第五章 とりとめのない話(うそ)
*
死が、死だけが時間をとめる。
それは、ひどくうつくしいことのような気がした。
ただ、きれいだった。
死んだあとが問題なのだ。
死ぬ、あの、息絶える瞬間だけがただしかった。
その後はつまらない。
硬直したあの顔も、白く冷たくなる肌も、それなりにいいとは思ったが病的だと思った。
屍姦という性癖について、あんな生ぬるい体のどこがいいのか、と辟易した。
つめたくて硬いからだがいいというのなら分からないでもないが。
彼は今日もいらいらと煙草の箱を踏みつぶしている。
階段は延々と続く彼らの業。学校という場所に閉じこめられて亡霊のように住み着いているのはむしろ教師たちのほうかもしれないのに。
彼は三年という『刑期』を科されたことを腹立たしく思っているし、同時にそれを終えることに苛立ってもいる。
今日、刑事が来た。
校舎内は一時騒然としたけれども、彼らはすぐに引き上げてしまって、お祭り気分もわずかな間のことだった。
「くそッ」
奴らが来た、ということは、彼女が見つけられたということだった。
彼はいらいらを紛らわせるように新しい箱を歯で開ける。
「くそ……あんな女のどこに、探して燃やしてそこから墓に入れ替えるっていう手間かける価値があるってンだよ」
むしろあの死の瞬間にだけ彼女の誠実な輝きがある。
彼はそう思って、懐かしむようにそっと煙草に火をつけた。
*
明かりの落ちた街で、街灯だけが静かに、羽虫をよせながら地面を照らす。
月はあるのかどうか、雲間には濃い闇の群青があるのみ。
「はて……」
革靴の先が小石を蹴った。当人にその意図はない、彼は真っ直ぐに前だけを見つめている。消失点へと向けた目に、上からの明かりが差し込んで虹彩を金色に透かす。
「かようなことがあろうかな」
口調は神さびている。けれど声は若い。
彼の足下で眠そうに目をこすり、少女が欠伸をする。
夏に向かないロングコートの裾を蹴るように、彼が一歩踏み出した。
手を繋いでいる少女が、小さな歩幅で懸命にそれに続こうとする。
数メートルを歩き、彼は不意に立ち止まった。
「今日は月がないな」
ほんの片手で数えられるほどの年齢の娘が、まだ義務教育を終えてもいないような少年に手を引かれて頷く。やがて彼は振り返り、そして「猫か」と呟いた。
猫が一匹、塀からアスファルトの上へ降りた。全身の筋肉と骨でバネのように衝撃を受け流してはいる。けれど思わず出した爪の先が小石を軽く噛んだ。
驚いたように目を丸くして、それから猫が顔をあげる。
遮る生体のない道路を見通して、猫は自身の進む方向へと視線を戻した。反対側の塀へ上る。
あとには点々と街灯の明かり。
人気(ひとけ)はない。
*
「これみてみてっ」
「はやくはやくー」
帰るなり、ダイニングに持ち込まれたテーブルと椅子を占領する二人組が手招きした。
裄夜(ゆきや)は鞄をいったん降ろし、それから脇にどけて、近づいてみる。
「あれ、お茶?」
こくこくと頷き、日向(ひなた)とカレンは片手に持ったレモンの輪切りをおそるおそるティーカップに投入した。上からティースプーンでつついている。
あっというまに、お茶の色が見事なピンク色に染まった。
「マローブルーっていうの。レモンを入れるとピンクになるのー!」
ねー、と、カレンが日向と言い合う。
「飲む?」
日向が自分の分のマローブルーにレモンを入れながら問いかけた。
一瞬、上目遣いに息を止めた裄夜は、壁に掛かったカレンダーをみて我に返る。
「え、あー……いいよ、今から試験勉強するし」
「うえっ」
二人が同様にうめき、渋面を作る。
せっかくの申し出を断るのは悪かったかと考えて、裄夜はあわてて言い直す。
「いきなり帰ってきたから二人分しかないんじゃないかなと思って、あの、でもっ、僕の分もあるなら頂きます、」
「そうじゃないよ」
湯を多めに沸かし直しに行った日向を見送り、カレンは残されたカップに口を付けた。
「裄夜、べんきょうするんだ」
「……しちゃいけませんか」
梅雨明けはまだだが、夏休みも間近に迫りつつある。
「やだ、大事なこと思い出しちゃった……」
日向が沸かし終えた分を運びながら顔をしかめた。
「明日、小テストだよ……」
裄夜はなるべく目を合わせないようにしながら、手にしたレモンをそっと自分の分のカップに入れた。
「そうなの?」
カレンがのんびりと言うが、すこし不安が滲んでいた。
「むずかしそうだよねー、高校の勉強って。私、なれるのかなぁ」
