第十三章 道行き

   *

 魂よ。

 闇夜に閃く幽明よ。

 かくりよよりきたりて汝うたうものか、

 あらず、

 されば汝かのきしより何をもってわたらんか、

 彼は答える。

「人であるということをそれほど卑下するものではない」

 冷やかにすら見える金色の目を細め、彼は麗とした声で告げた。

「お前達が求めるのならば名を与えよう。お前達が望むのならば雨でも晴れでもくれてやる。しかしお前達が本当に求めているものが何なのか、真実それと見定めていないのならば、私の名を呼ばないが良い」

 枯れた草を細かに織って作られた屋根の下、彼は不意に笑みを浮かべる。すべてを見通したように、超然と笑った。

「しかしお前達はそれをすることは出来まいな。かなたより、生けるものはすべて、力の限り呪い願うものであるから」

 漆黒の髪を碧玉の飾りでとめている彼は、それを無造作に引きちぎった。

「人の与えた姿などいらぬ、とまでは言わない。ここに誓えるだけの意志も目的も自我も私は持たない。私はたった今ここに現れ出でたもの」

 毛皮の一枚を羽織っただけの連中が、彼の鮮やかな姿をただ見つめている。

 かつてかのものは果てより現れたまれびとであった。まだ言語を明確に記すということを知らない時代でも、人々は彼のことを覚えておこうとし、伝説に変えた。あるいは神話と。

 ただ、その暗闇の色と、金色の目と、あるいは慈悲にも似た壮絶な隔離の気配が、物語からは抜け落ちてしまう。記憶からは薄れて消えてしまう。

 消えて、去ってしまう。

 とうといものはとうといがゆえに。やがてかくりよへと戻り、触れてはならないものだと思い出させる、かれを射落としてはならない、かれはかれであるがゆえにかれであり、とおく果てなく、未来永劫届き得ない場所にある。

 あるいは、あった、と。


 夢は、ひどく遠い。

 まるで海辺でまどろむときに聞く潮騒に似ている。

   *

「あれ」

 瞬いた裄夜は、滲んでいる視界がどうしてそうなのかしばらく理解できなかった。右の掌で顔を押さえると、眼鏡はちゃんとそこにある。強く瞬くと、かすかにたまっていた水分が目の外に追い出されようとして、慌てて指先でこすって曖昧にした。

 切なくて切なくて悲しくて、どこか懐かしい。その思いが胸の底に残っている。目が覚めた瞬間から、それは徐々に薄れていった。

 急速に失うと夢の内容まで忘れてしまいそうで、裄夜は反射的に胸元をおさえた。

 この感情はどこか、既に喪われたものが再び思い出されてくるときや遠くにあるものを思うときに抱くものに似ている。

 そう、もっとも近い言葉は、郷愁というものだ。

 愛おしくて嬉しくて喜ばしくて心が浮き立つのに、同時にひどく虚しく悲しく、厭わしいほど胸が締め付けられて痛む。

(これが、郷愁だとしたら)

 誰のものだろうか。

(僕は知らないから、キセかな)

 否。これはもっと漠然と、周囲の空気を埋めるもの。

 気配の薄さも濃さも、尊さも卑しさも、すべてが彼の存在に目を向ける。

 息を詰める。

 そんな「彼らの」意志を感じる。

(だとしたら、僕の感情は流された、ってことになるか……周りの雰囲気に飲まれて、同調してたし)

 一過性にせよ雰囲気に飲まれ場を共有した以上、自分がそれを受け入れてしまう因子を持っていたことは否定しきれない。

(何か、いた)

 あの顔は、キセに似ている。けれどキセはあんなふうに、人に優越し人よりたかく、人が近づけば無意識に「上がらざるを得ない」場に立つ雰囲気をたたえてはいない。キセはあくまでも、普段の世間に埋没することの出来る、生命力が強くても自然の中にとけ込める、若い鹿のようなところがある。しかしあの男は違う。

 身長はさほどなく、また若いために劣るものだと見なされる可能性が考えられそうなものだが、それは決して出来ないだろうことが容易に想像された。あれは、違う生き物だ。

 目を伏せていれば、うまく自然にとけ込めるかもしれない。けれど彼は目をあげてしまう。真っ直ぐに、移ろいゆく何かのエネルギーが、顔をあげてこちらを見る。

 それは恐怖にも似ている。

 恐れ。

(違う)

