第十二章 水源

   *

 電話がかかってきた。居間におかれていた置き電話の騒音は廊下に響き、灰色がかる室内にくまなく伸びて、惰眠をむさぼる者たちに告げる。

「はっやくとってよ~も~!」

 水瀬裄夜は視界が滲んでいると思いながら、受話器がそう言うのを茫洋と聞いていた。

「俺だって結構困っちゃうんだよだって時間ないしー電車より高速が良いって聞いたし茅野ちゃん叩き起こしてるからもう彼女機嫌悪くってさぁ」

「……浩太さんですか?」

「そうだけど」

 つかの間、二人は沈黙した。ややあって裄夜は視線をあげ、壁掛け時計の針が何時を指し示しているのか見ようとしたが見えなかった。

「……今、何時ですか」

「いやにたどたどしいね君どうしたの? もしかして忘れてた? 今日四時半に出発」

 忘れていた。裄夜は受話器を持たない方の手でこめかみを押さえた。

「荷物の準備は完了してるんですけど、多分まだ誰も起きてません」

「あっはっはやっだなーもー冗談は……本気みたいだね」

「今どこですか」

 裄夜は子機を掴んで、与えられた自室に戻る。戻る途中で日向の部屋のドアを叩いておいた。「起きて準備して」という言葉に「うあー」という返事があった。どうもうさんくさいが、一旦そのままにした。

 目をつぶっていても分かるとは言いがたいが、それでも手探りでどうにか、ベッドの側にある眼鏡を取った。机に置いていた携帯の画面には、紛れもなく四時五十二分と示されている。

 まずい、と反射的に思った。ようやく回路が繋がってくる。カーテンを開けると、外はまだ灰色だが、それでも空に明るみがさしていた。

「えーと俺が今どこにいるのかというと料金所前、とかいうことはなく。駅前に行こうと思ってるんだけど。その様子だと迎えに行った方が良いよね早いよね」

「そうして頂けるとありがたいです」

 答えながら、裄夜は着替える。着替えてから日向の部屋のドアを叩いた。

「中津川さん起きて。出かけなきゃならない時間とっくに過ぎてる。浩太さんから連絡が入った」

 裄夜は目をこすりながら起きてきた孝に片手を立てて謝り、日向に言葉を投げつけた。

「遅刻するよ!」

「ホントに!?」

 飛び起きる気配がする。実に分かりやすい子だなと思った。

「早く言ってよ!」

「さっき言いました。ちなみに学校じゃないから。浩太さんだから」

「分かってるってば!」

 荷物を引きずり出した日向が、乱れた髪を適当にまとめる。

「顔洗ってくるから!」

 荷物は玄関先へ運んで置いてくれということだろうか。裄夜はため息をつき、鞄を持ち上げた。

「孝君は行かないんだよね?」

 洗面所から顔がのぞく。目があった裄夜は、多分、と言葉を返した。

「多分って何よ」

「行かないよね?」

 振り返ると、落ち着かないようで自分も着替えてしまった孝が、数度連続して頷いた。

「行っても足手まといになるばっかりだと思うので……」

「そんなことはないと思うけど」

「だったら、今度の夏合宿には行こうよ、ねっ」

 日向は起きた直後から妙に活動的だ。顔を洗い終えてすっきりした表情になり、体操めいた動きをし、体の筋を伸ばしている。

「カレンちゃん来ないのかな」

「どうだろう。最近あんまり見ないね」

「だよね、一昨日帰る途中に会ったけど何だか眠たそうですぐいなくなっちゃったし」

「中津川さんも慣れてきたよね、色んなものが急に出たり消えたりするのとかに」

「慣れたっていうか、慣れざるを得ないみたいな?」

「あぁ」

 それは裄夜にも分かる。無理矢理変わる環境に、慣れないと、置き去りにされてしまう。日常に振り落とされないためには、日々を堅実に生きる他ない。

 薄暗さの抜けきらない廊下で、電気をつけながら孝が頷くに頷けない表情をしている。

「キセもいきなり出てくるもんね。どうせなら荷物くらい運んでくれたら良いのになー」

「そうだね」

 しかし日向はなじみすぎている気がする。裄夜は、あっけらかんとした日向の発言にただ感心していた。自分は少し、のんびりと悩んで距離を取りすぎているのかもしれない。

「ねーねーゆーきやくーん! 開けてー! 開けてよー!」

 チャイムを鳴らす前にドアを殴りながら叫ぶ男もいることだし、裄夜は自分のあり方があまりに尻が重い気がして、何とはなしに情けない気分になった。日向は叫びながら玄関の鍵をあけようとし、その前に浩太が、チャイムに気付いたらしく必死で押していた。

