第十八章 だから貴方に呼びかける

 誰かがとめた、ような気がした。岡野に手が触れる前に、誰かがものすごい勢いで浩太と瑠璃子の腕を掴み、ひどい力ずくで、引きずり倒した。

「触れてはならん!」

 きつく叱られ、二人は呆然としながらも、座り込んで頷かされる。

 金色の目は、先程の狐目の男と同じ色に見える。けれど、虹彩は鋭く黒いし、面も随分と、理知的であって、狡猾さはなかった。しなやかな黒髪が、闇の中でもひときわ暗い。

 群青の空の下、岡野も、息が切れて倒れ込み、痙攣めいた震えを起こしていた。

「何、何で触っちゃいけないの」

「岡野は、元の姿を暴く」

「あぁ、そういうこと……」

 浩太は頷く。確かに――瑠璃子が触れたら、話をするとか懐柔するということの前に、ぐちゃりと、他の、泥になった人々と同じ末路を辿るかもしれない。

 ヒントがばらばらに降ってきたので、頭がまだ混乱している。

「えぇと、さっき狐目を留めてくれたのキセだよねもっと早く来てなかった途中までぼやっと見てなかった成り行き?」

「成り行きで」

 違う文脈で浩太の意見を切り取り、キセはそれだけを返事で返した。肩で息をする少女に、視線を向ける。

「各務瑠璃子。かみに保護を受けているのなら、危険なものは分かるだろう。拾った命を失いたくなくば、むざと岡野に触れるなよ」

「ちっ」

「あっちょっと待って待てまてったら! もう!」

 瑠璃子が逃げ出した。まだ、岡野が引きつった笑い声を立ててうずくまっている。

 こうして――浩太はとりあえず、女子高生を殺した犯人岡野の身柄は、確保することに成功した。しかし、謎はどんどん、増えていった。

   *

 中城たすくの住まう屋敷では、泥事件の片づけも終わり、遠方から宮司だのが呼ばれて、あらかたすっかり清められていた。

 玄関の、ガラスの入った引き戸を閉めながら、水瀬裄夜は、姿は見えないが声だけで近況を報告してくれる、幼げなところを残した少年の声に耳を傾けた。目の前では中津川日向が、おみやげに持ってきた、菓子の入った大きめの紙袋を、中城の家で采配を任されている明良忠信に手渡している。菓子を受け取った明良は、日向の「手作りなんで不格好なんですけど、よかったら」という声に愛想良く礼を言っている。おそらく、菓子箱を開けてから明良は納得するだろう。外側ばかりは立派に、市販のラッピング用品で飾られているが、中身は、クリームのはみ出した手製のシュークリームだ。

「それじゃあ、もうこの家は大丈夫なんですか?」

「おそらく。滅多なものは、近寄れないくらいにつめたくなっているらしい」

「つめたく?」

 日向の疑問に、たすくの声が、静かに応じる。

「そう。つめたく。真冬の神社のように、空気が張りつめていて、どこかの陰に隠れるのも難しいくらいに、綺麗に掃き清められている。白い尾の生えた、神官姿の者が三人、尾と、目の詰まった箒で、掃除して帰った。あれで効果は三ヶ月から三年、まちまちらしい」

「じゃあ、防虫剤の取り替えみたいに、また来てもらった方がいいんですか?」

 防虫剤、のところで、裄夜は軽く吹き出した。日向に睨まれた。

「気休めでも、ないよりはましじゃないかな。我々は、浄化だのそういったことには疎い。自分たちでは何をするのが適切か、実のところ分からない。そこで身内に頼んだら、たらい回しになった挙げ句、どこかの宮司がやってきた」

「伝言ゲームみたいですね」

 日向が、玄関のあがりがまちに腰掛けて靴を脱ぎながら言うと、室内でぱち、と遅咲きのあやめを数本、切りそろえながら、中城たすくが声を返した。

「そうだね。……奥に西のが来ている」

 唐突に言われ、廊下を歩き出した日向が、座敷の方に顔をつっこむ。

「浩太さんが?」

 主語や修飾が曖昧な会話に慣れてきたのか、日向は時々、勘良く会話を続けられる。裄夜は少し、順応出来ていいなという目で日向を見た。

「さっきは、北の庭の見える座敷で、新聞を広げて眠っていた。状況報告に来たらしい。……学生が家にいない時間帯にはこちらに来る辺り、賢いというか、殊勝というか」

 後半、ひどく老成した物言いだった。たすくの外見も実年齢も、たかだか十数年生きただけの中学生男子であることを知っている裄夜と日向は、複雑そうな顔をして、お互いの顔を見合わせた。