 畏れだ、それは。

「どうかしたー?」

 助手席で伸びをしながら、浩太が軽い声を掛ける。裄夜の隣で、日向が、車の振動に合わせて頭を揺らし、先程までもたせかけていたガラスに向かって頭突きをした。しかしまだ目覚める気配はない。そのままドアにへばりついて寝ている。

 少し肝を冷やしたのだが、裄夜は間を置いて返事をした。

「いえ、ちょっと寝てました」

 別に言うほどのことではないだろう。裄夜は軽く背筋を伸ばした。日向ちゃんもすごく寝てるねえと言い、浩太は数度頷いてみせる。バックミラー越しに、浩太の頬に、寝ている間についたあとが見えた。

「ちょっとでも気を休めておいたほうが良いだろうねうんもし万が一向こうに何か居たらまずいからねホラ朝の人はわりと良い人だったからまだしも」

「朝……アレはタヌキでした」

 不意に日向が宣言し、ミラーの中の浩太を睨み付ける。寝起きで頭にこぶもあるので、日向はかなり不機嫌そうにむくれていた。

「あーうんうんうんうん日向ちゃんすっごい勘が良くなったのかなっ俺分からなかったからもうすごーく感心しちゃったよホントほんとほんと助かる! だからまた今度人間じゃない相手が居たら教えてほしいな」

「だって、どの場合なら分かってるのか、分からないじゃないですか」

 相手にとって自明であるところにいちいち言い出すわけにもいかない。

 日向の言い分ももっともであるので、浩太はうなって腕組みした。

「そうだね俺がソレと分かってて相対してるかどうかっていうのは他人であるところの日向ちゃんには分からないわけだよね当然至極。ちなみに茅野ちゃんは?」

 何が、とも聞かず、淡々とハンドルを回しながら茅野が答える。

「こっちは気付いてた。アレってタヌキじゃん? んでもってこーた色々見えたり感知したりするわけでしょ、あたしは匂いとか音とか気配がちょっと人間じゃないなっていうのが分かる程度だけど、あんたの場合は見えてるわけで。それなのに普通に笑顔で会話してるから、てっきり害がないから仲良くしてるんだとばっかり思ってた」

「うわー茅野ちゃんすごく落ち着いてるね平坦な喋り方だねどうした?」

「……浩太さー、何時間あたしが運転してると思ってる……? 落ち着いてなきゃそれこそ発狂でもしそう。運転キライじゃないけど近距離以外やったことないもんあたし」

「それを早く言ってくれるかな」

 浩太が背筋をただし、代わってあげると言いだしたが、茅野は丁寧にそれを断った。

「だってもう着くし」

「えっあっホントだね茅野ちゃんすっご! いつの間に高速出たんだっけないやあ見事なドライビングテクニックだよね! いっやあこの坂の上の看板だね間違いないねうっわ緑!」

 周りの山に気圧されたのかどうか、浩太は妙なはしゃぎかたでそう叫んだ。

「静かだね」

 車の窓を開けると、外からわずかに湿った、冷えた空気が流れ込む。それなりに夏が近いとは言え、快晴とは言い難い天候も相まってかなり寒い。日向がぼんやりとしながら、鞄から一枚カーディガンを取り出した。

「あれっ? ここどこですか?」

「日向ちゃんもお疲れ~でも寝過ぎて記憶吹っ飛ばしたりしないでねじゃないと将来飲み会でうっかりお持ち帰りされても知らないよお兄さんはもう」

「浩太、ここって上に駐車場ないんだっけ?」

 日向が何か言う前に茅野が問いを発した。

 パンフレットと旅行雑誌類を膝の上に広げ、浩太は頷いてから、茅野に笑う。

「でも意外だな茅野ちゃんがここまで道案内なしに辿り着けるなんてさ」

「前に案内馬が走ってたとでも言えって? 冗談言わないでよ、こーたが置いてった資料とか見て事前にちゃんと経路確認しといたの。きっちり。だってどうせあんたらナビしてくれないんだろうしカーナビ山の中突っ切ろうとするんだろうし最悪の場合どこ行くか分からないし」

