第一幕 ウタウタイ



 麻の中を走る声。

 もう足がふらついて、うまく動けない。

 それでも、立ち止まった瞬間にすべてが終わる予感がしていた。


「待て!」

 声に、はじかれて走り出す。

 歌い手が歌を歌えなくなってはもうおしまいだ。

 神薙祭(かむなぎさい)での舞い手は居ても、村には他に、代わりが居ない。

 神の言葉をおろすことができない。

 巫女でも神職でもなく、彼でなければならなかった。

 彼は愛された子どもなのだという。

 その言葉には、神にしあれ、人にあれ、妖魔ですらも動かされる。

 それらはすべて強要ではなく、向こう側から手をさしのべさせてしまうような感情がうまれるだけなのだという。 その声は神に愛されたとしか言えない、子が親を呼ぶように、親が子を呼ぶように、ふと呼ばれ、振り返る、利益も何もとりひきされず、 そこにはただ、呼ばわりがある。


 川沿いを走るのをやめ、彼は山へ分け入った。

 山狩りになる。

 それでも、いっときでも長く生きたかった。


 ――それでも、まだ、言葉だけは胸にとどめて。


   *


 雨が降っていた。水に濡れた紫陽花のあおい葉が、 初めのうちは大粒の水滴を弾いていたものの、今では空気に溶けるように霞みがかって雨を散らす。

 そっと歌いやめた少年は、窓の外に目をやった。淀んだ空はまだ泣き足りないらしく、一向にやむ気配はない。

 灰色の空から降る水滴は、どんなに目を凝らしても完全には捉えきれない。

 彼はただ、歌いやめた熱の名残を、逃すように、しかしいとおしんで黙っている。

「やっとやめたのか」

 降って湧いたような声に、弾かれたように振り返る。

 音も立てずに開かれた扉のそばに、兄がたたずんでいた。

 唇をかみ、兄に気づかれたことに気づかなかった自分と、歌った己を恥じ、少年は顔をうつむける。

「……済んだことだ、だからもういい。その代わり、しばらくは歌うな」

 人には童顔といわれるが、この兄は幼い顔をしている訳ではない。単に典雅であり、 柔らかな物腰であるだけで、そのためにおっとりした雰囲気に見られるのだ。 俗から離れた、未だ無知な子供のように、見えるだけだ。

 今、弟を見ている彼の表情はぼんやりしてみえる。しかし瞳は鋭く、そして弟を責めていた。

「……ごめんなさい」

「あまり歌うと見つかる。もう二度と、巻き込まれたくないと、言ったのはお前だよ」

 寂しげに言い、兄はくるりと後ろを向いた。長くのびた手足が去ってしまってからも、少年は動けない。

 歌うことと、兄の言葉が、彼をとらえて離さなかった。



 ――忘れることを許されるなら、忘れたままで、いてもいい。

 そう思っていたのだ、この間まで。

 この冬、里見裕隆(さとみひろたか)は気がついた。 弟は昔から歌がうまく、子供にありがちな調子の外れた大声の歌ですら、 聞く者の耳に心地よく響いたものである。だがそれを、多くの人間たちは、 世の中のシンガーたちと同じように、ただ弟の声の良さや、才能のためだ、と思いこんでいたのだ。

 裕隆は両親を失ってからずっと弟と二人で暮らしてきたが、これに気づいたのはごく最近のことだった。

 ――自分は弟とは似ていない。

 しかし、他の何より似ている。

 前者とは、裕隆と弟の外見や持っているもののことである。もちろん、 そっくりではない兄弟もたくさんいて、二人の相違も別段目立ったものではない。 (戸籍上では紛れもない実の兄弟だ。だから血はつながっているのだろう)

 問題は後者である。

「兄貴」

 後ろから遠慮がちに声がかかる。 思考を打ち切られた裕隆は、あえてゆっくりと振り返り、弟の姿を視界におさめた。

「兄貴はさ、……何を怖がっているの?」

 自分からは動かないでじっとすることの多い弟は、 今回は珍しく訊くことを選んでいた。

 裕隆は小動物めいた黒い目に、ただ沈黙を返すのみである。 忘れたことを唐突に思い出した頭の中で、整理しきれない言葉が渦巻く。

「……分からない」

 やっとの思いでひきずりだしてきたのはそれだけで、何の役にもたちはしない。 弟は次第に続きを期待する眼差しを弱めていった。

 不安の正体を知っているのに、 裕隆は言葉にすることは出来なかった。姿が分かるそれを明確に表せるほど、単語の数は多くない。 まるで、夢の中の出来事を、目覚めた途端に語るすべを失うように。

「分からないんだよ……、ごめんね……」

 言葉にした途端、すべての真実が逃げていってしまう気がした。うまく言えないもどかしさに、裕隆は拳を握って息をつく。

 兄に苦痛を与えたと気づき、弟は慌てて謝罪を返す。

 生真面目な性質だと、自分自身に呆れながら。



  ほら、あの、


いちぞくが    ないている


 外でなにかが、悲しげなため息をつくようだった。

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