「あれ? カレンちゃんって高校生じゃないの?」
こくりと頭が動き、リボンが触角のように揺れた。
「受験生だったよ」
「だった?」
それきり、カレンは紅茶を口に運ぶばかりで口をきこうとはしなかった。
仕方がないので、日向も裄夜を見習って勉強に取りかかることを決めたのだった。
ややあって、全員が沈黙の中それぞれの作業にいそしんでいた頃。
ばたーん。
目が覚めるような大きな物音がして、それから足音が近づいてきた。
「……誰か、さぁ、チェーンかけ忘れたでしょ」
日向がぼそりと呟き、
「あっ」
僕だ、と裄夜が額をテーブルにつける。
「ごめんなさい」
「いいけど。い・い・け・ど。今からものすごい嵐が来るんだろうけど全部任せるからそのつもりでよろしく!」
「ええっ……」
そりゃないよ、と裄夜が口の中でもごもごと言ったとき、
「たっだいまー!」
と、この蒸し暑い中、丁寧に白衣のボタンまで留めている男がリビングに乱入してきた。
もともと上の階にこの男の借りている部屋があるのだが、滅多に訪ねては来ない。来るときは、たいてい、仕事先から直帰して、元気のいい幼児のような勢いで部屋を占拠していってしまう。
「あれっ? みんなどうしたの? 元気ないねテンション低いねー」
それはそうだろう。
裄夜は沈黙に耐えかねて口を開いた。
「……こんにちは」
仕方ない、仕方がないのだ、チェーンロックをかけなかった自分が悪いのだ。
カギは閉めてあるのにどうやって入ってくるのだろう。それが不思議でたまらない。
覇気のない裄夜に、男はあれ、と首を傾げる。
「テストでもあるの?」
「あります」
日向が答えるが、彼女は英語の長文に目を落としたままである。
カレンだけが勉強をしていなかったが、彼女は床に広げた色画用紙と格闘中であったために返事がない。
浩太は気にせず、思い切り拳を振り上げた。
「夏にさー! 合宿しない、合宿ー!」
「いつどこでだれと」
嬉々として叫ぶ成人男性一名に対し、小テストを控えた裄夜ならびに日向がそちらをみもせずに言う。
おかげで浩太は、発表直後に撃沈された形とあいなった。
「行く、やる、やりたーい!」
はいはい、と勢いよく手を挙げたのはカレンだけである。
「でも費用は誰持ちなの?」
カレン、そんなお金ないよ?
英単語に線を引いていた手をとめ、日向が「私も」と便乗した。
「いや、費用の面はご心配なく。明良氏にいっといたんで多分銀月側の経費で出る」
「ええっそんな勝手に? ……でもいっか、あたしのお金じゃないし」
カレンは簡潔に納得した。目を輝かせて浩太に近づき、彼の手から地図を受け取る。メンバー中では珍しく、連れて行って貰えるのはどこだろう、と純粋に楽しみにしていた。
君も今ひとつよく分からない子だよねえ、と思いつつも、浩太はよしよしと頭を撫でる。
「何」
動物めいた目で、カレンは今にも噛みつきそうに浩太の手を睨んでいる。
「え、いや、すごい撫でたくなる、可愛い頭だなあと思って」
遥か下の視線に返し、浩太はそれじゃ、と手をはなすと、口火を切った。
「旅行計画がありまーす、えー、合宿したいのもやまやまなんだけど夏休み合宿はひとまず置いといて。今回は事件です、事件用に旅行します、検証旅行ですよろしいかなー?」
*
「ヨミガエリに関わる事件です」
浩太は床の上に地図を広げた。
既に蛍光ペンでなぞられたルートを辿れば、それは緑の濃い山中に消えている。
「あれ、竜神伝説のある地方じゃないですか」
裄夜がふと思い出して言うと、浩太は「それと関連もあるみたい」と肩をすくめた。
「そっちもできたら調べたいんだけど、とりあえず今回は不可思議現象の検証ってことでね。最近、この近辺で重病患者とかお年寄りが急に元気になるってのがあってね。噂なんだけど。ある教団の教祖がどうも竜神伝説のある山中ら辺で汲んできた水に問題があるそうなんだ」
こないだの死者ももしかしたら死ななくて済んだかもしれないねぇ、と気のないことを言って、浩太はとん、と目的地を指先で示す。「こないだの」という言葉に、裄夜は先日孝や日向と共に転入したばかりの高校で起きた殺人事件を思い出して顔をしかめた。
死者を甦らせることが冒涜だと、思わないものだろうか。
「孝(こう)くんが出会った各務瑠璃子(かがみるりこ)もね、その教団の施設付近で目撃されてるんだ。新生各務瑠璃子、本物かもしれないね不思議だねえ」
相変わらずのほほんとそう言うと、青年は裄夜に向けて宙に字をえがいた。
