第九章 立ち去るもの

 辺りに広がるのは、ほの白くかすむ、庭の景色。

 梅雨の頃よりもずっと前、花々の咲き乱れる柔らかな春。

 何かがふと、降り立った。何の気なしに、たまさか、戯れに。

 それはそれは、美しい天女だった。

 もしかしたら、降りた当初は、肉塊だけではなかったのかもしれない。

 思い出せない、と青ざめた御陵に、肉の塊の内側から、ぬるりと現れた人面が微笑んだ。

 記憶の再現ではない、これは、今、ここにあるのだ。

 女の人面が口を開いた。

 ありがとう。

 陳腐な言葉を残し、名前の書かれた紙を、その口で引き裂き、噛み砕いて、吐き捨てた。

 さようなら。

 世にも妙(たえ)なる声だった。二重三重にも重なり、けれど鈴振るような声だった。

 ばさりと体を広げて、重たげに身じろぐ。

 予想外にも重さを感じさせず、浮かび上がって、庭の上空を数度回り、いずこかへと飛び去った。

 最後には、躊躇いもなく。

 庭の季節は目まぐるしく変わり、春の花は朽ちて夏になり、夏の花が腐って秋になり、冬を経て、春を通り過ぎて梅雨にとどまる。

 すっかり荒れ果てた庭と、あちこちに怪我をして泥をつけた若者達と、御陵が取り残されていた。


「ねぇ、行っちゃったんだけど」

 ぽつりと、裄夜が吐き出した。目がくらむほどの四季の動きに耐えて、空箱を置いて、座り込んでいた膝を叩いて立ち上がる。

「キセ。花陽、行っちゃったんだけど」

「そうだな」

「あれで良かったわけ? 逃がさない方が良かったんじゃないの」

「良くはないが、他にどうしようもない。ここから逃げた方角は分かる。借りは作りたくはないが、中城にでも探させる」

「そうなんだ……中津川さんと、銀色さんは無事、みたいだね」

 銀色童子は倒れたまま、アンセルムスの剣にしがみついている。あれだけ大騒ぎがあったのに、アンセルムスは起きていない。銀色の術も、存外強力なようだ。

 日向は松の下にいた。ぼんやりしているが、ふと我に返って、わん、と返事した。

 シズクではないか。

 わんわんと言いながら近寄ってくるので、裄夜はこれ見よがしに差し出された頭を避けられなかった。

「シズクって、犬なの? 猫なの?」

「犬のようでもあるが、獅子に近いようでもある」

 裄夜が躊躇いながら撫でると、よく頑張ったでしょう、と得意げにシズクが喉を鳴らした。猫だ。

 各務瑠璃子とまゆらも、抱き合って転がっていた。互いに庇いあったようだ。

 瑠璃子が起き上がり、まゆらを引っ張って立たせる。

「御陵さんも、無事かな」

 まゆら達の近くで、御陵は座り込んでいた。

 まゆらがぽつりと呟いた。

「痴話喧嘩に巻き込まないでほしかった、です。奥さんの意志を無視して閉じ込めるのは、やっぱり良くないよ。夫さんが悪いと思う」

「そういう話じゃねぇだろ……いや、そういう話だったか?」

 もしかして、と瑠璃子が揺らぐ。

「運命の女にさよならされたのは、てめえのせいもあるし、妻の、止むに止まれぬ事情ってやつもあるだろう。仕方ねえよ。あんなもん、どこに閉じ込めておけるってんだ」

 生垣は、ずいぶんと見晴らしが良くなっている。

 庭の改修費用は凄まじそうだが、画家は引く手あまた、瑠璃子のための実験作も作られるし、きっと売るための絵もあるだろう。