「……ごめんなさい」

 殊勝げに頭を下げた浩太に、茅野は帰りは任せるからね、と呟いた。

   *

 浩太は部屋の中でお茶に手を伸ばし、それから手元に湯飲み茶碗を置くと茶菓子の入った箱のフタをあけて中をのぞき込んだ。

「ああっおせんべい二枚しか入ってない! どうする? 今食べちゃう?」

「浩太さんって何でそんなに気楽なんですか?」

 日向は半ば呆れながら、自分の荷物を部屋の片隅に運ぶ。裄夜と茅野はさきほど、もう一度自分たちの荷物を取るために車へ戻った。浩太は自分の荷物は鞄一つ、裄夜も日向も手持ちがスポーツバッグなど一つだが、茅野は浩太があまりに手ぶらであるためにきちんと山登り用の準備を代わりにしてきておりその分荷物が多かった。一人で運ばせるのもどうかと思い、裄夜は何故か浩太が行かないので代わりに同行しているところである。

 部屋に座り込んだ浩太は部屋割りはどうしようかなぁと呟き、ポケットから丸めたレシート用紙を出して台の上に広げて置いた。もはや彼女を助けに行く気はさらさらない。

「ええーそうかなー俺そんなに気楽? 気楽に見える?」

「見えますよ」

「そうかな、俺には日向ちゃんのほうがそう見えるけど」

 日向は一瞬むっとする。これと自分を一緒にされるのは腑に落ちない。自分はここまで自分本位に生きていないと思いたい。

 だからはっきり口を開いた。

「私はそうなりたいだけです、浩太さんみたいに無神経に好き勝手できてたら楽だろうなって思うだけです」

 喉の奥で笑い、浩太ははっきりしてる子も好きだよと言ってレシート用紙に宿の名入りのボールペンであみだくじを書き始めた。

「そんなに他人の目が気になる?」

 さりさりと紙の表面を削りながらボールペンの黒い染みがレシート裏の空白に刻まれていく。それを見つめ、日向は座布団の上に正座してお茶をいれた。

「なります」

 ならない人のほうが危険ではないのか。半眼になっていれられた茶だが、色も香りもちゃんと出ている。急須から中身を移して貰い、浩太は礼を言って緑茶を口に含んだ。

「気になります、迷惑になるの嫌だし」

「迷惑ねぇ……でもステテコで歩いててもそれは他人の美意識にそぐわないだけだから」

 それで殺意を覚えさせるのは賢くないから思いやりが必要だけど、と呟いて、浩太はしばらく黙り込んだ。

「それじゃあこうしよう。動物とか植物はあれだよね、交尾の相手やら喧嘩相手やらに見せるために羽の色が綺麗だったり歌を歌ったりするよね」

 じゃあ君は、一体何のために自分を着飾ろうっていうの?

 浩太は至極真面目である。テーブルに肘をついてじっと見上げてくる男の視線に、日向はなぜかたじろいだ。

「何の、ため、って」

「よく見られたい? それって何で?」

 何のために「よく」なりたいのか。

「みっともないより、良いじゃないですか、迷惑かけたりするのも嫌だし」

「あぁ、つまり無惨な自分を見せたくないから?」

 いたずらっぽい笑みを向けられ、日向はばつの悪さを隠しきれない。浩太はしかし何も気にはしていない顔でするりと続けた。

「問題なのはアレだよね、自分がどれほど無惨な状態なのかを認められるかどうかだね。すべての責任を自身に帰すのはどうしたってきついものだから――だから人は、己の無惨さを認めるときには超越した何かを求める、許すために」

 間をあけて、浩太はゆるやかに話し出す。

「好きな自分に、なれるといいね」

 不自由なイキカタをしている、それは分かっている。

 自分でしがらみにとらわれている、――惨めな姿をさらして生きることはそんなにも痛いものだろうか?

「好きじゃなくても自分は自分なんだけどさ」

 すべてを手に入れることはできない、だから諦めることが必要になる。たとえどんなに些細なことでも。

「諦めることでそれ以外のものにかける余力が産まれる、以前よりずっと楽になる。こだわってきていたものは本当にそのこだわりに見合うだけの大きさをしていたのかな?」

 人間は、些細であればあるほど、余計に気に病むものだから。

「気付かないことは幸福だったり不幸だったり、色んな形を取るものだけどね」

 気付かないといえば、と浩太は不意に声のトーンを引き上げた。

「君はどうして、一族に手を貸すの?」

 しばらくの間、組んだ自分の指を眺めて、日向はおもむろに口を開く。

「それは、私がシズクだから」

「それだけ?」

「……帰る家も、場所も、ないし」

 たったそれだけのやりとりで、何故か、日向はうそ寒い気配を背筋に感じた。巧妙にではなく杜撰に張られた罠に、罠と分かっていて踏み込んでしまったような不快感。

 実際、浩太は表情こそ変わってはいないが、その目が獲物を捕らえた確信を抱く狼のそれと同じだった。

「君は、分かったフリをしているのじゃないかい?」

 物わかりのいい顔をして、本当は、

「本当は誰より、現実に適応できていない。拒否したままだ、一族の人間であったということについても皆から忘れ去られたことについても、君は分かったような顔をしてるけど、本当に納得できているのかな?」