「これ、なーんだ」
「はい? へん、わかい?」
「水……?」
日向がぽつりと最後に付け足す。
カレンが暇そうに欠伸をした。
「そ、変に若い水、略してオチミズ」
違う。
浩太の説明が本人の適当につけたものだと気づき、裄夜も日向も半眼になる。この手合いにはずいぶんと慣れてきたものだ。
冷たい視線にさらされて、浩太はあははと乾いた笑い声をあげた。
「あっほら茅野(かやの)ちゃんだよーいらっしゃーい」
玄関先の音に反応するさまが哀れを誘う。
実際、茅野はまとわりつく浩太を邪険にしながらリビングのほうに現れた。
オチミズとは変若水。をち水、若水とされる。
「若がえりの水といわれているね」
万葉集には歌も詠まれている。
天橋も長くもがも 高山もたかくもがも 月読の持てる をち水い取り来て 君に奉りて 変若しめむはも
「月読命は月山神社の祭神。彼がオチミズを持つともいわれる」
ひとが静寂の中にやすらうように、水は静かにその獰猛さの本性の牙を隠す。
「本州にははっきり残ってないらしいけど、沖縄の宮古島にはこういう話がある」
昔、月と太陽が、人間にいつまでも変わらぬ美しさと長寿を授けようとした。
そこで一人の人間に二つの桶を与えた。一つには変若水もう一方の桶には死水が入っていた。この変若水を人間に浴びせて長命を、そして蛇には死水を与えることになっていた。
――それが約束。
しかし長旅でつかれた人間は、草むらで体を休める。その隙に一匹の蛇が現れ、変若水を奪ってしまった。
「皮脱いで生き生きしてる蛇から連想するのは、どこの国も同じなのかね」
メソポタミアに残るギルガメシュの話でも、しなずの水は蛇に奪われた。他国でも、泉で沐浴をすることで永遠の生命を保っていたという伝説がある。
「昔は虫の脱皮を祝う風習もあったことだし、生まれ変わりは連想されやすかっただろうね」
ハレとケによって生きては死ぬという習俗が、ふるくには在った。
むしろこれらの伝説はほとんど普遍的なものとして世界的に見られる。水は混沌でありそれに浸かることで世界を再生するのだと宗教学者は口にする。
「人間は死水を浴びた、それゆえいつかは死んでいかなくてはならなくなり、蛇は変若水を浴びたため、脱皮をして生まれ替わって長生きをするようになった……」
――お月様はその後も人間に不死を与えてあげようとし、毎年節祭の夜、大空から若水を送ります。
「浩太、この声って――」
浩太は人差し指の脇を唇に当て、目を細める。
――人間は祭日の第一日、黎明に井戸から水を汲み、若水と呼んで珍重するようになったのです。
「あの、浩太さん質問なんですけど」
「はいはい」
日向が自然と傾げられてきた首をもとに戻しながら問いかけた。
「節祭って何ですか?」
「旧暦9月の己亥をシチとして3日間行われるマツリだよ。1991年には国の重要無形民俗文化財に指定されたらしい。約500年以上の伝統を誇るそうで、大勢の観光客らが見守る中、厳粛なミリク行列や狂言、多彩な奉納舞踊などが繰り広げられ、来年の五穀豊穣、住民の健康、地域の繁栄を祈願します」
「パンフレット読んでるし」
茅野が容赦なく一瞥をくれたが、浩太は我関せずである。
「御酒は再生の水となる。神に捧げられたものをひとへ分け与えるという行為にも関係していそうだねえ」
「読んでるし。本の棒読みしてるし」
――しかしそれを誰も知らないのです。
――あのかたたちは知っているのに。
「誰だって?」
浩太がむんずと捕まえた先に、アナグマか何かに似た茶色の毛玉がぶらさがっていた。
「……何コレ」
四名が同音に呟いた。
きぃきぃとなきながらその毛玉は手足をばたつかせる。
目尻には涙がたまっていた。
「……離してあげたらどうですか?」
日向が言うと、茶色の毛玉がそっと長い尾を垂らす。丸まっていたらしい、もがかせていた手足もちゃんと伸ばすと鋭いかぎ爪が目にもはっきりとする。
「刺さらなくてよかったですね」
「いや日向ちゃんそんな笑顔で言われても」
毛玉は目を瞬かせたあと、我に返って再び丸くなった。しかし尻尾が余っている。
「別に取って食いやしないよ?」
浩太が言って、それからコレ何と虚空に問う。適当に当たりをつけて言ったが、それとはわざわざ逆方向からキセが姿を現わした。
「イタチだ」
「万能辞典みたいだねキセ、いやありがとう嬉しいんだよ感謝してるんだよちょっと待ってよ消えないでよ、ねえ」
「静かにしててくださいよもう」
