第十一章 近景
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毎日、この貸し部屋における朝と晩の料理当番は決まっている。交代制だ。もともと昼食は弁当派と購入派と外食派がいたのだが、弁当を作るとなると腕に不安を覚える料理人もいたため全員が弁当以外で自分で何とかするということになった。
料理はできると言っていた日向は、鍋料理と炒め物は得意だがレパートリーが少なく弁当にできるタイプのものを作れない。裄夜は作れるには作れるが、何故か人数分より少なく作る。一人分を制作していた名残らしい。
そしてこの日は、流しの前であたふたしているのは中津川日向だった。
黒髪が束ねられていないのでガス台に近づくたび、延焼しないかと心配になる。だが何か言おうとすると黙っててと真剣に目玉焼きを睨みながら言われるので、裄夜は結局何も言えない。
ダイニングテーブルのそばに所在なさげに立っていた孝に椅子をすすめ、裄夜は鞄を足下に置いて席についた。居間でテレビを見ていた茅野が首だけで振り返り、皆早起きだねと朝から元気な声をあげた。茅野の方がよほど早起きなのではないかと、まだぼんやりしている孝と自分自身の状態から裄夜は思った。
「浩太さんは仕事ですか」
「あー……ときどき裄夜って滅茶苦茶残虐なこと言うよね」
リモコンでテレビの電源を切り、茅野がため息混じりに立ち上がった。しまったと思い、裄夜は慌てて孝に振る。
「裕隆さんも早いよね、朝。殆ど一緒に食事してないし」
「多分勤めはじめたばかりの仕事場だから、資料とか作るのに忙しいんです」
怯えたように首をすくめてから、孝は茅野から視線を戻した。
「一緒に食べられなくてすいませんって言ってました」
「良いんじゃないかな、別に皆揃って食事しなくても」
日向が焦げ臭い目玉焼きの上をのぞきこみ、熱で悲鳴をあげていた。それを見やり、裄夜は続ける。
「食べられないものが出るかもしれないし」
「裄夜失礼! 今私のこと言った!」
「聞こえてたんだ、でも中津川さんのことじゃないよ、好き嫌いの話だよ、うん、そういうことにするよ」
いぶかしげに日向がフライパンを手にして振り返る。底を濡らした布巾に置くと、土砂降りがトタンに打ち付けるような音と共に大量の水蒸気が立ち上った。
「換気扇回せば?」
「うん、それは今思ったんだけど……裄夜、段々図太くなってきてない?」
「そうでもないよ。朝だから」
孝が、理解できない部分について是非とも一言意見したそうな顔をしたが、完全に目が覚めていないらしい相手に何を言っても仕方がないだろうと思い直し、無言を保った。
茅野が三者のかみ合わない会話を見て首を傾げつつ裄夜の正面に腰を下ろした。日向に近い位置の椅子に座っていた孝は、しばらく我慢していたが、焦げた臭気に耐えきれず立席し、換気扇を回す。
テーブルに置かれた新聞記事を見て、裄夜は朝食の匂いを一瞬忘れた。
「これ……」
「どうしたゆっき」
一面に、死亡事故の多発が記載されていた。写真は遠くからのものが載せられているが、フォントが事件を示している。
既に死後一週間が経過しているような肉が、突如、歩いていた人間から飛び散って、人間が崩れ落ちたらしい。
「何コレ、ひっど……」
のぞき込んだ茅野が顔をしかめる。焦げた匂いが吐き気を煽った。
「普通人間って歩きながら分解しないでしょ銃撃戦じゃあるまいし」
「付近では放射線の漏れも異常もなし、関係者は首をひねるばかり……」
裄夜が文面を読み上げると、孝が席に戻れなくて、冷蔵庫の前に立ちつくしていた。ただの印刷文面でしかないのだが、内容の異様さに、イメージしてしまうことを恐れたらしい。声は届くのだが、出来れば距離をあけたいのだろう。丁度良いので日向に冷蔵庫から牛乳を出すように言われ、手伝うことになった。
「もしかしてこれか……今朝こーたが布団けっ飛ばして出てったの」
「そういえば浩太さん自分の家があるのに最近何故かここに来ますね、茅野さんも居るし」
「あたし課題製作があるからうちに帰ってる場合じゃないんだもん。道具持って移動するのに、寝る場所確保するならガッコ近いほうがラクじゃん。ここのがウチより近いんだってば。それよりこの事件」
「朝からそういう変な事件の話、しないでくださいよっ」
日向が文句を言いながら別のフライパンでホットケーキを焼き始めた。目玉焼きのへばりついた鍋は水に沈められ、不服げな音を立てている。
「だってさ、これあたしらと関係あるかもしれないじゃん! すっげー変な事件でしょこれって」
「まぁそうですけど」
「それもう記事出てんの? はッやいねー! 誰よ今回報道管制失敗したヤツまさかあいつかなぁ減俸だよなかわいそ!」
いきなり背後から賑やかに声を掛けられ、茅野が引き裂くような悲鳴をあげた。日向が反射的に振り向いて、ホットケーキミックスのたっぷりついたお玉を振りかざした。
