第六章 かみにあいされたもの

第六章 かみにあいされたもの

   *

 孝は走っていた。行くあてなどなかったが、自分を狙ってあの獣たちが来ているのは分かった。

 そういえば以前に帰り道で、あんなふうな息づかいを聞いた覚えがある。犬の低いうなり声、爪が軽くアスファルトをかむ音。人気のない道で、よく野犬が出ると言われる場所だったから、野犬だったらと思うと怖くて振り向くこともできず、来るな、あっちへ行け、と呟いて帰った。

 けれど。

 あのとき、振り返っていたら。

 孝は自然と身震いした。その拍子に段差に躓いてよろけ、電柱によりかかった。

 息が切れる。

「よく、やるなぁ、自分も」

 孝は先程水瀬裄夜の家の窓から抜け出して、人目がないことに感謝しながら地面に降りた。それからずっと走り通しだ。中津川日向に勧められて飲んだ茶が、それまでも走っていた彼の渇きを癒やしたようである。しかしそれもそう長くは続かない。

 ぜいぜいと喉を鳴らし、孝は額から顎へと伝う雨をぬぐう。もはや濡れていないところもない状態だが、心持ちすっきりする。

 この渇きはいつになったら癒えるのだろう。

 気ばかり焦ってうまく生きられない。

 気が小さいのは臆病、臆病とは人間を守る武器。

 そう言ったのは兄の裕隆だ。

 賢くて人当たりも良くて、だからこそ無神経なことを言うけれど。

 孝は、たった一人の兄を嫌いにはなれなかった。


   違うだろう?


 音を拾う。

 孝は棒を飲んだようになった。ぴんと張った空気の中で、行きすぎるわずかな人たちは、孝がずぶぬれで突っ立っていることだけにいぶかしげに目をとめる。

「だ、だれかいるのか……」

 まさか、と呟いて言葉は尻切れトンボに終る。

 人の姿はあるのだというのに、そこには誰もいなかった。

 気配はうつろでまるで金魚鉢から世界を眺めているかのように、ひどく現実味を欠いていた。

 つばを飲み込む。

 手足の先が冷え切っているのは、なにも雨の所為だけではない。


   お前は単に、見捨てられるのが怖かっただけだ

   放り出されるのが恐ろしかっただけだ

   だから従順なふりをする


 孝はすがめた瞳で中空に振り返った。

 わらう声。


 くらい影が少年に寄り添う。女は高音ですすり泣いた。


 影が歌う。

   さぁ、お前の罪を洗い直してみよ

   *

 黒塗りのワンボックスカーが路地に停まった。日向は茅野に指示されたとおりに一番大きい線に出ようと歩いていたのだが、唐突に車内に引きずり込まれて悲鳴をあげた。

「なっなにするんですか!」

 振った右手の爪の先に手応えを感じ、すかさず軽々と自分を車に引き入れた相手に蹴りを入れる。ひるんだ隙にドアに体をぶち当てたが、ロックがかかっていて出られない。

「日向さま、私です、明良です」

 助手席から聞き慣れた声がして、手を伸ばしてきた相手に比喩でなく噛みついていた日向は我に返る。

 タイヤが軽く、鋭い音を立てた。

「乱暴なことをして申し訳ありません、停車している暇がなかったものですから」

 振り返って頭を下げるのは、声に違わず明良である。スーツにいくらか水滴がかかっているが、彼は構わず、窓を開けている。

「明良さん?」

「後ろの男は私の部下です」

 叫んだ少女の手から傘を取って畳み、彼女を車にさらった犯人が申し訳なさそうに眉と頭を下げた。

「ごめんなさい、私てっきり」

「いえ、あんな状況で人さらい以外だったほうがおかしいです、お嬢さんは正しいことをなさったまでですよ」

 外見は黒いスーツにピンとしたシャツ、顔つきがどうも堅気ではなさそうな男だが、礼儀だけはわきまえているらしい。ひたすら日向にわびを入れる。

「このまま茅野さんを迎えにあがります。こちらから電話は入れておきました。少し前までは一緒に居たという銀月系列のものと裄夜さまは、彼女の知らないうちに別行動で事件解決に向かっているそうです」