日向が容赦なく浩太の頭をパンフレットで殴り飛ばした。さほど分厚くない紙束だったが、さすがに張り飛ばされて痛かったらしい。浩太はむっと無言になった。
「何でイタチがこんなところに?」
「おおかた紙にでもついてきたのだろう」
裄夜に答え、キセは半分以上透き通った幽霊、映写機の前に立つ者にも似た姿で目を細めた。
「その紙の間に、挟まっている」
「あっそれ俺のだ」
日向は近づいてくる浩太にパンフレットを突き返した。それを受け取り、青年は中から一枚の古びた紙を引き出す。
「これを裄夜くんに渡そうと思ってね」
「何ですかこれ」
墨で書かれた文字は流麗が過ぎて読めない。判読され得ない文字は文字としての記号の役目を果たせるのだろうか。そんなことを思ったが、受け取ってから納得がいった。これは、見覚えがある。
「キセのだ」
「キセの字?」
日向がふいとキセを見つめる。首を振り、裄夜が札の表面を指先で軽く撫でた。
「違う、貰ったんだよ」
そう、これは貰い物だ。
「札を自分で書くのは術者として必要な教養なんだけど、一度に大量に消費するようなことがあると、書くのと消費するのとを同時進行できない……だから、キセがあの人に頼んで書いてもらっておいたものだよ」
「そうなんだきー兄?」
浩太が声をかけるが、キセは答えなかった。
「あっ何ソレむっかー!」
そっぽを向いて姿を消され、浩太はキセの消えた辺りを指さして地団駄を踏む。
「この札、俺見たことないんだけどねぇちょっと待ちなってばキセきー兄なんて呼んだからすねてるの、ねえごめんってほら謝ったじゃん」
「ねー王子、この毛玉どうすんの?」
丸まったイタチが、いつの間にか、床に座り込んでいた茅野の膝上に転がっている。
我に返り、一度「ゆっきと日向ちゃんがどうにかなったらどう責任取ってくれるんだい」と呟いてから、浩太は茅野の隣にしゃがんだ。
「ねぇ君。何でこの紙切れについてきてたの?」
毛玉は震えるばかりで話にならない。裄夜は再び札を見て、それから浩太に聞いてみる。
「何で僕に渡そうと思ったんですか?」
「だって符崎って書いてある本に挟まってたんだもん。戦前の翻訳小説に挟まってた、丁度伯爵夫人が殺人犯に追い詰められてるところだったホームズ助けて! ていうか探偵居たかな、あんま見てないからわかんないや」
「……名前、書いてあったんですか」
「あったね」
裄夜は、過去の自分だったかもしれない男についてさほど知らない。けれどこんな人だったのかと妙に拍子抜けする。
「本も持ってこられたら良かったんだけど、段ボール箱が何個かあってね。誰のか分からないから勝手に開けて見ちゃったんだけどあっほら明良忠信? あの人に許可は取ったよ、あの人大変だよね何がどこにあって誰がどこへ持ち出していつどこで何に使ったか全部管理させられてるんだよ可哀想に」
「じゃあ本は、中城(なかじょう)かどこかの家に?」
長い喋りに慣れてきたので、裄夜は自分の知りたいことを息継ぎの隙間に突っ込んだ。浩太は頷きながら、一瞬、右手首にある自分の腕時計の文字盤を確認した。話は逸れて長引くが、実のところ口が早いので浩太の使用時間自体はそう長くない。
「あるよあるよ、裏に蔵があったでしょう、あそこに農機具も放り込んであるんだけどその奥に数箱、君たちのものらしい物があったよ今度取りに行くと良いよ」
「是非行かせて頂きます」
「もしかしたら日記とかあるかもねホラよく言うでしょ恥ずかしい日記や詩文の類を処分し損ねて死ぬに死ねないご老体」
「そう多くは聞きませんけど」
「で、これ何かな」
「あんたたちさぁ、本題に帰ってくるのおっそいよね」
茅野が呆れ顔で裄夜と浩太を見やる。その手元でイタチが不意に丸めていた体を伸ばした。
「うわっ動いた!」
じっとしているとばかり思っていたか、茅野は突然膝上で動かれて悲鳴をあげて浩太に張り付く。首が絞まると叫ぶ男とその背側に逃げ込む女を見て、イタチがかすかに笑いを漏らした。
――フフ、すまないね。つい面白くて。
イタチ付近から声がして、日向が反射的に退きそうになって裄夜にぶつかる。
「も、もしかしてそれ、イタチじゃないんじゃないですか!?」
「顔立ちはそれっぽいけどね、ほら顔が尖ってるでしょ、こう……」
浩太が目の前で振る手が鬱陶しかったのか、イタチは指に爪を向けた。
――あぁこら、駄目だよ、すまないね本上の。これが迷惑をかけたようで。
「いえいえどうも。ていうかそちらはどちらさまかな」
――気付いておられぬのかね?
