第三章 冷羽

第三章 冷羽


   *


「なにやってるの、君は」

 もう一度、今度はゆっくりと。

 裄夜(ゆきや)は言葉を繰り返した。

 その視線はまっすぐにカレンに向けられている。

 カレンの方も可愛らしい笑みをおさめ、無感動に裄夜を見下ろしていた。

「べつに。カレンが何しようったっていいじゃない」

「違うだろう冷羽(れいは)。おまえ何を食った」

「食べてはいないんだけれども」

 肩をすくめ、カレンが立ち上がる。

「第一あんたなんにも覚えてないんでしょ? その分だと精神退行も相当進んでるんじゃない?」

「何が言いたい」

 嘲りの感情を表していても、カレンは可愛らしさを捨てていなかった。小憎らしい笑みを口元にはき、少女は怯えた日向(ひなた)の腕を引いた。

「行きましょ、日向さん」

 日向は動けない。

「どうしたの」

 先刻と変わったところは無いが、日向にはカレンが怖かった。

 れいは、と裄夜が呼び、カレンはそれに答えていた。

 ……この愛らしい少女は何者なのか。

 いやいやと首を振った日向に、カレンは目を瞬いて首を傾げた。

「あらやだ。あいつと話でもあるの?」

 ない。

 日向が首を振る。

「じゃあカレンが化け物だとでも思ったの?」

 なきにしもあらず。

 困ったのを見て、カレンは勝手にうなずくと右手を上に上げた。

「じゃあいいや。カレンは日向に用が有るんじゃないし。そこの記憶なしの能なしのあんた」

 逆の手で裄夜を指さし、カレンと名乗った少女が笑った。

「手伝ってよ。花陽妃の回収」

 右手の周りにはいつの間にか、たくさんの蝶が群がっていた。

 冷羽、と、裄夜はかすかな記憶を頼りに名を呼んだものの、すべておぼえているわけではなかったので、どうして良いか見当がつかない。あの夢同様、ただのお話でしかなかった事が、徐々に近づいている。中津川日向がどう関わるのかも分からない。


 ……裄夜には分からなかったが、日向は裄夜を知っていた。濡れた黒い髪と金の瞳の青年のことを覚えていた。

 それは古い記憶の上でのみではあったけれども。


   *


 「大丈夫姫」を連れ帰れば良いのだとカレンが説明した。

 混乱したままの日向だったが、とりあえずそれが済めば外部に出られると言われて渋々同行した。裄夜もまた、数歩後ろからついていく。

「カレン一人じゃああの大きい人に逃げられちゃうのよね」

「……カレンさんは、……本とかで見るけど、術者とか、そういうものなの?」

 脳天気な声を上げたカレンに、日向は言葉を選びながら訊いた。

 少女が無邪気に声を上げて笑う。

「あははははやっぱり日向さんはファンタジーがすきなんだ!」

 それが馬鹿にされているようで、日向は赤面してうつむいた。

 馬鹿にしてるんじゃないの、と断って、カレンが言葉を続ける。

「ただね。カレンは術者と言うより、そういう奴らに《つくられた生き物》だから」

 蝶がカレンに戯れる。

 主を慕う蝶たちは、冬の時分も寒さを感じずにいる様だった。

 つくりものの命。

 日向は寒さ以外のことで身震いした。

 振り返ってみると、水瀬裄夜が厳しい表情で後ろにいる。

 目があって、互いにうろたえて目をそらす。

 カレンの声が続く。

「そうだなぁ……なんて言えば君たちには理解できるんだろうねえ。日向ちゃんがいった通り、呪術、と呼ばれてるものは使えるよ。でもそれはオリジナルにはかなわない。藍は青よりもいでてあおし、とはいうけど」

 ちらり。

 感情を持たないような少女の鋭い眼差しが、裄夜の頬をやく。

 いったい何を忘れているというのだろう。

 順々に変化が訪れるのでなく、唐突に起きた不穏さ。

 日向は早く終わってしまうことばかりを祈って廊下を踏んだ。

 日常に戻れることを願った。唐突すぎて、去ってしまえば名残惜しいぐらいの小さな異様さが、永遠に残りそうで怖かったのだ。

「お出ましだわ」

 謎の少女は、大きくないのにはっきりと耳に響く、通りの良い声で言った。

 角を曲がった直後、すぐ向こう側に、大きな女生徒が居るのが見えた。

「見ていればいいの」

 カレンは言い置いて、ひとりで前進した。

 裄夜については理由があるのだからさておき、日向がこの結界に入り込めたのは、カレンに近い「異質な」なにかが有ったからだ。総括して「ヒト」と呼びはするが、人間は一人一人違っている。カレンは日向に、なにか力があると感じた。