「土足厳禁! 誰が掃除すると思ってるんですか!」
「あっごっめーん」
菅浩太が白衣の裾を泥で汚した自分の格好を見下ろしてから、前屈みに歩きつつ靴を脱いで玄関に行った。裄夜は自分の後ろに居たキセを見上げ、犯人はお前かと納得する。キセは騒ぎに対し素知らぬ顔で、まるで家出猫の帰宅のようにひっそりとさりげなさを装って佇んでいた。
「いきなり空間飛ばして現れないでくれる? キセと違って僕らはそういうのに慣れてないから」
「俺も別に慣れてなどいない」
「……靴脱いで来て」
人差し指で玄関を示され、キセは目を見開き、それから大人しく玄関に行った。浩太がすれ違い損ねてぶつかったらしく、廊下で重たい音が響いた。それでも喋りながら、浩太は茅野の隣に座った。
「多分ねこれ憶測なんだけど変若水の所為らしいのね俺の意見なんだけどだからつまり警察というか県警の意見とは違うっていうか何て言うかでも壊れた人たちが殆ど皆共通して大野大元の道場に行ったことがある人だったわけ、こういう意見はオカルトっぽいとかで警察は嫌ってるけど。一部の警察と別動の人は動いたみたいだけど。水で腐肉化してるんじゃないかっていうのが科学的な俺たちの意見。ウィルスか細菌か粘菌か年金か」
最後のものは無関係だが裄夜らは誰一人取りざたさない。
「じゃあ各務瑠璃子が分解する可能性もあるんですか?」
「日向ちゃん結構真顔で怖いこと言うね、でも確かにあり得ないことじゃない。もしヨミガエリの水が存在していてその方法が最終的に死者を死者に戻してしまう場合に限るけどね」
そしてそれを検証することが今は困難な状態である。
「水を汲んできてる場所は分かってる、そこへ行こうとは思ってる。こないだ旅行しようって言ったでしょ。ただし大元以外の人間には汲むことが出来ないらしいんだこれがまた面倒なことに。宗教関係の同業者が大元のお株を取ろうとしたんだけど何の効能もない水で却って信用を落としそうになったとかで今詐欺罪起訴とかしそうなんだけど不思議なことに大元ンところに行ってる人たちは結構治癒力も上がってて医学的にもまぁ良くなってるというかむしろなりすぎ? なわけね。ここら辺が問題なんだけど――まずは水源調査から」
「質問なんですけど」
裄夜が手首の先だけあげて挙手の態度を示した。はいはい、となおざりに返事をして、浩太が新聞のテレビ欄から顔を上げた。
「大野大元という人に直接会って話を聞くことは出来ないんですか」
「出来ます、しかしぶっちゃけた話、既に一部の連中が聞きに行っててね、どうも懐柔されたのかどうでも良いと判断したのか、監視だけになってるんだよね。蘇りの水が出現した上にどうもその後腐るらしいだなんて社会的秩序は乱れそうなんだけど、証拠がないわけでしょ実際のところ。水の分析はしてるのに特に異常は見られないのよ、温泉とあんまかわんないの。ガンマ値も正常。どっちかというと水そのものよりもオチミズであるというアイデンティティが問題になるのではないかと思われる」
何故そういう結論に至ったのか、そこまでに長い計算式が省略されているであろうことを察し、裄夜はそれ以上の追求をやめた。
「とにかく、水源に行くんですね」
「そういうことになるね良かったね白骨温泉とか竜神温泉からは距離があるんだけどまぁ良いお湯が出るらしい宿があったからゆっくり療養もかねてフフフ」
「こーた、今気付いたんだけど」
茅野がふと眉をひそめた。こめかみを指先で叩き、彼女はゆっくりと浩太を睨み付けた。
「そこまでの運転手って、誰」
「あははははじゃあそういうことで!」
「逃げンな! あんた確か左側通行出来ないんだよね!?」
「だって俺国際免許は取ったけど今失効してるし日本の免許は持ってないし裄夜くんと日向ちゃんは取ってないでしょ孝君は言うに及ばず里見裕隆さんは塾ですから行かないんじゃんねあははは」
「あたし一人で何時間運転しろって言うの!?」
「ワゴンが良いなーでかいヤツ! 広々!」
「広くてもあたしは運転席! 狭いの!」
賑やかな二人の前に、大きな茶色の皿が置かれた。横から見れば、それが元は白い皿だったことが分かる。裄夜が闘争をやめない二人に代わり、自身の率直な感想を述べた。
「……これはまた個性的なホットケーキで」
「文句あるなら食べなくていいでしょ、裄夜結構ジャンクフード買い食いする人じゃないの。朝からコンビニ行ってくれば良いよ」
仁王立ちした日向の手には、いくらか粘土のようなものが張り付いている。どうやら生地は彼女にだけではなく、台所のあちこちに散らばっているようだった。裄夜は濡れ布巾を目で探しながら腰をあげた。
「それとこれとはあんまり関係がないっていうか」
「バターとメイプルシロップ、どっちが良いの?」
「せめて味付けより先に大きさ気にしようよ」
「包丁で切れば良いってこと?」