「だって、知ってるから……」

 知っている、筈だった。自分という存在がかつてシズクとも呼ばれた名も無き幻獣だと。

「君はシズクだ、そういうことを、そうじゃないという面から検証したことがあるのかい?」

 反証され得ない理論は科学的理論ではない。

「……カール・ポパーを勉強した訳じゃない、だから俺も本当は無知、他人の言葉の意味を厳密に理解しない癖にわかったような口をきいてる。でもねシズクちゃん」

 日向は物言いたげに浩太を睨む。それに対し、浩太はあぁ、と軽く笑った。

「そうだよね君は中津川日向だよね」

 シズクだと言っておきながら日向はそう呼ばれることに抵抗を示した。

 満足げに笑う男が心底憎くて、日向は短く吐き捨てる。

「最ッ低」

「言われ慣れてる、というのも何かむなしいけど」

「浩太さんはそれで、指摘して、それから何がしたいんですか」

 浩太は一瞬虚を突かれたように目を丸くする。やがて

「何だろうね、若人の行く末がちっとも気にならないと言うと嘘になるということは確かだね」

「こーたっ! 温泉!」

 がらっと襖をひらいて、既に浴衣を着た茅野が叫ぶ。荷物はすでに、もう一つ取っている部屋の方へ放り込んであるらしく手には入浴のための道具しかない。

「温泉行くから日向ちゃん貸して!」

「ああっ俺じゃないのね必要なのはっ」

 これみよがしに足を崩してよろけた浩太に、茅野は容赦なく大声を浴びせる。

「ったりまえでしょ!? あんたあたしの手伝いしなかったっしょ!? あたし本気でゆっきに乗り換えようと思ったくらいよ!」

「えええっそれじゃあ折角の休みなのに同衾もできないの!? 折角部屋割りで俺と茅野ちゃんって決めたのに!」

「何勝手に決めてンのよバカ王子! てか人前でそう言うこというな恥ずかしい! 私は日向ちゃんと寝るの!」

「じゃあ俺裄夜くんと寝るもんキセで遊ぶもん、へっ羨ましいだろううわあー!」

「泣き真似しながら言うことじゃないじゃん!?」

 日向はこれまでの底を抉る発言との違いに精神的についていけない。呆然と顔をあげると、これまた呆れている裄夜と目があった。

「……裄夜、浩太さんと一緒に寝るの?」

「は!? 何で一緒?」

 日向は右手の指を四本立てて分かりやすいように裄夜に示した。

「だって二部屋しか取ってないんだよ、ね? だれかが浩太さんと寝なきゃならないんだよ?」

「誰かがだなんてうっわ俺嫌われ者ですか!?」

 叫んだ浩太と肩で息をする茅野の顔を見て、あぁああ、と裄夜が小声で唸った。茅野と浩太が同室であれば、裄夜が二人組と一緒に居るか日向と同室にならねばならない。もし茅野が日向と同室なら浩太と裄夜が同室になる。さすがに女部屋に一人乗り込むのは自分でも解せない。

「……どうするの?」

 日向の声に、裄夜は即断した。

「浩太さん一緒に寝てください」

「ええっ襲わないでよさっきの冗談だからホント!」

「そうじゃなくて! なんでそんなテンション高いんですか浩太さんは!」

「だって俺キセと一戦交えたいなぁと思ってるから。うわー嬉しいなーこんなに早く機会が巡ってこようとは……あぁでも久々に茅野ちゃんの側に居たいーいーたーいーなー」

「分かったわよそんなに言うなら一緒で良いってば」

「やーったー」

「……ええ?」

 取り残された日向と裄夜は、二人の会話を呆然と見送る。

「てことだから! 裄夜くんもガンバレ!」

「何がですか」

「ここで手を出せば男の恥、出さなかったら男の名折れだから! ね!」

「ね、って何が!?」

「でも残念なお知らせがあるんですよねーあははは今日は晩ご飯より温泉より部屋割りよりまず最初にイヤになるくらい恐縮なんですが日が高いうちにオチミズの湖まで走って行ってきたいなぁなんていう計画があったりしちゃって! えへっ!」