 たいした力ではないだろうが、それでも「釘」ぐらいにはなるとふんだ。

 見る。

 じっと見つめるだけで、そこにある種の呪縛がうまれる。

 意図的に交わした視線が離れられない。そこに理由を付けるなら、眼力が働くからだとヒトはいうだろう。その場に「釘づける」ための視線。その役柄をカレンは日向に求めた。

 そしてカレンは「あの科白」を吐いた、ひとりの男の冷たくなめらかな声を思った。


 いわく、……術は、力があるから働くのではない。

 意志を持って「しよう」としたことが現実に起こる。それが度重なる。やがてそこには何かあるのだろうと、仮に「呪術力」と定義する。

 起こるから、そこに力があると思うのだ、と。

 カレンはうっとりとその青年の容貌を思った。

 冷たすぎる面立ちもなにもかも、外見に置いては好きだった。かれの外見と、あと別のもう一人の者の精神さえあれば、あの頃のカレンの……いや、冷羽の心は満たされたのだ。


 今はもう、昔の話。

 カレンは物思いから浮上し、眼前の「大丈夫姫」をみた。

 なるほど、力の片鱗はあるものの、其れは花陽妃(かようひ)の核でしかなかった。

「力がないなら、存在自体ないも同じ」

 軽く笑い、片方の手のひらを相手に向ける。

「……よせ、やめるんだッ」

 裄夜が後方からかすれた声を上げた。わからないが彼の記憶の端が騒いでいた。

「キ、は力」

 そう教えてくれたのは、あなただわ。

 腹に力を入れ、カレンが呟く。

「よせ、冷羽!」

 カレンが花陽妃とよぶ、学校の「大丈夫姫」の巨体が廊下に倒れ伏した。大きな風船が落ちるようにふうわりと床に着き、また反動で浮き上がる。

 そのとき日向は、カレンの顔が真っ青なのを見た。


「ふせろ!」


 爆竹の破裂音がした。

 そう思ったが、「大丈夫姫」が割れて爆発しただけだった。

 赤い一線を額に描き、カレンがたたらをふんだ。

 裄夜の背に庇われて日向は無事である。

「そいつはカラだ!」と裄夜が声を荒げた。カラ。花陽妃の、不出来なフェイク。

「もうおそいよ」

 煙の向こう、カレンの立ち位置には短い黒髪の少年が立っていた。視界が十分確保されるまで待ち、少年は服の汚れを払って振り返る。

「……よく分からないけど、どうやらこれは僕の所為だね」

 独り言のように小さな声で、少年は続けて「たすく」と名乗った。

「僕は中城(なかじょう)たすく……、花陽妃を探しに来たらしいんだけれど、僕の中の《彼女》がどうも勝手に動いたようで……、」

 頭をかいて、少年が上目遣いにこちらをみた。

「申し訳有りません……」

「どういうこと? カレンさんはどうなっちゃったのよ」

 動揺を隠しきれず、日向の声がうわずった。たすく少年がちょっと眉をひそめ、裄夜に向かって会釈をした。日向がいぶかしげに裄夜を見たが、会釈をされた裄夜の方は面識がない。