玄関からキセが戻ってこない。逃げたな、と裄夜は顔色を変えずに考えた。居てもさほど情勢に影響はない。しかし、部外者然とした態度のおかげでこちらが落ち着き、下手な気を回さずにすむことも確かだった。この状態を見過ごせないでいる自分が、ちょっと哀しい。
「掃除してくれるの? ありがとう」
日向は笑顔で、流し台付近を拭き始めた裄夜に言葉をかけた。
「良かったら洗い物もお願いできないかな、裄夜のほうが丁寧に洗うから、食器が綺麗になるの」
何だか良いように使われているような気がするが、確かに日向の洗い方は粗雑である。
「分かったよ……先に食べてて」
孝に対して言ったのだが、日向も紅茶を煎れてから席についてしまった。洗い物を済ませ、振り返った頃には、浩太と茅野の痴話喧嘩めいた会話もおさまっていた。
「いやぁホントにでかいねフライパンからはみ出したあとがむっちりとホットケーキの脇腹に残ってるしね芸術的だよねいっそ」
「浩太さん要らないんですね」
「ああっ俺も食べるよ食べるってばねぇ裄夜くん!?」
「何で僕に話を振るんですか」
賑やかさにかまけていたところ、孝がいきなり立ち上がった。
「どうしたの?」
お茶で詰まりそうな喉からホットケーキを押し流し、孝はばたばたとダイニングを離れる。裄夜がしまったと駆けだした。
「何? 何? どうしたの二人とも血相変えて」
浩太が二人を見送ってから、思い出したように自分の腕時計に目を落とした。
「あっそっかー学生なんだよね君ら。いってらっしゃーい」
「あぁッ!」
日向が一声上げて走り出そうとし、椅子の足につまづいて大きくバランスを崩した。咄嗟に浩太が手を出そうとしたが距離があきすぎて間に合わない。顔面からフローリングにぶつかるかと思われたので、予想した茅野は痛そうに目をつぶった。
「ったた、……ごめんなさい、ありがと」
「いや、それよりも早く行った方が良い」
日向は腹の少し上辺りに腕を入れて受け止めてくれたキセに頷いた。ここで遅刻するわけにはいかないのだ。何故なら今日は小テストがある。さすがにさぼるわけにもいかない。
「……ねぇ今の見た茅野ちゃん」
ややあって、行ってしまった日向の姿をまだ見ているように戸口を見て、浩太がぼそりと呟いた。
「今の変じゃなかった?」
「変だった」
茅野は即答し、新聞を畳んだ。
「皆のんびりしすぎだよね、学生の自覚あるのかって感じで」
「いやそこじゃないんだよねキセがあっさりさらっといきなり出てきて助けて声かけてそれについて日向ちゃんもごく自然に当たり前みたいに流したでしょ、キセの存在かなりなじんできてない?」
「だってこーたより役に立つし。居ればの話だけど。あたし買い物袋重すぎて困ってるとき手伝って貰ったよ」
「ずるいなー」
何がずるいのか、浩太がふてくされたような顔でテーブルに横頬をつけた。足をぶらつかせながら新聞を奪い取る。
「……ねぇ茅野ちゃん」
「何?」
残されたホットケーキの端切れをどう処理したものかと思案していた茅野が、顔をあげた。ねぇ茅野ちゃん、と浩太は繰り返す。目は新聞に向けられ、その紙面にはあの奇怪な事件を語る文字が踊っていた。
「甦らせてあげるよって言われて、何もしないでいられるかな」
「あたしはやんないわよ」
茅野は不愉快そうに眉を寄せた。彼女の中ではホットケーキはラップに包んで冷凍することに決定していたので、悩む内容は今はなかった。
「だって冒涜でしょ、そんなの」
「そうとばかりは言えない気もするけどね」
「去った者を連れ戻してどうするのよ、ゾンビでもする気? まともに、これまでの一続きの時間として、帰ってくるわけが無いじゃない。そんなの。人間じゃない」
吐息混じりに薄く笑い、浩太はそっか、と視線を前に据えた。
「俺は茅野ちゃんが死んだら連れ戻したいけどな」
「やめてよ、そういう不吉なこと言うの。神話の男居たじゃない振り返るなって言われてたのに途中で振り返るから結局何も手に入らないの、ああいうのってもし振り返らなくて奥さんがまともに美人で帰ってきたとしても、ホントに同じ者だって見なせるの? 不意に思うんじゃないの、あぁこいついっぺん埋めたんだっけ死んでたっけ、燃やしたっけ、とか。そしたら見下すとか恐れるとかするでしょ、失礼だよそういうのは」
「あぁイザナギ」
洋の東西は関係がないんだよねと呟き、浩太は自嘲するように吐き捨てた。
「俺も似たようなものだけどね」
「何よ、何か復活でもさせようとしたわけ? あっそっか、あたしのこと連れ戻すのか、そうか」
答えず、浩太はポケットから片手を引き抜いた。
「何ソレ」
「うん、いやね、ちょっとね」
「……照れないでよ! こっちが恥ずかしくなるから!」
わけもなく頭を撫でられて、茅野は耳に血をのぼらす。それを見つめて、浩太は柔らかい笑みを浮かべた。
「うん、そうだね」
何がそうなのか分からないが、茅野は照れ隠しに、リビングに佇んでいたキセにラップを取りに行かせた。
*
気付いていたか?