 座敷からのびた影が、庭の明るい景色に、くらがりを作っている。北の庭とはいえ、今日は天気がよく、まるで夏のように、青い空が広がって、庭も作り物のように色が飛んで、はかない風情もあった。

 裄夜は、寝ころんで新聞をめくっていた浩太に声をかけた。挨拶はぬきにして、日向も、庭にいた黒猫に駆け寄って、手をのべている。

「あれからどうですか、捜査のほう。進展は?」

「進展ねぇ進展といえば岡野捕まえたんだけどこないだの高校の殺人犯やっぱり岡野だったみたい。凶器も指紋もぞろぞろ出たしねそれでもこれまで手が出せなかったっていう理由が、まだ解決してないんだけど。まぁ今回は自首したというか。自首じゃないんだけど厳密には。自首っていうのは事件があかるみに出てないうちに事件がありましたよって自分から犯人が警察とかに白状することだから、本当は騒ぎになってからだと意味ないんだよねそれはさておき、キセから聞いてなかったんだ?」

 肘をついて起きあがり、浩太は目だけ、裄夜に向ける。

「何がですか。キセから何を聞いてないって?」

「だから、岡野」

「岡野って誰ですか」

「裄夜くんさー人の話聞いてないよね」

「浩太さんに言われたくないんですけど」

 頬杖をついて、うつぶせに転がって、浩太は再び新聞をめくり始めた。

「日向ちゃんが言ってたでしょ岡野ってクラスメイトの話。ベランダでたばこ」

「あぁ、あれは覚えてますけど」

「浩太さん、警察が岡野に手を出せなかった理由、解決してないって言いましたよね、何なんですか?」

 日向が不意に、振り返って口を開いた。猫は日向の手に一度頭をこすりつけてから、用はないとばかりに庭の向こうへ逃げてしまったので、暇らしい。

「岡野に殺された女子高生の、記憶の気配によると、どうも岡野の後に誰か学校関係者じゃない外部の男が来てるみたいだったんだよねえ多分それ昨日出くわした奴だとは思うんだけど関わりがいまいち分からなくて。各務瑠璃子がその男の術の、声が聞き取れるみたいで喧嘩売りに来たし」

「昨日会ったんですか、」

「会ったんだけど、逃げられちゃったの。その場にキセがいたから、てっきり裄夜くん知ってると思ったんだけど」

「知ってるような気もしなくもないですけど、キセから直接は何も聞いてません」

 ふてくされたような、きつい口調の裄夜に、浩太はしまった、というように目をそらした。

「えっとお」

 わざとらしく話を変えることにする。どうせ、男の行方とかは警察ががんばってくれる(筈だ)。キセも事態は知っているのだから、自分の身を守る(裄夜含む)ために動いてくれる、と期待して、今は別の件だ。

「変若水の効果が、弱いっていうか。岡野が触ってなくても、ぐちゃっと泥になるのがいるんだっていうのが気になっててね」

「急に効果がなくなってきたってことですか?」

「そう、大元の調子が悪いのか、水が違うのか……汲んでくる水の質が変わったわけじゃないから、多分理由は他にあるんだろうけどね」

「水は、信者のふりでもして手に入れてたんですか?」

「入れてましたよ」

「最近の、大元の周りの変化は?」

「うーん大元の娘がちょっと家に帰ってないっていうか家出みたいな? でもたまに荷物取りに帰ってて」

 ぱち、と、襖越しに、たすくが花を切る音が響く。時季外れの花を平気で使う辺り、見た目がそれらしいわりに実は全く生け花などしらないのではないか、と思わされる。

 浩太は新聞記事に気を惹かれたのか、海外面などに指を置いて、目で読み進めた。同時に話の続きはする。

「家出中の娘大野まゆらは社務所のほうに行ってないし、大元にも会ってないみたいなんだよね。娘に会えないから気落ちして、テンション下がって変若水もへにょってるのかなよくわかんないけど」