 自分のことではないので、瑠璃子は無責任に結論付ける。

「じゃあ、連絡先は交換したし、帰る。オッサン、定期連絡しろよ。じゃあな」

「各務さんこの状態で置いて帰るの」

「あ? じゃあ何か? 土木工事までして帰れってのか? お前もやるんだろうな?」

「そうじゃないんですけど」

 瑠璃子が裄夜に突っかかって、ふと真顔になる。

 まじまじと見てから、その後ろでそっぽを向くキセを見やる。

「は?」

「え、何?」

「まぁいいか。関係ない関係ない。まゆら、帰るぞ」

「えっ?」

 御陵を放り出して日向と無事を祝い合っていたまゆらは、何度か瞬きした。

「帰っていいの?」

「良いだろ別に」

「菅さんに連絡しなきゃ」

「そこの、そいつらがするだろ」

 心底、疲れた、とぼやく瑠璃子に、庭の面々は皆同じ感想を抱いたので、特に反発しなかった。

「えぇと、それでは皆さん」

 ありがとうございました、と銀色童子が頭を下げる。

 冷羽とカレンの無事を自分で確かめてはいないが、銀色は長年、獏も追い返せずカレンと一緒に巻き込まれて意識を失っており、合わせる顔がないと言った。

 家族、としていた者や、病院関係者の記憶からも、これから薄れて消える予定だ。

「本当に、カレンちゃんに会わなくて、そのまま帰るの?」

 全体的には汚れてはいるが、顔は洗って、傷の手当てもした日向が、銀色の顔を覗き込む。

 その、真っ直ぐな眼差しに、銀色童子はたじろいだ。

「無事なら、良いんです。あの、またいつか、会いに行けますし」

 御陵の世話は、当地の怪異に任せてある。先程世話になった猫の持ち主達も関わっているだろう。御陵を領分とはしない者達だが、御陵がこれだけ派手にやらかしたのだ、これ幸いに、恩を売りに来たようだ。

「金色の……僕達の本体を、見てきます。かなり長い間、離れてもいたので」

 金色が、戻っているかもしれない。あの有様では、本体にまで汚染が行って、金色童子は復元不可能になっている可能性もあるが、銀色は、それは自分で確かめたがった。

「それなんだけど……ちょっと、その仏像に興味を示してる人がいて。僕達も、見に行っていいかな?」

 裄夜の挙手に、銀色は首を傾げる。

「仏像と言っても、それほど……きちんとした作りではないんですが」

「良いんだ、どういうものなのか、見て、写真でも撮らせてもらえたらそれで」

「写真かぁ……ちょっと気恥ずかしいな」

 銀色童子の告げた場所は、思ったよりも近くの山中、と言っても距離があった。

 キセが近くで事を見守っていた猫に話すと、どこからともなくハイヤーが現れ、裄夜と日向、銀色を乗せて走った。キセはしばらく姿を消す。荷物と一緒に消えてくれると運ばずに済むのに、と裄夜と日向が不満を漏らしたが、荷物の中の食べ物は、社内で一息つくには必要なものだった。運転手は詳しいことは聞かず、地名だけ確認した後は黙っている。

 瑠璃子とまゆらは、疲れたから観光地を離れ、他の宿を取るという。御陵の立ち直りはどのくらいかかるか知れないが、この体験もまた喪失であり、悼むべきもので、彼の筆に影響はあるだろう。影響しながらも、筆は捨てない。そうしてもらわないと困る、と瑠璃子とまゆらが断言する。