どうやって気づけというのだろうか。裄夜は無言でイタチを見た。浩太が何故か「すいません見たことがありませんごめんなさい」と謝罪している。
――そうだね。
しばらく、イタチもとい誰かは沈黙した。
――そうだ、外にはトショカンというものがあって、しやくしょが本の貸し出しや整理をしているんだろう?
「もしかして司書さんですか?」
日向がまっさきに応答した。麦茶の薬缶を掴んだ茅野は、イタチがようやく喋ったと浩太に声をかけられて、茶菓子を手に慌てて居間に戻ってくる。イタチの沈黙でロスした時間、浩太と裄夜は札の文字を解読することに費やしていた。二行、読めた。
日向の言葉に、イタチは黒い目を瞬いた。
――そうだね、そういう言葉に置き換えられるのだろうね。
「司書が何故こんな紙についてるんですか?」
札を見せた裄夜に、イタチが笑った。
――私が憑いていたのはソレではないので。勝手に持ち出された書物のために、そう、感知器がついており。私はずっと建物の中に居り、書が乱暴されぬように見張っておる、ただそれだけのこと。
「百目(ひゃくめ)ですか、もしかして」
――そう、そう。
嬉しげに目を細め、イタチは数度頷いた。
――器を変えてもよく分かりますぞ、知らぬ御人に渡されるのはいかんだろうということで買って出た仕事だのに既に何年を数えましょう? あれから記述も変わりはてましたな。貴方も随分お変わりになられました。
「裄夜くん百目って何? 目が百あるの? 百目鬼(どうめき)とかじゃなくて?」
浩太が裄夜に小声で聞く。何故声をひそめるのかと首を傾げ、裄夜は答えた。
「えーと、額に三つ大きい目があって、周りに細かい目がばらばらっと散ってるんです、百もあるか分からないけどとりあえず適当に百目と呼ばれてました、あの、正しくは文献に載ってないと思うんですけど」
「だろうね、百目って種族名とかじゃないんだろうね、日本人とかじゃなくて俺がこーたとか呼ばれてるのと同じ類なんだろうね。名前か」
頷き、浩太は声の大きさをもとに戻す。
「では元より危害云々の思いは無いと?」
――無いと言えば無い。私の店から貰われていったものたちが持ち主の了解を得ずに勝手に場所を変えられてはかなわんだろうと思い、こうして暇なときにはケモノの姿を遠隔操作して牽制するのでございます。
ヒトの言葉に慣れていないのだろうか、イタチの所為か百目の所為か百目の言葉はもたついていて、更に読み方がひどくたどたどしい。本で勉強したままなのか、紙に書いた文章をそのまま読み上げているようだ。それにしては表現方法がどこか謙遜しようとしているのか分からない妙な混ざり方をしているのだが。
「この紙を挟んでいた本、それ自体はまだ屋敷にあるんですか、浩太さん?」
「ごめんね置き去り」
「じゃあ百目が紙についてきたのは、この紙がどうこうされるのを厭って?」
これには「いえ」とイタチが首を左右に振った。
「じゃ単に興味本位だったんだ? へえ」
「浩太さんの気が、綺麗だったからじゃないですか?」
浩太が、不意に裄夜を睨み付ける。裄夜は驚いて反射的に謝ろうとしたが、何故そこまで睨まれねばならないのかと思い直して睨み返す。
「そっか、浩太山神だもんね」
茅野が場の空気をわずかに揺らがせた。乗じてイタチがうんうんと頷く。
――山。それで、でございましたか、やけに空気が世俗とかけはなれておられる。
「……裄夜くんさ、分かるんだったら先に言ってほしかったんだけど。すっごく俺心臓止まるかと思うほどびっくりしたんだけど」
「それであんなに睨んだんですか……すいません、でも僕もたった今思い出したというか分かったんですけど。気付いたっていうか」
「でも確かに、浩太さんって性格と動作はともあれ、黙って動かないでいれば静かですよね、気配が」
「日向ちゃんそれ普通は静かになると思うよホントにね」
フォローになっていない。沈み込んだ浩太の前に来て、イタチは一礼して姿を消した。
――今生、お会いできるとは思いませんでした。私は既に山を離れた身ですので。生まれは山でありしかも貴方様とは違う土地におりました。けれどお側におりました数日のおかげで近年汚れに負けておりました感も随分拭われております、土地を離れられましてもそのお力が冴えて居られる、まこと素晴らしいことでございます。勝手にそのお力に預かり申し訳ありませんでした。