 笑顔で手を挙げた浩太に、笑みを凍らせた茅野が、イヤ、と一言だけ主張して逃げた。当然のように浩太がそれを追いかけ、廊下がしばらく騒がしかった。

「……孝くん、来なくてよかったね」

 日向の呟きに「中津川さんも思いやりっていう気持ちがあったんだね」と思った裄夜はそれを言う前に撤回した。日向が「浩太さんとかに精神攻撃でダメージくらった挙句山登りで体力削れて倒れそうじゃない? 孝くんって」と続けたからだ。孝が可哀想だから、というよりは、倒れたら来ても無駄骨みたいなものだよね、という感じがにじみ出ていた。女の子って結構残酷なんだなと裄夜はぼんやりと思った。

   *

 新緑の頃をこえて、森はすっかり、黒に近い色彩で緑を暗く染め上げている。

「うわ、本当に、森ですね。山なんだけど、森っていうか」

 空気が少し冷たい。日向は同意を求めるように振り返り、すぐに気まずげに前を向いた。

 中津川日向を先頭に、菅浩太が道を指示して続き、さらに水上茅野、最後尾には水瀬裄夜が列を作っている。一つ踏み間違えば転がり落ちるような急斜面に、丸太と石で段を区切った階段めいたものが続いている。所々道は大きく蛇行し、また欠けて、急ではない坂なのにひどく体力を消耗する場所もあった。

 初めのうちは空気の良さに気持ちが奪われていた一行だが、やがて清しさよりも、疲れが勝つ。前屈みになる率が増え、茅野が「ここで休んじゃ駄目?」と大きめの段に尻を落としたが、「えぇと多分迷子にならずに日が暮れる前にここに無事俺たちが戻ってこられるかどうかが確約できないからおすすめは出来ないかなーなんて」と浩太に言われ、ため息をつきながら腰をあげた。

「こんなところに来るくらいなら、宿で寝てれば良かった……!」

「うんでもごめん明日だと雨が降るかもしれないって宿の人が噂してて」

「もっと上手な嘘つきなよこーた」

「嘘じゃないですよ、昨日テレビで、こっちの地方、降水確率が三十パーセント」

 日向がフォローめいたことを喋る。三十という微妙な数値に、茅野が軽く頭を抱えた。それでも前進はやめないでいる。浩太は、晩ご飯懐石だって多分、と励ますような口調で言った。


 一番体力の少なさそうな人員が裄夜ではないかと密かに思っている日向は、ときどき、彼がちゃんとついてきているか確かめる。彼は今のところはまだ立って歩いているが、緑と苔むしてよく滑る石を踏むのに疲れて、山に置き去りになりそうに見えた。

 そのうち平らな小さめの広場が続いたかと思うと、眼前に湖が開けた。

「こっちが、モトの湖だろうね。そこまで奥地っていうほど奥地でもない場所」

 ポケットから畳んだ地図を取り出し、浩太は経路を確認する。ハイキングコースのように立て看板もあるのだが、ここ数年、人が来ている様子があまりない。ぼさぼさの茂みが茶色の地面を覆い隠し、濡れた苔で足が滑った。疲労度を測ろうにも、直線ではない上高度差があるから、地図の上の距離ではよく分からない。

「浩太さん、思ったんですけど」

「何かなゆっきやくんそういや久々だねその声を聞くのが」

 顎を伝う汗を拭った浩太に、裄夜は、小一時間続けている半眼のまま、言った。

「山登りするには、軽装過ぎやしませんか」

 そういえば、登山するわりに、非常食も何も持っていない。

「えっでも登山じゃなくてハイキング?」

 日向がくるんと振り返り、浩太が彼女を追い抜いた。無言だった。

「……ハイキングにしても。山に入るなら、靴とか服装とか持ち物に注意しないと、危ないって言いますけど」

「あはは、頂上かどこかでご飯食べたらハイキングじゃなくってピクニックになっちゃうんだよ知ってた?」

 乾いた声で、浩太が笑う。沈黙した後、日向は「無事帰れなかったら訴えてやるー!」と叫んだ。帰れなかったら訴えることも出来ないのではないかという疑問は、裄夜は飲み込んで言わないでおいた。

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