「だガッ」

「あっごめんなさい! でもドアにそんなに近く立ったら、ぶつかりますよ普通」

「日向ちゃん最近俺に冷たくない?」

 両手で顔面を押さえ、浩太はしゃがみ込んだ状態から、尻餅に移行した。

「うわー俺もうだめ走れない置いてッテ! いっそ俺をここで始末してしまって! 車は下の駐車場にあるから!! せめて君だけでも先に猛ダッシュして行ってきてよ!! 俺のことはもう構わないでくれ!!」

「どうしたんですか朝早くからそんな慌てて」

 日向は自分の荷物を掴んで、玄関の外へ出ていく。

「中津川さんはあんまりにも落ち着きすぎだと思うよ……」

 呟きながら、裄夜は自分の荷物を持ち上げた。

「大丈夫ですか、浩太さん?」

 さすがに、顔を両手で押さえたままマンションの廊下に転がっている男をそのままにするわけにもいかない。近所迷惑な真似をしたので自業自得だと言いたい気持ちもなくはないが、通行上側を通らねばならないし、裄夜は側に背を屈めて近づいてみた。

「浩太さん?」

「どうしよう裄夜くん、何か嫌な気配がするよ」

「どうかしたんですか」

「鼻血出たかもうわ小学何年生ぶりだろもしかして俺貧血とかの検査以来かな自分の血とか見たのあっ違うよ違う違う違う違う! 見たじゃんこないだ思いっきり刺されて! そっか! 道理で何かこう背筋が寒くなったわけだよ!」

「何不吉なこと言ってるんですか」

 心持ち顔をしかめた裄夜に、浩太は真顔でこう答えた。

「だって俺整理できない考えって気持ち悪くてさー! 納得するのって気持ちよくない!? 数式でオバサンのレジ待ち割り込みの確率出せるんだよ知ってた!?」

「知りませんけど、あんまり関係が」

「冗談に決まってるじゃんやっだなーもー! 笑い飛ばしてよほんとさー! そういえば何か拭く物持ってない!?」

「あんまり関係がないというか。持ってないですよ、それに浩太さん、鼻血出てませんよ」

「違うよ裄夜くん俺鼻血じゃなくて涙拭きたいの思いっきり顔面ドアにぶつけちゃったからもう涙出ちゃった。ほんとに痛いと火花散るね、本当なんだね。今度から警部が転んでもバカにしないことにするよ俺心を入れ替えるよ! 多分来週には!」

