第十章 遠景

   *

 死にたくない。

 死にたくない。

 闇の中に、蛍の明かりが一つ、また一つと数を増やす。彼らの細い光が独特の明滅を繰り返すのと違い、これらは一定の強さを保ちながら、揺れていた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 延々と繰り返されてすり減らされる魂の端々を見つめて、面はゆさを忘れたことはない。

 男は闇の中でふいと姿を浮かび上がらせ、闇色の前髪をそよがせないわずかな風に呼びかけた。

「何故そこまで思える?」

 呟きの小ささは、背中にいる娘の寝息にさえかき消された。

 死にたくない。

 生きたい。

 失いたくない。

 消えたくはない。

 そうか、と答える声もまた薄い。

 執着できるほどのものがあることを羨むべきか、執着のない自身をもっと見せびらかしてみせるべきか。

「……それこそ愚の骨頂」

 薄い笑みを口元にはいて、彼は金色の目を細めた。

 既に時代は過ぎ去った。

 薄闇のうちに揺らぎ、定まらず生きる姿をよしとされた時代を超えてしまった。

 確固たる姿を得てしまったから、彼はもう戻らない。

 道行きに不安はあるか。

 応。

 ではやめるか。

 否。

 一歩ずつ近づく道行きのその先を見て、変えることの出来ない、あのときこの道を選ばなければ決して行き着くはずの無かった経過を辿っている。

 死にたくない。

「私のうちにその感情が浮かぶことは、あるのだろうか」

 愚問だなと首を振り、まるで重力を無視した世界に踏み出していく。左右に斜めに乱立する建物や金属や木々を見て、娘がぽつりと何か言った。

「うん? あぁそうだな……ブロッコリーか」

 似ているのだと、完全な言葉自体は無いとしても意志の疎通を完成させ、彼はかすかに息を吐いた。まだ言葉を選ぶ段階に居る幼い娘。


 彼女との別れも、この先あり得る。

 それが良いことなのだとは思わないが、先に住まうものが死ななければ何も進まないこともよく分かっていた。

   *

 里見尚隆(さとみなおたか)。

 その名を刻むたびに吐き気がした。どうして答案用紙にも雑多な書類にも名前を書かなければならないのだろうか。名乗るためか。けれどおかしいのではないか、世の中には同姓同名の人も居て、生年月日も性別も同じ人間が居るのに、大抵まず問われるのは「名」である。「たった一人」であることを証明するのに、必要なのは、他人の信用。

 尚隆がこの名を嫌うのは、ひとえに、家族ぶった母の最後の偽善だからだ。母は尚隆を生み、さも愛おしげに名を与えると、その晩病院を後にした。病室に残された赤ん坊は、もう長いこと腹を空かせ泣きやまなかったので発見されることが出来た。上には丁寧に大人用の掛け布団が載せられていた。放っておけばそのうち、という考えが、あの女にはあったのかもしれない。

 どうでも良い。

 尚隆は頬を歪める。

 養護施設で毎年毎夏、親が連れに来る時期、ずっと待っていた自分の弱さに腹が立つ。どうしても諦められなくて、思い描いて、――待っていた。

 どうして来ないの、そう聞いたのは一度きりだ。「みんなのおかあさん」は一瞬だけ困ったような目を向けて、すぐに尚隆を抱きしめた。一緒にクリスマスもしようね。それが嫌なわけではなかった。それ以上に見捨てられるのが空恐ろしくて、尚隆は彼らの前では極力幸せそうに過ごすことを心に決めた。

 心配させるのも悪いことだと思っていた。だから、後にも先にも、彼は父母のことを口にはしなかった。

 ある時、尚隆は小学校の前に立っていた男に声を掛けられた。久しく姿を忘れていたが、すぐに息が詰まって足にも背にもびっしりと嫌な汗をかいたので、それが誰なのかはすぐに分かった。

 逃げようと思ったが乱暴に頭を掴まれ、尚隆は喉に呼気をぶつけても「ひゅう」としか鳴らすことが出来なかった。

「長いこと捜した」

 男は心底不快そうに吐き出して、それから急に笑みを作った。

「会いたかった」

 とんでもないことを言う。尚隆は何故他の生徒が気付かないのか、是非とも気付いて間に割って入って欲しい、と青ざめたまま祈っていた。けれど祈りというものは届いた試しがない。きっと神様は他の仕事で忙しいのだ。自分の弱さに甘んじていてはいけなかった。尚隆はここで全力で相手の急所を狙い打って、走って学校にでも逃げ込まなければならなかった。少なくとも教員は、酒臭い男の歪んだ笑みと、それに怯えた生徒を見れば、たとえ二人が親子だとしても、少しの間だけでも間に入ってくれただろう。