「……または、変若水の効力は、元々大元ではなくて、娘の方に由来していたのか」

 裄夜が呟くと、浩太はぎこちなく硬直した。

「ええっそれって」

「思いつきであって、根拠はないんですよ」

 真剣な顔で見つめられ、裄夜は居心地悪そうに言い訳した。

「ただ、変若水の効力がおちている時期に、それまでは近くに居た大野まゆらが、側にいなかった、というところから考えただけですから」

「それは穴だったかもしれない」

 浩太はがばりと起き上がった。新聞が、足に踏まれて真ん中だけ潰れた。思わず裄夜は、あぁ、と非難がましい声をあげた。

「大野まゆらは孝くんたちとおんなじ高校に行ってるからそれはほら、裄夜くん知ってるじゃない? 学校は行ってるみたいだから娘をはろうと思えば君らに頼めるんだけど娘は幼い頃からとくべつ、何かキリストじゃあるまいししてきたわけでもない。でも、それは顕在しなかっただけかもしれない。いつの時期から変若水の効果は現れてきたのか? それは大野まゆらの母親が死んでからだ」

 一息に言うと、浩太は、裄夜の肩を叩いた。レシーブでもするかのように叩かれて、裄夜は、痛いよりも先に嫌な予感がした。中津川さん、と反射的に助けを求めるが、日向は縁側で、ぼやっとこちらを見ているだけだ。

 浩太が、目を輝かせて言う。

「よし、確かめに行こう」

「え?」

「大野大元の家に行く。それで、道場内の、力の流れでも探ってくるよ」

「……なんか、一文の中で分かりやすく区切って喋るなんて、浩太さんじゃないみたいですね」

「日向ちゃん、残酷なこと言うねえ」

「事実ですから」

「事実ではあるよね……」

 すまして言った日向に、裄夜も便乗した。

「今悪口言った人! 罰として俺についてきなさーい!」

「えぇ!?」

「というか、大野まゆらのことを調べるなら、別に道場に行かなくてもいいのでは」

 裄夜の声を無視し、浩太はあっという間に玄関まで到着していた。

「遅れた人が、夕飯おごり!」

「学生に何言ってるんですか!?」

「あー、じゃあ孝君に電話しとかないと! 晩ご飯、お当番だから」

 日向が、自分が負けないと確信しているかのように、動転せずに呟いた。

   *

 大元の道場は、剣道でもするような、がらんどうの体育館風だった。端には緑の畳が壁に立てかけられ、掛け軸までかかっている。

 ここだけ見ると、ただの公民館と言っても良い気がする。ただ、変な服装の連中がいて、数人の老人が頭に榊の枝をさし、縁側よろしく、喋りあっていた。

 何かを祓うとか言っていたが、むしろアンテナのようにも見えた。

 日向が完全に逃げ腰なので、裄夜が腕を掴んでいる。タクシーから降りる前に浩太が日向に与えた十円チョコレートが効果を発揮していて、日向は逃げたそうだが本気で抵抗が出来ない。裄夜もまた、化学の試験のコツを教えてあげようと高笑いされ、別に要らないが試験の山は知りたくもあり、ついていくぐらいならと安請け合いしてしまったので、今更どうしようもない。

 記帳を求められたが、日向と裄夜は二人で手を繋ぎ、浩太を見つめて動かなかった。

 しょうがなさそうに浩太は、筆ペンの先ですらすらと書く。

 本上とご一行。

 間違いではないが、おかしいと叫びたかった。従者と書かれないだけマシではあった。

「さて、体育館から渡り廊下を通って、本殿とやらがあるそうなんですが」

 パンフレットを片手に、浩太が続けた。記帳したノートは、白い装束の、恐山の巫女めいた老女が運んで去ってしまった。

「行くよね」

 笑顔だった。

 日向は、裄夜の手を握りしめた。こういうときに限って、やっぱりキセは来なかった(別に危なくないようだ)。


 艀のような板を渡りながら、裄夜は浩太の服の裾を引っ張る。後ろから、滑るように、髪の長い女が近づいてくる。頭の位置が全く変わらないので、見事なすり足なのだろう。

 お化け屋敷に入ったみたいな顔をして、日向が、裄夜を楯にし、背に隠れた。

「これはこれは、本上さま」

 とってつけたような、偉そうな口調だった。一礼し、裾をひいた白の衣装がすいすいと横切っていく。道を譲ったあと建物側から細い廊下の真ん中に行こうとした裄夜は、失礼、と後ろから声をかけられて、壁にぶつかりながら避け直した。日向が背と壁に挟まれて、シッポを踏まれた犬のような声をあげた。

