さなければならないことだ。


 これで正しかったのかと、問うにはあまりにも。

 時を隔てすぎている。

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