 けれど硬直した尚隆の腕を掴んだのは、他ならぬその男だった。目深に被っていた野球帽を尚隆に被せ、男はさも陽気そうに歩き出した。子供の多いときに一緒に帰っていれば良かったのだろうが、尚隆はクラス委員で、今日は放課後の戸締まり係をやっていて遅くなっていた。目撃者は、居なかった。


 みゃあ、みゃあ、と猫を真似て鴉が鳴く。みゃあ、と尚隆も知らず追従し、男に後ろ頭を殴られた。倒れ込むときの勢いの所為か、ひどい眩暈がして尚隆は吐いた。喉につまりかけた給食を最後まで吐ききる前に、男の黒ずんだ指が、尚隆の服の首後ろをひっつかんで、彼を引きずり上げた。吐くことも呼吸も一時止められ、尚隆は涙目を男に向けた。

 それがいけなかった。余計な反抗をしたと思われ、ボールのように蹴り飛ばされた。バウンドはしなかった。それが良いことなのかは判断がつかなかった。

 冷たい倉庫の床に、頬が触れた。途切れていた意識が戻ってきたのだ。母親によく似た面影を持つ尚隆を、男は何度も執拗に探し出し、何度もしつこく殴りに来た。もうこれで何度目なのかも分からない。相談所の中年女性が何故か泣きそうになりながら庇ってくれたが、あの時も数人が流血する騒ぎになった。男はアルコール中毒であるとか脳内の問題であるとか、供述の数転の所為もあって、警察が手出しするのを嫌がっていた。子供一人が死ねば済むのだ、労働力になる大人を殺すまでもないのだろう、尚隆はそう思って自分を納得させていた。

 回想が打ち切られる。唯一自由になる思考は、痛みと恐怖で引き戻された。せめて思い出すならば幸せなものを、と思わないでも無かったが、幸せな思い出は痛みに勝てない。

「お前なんかいらねェんだよ」

 酒臭い息を吐いて、汚れた拳が振り上がった。尚隆は手足を縮めもせず、刺激しないように息を詰めて平静を装う。それが却って父親の気に障った。膝の上が尚隆の腹に入り、胃液が食道へ逆流した。舌を噛んだので、吐き出てきた唾には血が混じっていた。声を殆どあげないので、飽きたのか、男の体が不意に離れた。尚隆は彼の一瞥を受け、ふわりと笑う。

「何だ」

 男の、声のトーンが跳ね上がった。寒くもないのに尚隆の背筋が震えた。その場に不似合いな笑みを纏い、尚隆は言う。

「大丈夫」

 父が、空にしていた缶を放り投げた。倉庫の床を甲高い音を立てて跳ね、缶の中身がわずかに飛んだ。意志とは反対に、尚隆の背はびくりと揺れた。

「大丈夫ですよ、お父さん」

 それでもなお、声に出す。

「ぼくはあなたをおいて出ていきはしません」

 出ていくのは、殺してからだ。父が死ねば、先に彼が居なくなる――尚隆自身が出ていく必要はないのだ。それが罪だという考えは尚隆には無かった。尚隆の父殺しの念が罪になるのなら、血反吐を吐くまで殴打を続け、飯も与えぬこの男は、一体何故野放しになっているのだろう。

 世の中は理不尽だ。

 親に恨み言を言いながら、帰った先では会話をし甘えても居る知人が居る――殴り合いでもなく罵りでもなく壁に蝶と同様に釘付けにされるのでもなく、ただ生きていられる連中が居る。