 二人とも、やけくそ気味だったが、生きる方向に舵を切った勢いは、眩しいものがあった。


 長く細い石段は、そこそこ整備されていた。金属の手すりがつけられ、石には苔が染み付いていない。

「あそこです」

 銀色が見上げた先に、小さな御堂がある。

 石段の長さと急な点に文句を言いつつ、日向達は登っていく。

 途中、小学生達と遊ぶ、近所の高齢者と、大学生か社会人か分からない年代の男とすれ違った。こんにちは、と大声で言われ、日向達もてんでばらばらに声を返す。

 平和そのもので、さっきまでの争いなど嘘のようだ。

 銀色童子が緊張しながら、御堂の扉を開けていく。最近付けられたばかりだろう、錆のない錠前に触れると、かちゃんと外れ、扉はひとりでに開いた。

 階段下の人々がこちらを見ていないことを確認し、全員で中に入る。

 明かりをつけると、白々とした電気の光に、いくつかの木製の祭壇が照らし出された。

「祭事の時以外は、閉めてあるようです。真ん中が、お仕えしている方で、左右が……」

「可愛い〜」

 日向が声をあげる。思ったよりも小ぢんまりとした木像は、目鼻立ちが柔らかく穏やかだ。衣装は雑な彫りだが、躍動感がある。

「えぇと、彫った人の名前とかが書いてあるか、触ってみてもいい?」

 裄夜の言葉に、くすぐったいのでそっとやってくださいと、銀色が頼んだ。

「うーん、何にもないね」

 写真におさめ、いったん戻す。

 金色童子の木像も、何の変哲もないものだった。銀色童子に似ているが、面立ちが少し違う。

 銀色は、金色をそっと撫でた。

「力を失っているだけで、またいつか、話し出すかもしれないし……僕もしばらくは、像に戻ります」

「それで、何とか様は?」

「あ、そうでした。銀色童子でございます、長年に渡る不在、申し訳ございませんでした」

 銀色童子は、真ん中の像に頭を下げる。

 像の胴体はやはり荒々しいところもある木彫りで、いくつかの木を、木釘や金釘で繋いである。

 何度か呼びかけると、像がうっすらと光り始めた。


 仏像は、銀色童子を労った。周りがあまり見えないらしく、言葉は探り探りだ。金色童子が予想外にも他の妖物にやられ、姿を消してしまったことは、仏像もかなり悲しんだ。

 それではもう、魂を集めては来られないのだねえ。お前しか、いないのか。一切衆生を救うには、あまりに魂が少なすぎる。

 像が嘆き悲しむと、銀色童子も悲しくなる。

「あの、構図的に変な気がするんだけど」

 と、日向が、小声で裄夜の袖を引いた。

「魂を、救うために、綺麗な魂を集める? いまいちな、罪人とかの魂はいらないってこと? でも、綺麗な魂は、ここに来なければ救われてないの? どうしてわざわざ集めるの?」

「まぁそうなんだけど」

 他所様の事情なので、あまり首を突っ込みすぎたくない。裄夜は、いつの間にか隣にいるキセに目をやった。

 出ている、ということは。

「キセ……あの仏像、やばい?」

「何を意味してのやばい、なのかは知らないが」

「えぇと……あれ、本当に仏像?」

 言い方を変える。間を置いて、キセは否を返した。

「本体は仏像だが、中身は違う」

「どうされました!」

 銀色童子が、叫びをあげる。

 仏像の周りを、ぐるぐると灰色の靄が渦巻いていた。

 童子や、童子、私の童子。どこに居る?

「ここに、ここにおります!」

 魂が、魂が足りぬ。

「見るからにやばいんだけど、あの仏像の中身は、何」

 裄夜が問うが、キセは分からないと答えた。

「名も知らぬ。元からのことか、後から……銀色童子らが立ち去った後からこうなったのかは、知りようがないな。童子の意見を聞いてはどうだ」

「銀色さん、あの仏像……仏は、何ていうお名前ですか?」

 慌てながら、銀色は真面目に振り返った。

「千年仏とも、呼ばれてます。いろんな名前で呼ばれていました。廃仏毀釈の時代には、畑に埋められたり、神様として祀られたり、木彫りの彫像とか言われたり……それでも、ずっと、人のために祈られ、祈ってきたので……こんな姿は初めてで」