「裄夜、無事なんですね」

 茅野からは攻撃を受けたことと二人とも大丈夫だったことしか聞いていない。動ける程度の怪我ですんだのかと、日向はすこしほっとする。

 そういえば。

「犬神って、茅野さんがおっしゃってたんですけど」

 先程日向が部屋からおそるおそる外に出たとき、予想された血糊や血臭、犬の死体はまったく見つからなかった。そのことを告げると、明良はさして珍しくもなさそうに、よくあることです、と日向に教えた。

「幻から生まれたものは幻へと帰ります。幻が形を持ち、人の夢を浸食して人と交わり、血肉を持つようにはなりますがね」

 もちろん、長く形を持っていた者は、死してなお、遺骸を実体としてとどめうるのだ、とも言い置いて、明良は運転席の男に道を指示した。

「私の所に来た犬神たちは、茅野さんと裄夜の所にも現れて、それ以前にも、この間亡くなった旭校の高校生のところにも現れたんでしょうか」

「そうでしょうね」

 情報はすべからく明良のもとに集まっている。多くを語らないが、断定できるだけの証拠があったのだろう。

「先日、旭校三年の茅ヶ崎アユムという生徒が無残な死を遂げましたが、その際、野犬のようなものに死体を食い荒らされていました。現場には無数の獣の足跡が残されてもいたそうです」

「じゃあ」

 日向は犬神が野犬のように人を襲うのを想像してしまい、口元を手で押さえる。

「いえ、犬神は茅ヶ崎を襲撃しに現れたのではありません」

 明良は妙に淡々と続けた。

「茅ヶ崎をガードしようとしたんです、あの犬神まがいたちは。自宅のクローゼットに血痕がありましたが致命傷ではない、そして犬神が来た様子もない。茅ヶ崎は自宅で何者かに襲われ、逃げるかどうかして学校にたどり着いたのです」

 ただす、教室内に着いた時点ではすでに命がなかったのだが。

「自分で? それなら目撃者は」

「自力か否かは判別つきかねます。しかし彼は発見時に靴を履いていました。すくなくとも家を出るまでは生きていたはずです――何の証拠も残さない何者かが、彼に靴を履かせて連れ去ったのなら別ですが」

 でも。

 日向はうつむく。

 犬神が茅ヶ崎をなぜ守ろうとし、なぜ食い荒らすことになってしまったのか。

「三浦珠洲が遺体で発見されました」

 唐突に明良が言った。

 脈絡を見いだせず、日向はじっと先を待つ。

「裄夜様から、伝言が」

 明良の指先に乱暴に引きちぎられたメモ用紙がのっていた。受け取り、日向は文面に目を見張る。

「術で作った紙飛行機が、先程こちらに届きました。それによると六甲山中で何者かに襲われた三浦珠洲が、最期の一瞬で作り出したものが本件の犬神です。三浦の犬神は真の犬神に非ず、彼女をこんな目に遭わせた相手に復讐をするための恨みの念です」

「それで犬神まがい……」

「それもありますが。本来、習俗上で言うと犬神とは中、四国地方に伝わる話なのです。ネズミほどの大きさのケモノで、それの憑く血筋が――憑物筋があるものです」

 詳しい話は後ほど、と切り上げ、明良が本筋に戻った。

「犬神と茅ヶ崎との間にどのような関係があったのか不明です。しかし、茅ヶ崎もまた三浦同様にウタウタイによって危機に瀕していたと推測されます。ウタウタイの言葉によって起きた悲劇に犬神まがいは抗しようとし――結局、世界を動かす愛されたものの言葉はそれらを上回ってしまった。犬神たちはどうしても主人の言葉に逆らえない、しかしウタウタイにも従いたい。仲間割れが起こる、互いに食い合う、やがて」