否。
「すべてがここに既に明らかになっているというのに、まだ分からないのか」
きぃ、とブランコが風の中で揺れる。短い手足を懸命に動かしていた少女が、ひとりごちていた中学生のようにも見える男の方を不意に向いた。
「……厄介だな」
呟く横顔にはわずかな憂いも見られない。ただあることをあるがままに「厄介である」と呼びつけただけのことで、それ自体が彼を煩わせているわけではない。手に感じる空気抵抗さえ、彼にはそもそも面白いものだったのだから。
あれから何年経過しただろう。時間という概念を知ってから。
「さて、行こうか」
彼は金色の目を細め、相容れない漆黒の瞳孔をゆらがせた。抱き上げられた少女は、まだブランコに乗りたそうに鎖を掴んでいたが、やがて手を自分から離した。
空には血をぶつけたような緋色の雲がちぎれとぶ。人気のない公園には、あとは影が遊ぶばかりだ。
*
「これねぇ……なんか可笑しいんですよねぇ」
電話番号もあるし電話も繋がる。携帯電話は使えない、現在調子が悪いからだ。霊的なものと電子的情報には親和性がある、実のところ、曲解すれば、ではあるが、電気を使えば人の認識に錯覚は起こせる。微細な「状態」を崩す故に携帯電話は厭われて、確かに調子が悪い時には菅浩太にも使えない。
現代に生きる本上の当主、検屍官でもあった男も。
「ねぇおかしくないですか俺に何も教えられてないだなんて。俺も結構必死で働いてきてますよね、御山は確かに離れてますけどそれでもしっかり、お役目だけは果たしてる。次世代育成は別ですが」
本家――本上の家に電話線が引かれていること自体にも驚きを覚える。けれどさすがに錯誤の時代も終わりを告げた。出雲の目をかすめながらこれまで生き延びた静かなる民。滅びはすでに訪れている。
浩太は薄く笑みを貼ったまま、唇を静かに動かした。
「そうでしょう? おばーさま」
「……そのように呼ぶなと言っているのです」
ため息混じりにそう言われ、浩太は手元の手帳を指で閉じた。
「じゃあどう言えばよろしいか? 私がすべて引き受けた以上その責のみならず権力をさえ十二分に与えてしかるべきと存じますが」
「浩太、おやめなさい」
ぴしゃりと言いたくてもそうできない弱さを含む声に、浩太は影の中で笑う。
「嫌ですよお祖母様、そういう辛気くさい物言いは。もう何年も昔の話じゃあありませんか、俺は気にしてやしませんよ。えぇ、俺に拒否権がないことを嘆くだけの子供ではもう無いんですよ、自分の責任は果たします。だから代わりに、俺に下さい」
「これ以上何を望むと言うのです……好き勝手に留学だのと」
「ですから、その間の力についても俺がそちらからもらい受けた分は返してきたじゃないですか、」
「――それで、用件は?」
祖母は電話口でため息を飲み込む。それを感じ、浩太はようやく、玄関を振り返った。玄関先に置かれた黒電話に片手を伸ばし、コードを引きながら短く命ずる。
「銀月の一族の本来の姿を、即日示せ」
「……できかねるとしか言いようがありません。私以前の者からもそのような名など伝え聞いた覚えがない」
「おかしいンですよだからそこが……ッく、が」
急に、浩太はバランスを崩す。両手を振ってどうにか壁に背を付けてはみるが、腕を壁にぶつけなければしのげない激烈な痛みが脳天から足下へと降りていった。
「浩太……! だから戻れと!」
「っ、だ、大丈夫ですよ、俺結構丈夫だから」
「そういうわけには……!」
かすれた声で叫び、直後祖母は素早く何事か唱える。その声が一気に意識の大半を占め、浩太は悲鳴をあげ損ねた。舌を噛まずに済んだのは、この状態では行幸と言うべきことかもしれない。
「……いや……面目ない……です」
電話口に向かってささやくと、向こうで祖母が吐き捨てた。
「息も絶え絶えになるくらいなら戻りなさい、山神の仕事は土地を離れるほど辛くなる。お前ごときに離れ業など土台無理なことなのです」
「分かってますけど。でもこないだばーさまが来たっつってたから俺、もうしばらくは穢れに耐えきれると思ってたんだけどな……迂闊だったな……」
「いいえ、私は近年、ここから離れたことなどありませんよ」
「――え?」
引き戸を開けて、玄関先に影が差す。銀月の一族が取り纏め役、中城の持つこの平屋建ての一軒家に、人が出入りすることは稀なことだ。浩太は相手を確認もせず、引きつらせた喉で呟く。
「まさか――」
「浩太?」
何かを恐れるような声に、浩太はしばらくの沈黙の後で苦笑した。