「どうも僕もよくわからないのですが……、いましがたカレンと自己紹介したのは冷羽という、人格の一つ、みたいなものでして……」

 二人の人物の不審をよそに、たすくはぼそぼそと口の中で言った。

「……外見まで勝手に変えちゃって、冷羽、何考えてるんだろう」

 唐突に裄夜の脳裏に閃くものがあった。

 くった、と初めにカレンに対して自分が言ったのは、人格のことである。


 この少年の精神の弱みにつけ込んで、冷羽が人格の中に巣くっている。身体にまで影響を及ぼし始めているところを見ると、随分侵攻が進んでいるようだった。

「中城さん、あんた分かっているのか」

 記憶の声に忠実に従い、裄夜は眼前にたたずむ気弱げな年下の少年を睨む。

 少年は答えない。首を傾げ、考える素振りを見せる。

「仰有っていることの意味を図りかねますが」

「気づいているはずだ。冷羽の属性は夢。夢を介して魔を送り込む」


  それはそれは。


 顔をうつむけ見えない角度で、中城たすくが唇を動かした。

 爆風の衝撃で座り込んだままの日向は、最後までそれを見ていた。


  それはそれは、よく思い出せたもの

   わたくしはてっきり、キセさまはお忘れかと


「……カレンさん?」

 少年だった者が、カレンにすり替わったような雰囲気を感じた。そう思った日向は名前を呼んだ。

 少年が顔を上げる。

 つぶらな瞳は邪気が無く、カレンほどには可愛らしくもない平凡な顔。

「とりあえず花陽妃をつれて帰ります。多分そこらに居るはずですから」

 蚊の鳴くような声。

 気のせいだったと日向は先刻に感じた思いを捨てる。

「でもその前に、一度逃げたあなたを、「世界」に引きずり込みたい」


 実験教室に少年が踏み込んだ。

 引きずられるように日向と裄夜がそれに続く。


 冷羽もまた、すべてを覚えているのではなかったが、分かっていることが幾つか有った。

 本家の跡取りの心に住まい、失われた銀月王の真似事をして、本家を攪乱しているのは冷羽。単なる気まぐれである。

 失われた青年を追い求めているのも冷羽。これは姿がすきだから。

 もうひとつ。

 ……あの、負け戦。

 歯がみするほど口惜しい。

 あの戦いをもう一度起こすのに、ちょうど良いぐらいに世は疲弊している。

 これにかこつけて、かの青年の復活を求めても、かまうまい。


 実験教室に入った、と思ったが、実際はそこは厳重に施錠された筈の、教官しか入れない劇物の保管された部屋だった。少年は棚に手を伸ばし、ラベルを一つひとつ確かめる。

「冷羽」

 十分すぎるほど沈黙にたえ、裄夜が口を開いた。

「冷羽、お前はなにを望んでいる」

 たすくの手が、止まった。

 裄夜を見上げたその顔は、ぽつん、と雨の中に取り残された子犬のようだ。


 裄夜はそれにうろたえた。

 ここにいる相手は冷羽だ、と言うのは心の声。絶対ではないし、どうかしていると思われてもおかしくない。それでも心のどこかが叫ぶ。


  警戒を怠るな。

   オレはあれを信じぬ故に


 それでも相手は、どう見ても純朴な少年だった。

 続けざまに冷たい言葉を浴びせようとした己を恥じて、裄夜は顔を背けた。

 少年がのんびりと首を巡らせる。

「あぁ、ありました」

 薬瓶が一つ、その手にあった。

「カレンはあんたの外見だけが好きだったんだもの。今のあんたなんかどうでもいいわ」

 少年の姿のままで冷羽の意志が動いていた。

 彼はラベルのはげた茶色の薬瓶を投げつける。

「!」

 裄夜が日向を突きとばした。不意うちを食らって、部屋の隅に積まれた椅子を倒して日向が吹っ飛ぶ。

「水瀬君ッ!」

 痛みで息を詰めながら、無理矢理に日向が叫ぶ。

 腕で目を庇ってはいたものの、裄夜はまともに瓶の内容物を浴びていた。

 冷たさを感じ、直後に痛みが上体をやいた。

「今のあなたの外見がどうなろうがかまわない! 意識が戻れば、再生ぐらい出来るんでしょう? 戻ってきなさいよ、キセ!」

 平然とし、少年は……カレンは、冷羽は言い放つ。

 堪えられない熱さに裄夜が暴れ、戸棚のガラスが拳で叩き壊される。


 なんなの……?