「これほど長く離れていたのが、初めてでは?」

 キセが問いかける。

 仏像は手当たり次第に、灰色の触手のような靄を伸ばし、撫でて回っていた。

 違う、違う、魂がない、足りぬ、腹が減る。腹が、減った。

「腹が減った……?」

 そういえば、金色童子も言っていた。

「集めた魂は、よき祈りの中で安らいでいるのでは、なかったのですか? 魂は……どこにありますか」

 銀色の、半ば確信した、それでいてそれを否定したがる言葉に、返答は得られなかった。

「金色が狂うのが先か、仏が狂ったのが先か。もしかすると、初めから、仏のふりをしていたのかもしれないが」

 キセがわざわざとどめのような言葉をかけた。

「さてどうする? 長年の間、金色童子はどこかで行動不能になっており、銀色童子はうつつを抜かし、仏は魂が得られずにいた。飢餓状態のようだ」

「どうするもこうするも、」

「逃げるのは、なしだろう。階段下に人がいる」

 これまでは、綺麗な魂ばかり求めていた仏像だが、飢餓ゆえに何でもいいと、誰にでも襲い掛かるかもしれない。

 シズクは、触れるなとキセに指示されたのか、出てこない。

 キセが突いた錫杖と、それが突き刺した札だけが、裄夜達の身を薄い壁で守っていた。

「千年様ぁ! おやめください!」

 銀色童子は、事実を受け止めきれずに言う。

「お許しください、いくらでも、この先何年ぶんでも、魂を集めて参りますから! 無関係の、目的外の魂を襲って食らうなど、そんな、そんな物の怪みたいな真似はおやめください!」

 仏像が怨嗟の声を返す。

「裄夜」

 キセに静かに呼ばれて、裄夜は何事かと振り向いた。

「あの像の、どこが問題と考える?」

「問題? 魂を食べようとしてるところ?」

「像の中身のやり口ではなく、物体として、どこにそれがよりついていると思う?」

「仏像全体じゃないってこと?」

 ガタガタと不規則に、仏像が揺れ始めている。灰色の触手状の靄は、一方向から伸びているようだ。

「あの靄が出てる辺り?」

「つまり?」

「仏像全体が居城なのではなく……ちょっと色が違う、木を継ぎ合わせた辺り?」

 では、とキセが錫杖を裄夜に差し出した。

 さっきは実地チャレンジができなかったので、ここでやろうということらしい。

 錫杖は床に突かれたままなので、結界は維持されている。

「これ、抜くとどうなるわけ?」

「当然結界は消える」

「えっどうするのこれ」

「速さと思い切りが肝心だ。襲われる前に、目的の場所を破壊する」

「めちゃくちゃ物理的なんですけど」

「破壊して、解き放たれるものと、モノに巻き添えを食って諸共に破壊されるものがある。前者と見る」

「後者だったらどうするの」

 さぁ、と知らぬ顔を返された。

「それより、もうあまり時間がないが」

 銀色童子がもがく指が、結界を押し、徐々に仏像へ近づいていく。

「中津川さん! 頑張って!」

「言われなくてもやってるし〜!」

 銀色童子を羽交い締めにして、日向が、止めようとしている。

 仏像の中に隠れ潜むモノは、遂に業を煮やした。ぬるり、と、仏像の背後から、実体感のある、黒い虫のようなものが這い出してくる。仏像に打たれた、釘の辺りだ。

「うわあ!」

 気味悪さが勝った。反射的に、屋内に現れたその辺の虫相手のように、裄夜は錫杖を振り回して、虫を潰した。変な感触がする。裄夜の悲鳴と、仏像から出た虫の叫びが重なって不協和音を奏でた。

「千年様……!」

 靄と断末魔が全て絶える。

 涙と鼻水にまみれた銀色童子は、勢いをなくして、日向に羽交い締めにされたまま座り込んだ。

「ご、ごめん銀色さん……対話するとか封じるとか、全然何もする余裕がなくて……全部つぶしちゃった……」

「あ……いえ、いいんです……?」

 呆然とするのも無理はない。三体ある像のうち、一日のうちに二体が、意識のようなものを失くしたのだ。それが今後復元されるのかどうか、分からない。

 自分の像に戻ることもできないまま、銀色童子はどうにか立ち上がり、三体を順繰りに撫ではじめた。


 仏像からするりと抜け出した虫は、ほとんどが滅されたが、わずかに床板の隙間を抜けて逃げ出した。

 手前の石段の一番下、子どもたちが遊んでいたが、それを微笑ましく見ていた坊主頭の男が、ふと表情を改めて、石段を駆け上がった。

 のたくる虫が、石段を転がる。

「可哀想に」

 男は呟いて、両手を差し出した。

「苦しんで、苦しんで、まだ飢えているのか?」

 もう苦しみはないところへ送ってやろう、と男は微笑む。

「仏の慈悲は比類ない。真なる仏の元へ行かれよ」

「ギ、ギャ!」

 一瞬で、真白く光って虫が消える。

 何をしているのか、と怪訝そうな子どもたちに、いや何、珍しくないが虫がいたんだ、もう放してやったので大丈夫と、言い訳をして石段を降りる。

 子ども達を見守る近所の高齢者も、怪訝そうな顔はせず、引き続き子どもの遊びに付き合っていた。

 カレンは、あれから捜索中の家族に発見された。ものすごく怒られて、ものすごく泣かれた。いっくんが、いないことになっていて、驚いた。存在が抹消されたのではなく、人に紛れていたのをうまく消して逃げたのだろうと、冷羽は言う。どうせいつか、また出会うだろう。それほど遠くにはいないのだから。