「大丈夫ですお祖母様。浄化作業もつつがなく進んでおりますとも。ですから是非、俺の願い、叶えてくださいよ。俺がいつどうなっても彼女が安全に暮らせるように――やぶ蛇かも知れないけど、今叩き殺せる蛇なら俺が殺す。だから今、今じゃないと」
「何を焦っているのか知りませんが、お前はそこに居るべきではないのですよ?」
「分かってますよ……でもせめて、俺はどうにか、しておきたいんですよ。ねぇキセ」
玄関の前、閾を踏み損ねた男が、表情一つ変えずに茫洋と佇んでいる。電話が切られてからようやく踏み込み、草履を脱いで廊下を踏んでキセは言う。
「それで、どうするつもりだ?」
「何が?」
口元を白衣の袖口で拭い、感染症の恐れ忘れてたうっかり、などと呟いてから浩太は大きく息を吐き出す。
「……ねぇキセ、人生って難しいね。思うとおりになることって少ない」
「だが、それを望むなら仕方がない」
「そうだね」
金色の目がわずかに細められるのを見て、浩太はキセにすがりつく。かすかに白檀の香りがしたが気は休まるどころか更に苛立つ。
「言えよ、一族なんて本当に存在してるのか!?」
「知らぬ。『一族』など、言いたい連中がそう呼んでいるからそれに便乗してそれを記号に使っているだけだ、俺はこの回りくどい連中につきあって暇を潰していたに過ぎぬ」
「何でそんな機嫌悪いわけ!? 裄夜くん相手の時と態度違わない!? 俺のこと嫌い!?」
「生憎俺は好き嫌いが言えるほどにはお前のことを知らないでいる」
「じゃあ知って。知ってよお願いだから。それで手ぇ貸してよ、俺そのうち郷里に帰らなきゃならないしそれまでに何とかしたいんだよ、茅野ちゃんのためにも――つーか結局は俺のエゴなんだけどね」
黒い着物が更に奥へと移動しかけて、そこから指を外し床にへたり込んだ浩太のすぐ前で止まった。
「……手はなくもない」
呟き、キセは浩太の前にしゃがみこんで目線の高さを揃えた。
「しかし、人であることを捨てられるか?」
「元よりその資格もない」
しばらく黙り込み、キセは壁を見つめている。浩太がしびれを切らした頃、キセは少し跳ねた部分の黒髪を手で押さえてため息をついた。
「まぁ今そう言えていてもこれから先は分からぬ。故に俺もその時できることをするとは誓えるが今すぐにどうこうできることもさほどない」
「何ッだよそれ!? 俺告白しがいないな! 何だよそれはさ!」
「しかし、今の状況は良くないな。一人で土地の穢れすべてを引き受ける気か山神」
夕日が外界を染め上げる――子供たちの帰る声が聞こえてきて、浩太は気が抜けて目を閉じた。
「仕方ないさ。だって俺、山神だもん。誰かに肩代わりしてもらうにはあんまりにも恩恵受け過ぎちゃったよ、もう」
「……多少なら緩和できるが、異質な力同士では却って妨げとなろう。俺では無理だ、が」
浩太を助け起こし、背をばしりと遠慮無く叩いてから、キセは札を一枚浩太に渡した。
「これを書いた男が、悪化させる原因にはなっているな」
「えっ何コレ?」
「……蟲の媒介をする」
間を置いてから浩太が理解したらしく座ったままで足をばたばたと床に打って鳴らした。
「っかー! ムカツク! 俺どんだけ死ぬかと思ったことか!!」
「気付かない方がどうかしている」
「うるっさいなもうさー! 俺が知るかっての! だってこないだ女の子に刺されたときの怪我はただの怪我だったしわざわざ背中見ないし見えないし何よりこんな札見たこと無いもんねザマあみろ!」
「何故俺に勝ち誇る」
理解できないので札を渡してすぐに奥へ立ち去ろうとした男を見て、浩太は壁に縋りながら後を追って走り出した。
「っだめだからな! 俺お前利用できるまでは絶対諦めない!」
「何故」
「なぜならば! お前は俺よりこの一族に関して知識があって力があって有利だからだ!!」
「……どうだか」
浩太は廊下の潰える場所で、ついにキセの背に飛びつく。黒い背中に肘鉄など叩き込んで力業で止めようと思ったのだが――舌打ちし、浩太は呆気にとられている明良忠信に向かって声を荒げた。
「今の会話、聞いてた!?」
「いいえ……!」
鬼気迫る勢いに恐れを成して、明良は全力で否定する。安堵して背を向けた浩太だが、この屋敷が静かすぎて声の通りが良すぎることは痛いほど理解している。けれどもし知られても、さほど致命傷にはならないと思えた。
「……っつーか、良い牽制にはなったよね……もし俺に逆らったら、土地限定じゃなくてここまで一気に浄化するからね、さすがにそうなったらモノノケさんも生きていけない」