「も、もう一人いた!」

 ひそひそと、日向が叫ぶ。裄夜も、まったく気配がなかった、と同意した。

 あとから三人目が通り抜けた。女はすれ違う瞬間、浩太に向けて、神秘的とも言える、不気味に落ち着いた眼差しを向けた。

「お入りになるのはご勝手ですが、先の神域には神職以外は立ち入りが禁止されておりますので、重々ご承知置き下さいますよう」

 消え入るような語尾には、感情が読めない。

「俺も神職ではあるんだけどね」

 頭をかいた浩太は、右手を振って前方を指す。

「んじゃれっつごーってことで」

「え、え、行っていいんですか」

「だめだっつわれたわけじゃなし。いんじゃない? 別に」

 日向は一般人どうし、裄夜と目を合わせたが、どちらからともなくため息をついた。

「……行こうか」

 浩太は振り返りもせず、そういえば、と予備知識を投げる。

「神社は基本的に世襲制でね」

 祭祀を執り行なうのは宮司、これには資格が必要である。

 大学や講習会、神職養成所正階課程、通信教育などで資格はとることができる。できるが、浩太は高校時一年留年しており、大学(国外)では飛び級してはいるもののどう見ても神職を得ているだけの時間がない。祭祀に関ることのできない四位の直階、宮司になる為の最低限の階位三位の権正階、中堅クラスの二位の正階、神職階位として最高位の明階が存在している。

「ここは、一応神社系統ぶってるけど、新興宗教であって全然、式外なんだよねいい加減だよねー」

「あの。浩太さんは?」

 日向が聞く。

 話を聞いていると、いやでも不思議に思うものだ。浩太は山神を祭る本上の主として何の立場にあるのだろう。

「え、俺?」

 だって俺、神さまだし。

 祭る側に非ず、祭られて祭る神である。

 あはは、と笑いながら神域をくぐる

 榊と和紙と、色とりどりの紙が、天井からオーナメント的につり下がっている。

「あぁ神楽思い出すなやまたのおろちとかよもつへぐいとか一杯あるんだよ実家ってさ」

 いつか見せてあげたいなぁ、と浩太はきょろきょろしている子供達に向けて言った。

「そういえばさっき、しきがいとか言ってましたけど、それって何なんですか?」

 薄暗い、軒先にある廊下を歩いているので、黙っていると心細い。日向が気を紛らわすべく、問いを発した。

「うちも、式外だったと思うよ多分。多分銀月も明らかにそんななんじゃないのかなぁ」

 式内はもとは式内の社といい、延喜式の神名帳に記載されている神社とされる。

「その、外なわけ。でもまぁ気にしなくていいから。九百年代だから、延喜式って。銀月のはもっと昔でしょう成り立ちが。別に後から出てきたものに補完されなくたってやっていけてるじゃない」

「九百……!」

 延喜式は、そういえば日本史で暗記したような気がする。

「……律令、でしたっけ? 醍醐天皇の勅命で藤原時平らが編集して」

「すーごいね裄夜くん、よく覚えてるぅ」

 浩太は褒めているのかいないのか判断しづらいいい方をする。

「そんなのって習ってたっけ?」

 日向が首を傾げる。最近まともに勉強していないので記憶は抜けるばかりである。

「私やばいかな、もしかしてやばいかな」

「日本史が受験科目入ってるから、僕」

 それに三年生だし、と付け加えると、やっぱり受けるんだ、と日向が薄ら寒い表情で呟いた。

「うわっ何、そんなふうに見ないでよ。いいじゃないか、別に。そりゃあやりたいことなんてまだ思いつかないよ、まずいけど思いついてないよ、でも受験する気で勉強しとかないと後で保険きかないじゃないか」

「なんの?」

 浩太が気楽そうに訊く。

 裄夜は勢いきって口を開きかけ、すぐにしぼむと、視線を受けて渋々言い切ることにする。

「……人生の」

 少々、頬をあかくして答える。

 笑われると思ったが、二人とも案外真面目に捉えていた。

「そっか……、裄夜はちゃんと考えてるんだよね……」

「うん、そうだよね。踏まえるところは踏まえてないとね」

 楽に生きるのも大事だけどねー。

 この検屍官が言うと、重みが違う。

 アメリカ留学までしてこの男は、科学捜査官となりやがては持てあまされて、今では鑑識をやっている。

 この人は人生の何を踏まえて来たのだろうか。

 流れ流れただけではないのだろうが、見た感じでは、ただの観察好きである。

「……だから理系ってわかんないのよね」

 日向がぼそりと呟いた。

 同じく、裄夜も理数系のヒトとは折り合いが悪そうだなぁと思ってみた。

 他の理数系の人間が、それぞれ変わり者なくせに「一緒にするな冗談じゃない」と叫びそうな見解だった。

   *

 廊下を突き進んだ一番奥は、大元が住居にしている建物への入口だった。ちゃんと一回たたきにおりて、それから普通の玄関があって、インターフォンがついていた。大野、と、しかつめらしい縦書きの表札がかかっている。可愛らしい桜色の傘がたてかけてあって、取っ手が兎の形をしていた。