「犬神は複数居たんですか?」

 日向の問いに明良が頷く。

「おそらくは。一頭では足りないと踏んで数頭用意されたものか、自己分裂して殖えたのか……さだかではありませんが」

 孝はウタウタイなのだろうか。

 日向は断定された言葉の数々にいらいらする。

 そしてとりあえず、理解しきれなかった明良の情報を、必死で整理するために黙り込んだ。

   *

「うわあっ!」

 孝は唐突に右腕を横様に払った。

 側にいた女が霞のように溶けて消えた。

「何のようかしらないけどな、僕は、おまえらなんかに構ってるほど暇じゃないんだ……!」

 冷や汗が頬を伝う。しかし孝はもうそんなことは感じていない。

 それどころではなかったのだ。


   はて、窮鼠猫をかむ


 人を馬鹿にしたような笑い声。あるいは哀れみを装って、嘲笑がひたすら孝に向かって流れていた。

 周囲はいつの間にか孝にも気づかなくなっている。

 孝は不意に、幻覚や幻聴のたぐいに似ていると気づいた。だとしたらこれは脳の異常状態で、孝が今、別段構う必要はない。

 しかし孝は問わずにはいられなかった。

「お前たちがみんなを殺したのか?」


   みんな? みんなとは誰のことだ


 意外にも、向こうはこちらに応じてくれる。

 よし。

 孝はそっと手を握りしめた。

「茅ヶ崎アユムを殺したのはお前か?」

 哄笑が闇に響くが、それは今孝に応じている何者かとは別のモノのようだった。すすり泣く女が輪郭をたゆませながら近づいてくるのでそれを追い払い、孝は必死に答えを待つ。

「答えろ」


   一人前に命令しおる……殺したのはお前だろう


「僕はやってない」


   望んだのはお前だ、そこのモノはお前を産んだ女だったが我執が強すぎて却ってその我を失った、我が子かわいさに彷徨ったが、誤って妖魔に喰らわれ、妖魔を逆にとりこんだ、それがいきるのに理由はない、動くのに理由もない、それは泣く子供らをあやしにいき世話をしてやるだけの妖怪だ


「僕の――何だって?」


   もはやひとのしきかくもない


 ざわめくのは姿形のないものたち。

 景色は見慣れたものであるにもかかわらず、妙な凝りが胸を落ちる。


   こわいか、


「……別に」

 付け入られるわけにはいかない。

 無気味だが、理性の大半は拒否していたが、孝は相手が在るものだと仮定して声にする。

 それこそが向こうの思うつぼだと気づきもせずに。


   来い、我らと共に

   来い、

   ……こい


 幻は、知覚されて初めて効力を産む。触れられなければ存在を主張することがない、世界に影響を与えるからこそそこには確たる存在があるといえる。その証拠に、すべてのものは生まれたときから与えられ、また与え続ける。

 耳を塞ぎ、孝はうめく。

 ひどい耳鳴りで音がしているのかそうでないのか判別がつかない、なにかが越える予感が近づく。

 何を?


 追われていた。

 あの日も孝は追われていた。

(違う)

 あれは孝ではない。名を与えられなかった少年だった。その力ゆえに、遠く名を聞く、ウタウタイという神とも人ともつかぬモノの名が与えられていた。

 ある日彼は歌を歌えなくなった。ある程度の年齢までは、真冬に真夏の花を咲かせたり子どもや老婆の怪我を治癒した。それなのに、急にそれが暴走し始めた。老婆は鬼のような獣となって野山を駆けめぐり、二十七の民を喰い殺した。咲いた花は次々と枯れ、また、目に見えて収穫物が減っていった。

 言葉の力が、前よりうまく使えていないことに、彼はいちはやく気がついていた。

 幼い頃の不思議な力は、大抵は成人前に消えてゆくものだ。しかし彼の場合、老いてますます盛んになった。ささいな言動が巨大な意味を持ち、きちんとすみずみまで定義されなければあふれ出てしまうものとなった。

 息をするよりも簡単に、慣れて使っていたものが、急に変質を遂げて、扱いにくくなった。

 それに慣れるまでには、あまりに犠牲が多すぎる。

 だから彼は言葉を封じた。意志で封じ、言葉をもっては行なわなかった。もしこの力を消してくれと言えば、言葉だけでなく彼ごと、また他の方法を持って世界ごと滅んでしまいかねなかった。大仰だ、と知らぬものは笑い飛ばすだろう。しかしウタウタイは気づいている、世界にとっては愛しく幼い子どもである自分の言葉を、世界がどれだけ叶えたがっているのかを。