俺の土地になっちゃうからね。呟いて、浩太はがらりと玄関の戸を開いた。
「……あっ」
「あー……」
戸に手を掛けそうな位置で静止していた水瀬裄夜が、小声で反応し、直後「何も見てません!」と叫びながら庭先へ廻って逃げていった。
「……しまったな……そうだよねキセだけ移動しないよね移動しないのかなあれえ裄夜くんだったよね今のええええええええ」
「今の人って浩太さんだったよね、浩太さん山の神様で山を綺麗に清掃活動中とかそういうことではないんだよね、キセ聞いてる?」
縁側で猫と戯れていた符崎キセに、裄夜は全力で走り近づきながら問いかける。
それを見て舌打ちしたキセが、ふいと立って畳の座敷の奥へ逃れた。
賑やかな景色に、中城たすく少年はおやと首を傾げたが、何も言わずにそれらのことを眺めていた。
*
「くッ……そ!」
乱暴に自販機を蹴りつけると、足首が妙な方向へ曲がった。そのまま二度、三度と蹴りつける。やがて自販機の角の部分を蹴っていたからあまり凹みもしなかったと気が付いた。
冷めた気持ちでポケットをさぐる。小銭はなかったが鍵が入っていた。
札師の札が導く結界すべてに適合する鍵。開けごまとでも言うようなものかと言ったらあのイカレタ札師は冷笑した。今すぐ駆け戻ってあのすかした顔に蹴りを入れてやりたい。
荒れた呼吸が辺りに響く。
各務瑠璃子は自分の顔が自販機の商品を見るときかすかに映っていることに気付いた。気付いたから何がどうなるというわけでもない。余計苛ついて鞄から財布を取りだした。
いつでも無表情に商品を吐き出す機械は、一旦馬鹿にするように大きな音をたてて存在を主張し、ぶうんとうなりをあげて再び無感動な箱として立ちつくした。
「ッ、この……!」
しんじまえと何度も何度も繰り返して、その衝動がどこへ行くべきものか分からなくて、非行に走るより自分自身で自分と向き合うことを選んで、一人で中身をあおった。熱湯が一気に喉に流し込まれむせそうになったが、それで呼吸がしづらくなるほうがむしろありがたかった。意識が鮮明に甦ってくる。殺したい、死ね、すべて邪魔だ。邪魔だ。
粘膜が火傷する痛みに耐えきれず、体が反射的に動いた。腕が自販機を逸れて建物の壁に当たり、骨がごきりと鳴った。血が壁を汚す。この建物の関係者に迷惑をかけるなと思った瞬間吐き気がした。何を善人ぶっている?
熱でべろりとめくれあがった皮を舌先で確かめつつ、瑠璃子はもう一度缶を上向けた。今度は頭からコーヒーを被っている姿をさらすことになった。血と泥で汚れた自分の胸元から下を見て、これなら誰にも声をかけられなくて済むと少し安堵した。
(そうだ、誰も気付くな……今更気付かれても邪魔なンだよッ)
昼間は姿が異常であればむしろ注目される。しかし深夜の路上には繁華街でもない限りそうそう人の姿はない。もし通りがかっても、異様であればあるほど、人は足早に通り過ぎる。
目的は達された。瑠璃子は缶を路上に投げた。缶はアスファルトに一度接触して再び跳ねたが、二度目に音を立てることはなかった。まるで地面が手を伸ばすように、黒いものが持ち上がって缶を受け止めたからだ。
舌打ちし、瑠璃子は顔をしかめたまま走り出した。体が痛い。痛いから分かる。まだ生きている――死んでいるとしても、あいつらとは違う。
(何なんだあいつら……意味が分ッかんない……!)
鞄で咄嗟に目の前に飛び出した蝶をたたき落とした。蝶?
(違うだろ、蛾だよ! 死ねよ!)
焦りがどんどん瑠璃子の精神を追い詰めていく。ざわつく気配が濃厚に周囲に満ちていく。ここはどこの細道じゃ、と童の歌う声すら聞こえる。
呼吸がぜえぜえと喉を鳴らした。ひっきりなしに靴先がアスファルトを蹴り、再び噛む。
感覚が間違えているのだ、気付いてはいけない、気付いている自分に他の誰かが気付いたら巻き込んでしまう、来るな、来てはいけない、だってあれは、
(他の連中には見えない……!)
ねぼけた猫が、すれ違いざま蹴り倒した道ばたの箱からこぼれ落ちた。思わず瑠璃子は振り返り、猫を掬い上げて上に投げる。
黒い影が真っ直ぐに伸びてくる、それを飛び越して猫は向こうのアスファルトにごとんと落ちた。猫なら体くらいひねりやがれと瑠璃子は思った。
足をとめた分こちらは不利だ。先程からお互い気付かないフリをして実にゆっくり歩き回り、いささか事態が膠着していたのだが――もうそれも通じない。一晩中歩いて、睡魔が体を蝕み始めていた。
これが毎晩続くのだ、これは死ぬ前からずっと続いていた儀式。
(あたしが悪いの?)