「今じゃないんですね心の入れ替え」

 そのとき、階下から悲鳴が聞こえた。灰色みを帯びた景色に、徐々に明るさが増して差し込んでいく。その視界に、裄夜はかすかに眉をひそめた。

「……今、ぎにゃーとかいう悲鳴が聞こえませんでしたか?」

 黙り込んだ浩太に、孝が出てきてティッシュボックスを渡す。礼を言った浩太に、裄夜はもう一度、今度は別の問いを投げかけた。

「もしかして今下に、ものすごく機嫌の悪い人が居ませんか」

「……居るよ。一人」

 だから浩太は今日あれほど慌てていて、さらにはしばらくここから動きたくはなかったのだろう。

 納得のいった裄夜は、浩太の前に荷物を置いた。

「僕、浩太さんの気持ちが少し分かりました」

「は? 何が? 何で?」

「納得出来ると、色んなことがすっきりしてクリアに見えてきますね」

 駐車場付近に行っていた日向が、さらなる悲鳴のような声をあげた。

 どうやら「もう二度と遅刻なんてしません」という誓約をしているようだった。


 悲鳴をあげていた犯人は、何を見たのか、もうすみませんとしか言わずに車の後部座席の隅に縮こまっていた。

「どーも」

 キッ、としか言いようのない顔をして裄夜を迎えたのは、運転席に座っていた水上茅野だった。

   *

「そんじゃーしゅっぱーつ!」

 進行ー、とやけに元気良く浩太が叫ぶと、隣で水上茅野が盛大にため息をついた。

「何だってあたしが運転しなきゃならないのさ」

「だって俺右側通行しかやったことないし」

「えーいこの帰国子女!」

 運転席で一声叫び、茅野はギアを入れ替える。先程まで寝不足で不機嫌だった茅野は、浩太に今度映画とランチとデートと服の購入の約束をさせ、どうにか機嫌を持ち直した。

 そのさまは裄夜と日向を黙らせるにあまりある勢いで、二人は後部座席に、それぞれドアに張り付くように、いかにも逃げ出したそうに座っていた。

 浩太はスティック状の菓子を囓りながら、えへっ、と

「いいじゃん茅野ちゃん、だってこの車レンタルだけど銀月持ちなんだよワゴンカー!」

「何がいいのよバカ王子!」

 後部座席で荷物とともに埋もれながら、裄夜と日向は半笑いを浮かべる。荷物の量が多いのは、別に二人の所為ではない。何やら得体の知れない金属の鞄などが積まれているからだ。おそらく菅浩太のものだろうが、今下手に何かを口に出したくはない。

「ぎゃん!」

 茅野に勢いよくアクセルを踏み込まれ、浩太は再び、顔面を打った。

「茅野ちゃんー! 俺のことキライ? キライ!?」

 賑々しい出発に、見送りに来てくれた孝がどうしたものかと振り損ねた手を斜めにあげていた。


 この旅の目的は、竜神伝説の地に赴いて銀月の一族との関係性を探ること。

 といっても提案者たる菅浩太――本上浩太は確証を持っているというわけでもないらしい。万が一何の成果も上げられなくても構わないことを条件に今回の調査旅行が決行された以上、成果を期待するほうが無駄かもしれない。その地は同時に、あの変若水の出所とされる場所でもあったから、浩太としてはそちらの真偽を確かめる意味あいのほうが強いのかもしれない。

 とは言っても、移動時間の長さの大半を睡眠に費やした浩太とは違い、緑の木々と道ばかりを見て茅野が退屈で眠らないように話に相づちを打ち続けていた裄夜の疲労は濃い。出来れば成果ゼロは避けたかった。

   *

 辺りはかすかに霧がかっている。時期的なものか時間的なものか、それともここはしょっちゅうこのとおりであるのか、初めて通りがかる裄夜らには分からなかった。緑色というよりはくろぐろとした塊があるようにしか見えないのは、山の色が深いからだ。

「目的のインターチェンジまでまだすごーくあるからね。二時間ごとに休憩、これ当たり前」

「っだるー……」

 ハンドルに頬をぶつけて両腕を伸ばした茅野に、細切れながらもそれなりにまとまった睡眠を取れた浩太が「あっ茅野ちゃんハンドル枕にしないでクラクション鳴っちゃうからうわ」と騒ぐ。日向は後部座席で欠伸して、それからここがどこなのかと地図を開いた。裄夜もまた欠伸を噛み、前方の二人の声に内心耳を塞ぐ。

「しっかりしてよ茅野ちゃんーまだ三時間半しか経ってないよ」

「ッ、今すごく絞めたい……!! あんたなんて絞め殺してやりたい!」

 運転席から窓の外を睨み付け、茅野は後ろ頭に手を伸ばして構ってくる浩太を邪険に追い払った。

「つまんないからトイレ休憩しようかもうなんか俺茅野ちゃんにいじめられるの飽きたし」

「浩太さん本音がはみ出てますよ」

「あっ、私お土産買っていいですか?」

 言いながら日向が車のドアを開けて飛び出していった。即断即決で財布を掴んで行ってしまったので、裄夜は最初、日向が何故走っていったのか理解できなかった。早朝だから、というのも理由にあげて良いだろうか、と、あれから三時間半と少し進んでしまった時計を見て、裄夜はしばし考える。