 良いだろうね、何を言っても。結局捨てられた子供には見下ろすような哀れみしか与えられない。

 ――父は今、感情のこもらない空疎な笑みに、少なからずたじろいでいる。しかし彼に切り替えは早い。彼は恐れを怒りにすり替え、雷鳴のような声で怒鳴った。

「親に向かって何てカオしやがる……!」

 彼の自尊心の妙なところを抉ったらしい。血を吐いたので、父の履いていた靴が汚れた。

 失敗した、と震えながら、尚隆は心の内で、ざまあみろと叫んでいた。

 傷つけられる刃を、自らが持っていることへの暗い愉悦。

 ――決してこの男からは離れることが出来ないくせに。

「お前なんかなァ! いらねえんだ、クズだ、ゴミだよ! 焼き捨てるのが丁度良いだけのただの不要物だ、汚物だ、分かってンのか!?」

 爪先で顎を上げさせられた。

 必要ではないのならば、何故連れ戻しに来るのだろう。

 言えば殴られることは分かっていたので、出来るだけ緩く、拳を握った。

 はやく、大人になりたかった。

   *

 戦闘は避けなければならない。尚隆(なおたか)と瑠璃子(るりこ)が命じられているのは、ただ、銀月の一族を揺さぶること。私怨が理由で呼ばれたとは言え、私怨を遂行しては支障を来たす。

 そう、別に尚隆は裕隆を殺したいわけではない。

 貶(おとし)めたいだけ。

「助かりましたよ」

 服の上をはたき、尚隆はかすかに笑った。鋭かった光が、今は狂熱をおさめてしずまっている。

「いーえェ、別にィ」

 各務瑠璃子(かがみるりこ)が、ぱさついた自分の前髪を指先でつまんで、どうでも良さそうに返答した。

「今死なれたら、あたしが困るンだよねええ、だってアレでしょ、札書けるのあんただけじゃん」

「お褒めにあずかり恐悦至極」

 雑踏の中に、キセと裕隆が取り残されている。人々がまるで投影された影のように瑠璃子と尚隆をすり抜けていった。瑠璃子は一枚の墨一色の札をポケットから抜き、地面に放った。それで情景は更に薄くなった。

 気配が遠ざかる。

 時間も空間もずれていく。それこそパーフェクトに。

 ズレを人は知っている。それはいつでもどこにでもあり、統合されていることが不思議なほどに、分かたれようとする散る感覚でもある。一極への過剰な集中から、一転して心が体を離れようとする。

 マラソンであれ音楽であれ、あらゆる快楽も絶望も悪夢も、すべて狂気へのいざないともとれる。

「狂えば良い」

 呟いた尚隆の唇に笑みがともされている。

「里見、悪趣味」

 まだおぼろげに「現実」とチャンネルがあっている「場」で、瑠璃子はふふ、と息で笑った。頬にも額にもかき傷が残されているが、そのどれもがかさぶたを作り、既に癒えようとしていた。一日のうちに治るようなものではない、しかし瑠璃子は痛みを感じないような顔で体を動かす。

「最悪、最低。しんじまえ」

「そうですか? でも、狂えと言う人間のほうが多いでしょう、些細な狂いは美しさを生む。外れすぎると、それは我々の足下を揺らがせ、立場を危うくする、それゆえに忌み嫌われる」

「大野大元(おおのだいげん)も?」

「彼も外れてはいる。けれど現実に生きている。獣のような男です」

「オチミズっつってたけど。アレで甦ったのって、言われたけど」

「誰に」

「あたしらの指示者」

 尚隆が一瞬、瑠璃子を鋭い眼差しで捉えた。不快そうに瑠璃子は言い返す。

「お前鬱陶しい。あたしが甦ったの、何でか知ってるッしょ? あんたと違うの、あたしはもう、一回死んでる。でもあんたもおかしいよね、ブッ壊れてる。生きてるクセにキレてる。そのくせ普通で居たがってる、くっだらないねェ、特別なんて面倒なだけなのに、特別に普通で居たいなんてガキみたいじゃん」

「各務瑠璃子、狂乱は貴方が死ぬ以前から持っていたものではないんですか」

「あァん? いっとくけどてめえがあたしのことただの妄想癖だと思ってる限り、何も見えやしねえっつうの」

「死んでいる人間は生きていませんから」

 そして瑠璃子は、中途半端に「生」の側にいる。

「死んだと言うのなら何故、今血が流れるんですか」

「さァ? 生き返ったからじゃないの?」

 面倒そうに、瑠璃子の目が逸らされる。あちこちのアザも数日で治る。怪我はする、しかし生きている故の体の反応も、人間の速度ではあり得ない速さで消されていく。回復する。