 山狩りになった。山を逃げながら、幾度も足下に気配を感じた。

 山犬まで追ってきた、野ウサギも混じった。

 ――いつでもいいから、

 周囲の闇が囁き続ける。呼んでおくれ、手を貸してあげるから。そうやって、待っている。

 それを無視するのはひどく難しい。息が上がり、苦しくて、もういやだと、叫んでしまいそうだった。


 急に森が終わって、ウタウタイは諦念が胸を占めるのを感じる。

 きれた森の向こうには、小さなかみのほこらが在す。

 助けてくれ、という囁きだけで、あとの記憶はどこにもない。

 ウタウタイは走り続けた疲労からか、その場にばたりと倒れ伏した。


 やっとおわる。

 死ぬのはどうにもイヤだったが、もう、どうでもいいのかもしれなかった。

   *

 電話。

 そのコール音は、なぜこんなにも人を敏感にさせるのだろう。

 車の中で、日向は止まりそうになった心臓をおさえていた。

 携帯電話を取り出して、耳元に当てるがすぐに離す。

「明良さんに、だそうです」

「どなたですか」

 動じず、すっと左手を差し出して明良が受け取る。

「茅野さんから聞いたそうです、この番号」

 名乗られた名前を日向が告げる前に、明良は答えを本人から得ていた。

「本上の当主としてではない。友人として忠告差し上げる」

 茅野が銀月の一族に関わっていることを知っていたのに、これまで何も言ってこなかった男が、今ここで手を貸すという。明良は自然、皮肉な笑みが浮かぶのを感じた。

「……現時点で本上は不在、もはや銀月とは手を切り、独自に活動再開をしていると聞き及んでおりましたが」

「そう」

 相手はひどく素っ気ない。そう思った途端、評価を覆された。

「面倒ごとには関わりたくないひとたちだから。自分ちのかみさまが一番って考えでね、銀月の一族がでかすぎる連帯だってんで抜けっぱなし」

 気安い口調で返してくると、ふ、と向こうが軽く笑った。

「ま、俺個人としては茅野に何か起きないように気は回してたつもりだけど。へぇ、気づかなかった?」

「あいにく、私は術者ではございませんので」

 そっか、ふーん、てっきり。

「まーいっか」

 一人で納得し、菅浩太は本題に移った。

「情報を与えよう」


「日向様、あなたにも知って置いていただきたい」

 電話を切り、彼女に返しながら明良が口をわずかに曲げる。

 苦々しげな表情に、まずいことになったのかと、日向は体を固くする。耳をそばだてて会話を聞いていたのだが、内容までは把握できていない。ふと、シズクだったら小さな物音も聞こえたのだろうなと思った。



 浩太の説明によると、三浦珠洲にかけられていた初めの術は、彼女への第三者による呪いであるらしい。二つ目の術は、彼女自身の死に際の念によって完成されたモノの証。

「二つ目だって、彼女が望んで動作させたってわけじゃないかもしれない。でも自動的に生まれたことが否定されないでもない」

 術を、知らずに用いてしまうこと、または引き寄せてしまうこと、それらは起こりうるのだと浩太は言う。

「世界に起こる事柄なんだから、自然の流れの一部だろ? だったら人為を越えてさえ起きても不思議じゃない」

 術に詳しくない明良だが、相づちを打ちながら素早くメモを取った。

「茅ヶ崎の心が弱っていた。それが外因にせよ内因にせよ、彼の死を導く一因になった。彼へのダメージの片棒担ぎが遺体のあった場所に落ちていた札」

 移動中なのだろう、ときおり回線が切れかかり、雑音が混じる。それが妙に不安感をあおった。

 口早に伝えられる情報は、それでも欠けが著しい。

「分からないのは、三浦珠洲の遺体がなぜ六甲で発見されたのか。彼女は山中で殺されてる、なぜだ? そして茅ヶ崎アユム、彼もまたなぜ学校に運ばれたのか――直接の死因は頸骨の骨折だがそれがイヌに出来るとは思えないし打ち付けた凶器もないしどう考えても人間の手でやられてる、指のあとがかすかに残ってたから。しかも女の」

「女?」

 女の。

 すすりなく女の手を借りて、行なわれた天の配剤。

 それを彼らが知るよしもない。

「急いでくれ。ウタウタイと目されている人間もそうでない人間もすべて、できれば監視をつけて保護しろ。死人だけじゃ済まないぞ」

 それは古い霊感をも引きずった天災になる。

 言って、浩太は問い返す暇をあたえず電話を切った。

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