ぎいぎいと天井と縄をきしませていた母親のうろんげな目がこちらを向いてお帰りなさいと、
「くそ……ッ」
見えるということは時に人を追い詰める。
瑠璃子は自分の力が霊感ではないと認識していた。自分がしているのは、実体化する異常を感知するということ。幽霊を見るというようなことではない。誰も気付かなければ良いのに、瑠璃子だけ余計な不整合を見てしまうのだ。先程までなかったものが出現し、あったはずの物が不意に消える、そういう整合性を欠いた働きは本来見過ごさなければならない誤差だ。夢の世界を現実に持ち込めば、人は必ず狂っていく。
瑠璃子が何度、誰に言っても、気付く者は現れなかった。気付いた者はおかしくなって、どのみち目の前からは消えた。
化け物。それを言われる筋合いはない、瑠璃子は他者に告げることで狂気に導く自分自身よりも狂気に囚われてこちらを殺しに来る連中の方が異常だと思った。やがてさとる、あれらは気付いてはならないものなのだ。だから、決して言ってはならない。言ってもどうせ理解されず、また相手を発狂させるのも目的ではなかった。
すべて一人で立ち向かう。そういう覚悟で、常に鋭利に向き合った。それが余計であるとしても、忘却する前に異常なものらがこちらを捉えた。恐ろしくて、生きるために死を選んだ。
お前達の物にはならない。
「ぐ……ッ」
急に胃がせり上がってきた。胃液を吐きだした口を手の甲で拭う。
(札師の野郎こっちが弱ってるの知ってて外に出しやガッたのか!?)
白熱した視界に冷笑した顔を思い出し、瑠璃子は足をひきずって走る。
わざとだった、だとしたら?
だとしたら殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる!
「アレさえあればお前等なんて……!」
札がない。そのことが瑠璃子を久々に窮地に陥れている。札がなければ正規の術者でもない自分には何も出来ない。ただの弱い女であるだけで、だから余計に女という性まで憎かった。女だから余計なことに巻き込まれる、見下される、ただ街を歩き続けることも邪魔されるし、だからこんなひどい有様を見せつけて警戒させなければならない、何もかも面倒だ、何が整合だ、自分なんてつぎはぎだらけで、
意識がどんどん暗闇に飲まれていく。意識がブラックアウトしかけたことに気付き、瑠璃子は我慢出来ず、振り返った。
「何の用だッつーの!? いい加減にしろよ!」
影が作り損ねたプリンのようにたぷたぷと表面を揺らした。あちこちの街灯が熱で虫を焼く音をたて、徐々に明かりを小さくする。朝が来るから消えていく――そうであれば良かったのに、生憎と空はまだ夜をはらみ、化け物を産み落とし続ける。否応なく、街灯の下に居るものたちに気付かされる。
「やっめ、ろッて……!」
闇が歩いた跡からは、粘着質な音を立てて一つ、また一つと何かが出てくる。それがまるでサナギが羽化するように人間めいたものを生み出すのを見て、瑠璃子は慌てて首を振った。嫌だ、手足を掴む気配のぬるついた肌も嫌だ、こんなものはないのだ、誰にも見えないし誰にとっても現実ではない、なのに何故自分にだけは現実なのだろう?
ただの幻覚ではないことは確かだった。幼い頃逃げ損ねて何度も死にかけたからだ。祭の晩に火の粉に追われたとき、周囲の人間たちにはそれが見えていなかったが、自分は触れられた瞬間髪を燃やされた。周囲では悲鳴があがったが理由が分からない連中ばかりで役に立たなかった。川に浸かったまま朝を待った。誰も迎えには来なかった。
「負けてたまるかッ」
朝が来る、来てもそれらは側に居る。いつでも、感じ取れる人間を取り込もうとかまえている、どんな世界でも停滞は死であり新たな風を必要として発展していくことは変わりがないらしいから、人間という異物を取り込もうとする気持ちも分からないでもない。けれど相手に同情も共感も出来ない。指を噛んで瑠璃子は痛みに集中した。血が口腔を満たしても容赦しない。
正気を保つ方法がこれしかないと言ったら笑うだろうか、里見孝。お前は見ていながら気付かない道を選んだ。親が狂うのにも手出ししなかった。見えていて知っていてどうにかしようとしていた私ばかりが何故こんな目にあう?
頭の上で街灯のカバーが割れた。大きな破片が落ちてくる。首が落とされそうな欠片が真っ直ぐに降ってきて、瑠璃子は舌打ちして駆けだした。走ってはならない、走ったら追いつかれる、それは変質者についても野犬についても言われていることだ、それは分かっている、けれど何もしないで体を蛆に食われその感触を確かめるとかそんなことは真っ平だった。
自分の息ばかりが響く路地から人の多い通りに抜ける。繁華街には人が多い、却って凶暴性のある連中が紛れていて危険だと知っているから、瑠璃子は渋面を作ったまま別の道を抜けようとした。
りん、と風鈴めいた音が耳をとらえた。足がべたりとコンクリートに張り付いて動かなくなった。
背筋が寒くなる。這い上る恐怖は何度味わっても不快だし不可解だ。相手が何をするわけでもないのに、人間ではないものの眼差しにさらされることが胃を縮め、脳を溶かし、一つのことばかり考えさせる。
逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ!