「モトに使ってる物体が何なのかとか、あいつ全ッ然教えなかったけどねぇ……オチミズぶっかけたとか言ってたし、だったらその所為だろ、あたしが生き返って痛い目にあうのもあのクソ馬鹿オヤジの物知らず大元の所為だ」

 話が歪曲して逸れていく。尚隆は黙って闇を見つめた。心が浮遊して、足が浮きそうな心地がした。

 昔から、殴られる恐怖も、蹴り飛ばされる痛みも、何もかもが微妙に遠かった。痛みが引き戻す現実は、しかし同時にあまりにも架空過ぎた。実感が湧かない。どんな痛みも苦しみも、恨みも、殺してやりたいという思いも、すべてが一瞬で反転した。何故そう思うのか分からないと思った瞬間、理由がない衝動など存在できるものではないと言う自己矛盾を突いて、感情が理性を遠ざかった。

 今もそうだ。

 親王を見出して怒りを覚えはする。衝動的に行動するにはする。しかし、理由がない。

 恨みに理由が要らないとしたら、何故人は言い訳や納得する言葉を求めるのだろう。

 起源の無いものは存在出来るのだろうか。各務瑠璃子も、生きていた頃の各務瑠璃子と同一であるかどうか分からない。ただ瑠璃子であると自覚する存在が「今は」一人であり、そして空間上、同一の点を有し同一の時間を有する物は同一物であるがために、彼女は恐らくたった一人の各務瑠璃子だ。今の瑠璃子は、変若水の力によって蘇生した、と言う。言われている。

 自分自身が札師であるという自覚は、小学生の頃にはもう芽生えつつあった。記憶ではない。それは「自分ではない」という自覚も無しに、徐々にしみ出してきたものだった。書道に心を惹かれたのも札師だったからと言えば成程、人の耳には通りがいい。しかしそれは勝手な起源だ。尚隆は尚隆であるがゆえに、自らそれを、自然と選んだ。誰に命じられたわけでもない。過去も未来も関係がない。関係があるとしても、これは札師だからではなく尚隆だから選べたのだ。札師ではあるのだと茫洋と思いはしたが、それが尚隆の嗜好を決定的に変えることは無かった。生まれたときから積み重ねてきた「里見尚隆」という存在は、別に、札師という存在によって塗り替えられることも無かった。

 起源が問題視されるのは甚だ鬱陶しい。

 父があぁだったから、上品で物わかりの良いしっかりした子供になったのだと言われた。父があんなふうだったから、喧嘩している連中を冷笑して見ていたのだと言われた。それは真実だったかもしれない。しかし尚隆にとって、それは些末だ。人格が緩やかに変貌を遂げていく過程での影響を、何故その人格そのものを決定的に支配するものだと言うのだろう。事件の受け止め方など、多くが折り重なって尚隆が居る。そこには札師も何も無い。判断を下すのは、自分だ。

 自分自身だけなのだ。そこには可も不可も無い。自分であるということだけが存在している。誰の所為でもあり得ない。導いたものをひっくり返すのも、そのまま受容して恨みがましく死んでいくのも自分である。環境が与えられなかったのは自分ではどうしようもない、ただそこで対応していた感性などはすべて自分だ。誰かにねじ曲げられるのを拒絶しきれず、逃げ出す方向をすら間違えたのも自分だ。

 他人の所為にするということは、そこで自分という存在を否定することになる。今には繋がらない自分など、存在しない他人の話でしかない。

「あいつらバカじゃねェの。まるきり」

 瑠璃子が不意に別のことを言いだした。聞こえた言葉にそのまま対応するべきかどうか、一度迷ってから、尚隆は口を開いた。

「何がです?」

「だってお互い、自分の認識が騙されてるとは思わないんだ、それってバカだろ」

「はい?」

 いつもながら彼女の言は分からない。尚隆の態度に瑠璃子は不機嫌に靴底を地面にすりつけた。

「あいつらはお互い相手のほうが騙されてて正しく見えてなかったんだって思ってんの。カンチガイしちゃってるの」

「ああ。山神とウタウタイですか」

「自分が正しいって思ってンのかねェ。だーからバカなんじゃん? ねぇ? 二人とも眩惑されてやんの。あたしらに。ぎゃはは、はァ、」

 けたたましく笑い声をたて、瑠璃子はふと表情を改めた。

「あたしらもあんなかな」

「今更何を」

 尚隆は嗤った。

「私たちは単に、試されている。目的をお忘れですか」

「忘れてないね。だからそれが」

 瑠璃子は急に口を閉ざした。

 生きているのか死んでいるのか、社会的にも物質的にも、本当にこれで正しかったのか分からない。

 大体何故、里見尚隆はただ名字が同じで外見が同じだけの里見裕隆(さとみひろたか)をあそこまで恨むのだろう。それが過去の恨みだとしたら尚更だ。その恨みが自分の物ではないという可能性に何故気付かないのだろう。