「いや、あとで謝られてもね。俺お金取って良い? ってもう消えてるんだけど」
「浩太さんてすごいんですね」
日向の無邪気な言葉に、あぐらをかいて床にじかに座り込んだ浩太がさらに頭をうなだれた。
「俺なんかすっごい悲しいなんでだろう愛かなやっぱり愛が足りないかな愛が愛が」
「愛愛言わないのそこ」
茅野が肘鉄を食らわせ、引きずって椅子に座らせる。それを見やり、それから、裄夜は札を丁寧に畳んで財布の中にしまおうとし、日向にもっと出しやすいところに入れておいたほうが利用できると諭されてやめた。
「終わった?」
広げた画用紙の上で眠っていたらしいカレンが、やる気のない欠伸をして起きあがった。
「君ィちゃんと聞かないと危ないんだからねー分かってるー?」
言葉を言う浩太の声にも覇気がない。千明(ちあき)カレンは猫のような目をくるくるとさせて、うん、と適当に頷いた。多分話を聞いていない。日向に張り付いてお茶をねだる姿は、まだ幼い少女でしかない。
「本当にさ……これで大丈夫なのかね」
「……お疲れさまです、浩太さん」
ため息をついた浩太に、日向は少し同情したようだった。確かに、心配している相手がこういうふうに話も聞かず重要なときに耳を塞ぎ、勝手に動き回り、危険となれば泣いて呼びつける、そう考えると、腹が立つ気持ちも分からないではない。
「でも、大丈夫じゃないですか? 浩太さんはいるんだし。裄夜はキセを呼べるし。そりゃ、庇って貰ってばっかりじゃいけませんよ、分かってます私だって。でも私、自分一人だったら警戒し続けて疲弊してただろうけど、今人数がいるから心強いし、安心して眠れます。そのおかげで、前向いて進もうって思えます」
「それが危険なんだけどね本来は。人の数があると誰かが見てると思って知らない間に警戒を解いてしまいがちになるんだよ――君にできること、考えておくか実行しておいてね。俺がいつまでも居ると思わないでねだって俺検屍とかあるんだもんさいつもかつも君らに張り付いてらんないんだよ」
「浩太、やめなよ」
茅野が止める。浩太はしばらく裄夜を見ていたが、やがてため息をついて目を逸らした。
「キセが、シズクが、動けば良いのにね、ややこしくって俺頭がついていってないよ実のところは」
「すいません……」
「ごめんなさい、自分で判断できない子供で。私、どうして良いか分からないんです……」
「裄夜くんや日向ちゃんが謝らなくても良いよ。ただ、混乱している期間はもう過ぎてしまっただけで」
カレンがタッパーウェアから出てきたクッキーに噛みついて、悲鳴をあげた。どうやら思ったよりも硬さがあったらしい。
「硬い、クッキー硬い!」
「ごめんやっぱ硬かった! 焼き直したけど硬かった!」
涙目のカレンの頭を抱え込み、茅野が笑いをこらえながら謝罪する。もう笑うほかないらしい。
「大丈夫、歯?」
裄夜が聞くとカレンは口を動かし、しかし言葉が出せずに首を左右に振った。
「そういえばさぁ、あのイタチ、最初にあの人は知ってるのに皆知らないって言わなかったっけか?」
「浩太さ、最近寝てる?」
浩太と茅野の声が重なり、しかし殆ど同時に終わった。
小雨がベランダを叩く音が聞こえ、カレンが歯を見に洗面所へ駆けていった。
「……寝てないんだ、浩太さん」
「日向ちゃん小姑みたいな顔しないでよあっ」
神経を逆なでされた日向が、足音高く洗面所へ行ったカレンのところへ向かった。無言で去られ、「何でかな」と白々しい言葉を吐き、浩太は裄夜に目を向ける。
「さて。邪魔者は居なくなったし。言ってごらんよ」
「は?」
裄夜はカレンがかみ砕き損ねたクッキーの欠片を拾い集めながら目を丸くする。
何を言っているのか、と茅野にもいぶかしげにされ、浩太は彼女のウェーブがかった髪を数度撫でた。
「うんあのね裄夜くん聞いて欲しいんだけど」
「聞いてますけど」
「さっき俺の気配については分かってたよね? あのイタチの空気は分かってた?」
「いえ、どこから出てきたのかとか、どこに本体が居るのかとかはさっぱり」
「うーんじゃあこれはどうだろう? あのイタチ俗世に居ないらしいけどキセとは知り合いでしょだから君はイタチがというか百目が居た場所について知っている筈で知っているなら別の場所で同じ気配を感じたときその空気に対し拒否反応とか警戒心が起きない可能性もあるよね」