 日向が呆然としたのは事実。

 同時に日向の足は、床を蹴っていた。

「ふッ!」

 こんなにも高く、とべたものだろうか。

 冷静な部分の自分が思う。

 天井のぎりぎりまで跳躍した日向の身体が、しなやかな獣のように少年に襲いかかる。まるで映画で見た拳法だと考えながら、日向は素早く少年を床に叩き伏せる。

 そして、硫酸でやけて脱色した髪をおさえた、裄夜を見た。

「キセ」

 呼びかけに、先ほどまで暴れ、今では不気味なほど静まった裄夜は答えない。

 日向が踏みつけたままのたすく少年から血が流れ、血だまりをつくる。

「キセ、人が悪い」

 くっ、とのどを鳴らし、嗤ったのは床に転がる人物。

 変色し、溶けて縮れた髪から指を抜き、裄夜がわらっていた。

「お前もな……ともに記憶をなくした仲だ」

 激痛にあえいだかけらもなく、疲弊のない声で裄夜がわらう。

「さぁ」

 日向は肩をすくめ、裄夜に近づいた。

 裄夜が指を滑らせて髪を後ろに流し、こちらを見ている。

 しっかりとした指が通ると、一瞬のうちに髪はすべやかな闇色を得る。

 一度閉じた瞳は、瞳孔をのぞいて深みのある金色に染まっていた。

「どうする、キセ? 茶番だろう」

「あぁ……不出来な茶番だ。花陽妃が消える前に残した、負の遺産だな」


 日向はかすんだ記憶の中から言葉を繰り出し、裄夜が静かに言葉をたぐる。

「花陽妃のくれた夢、とでもいおうか」

「変ねーぇ、すっかり忘れてるんだもの、夢に浸り過ぎも良いところだわ。呪いの間違いなんじゃないのかしら?」

 血溜まりの中から声がした。カレンの姿になったたすくが…冷羽が、身軽にそこから体を起こす。

「そうかもしれぬな」

 裄夜もまた、床に軽く腕をついて起きあがる。

 一人立つ日向は、遠く窓の外を眺めていた。


 取り戻した記憶はわずか。

 だが冷羽はキセを取り戻した。

 裄夜はわずかに「キセ」の名を取り戻した。


 日向は。

「幻獣の姫ぎみ」

 そう呼び戻された自分を覚えていた。

 想像上に産まれたものが、忘却とともに姿を消すのは当然のこと。

 摂理に従い、美しい毛並みをふるわせ、世界の果てで眠りにつこうとした「それ」を、しかし、印象的な容姿をした若者が呼んでいた。

 存在を知る者が居ることで、幻獣は力を得る。


 それにしても消えゆく己を呼び戻すほど、たいそう強い者がいたものだと感心しながら、「それ」は新たな世界に生まれ落ちた。

 獣でなく、人の姿で。


 いまもまだ、その呪いは解けない。

 何をたくらみキセが行動するのか、過去の日向には分からなかった。今も。

 それでもいま。


 日本で神とあがめられた太陽の娘・花陽妃のかけた呪から、解かれてなお、キセに従うしかないとは、分かっていた。


   *


 ――消える前の花陽妃の力によって、歪み無く「世界」に幼子として滑り込んだ彼らは、やはり何事もなく、「世界」から抜け出した。


 すなわち。戸籍上の名は、すでにない。

 誰も、日向と裄夜とをしらない。

 思い出されるのは姫と、キセと呼ばれた青年。


 ながいときを生きる、なにかの一族。


   *


 ……ふるいうたを知っていた。

 雨音を聞きながら少年はうたっていた。

 覚えていない記憶に酔っていた。

 薄暗い部屋の奥から、とがめるような声はしない。

 だから心おきなく少年はうたった。


 兄はそれなりに短気だ。

 外では天使のようだと言われ、それは少年も十分に認める。だが兄は穏やかでいて、しかし少年が歌うのを決して許しはしなかった。

 歌は、誰かのために歌え。

 うつろな心でうたうな。

 虚ろに歌った覚えはないが、兄は心のわずかな動きも声に現れると言っていた。

 ……でも、こうやって歌いたいんだ。

 少年は何かに憑かれたように歌う。

 隣室では沈黙したままの兄。耳をふさぎ、眠り込んだ天使のような顔。


 ――なにかがやってくるよ。


 そう、兄の耳にはささやきが聞こえる。

(歌ってはいけない)

 思いながら、彼には弟を止めきるすべがない。

 魅惑的な歌声は、人の鼓膜をふるわせて、脳髄の奥へと流れ込むような得難いよろこび

(歌うな……)

 やがて眠りが青年を支配する。

 夢の向こうにも、澄んだ歌声が響いていた。

 雨はまだ、蕭々(しょうしょう)と降り、葉さえつかない紫陽花をぬらしていた。

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