(でもそれ言ったら、こっちも同じか)

「でもまぁ、そのおかげで菅浩太も里見孝も気付かない。些末なことではありますが、これでお互いの認識にずれが出来ていてもそれを確かめなければ気付くことがないということは立証された」

「じゃあ、その隙間に人間落とし込むって罠も使えるわけだァ。いくらでも」

 自分の存在についても、危険を伴う。それを認めるような発言だ。

 瑠璃子は不意に不機嫌に黙り込んだ。

 次の手をどう打てば良いものか――命令の無い中で、二人は途方に暮れたように闇を見ていた。

   *

 裄夜(ゆきや)は病院にたどりつく前に、見慣れた姿を発見した。

 病院の駐車場側にあったフェンスに、植え込みからジャンプして取り付いた男が居る。

「浩太さん?」

「え? うわあっ」

 自分の服を着て、素足に直接革靴を履いている。ポケットがふくらんでいるので恐らくそこに靴下などが入っているのだろう。

 問題なのは、何故こそこそと周囲を気にしながら、わざわざ目立つようなフェンス越えをしているのかということだ。

 茂みに墜落した浩太は、呼びかけたのが裄夜だと気付くや、人差し指を立てて静かにとジェスチャーで伝えてきた。緊急用の入口付近から館内放送が漏れ聞こえる。それは三階の患者を捜すものだった。

「……浩太さん、何抜け出してるんですか」

「わっ裄夜くーん! 連れていこうとしないで! お願い! 頼む! 俺元気だからさ!」

「元気な人はいきなり昏睡状態になって病院に運び込まれたりしません!」

 裄夜は浩太に近づいた。数歩後ろで里見孝(さとみこう)がおろおろと成り行きを見守っている。

「本当に大丈夫なんですか」

 側にしゃがみ込んだ裄夜は、浩太に触れようとはしなかった。無理矢理にでも引っ張って行かれるのかと思い首をすくめていた浩太は、瞬きして、裄夜を見上げる。

「あぁ、別に大丈夫なんだよ俺は。栄養剤って殆ど効かないんだろうけど投与されてたしそれだったら体は動く」

「日本語おかしいですよ浩太さん」

「孝君! 一つ聞いていいかな」

 浩太が地面に腰を落としたまま問いかけた。孝は急に矛先が向いてびくりとするが、すぐに周囲の人通りが無いことを確認し、小走りに近づいてきた。

「はい」

「殊勝で可愛いね君たち。それで孝君、さっき俺を運んだのって誰?」

「……言いませんでしたか?」

「聞いてないよ」

 裄夜は看護士が外に出てくるのを目の端に捉え、浩太の反駁の続きをやめさせた。

「とりあえず帰りましょう、浩太さん」

「てっきり俺このまま病院に缶詰かと思ってたんだけど裄夜くん案外融通がきく子なんだね」

「単に浩太さんが大丈夫だって言うのを了解しただけです。僕が心配して病院に放り込まなきゃならないほど浩太さんは間抜けでもないでしょう。あんまりごちゃごちゃ言ってると置いていきますよ」