「はぁ」
気のない返事に、青年は目を逸らした。窓を、吹き付ける雨粒が濡らしている。
「……君さ、キセだったときに持ってた警戒心、キセが居るから自分が持たなくて良いって、使わないでいるんじゃないよね?」
「僕だってあんな訳の分からないものに頼らないで自力でやっていきたいですよ」
いちいちカンに障る、けれど、裄夜はここで心外だと怒るのをおさえる。自分の度量の狭さを明らかにするようでできない。そして自身が恐れているのだ、無意識のうちにこの分からない状況を詳しく知るのを嫌がって、未だにキセの記憶を扱えないのかもしれない、と。
浩太はしばらく口を閉ざし、日向とカレンが戻ってきて席についてからようやく、笑みを取り戻した。
「じゃ、とりあえず来週、つーか今週の土日ってことで」
浩太はさっと片手をあげると、さっさと決めて帰っていってしまった。
ええっテスト週間じゃないの、と日向の悲痛な声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。
*
教室の空気には何種類かある。
発言を許さない重さ、密度の濃さ、そして希薄さ。
存在を主張すること自体が誰かにとっての悪となる、だから黙る、消えていなければならない、存在は口を閉ざし、街同様に人は景色化されて進んでいく。
見知らぬ都会の人込みのように、希薄な人間の姿を、学者は批判的に見るかもしれない。
一方で、田舎のほうが逃げ場がない。むしろ空気化した都会のほうが、息が出来ることがある。
学校という場所はその縮図のようだった。
互いに牽制しあうように密着するグループ。かといって居るのか居ないのかさっぱり分からない「薄い」存在。
希薄ゆえの息苦しい重さ、密着するがゆえの監視体制。
どちらにせよ一旦入り込んだこの空気からは、限られた時間から抜け出す以外に逃げ道などないのだが。
「次、この定理を使って――」
黒板の上を踊るチョーク。細かな粒子がふわふわと眠たげに宙を舞った。
水瀬裄夜は思い出したようにノートを取って、それから再び物思いに沈んだ。
「神隠しはそもそも、ふっ、といなくなるとか、そういうのが許されていたって時代の象徴だとかね、いうけどね」
先日、本当に戸籍の消失した日向、裄夜、そして里見兄弟について、本上のあるじはそう答えた。
「現代で隠されたら不便なわけで。仕方ないからごまかしでいくけど。めくらましがいつまできくか分かんないけど俺は手助けするよ、里見孝中津川日向水瀬裄夜については中途での転入になるけどとりあえず春先に入ってきたってことで記憶刷り込むからうかつなことは言わないように気をつけて。もとの学校だとね記憶に齟齬が出たりしたばあい面倒なわけ、思い出された方がいいって思うかもしれないけど戸籍上も世界から消えてる人間のこと思い出したってその人が狂うだけだから。見えないもの見せられてるんじゃなくて自分で思い出すわけだから本人の脳の問題でしょヤバイでしょ」
早口で言われ、意味が分からぬままに子供たちは頷いた。
里見裕隆については必要書類はそろえるから新しい勤め先でも探すようにとだけ言い、浩太は何かの声に耳を傾けるかのようにそっと黙った。
「おや、反論がない」
「してほしかったんですか」
裄夜が律儀に応答すると、いやそうでもないよ拍子抜けしただけで、と返事は短い。
「じゃ、君たちの自発的な意見がないということで現段階では俺の――部外者で信用ならないのではないかと疑わしいんじゃないのか君たちそんな簡単に信じちゃっておにーさん心配だよ作戦でいきたいと思います」
「長っ、こーたさん一息でよくそれだけのこと喋れますよね」
「えっそうかなそうだよ俺すーごく息長いんだよ多分、だってほらアメリカでハイスクールのお姉サンにナンパされたとき俺の弁舌で撃退しちゃって後ですんごく怒られたからねルームメイトに」
日向の声に、浩太がにぎやかな返答を返す。道化と道化の会話のようで、どうも落ち着かない。裄夜は浩太らの発言にはウラがあるのではないかと勘ぐりながら、沈黙を保つ里見裕隆に声をかけた。
「本当に、それでいいんですか?」
「……何がどうなっているのか、分かりませんから」