 姿を消した冷羽は、カレンの中に眠っている。獏とやり合うような、大きな戦闘でもない限り、人前に単独で出るつもりはないようだ。

「デートするって言ったのに」

「そういう用事のある時は、善処する。……実体を持って現れるには、調整を取るのが難しい」

「ふーん」

 よく分かんないけど、置いていかないでね?

 カレンはさらりと告げて、高級アイスを匙ですくう。

 いろんな検査を経て、体調にそれほど悪いところもなく、間もなくお墨付きで退院できる。

 アイスはワガママを言って、買ってきてもらったものだ。

 病室に訪ねてきた人からも、差し入れしてもらったし、しばらく食べ比べ長者である。

「明良が来るとは思わなかったな〜」

 相手は年長だが、カレンがこき使っていた経緯があり、未だにその扱いである。

 中城の遣いとして現れた男は、ちょっと疲れた顔をしていたが、確認事項の話をし、経緯を話して、冷羽とも面談し、忙しく帰っていった。仏像なども見に行くというので、何だ観光もするのか、とカレンは思ったが、冷羽は「仕事だろう」と補足した。

 カレンは教わった連絡先に、退院の日程について一報を入れる。

 中津川日向と、菅浩太。

 前者は、親に友人として名乗りをあげていたこともあり、辻褄合わせの話をしないといけない。後者は。

「何か話を聞きたいらしいんだけど、何だろうね? よく分かんない面倒くさいことは、明良が全部聞いてった気がするんだけど」

「……まぁあまり思い悩まず、ゆっくり過ごせばいい。たくさん話して、疲れただろう」

 冷羽が甘やかすので、カレンは再びアイスに集中した。甘やかされなくてもそうするが。

 その家の前を通り掛かると、大規模な改修が行われていた。近所の人や、交通整理中の警備員と立ち話をしてから、男は屋敷の玄関先に立つ。

 致命的な変化ではない、はずだ。

 峠の者が埋めてきた呪い自体は、うまく封じられたまま。

 御陵は憔悴してはいるが、やはり毅然と、峠の仕事を断った。

 ここから持ち出した絵のことを、多少なじられる。今更のことだ。

 さて、しかし、妻を失ったとはどういうことか。

 見えない架空の妻の話は、聞いたことがある。それを失くしたのだろう。

 適当に挨拶をして、敷地を出る。

 しばらくは、この辺りの神魔に見張られていて、あまり何度も近づくのは良くないようだ。

 まぁいい。

 不要となった漆塗りの箱を、いくつかもらってきた。

 これを使って、先日、松の下から掘り出したアレの、仲間でも用意してみよう。

 男はひっそりと笑い、歩き去った。

「あれ?」

 何もない、天も地もなく、したがって上下左右の違いもない。

 首を傾げる。

 さっきまで、仮眠を取っていたはずだ。

 心許ない暗闇の中、誰かの呼ばわる声がする。とても大きい声だ。行けば安らいで、ゆっくりと眠れるだろう。何日も、徹夜に近い仕事をしてきた身には、大層魅惑的な誘いだった。

 空気の綺麗なところで、のんびりバカンスしたい。分かる、それはとても良いものだ。

 けれど、まだしばらくやることがある。

「いやちょっと待って。待ってくださいね、まだ早い」

 断ってから、もう一つの声に耳を傾ける。

 か細いものだ。泣いているのかもしれない。

 泣かないで、まだ早いから。

 いつかはそうなることもある、けれど今じゃない。

「今じゃないんだよ、茅野ちゃん」

 か細い声をつかまえて、その方角へ、向かった。

 その意思に、見えない位置に小さな虫がしがみつき、笑っていた。

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