「はーい。ていうか冷たいのか優しいのかわかんない子だね君は」

 浩太が特に深い意味を含まないで笑い、土や芝で多少汚れた上着を引きずりながら立ち上がった。

「よく考えるとヤバイねこれ。俺の名前も向こうは分かってるんだろうから警察に届けられちゃうかなあっそうだちょっと待ってくれる?」

 フェンスにもたれかかり、浩太がポケットの中を探った。書く物を捜しているという。孝がペンと紙片を渡してやった。浩太はそれを受け取ると、ざっと縦書きに文字を連ねる。

 畳んで、広げ、線に沿って指で十二分割していく。唇が言葉をなぞり、つかの間、人の動きが鈍くなった。

「さて、帰ろうか」

「浩太さん、本当に帰っても良いんですか」

 まともに自分で休養するのかと疑いの目を向けた裄夜に、浩太は紙くずを集めて渡し、胡散臭い微笑みを投げた。

「うん!」

「こう言うのもなんですけど、多少手加減してあげてくださいよ、自分の体なんですから。誰も気付かないですよ、気分が悪いときは自重しないと」

「うーん、まぁ何とかなるでしょ」

 適当に返し、浩太は堂々と帰っていく。看護士に呼び止められることもなかった。

 倒れたことについて反省の欠片も見られない男に、裄夜は不満げに眉をひそめる。

 裄夜は、自己管理をしろと、散々言われて育ったのだ。

(いつからだったかな、あんなに、自分だけで決めたのは)

 そうだ、確か小学生にあがる前までは、過大な期待すら感じさせるほど、母たちは側に居たような気がする。

(当人達はもう、最初から放任主義だったつもりでいるけど)

 それは違うのだ。叩き込まれた評価主義が抜けきらないまま「お前はどうせ出来損なったのだから好きにすれば良い」と放置されて、自分一人で這い上がるしかなかった。

 孝が待っているので、裄夜は物思いを打ち切った。どうせ考えてもどうにもならない問題だった。

   *

「犯人が分からないなんて」

 頭を抱えた仲間を見下ろし、菅浩太は両手をあげる。

「だって途中まで構築した途端、誰かの携帯電話が鳴るんですよさすがに俺だって集中途切れますよそれでも俺の所為ですかそうですかへええ大淵さーんこの人責任転嫁しーまーすー」

「大体! 現場に出ていってまともにチェックする前にそういう怪しげなもので判断つけようってのが間違ってるんです!」

 研究所の床を叩いてから立ち上がり、大淵は白衣のポケットから紙を取り出して浩太に渡した。前からアグレッシブなジェスチャーの多い男だと思っていたが、眼鏡がよく右斜め三十五度にずれているのはその所為だろうか。

「これ」

「何コレ辞表?」

「違います! 貴方が予測を外すなんて珍しい。それで、今年の健康診断の」

「あぁ! 過労? でも俺仕事中毒だから仕事無くなると死ぬよそれこそ?」

「死なないです。たまにはゆっくり休んできてください」

「だから療養届けなのか」

 これまでにないミスだった。先日高校内で起こった殺人事件は、警察が介入して数日後、付近に住む精神的に不安定な男性が意味不明なことを叫びながら校庭を走っていたところから一応の解決を見た。

 けれどあれは違うと浩太は感じる。

 術は成功した。殺害された少女の意志は、確かに、その学校内部での犯行を言おうとしていた。

 犯人は誰。その問いに、

(それは、うちのクラスの)

 まで答えてくれていた、それを一瞬磁場が乱れた所為で、不完全に彼女を解体する結果となった。

 携帯電話の電磁波くらいで吹っ飛ぶ結界ではない――とは言えない。けれど、あれは電話の所為ではない。それ以外の、意思ある何か。

(攻撃された、と見るか)

 そもそも死者をこの世に留めようというのが邪法なのだ。

 解体したはずの記憶を辿って、新しく崩され行く魂を許されない行為で呼び戻す。

 その技術を使わないでいられるほど人間は強くも弱くもない。もし茅野を失えば、浩太も、可能な限り追いかけたいと願うだろう。それが冒涜となるとしても、どこまでなら連れ戻していいか、誰も知らない。

「洒落にならない……」

「は? 何言ってんですか」

 両手で顔を覆った浩太は、紙を受け取らず、そのままの姿勢で後退した。

「あっ逃げる気ですか! ちょっと誰か! 青木さん!」

「おぉ、どうした大淵……」

 隣のガラス扉を開けて出てきた男が目をしょぼつかせる。それを押しのけるようにして浩太は廊下に走って行った。

「どうもすいませんでしたあ!」

「菅、声がでかいぞ」

「青木さん! 何でとめないんですかあ!」

 青木は机の上に解析終了した分の書類を放り出しながら、神経質に眉を揺らした。

「そんなのは決まってる。あいつがこっちの命令をきいたことがないからだ。まったく若い者が何をそんなに急いでいるのか……若いからか」

「こっちに聞かないでくださいよ」

 残された二人はしばらく空調機器の音を聞いていたが、やがてため息をつき、コーヒーをいれることに決めた。

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