ただ、里見裕隆として暮らすことができないことは明白で、だから過去に寄り縋ることもできないのだと分かっていた。
「カミカクシにあったと言うよりも、世界が神隠しにあってるような気がします」
見えていたものが急にこちらの存在を無視し始める。
今までであれば、関わらない限りは空気のように『他人』の存在は漂うばかり。それでも、話しかければリアクションがあるし、つまりはどちらの存在をも認めるという作業は起こりえたのだ。
でも、今は違う。
「勿論、今だって人に話しかければ人は答えてくれる、でもこれまでの積み重ねは無視されるんですね、こちらが知り合いだといくら言っても、それまでの関係はなかったことになっている、遠い存在になってしまう」
小さな約束も思い出も、たった一人が覚えておいて、世界中が忘れてしまう。
言葉にすれば、それは日々起こりうることのようにも思われるけれども。
戻る努力をしなかったことを多少は悔いている裄夜にとって、里見の言葉は大きかった。
もしあのとき、一族に寄り縋らずに必死で説得していれば、あるいは皆思い出してくれたかもしれなかったのに――しかし、見知らぬ子供が息子だと言って家に上がり込み、見知らぬ人間がトモダチだと言って近づいてくることはどれほど恐ろしいことだろうか。それとも曖昧にごまかされてくれるのだろうか。
裄夜は今本当にここに居るのだろうか。
教科書に引かれたベクトルの線を目でなぞりながら考える。
「おい、水瀬」
中津川日向は本当に同じクラスの人間だったのか、菅浩太は味方になりうるのか、里見裕隆は何も知らないのか、明良忠信は本当にただの人間なのか。
「水瀬、これやってみろ」
「え、あ、はい」
立ち上がり、尽きかけたチョークを手にとって黒板に先を押しつけた。
冷静に数字を並べながら、裄夜は不意に愕然とする。
自分が自分を信じられない。
考え事にせよ、ただこれだけの数式にせよ、些末なことであるのに、自分の言葉さえ見つけられない。
すべてが借り物になる。
いつも誰かであり続ける。
すべての物が誰かの発明だけで作られている。
ここで必要なのはクラスの一員である学生であり、ソレが水瀬裄夜という名と外見を持って期待通りの解答を打ち出して黙って座ることだけなのだ。
自分の言葉で語ることを教えられずに育ってきた画一授業の申し子は、どんな些細な事柄についてもうまく言葉をはじき出せない。
苛立ちを暴力やゲームに紛らわせるものたちの多さは、言葉を使えないという状況のせいでもあるのかもしれなかった。
止まった手を、教師に促されて再び動かす。
せめてもの抵抗に解法を自分で考えようとしたが、鵜呑みにしただけの式しか出ては来なかった。
*
冷たくても逃げなくて。
逃げられ、なくて。
きん、と張った空気の中に身を沈めて、覚悟を決めて真冬の海底にあえて沈むように意識をつとめる。
黒板をかくチョークの動き。
白、ピンクがかった赤、青、黄色、滑るようにつかみかかるように食い込むように逃れるように躍り上がるチョークの切っ先。
「う」
中津川日向は、自分の腹をぐっと押さえた。
もうすぐ午の時間だが、まだチャイムは鳴りそうにない。
ここで腹の虫がなると、最後の十分で小テストを行なうこの教室の雰囲気が壊れてしまう。
何だか恥ずかしいし。
それでも、滑り込むようにチャイムの寸前で腹が鳴った。
真っ赤になった日向に向けて、知り合いになった少女たちが笑いながら手を振ってくれた。
この世界は面倒くさい。律儀に応答しようとすると不意に目くらましを受けて倒れ込む。夏の日差しに惑わされるようにして、微笑みの裏にあるさげすみの気配を感じ取るようにして生きる。
けれど、それでも、日向は心地良いと思う。いつでもこれが最後かも知れない、これを失うのはいつになるから分からない。そう言って恐れ続けるのは愚かなことだと思うけれども、それでも底には恐怖が抜けない。
失いたくない。このバカ騒ぎも塹壕の中のような連帯もすべて。
あんな不可解な一族に引きずり込まれたままでは生きていたくはない。
弁当箱を引っ張り出して、友達になった女生徒たちとそれぞれの話題に花を咲かせた。
そうすることで忘れられれば良かったのだが、影はどこまでも足下に付いて離れない。
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