「――っ」
けれど意に反して足は動かなかった。代わりのようにコンクリートに尻がつく。座り込んで、瑠璃子は両手で耳を覆った。逃げられない動けない見つかっているここにいるのがばれている、負けてしまう? 足下の冷たさが徐々にこちらの温もりを吸って失われ、まるで真っ暗な無重力空間に放り出されたような気持ちになってきた。心許なさが矜持を裂いて、ひどい悲鳴をあげさせようとする。
がたがたと無意識に体が震えて、瑠璃子は歯を食いしばった。
奴らが来る。
闇が濃度を増し、風が冷たさのうちに生ぬるさを含み出す。雨の前のような湿度が、ぶわりとふくらんで路上に溜まった。
(誰か――!)
そのとき、不意に空気が和らいだ気がして、瑠璃子は恐る恐る顔をあげた。
「邪魔だ、娘」
かけられた言葉は無感動で冷たかったが、彼の周囲にはあれらの気配が感じられなかった。むしろ頭が自然にさがるような、もっと清浄で異様な、気配がした。
金の双眸が静かな光をたたえている。人間ではないと瑠璃子の本能は判断を下していたが、ソレが何なのかは分からなかった。敵ではないが味方でもないことは明らかで、思考が半停止していた瑠璃子は男に再び吐き捨てられた。
「私はこの道を行く、ただそこに座り込んでいるだけならば、邪魔だ」
「ッあ……!」
男の背には幼い娘が眠っている。その穏やかな寝息は、周囲の怖気と無縁すぎて、逆に瑠璃子をおそれさせた。
ひきつった顔で辛うじて呼吸するだけの少女に、酷い有様だなと男が呟いた。ようやく瑠璃子をまともに見て認識したといった風情だった。それまではただ邪魔だから呼びかけたにすぎないのだ。
「娘、怖いか」
瑠璃子は無言で頷いた。首の筋肉が思うように頭を支えてくれず手で押さえながらそうした。
「そうか」
男は平静な眼差しを前に向けた。瑠璃子は両手をコンクリートにつけたまま頷いた。地面があって、コンクリートが敷かれていると今は分かる。それだけ、現実世界を溶かすようなあれらの気配が遠ざかっている証拠だ。
(こいつ、何?)
「娘、退け」
瑠璃子はまたいで行くこともしない男に、震える声を絞り出した。
「あたしを、助けてくれるなら退く」
殺されることはないと直感していた。人ではない男にとって、本来は瑠璃子などどうなっても構わない存在だろう。けれど今は違う。男は道を歩いていると言い、ある一つの線をなぞるようにしか路上を見ていない。瑠璃子が自分の意志でその場所を空けなければ、男は「道を歩けない」のだ。周囲の人間たちの喧噪は遙かに遠い。人間の歩く場所にありながらにしてそれとは「ずれた」場所を選んで歩いているのだろう。男にはおそらく、現実に存在している左右の道の幅も無関係だ。瑠璃子を避けては通れない。
喉を鳴らして唾を飲むと、男がかすかにため息をついた。
「救うとはまた広範な言葉だ」
「誰も救えとは言ってないね、助けろッつったの」
「何を何から?」
瑠璃子は視線を後ろに投げた。何かが道に居る、それを見ただけで吐き気がぶり返した。
男はあぁ、と勝手に納得した。
「もとよりこういう慈善事業は好かないのだが、仕方ない」
実に面倒そうに言うが、表情はあくまでも冷たく、まるで深夜に見た日本人形のように冷徹な生き物だった。
「どうせ私が行く道だ。邪魔なものは初めからはらうつもりだった。お前の為ではない」
男はゆるく手を胸元から道の先へ向かって振った。かすかな風が起こったが、それで何がどうなるとも思えず、瑠璃子は文句を言おうとして息を吸い込む。しかし言葉を出す前に男が振り向く。
「しかしこれはこれで哀れだな、巫女の属性を制御できないというのは人として終わりだ。娘、人でありたいか」
「……あたしが人間なンだったら、人間なのが正当なんだろ」
何をするつもりなのか――ただ暗い夜道の続くばかりの景色に、瑠璃子は内心舌を巻いた。こいつ、やはりただの化け物ではない。
「ただの化け物ではないついでに、一つ授ける」
男はやる気なくそう呟き、掌を瑠璃子の頭頂部に押し付けた。瞬間、じわりと熱が伝わった。化け物だが熱が通っているのだろうか、それを認識した途端、瑠璃子は声にならない悲鳴をあげて路上をのたうちまわった。
「誓いを。私自身は別段巫女など必要とはしていないが、今のお前の有様は不愉快ゆえ仮に名を与える。他に仕えたい相手が居れば勝手に契約を解消すれば良い」
「ッ、は、ああァ!? 何が!?」
男はもう瑠璃子を見てはいなかった。一瞥もくれず、彼は道を歩き始めた。瑠璃子は脳天から足先を貫いた電流めいた激痛の所為で道をあけてしまったことに気付いたが、もはやどうしようもなかった。
周囲の闇はもう、瑠璃子にちょっかいをかけてはこなかった。
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