「いきなり飛び出したら危ないって日向ちゃーんあぁ行っちゃったもう。何かアレだね、日向ちゃん前からああなのあんなふうなの?」

「え?」

 窓の外を見てため息をついた浩太は、裄夜のつれない反応にさめざめと泣き真似をしてみせた。

「つまんないねみんなさぁ俺のことやっぱのけもので楽しくおいしく生きてたいわけ? ねえねえねえねえ!」

「……浩太うるさい……!!」

 がん、とハンドルのふちを殴り、茅野が卒然とドアを開けた。

「あっ茅野ちゃん!」

「トイレ!!」

 そのまま勢いよくドアを閉められ、浩太は反射的に目をつぶった。

「……機嫌、悪いね」

「そりゃあ、朝からずっと運転し続けてますから……多分……」

「俺だって運転代わってあげたいんだけど検問出てたらやばいわけだって俺これでも違反だけど警察関係ではあるし免許はないし運転は出来るんだけどもしかしたら速度超過でうっかり計測器に引っかかっちゃって証拠写真取られちゃったりしてしまったらヤバイわけだようんうん」

「元気ですね、そういえばさっきから何食べてるんですか?」

「あ、これはね……外出ようか、折角だし、車から出てちょっとは良い空気吸おうよ男同士サシで会話するのってどうかなっていうかここじゃなくても温泉で出来るからさ!」

「浩太さん本音がにじみ出てますよ」


 時間帯の問題なのか、他の客は白のワゴンの男性一人きりだった。手洗いから戻ってきた裄夜は、駐車場で見知らぬ中年男性と談笑している浩太の姿を見つけた。

「今からあんな方へ行くの、大変だねぇ」

「ええもう。すごい大変です」

 えへらっと笑った浩太は、清々しい朝の空気を肺一杯に吸い込んだ。

「ごめん茅野ちゃん俺運転してないからこれ言う権利ありませんでしたぁっ!」

「……分かればよろしい」

 丁度トイレから出てきた茅野は、多少すっきりした顔で浩太に頷いてみせた。

「もしかして吐いた? 水分とったほうが良いよ」

「運転手に何度もトイレ行かせる気? べっつに吐いてないし。ただ、ここの空気が良いから頭がさえてきたってだけの話。機嫌が悪いのは単に色々イライラしてるだけ。もうこれ以上キライにさせないでよ情けなくなるから」

「キライなんだ……」

「キライになりたくないから困ってンの!」

 日向が、トイレから出ていくに出ていけなくて、出入り口付近でとまっている。

 裄夜は仕方がないので呼んでやった。浩太がふと我に返り、ポケットから何か出す。

「食べるー? 和三盆いいよ糖分脳内にしみこんでじんわりだよっていうかしみこんだりしたら死ぬけどね即死間違いなし血糖値上昇過ぎ」

「浩太、何で干菓子普通に懐紙に包んでポケットに突っ込んでンの」

「ひ、み、つ。秘密道具その三十七くらいに入れておいてあげてもいいかもしれない超おいしい干菓子さまさま。ちょっとだけね、食べるのは。すこーしだけあがって、苦いお茶をいただくのが良いのですよえへん」

 無言で干菓子を手に取っていく女性陣に代わり、裄夜は感想を口に出した。

「さっぱりしてますね、甘いのに」

 日向は黙って食べているが、目は丸く見開かれているので、おそらく同じ事を考えている。

「おいしいでしょーおじさんもさっきうまうま保証してくれたんだよ」

「そうそう」

 男性が相づちをうち、それから笑顔で手を振って自分の車に戻っていった。

「あの人ねえ宅配便やってるんだってあちこち大変だと思わないかい」

 浩太が手を振りかえしているのを見ながら、不意に日向が首を傾げた。

「……今、誰かいたんですか? 他に」


「おっかしーと思うんだよねだって日向ちゃんってシズクちゃんでしょケモノみたいに走って戦えるって聞いたよ噂で! それなのに何で見えないわけ!?」

「見えたけど、人じゃなかったから!」

 再び動き出した車の中で、日向と浩太が激論をかわしている。裄夜は話についていけず、もはや考えることを放棄して運転に没頭している茅野を羨ましく思った。

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