「娘は帰ってきてるのかなぴんぽーん」

「あっちょっと浩太さん!」

 浩太がインターフォンに触れた。雨の音がしているのに、呼び出し音がはっきりと聞こえた。湿気が多いから、低い音がよく通る。足音がして、ドアが開いた。

「あれ?」

 道場側の建物から、巫女装束の、五寸釘でも打ちに行くのかという、蝋燭を頭に巻き付けた中年の女性が顔を出した。

「あぁあぁダメ駄目だめですよお客さん」

「ストレートに客商売って暴露したよおばちゃん……」

 浩太が呟いたが、女性には聞こえていなかった。

「立ち入り禁止なんですからねえ」

 女性は腰に手をあてて、雨だというのに薄暗くなく、威勢がいい。

 壁のスイッチをいじり、廊下に明かりをつけると、ほら、と浩太たちが今来た道を指さした。

「あっちですよほんとに。初めてのお年寄りがよく、トイレ行こうとしてこっちまで来ちゃうんですけどね、若いんだから、あのマークぐらい気付いてね」

 女性の指さした先に、ぼんやりと、公衆トイレと同じマークが書かれているのが見えた。

 裄夜は御礼を言って、トイレまで引き返した。女性は、三人がトイレに入るまでじっと見送っていたが、やがて自分の仕事に満足したように、うんと頷いてから姿を消した。

「ねぇ俺たち高校生みたいじゃないトイレに隠れて先生にバレないように煙草吸ってたりさあ」

「吸ってるのは浩太さんだけですよ」

 トイレの入口から顔を出し、浩太は、口の端に乗せた煙草を上下させた。

「だってさスパイみたいじゃん格好いいじゃん」

「よくはないですよ別に」

「何高校生みたいなこと言ってるんですか」

「キミタチ高校生じゃないですか」

 日向と裄夜に口々に言われて、浩太は、折角緊張をほぐそうと思ったのに、とつまらなさそうに呟いた。

「でさ、緊張してないならもう行くけど。いい?」

「はい多分」

 裄夜が頼りない返事をする。後ろを見やるとひとけはないが、先程のように、いつ建物のドアや障子が開いて人が出てくるか、容易に判別できなかった。

 浩太は気にせず、トイレを出て、近くの障子を開けて室内に侵入した。

 畳がうっすらと湿って、靴下がきしむ。

「当たり」

 大仰な建物と社を通り過ぎ、一直線に先へ進んだ位置のこの部屋には、葬儀でもしたような、それでも簡素な、板を渡しただけの祭壇があった。

「本体とは呼ばないかもしれないけどね。一応一番奥にある、神様との通信の一番最初の地点、じゃないかなここが……社じゃないから、まだ違うかもしれないけど」

 一人呟く。

 裄夜と日向は、わずかに黴くさい室内の空気に、そっと息をひそめた。

 誰もいない。

 時計の音すらしない。

 外からは、木の葉をたたく雨音が聞こえる。

 空気がたわめられ、押されて気持ちが落ち着き、まるで自分が得度した僧侶か何かのように澄んだ気持ちを持っている気がしてくる。そんなことは妄想だと、裄夜は思う。

「だって中津川さんの指が痛いし」

 呟いたら、肌が赤くなるまで力いっぱい握っていた手を日向が離した。

「痛いなら早く言ってよもう」

「ごめん。でも何か握ってないと、何か変で」

「変よね!」

 得たりと頷き、日向が再び、手を握ってきた。

「よかった、私の勘違いじゃないんだ」

「僕はあんまりこういう雰囲気の場所、来たことがないから」

「うん私も」

 言い合って何となく結束した頃、浩太は浩太で、ごそごそと何かを捜していた。

 不意に浩太が祭壇の白い入れ物を掴み、紙で封じてあった口を開けて中を覗き込んだ。

 白い、首の細い陶器は、酒を入れておくものである。

「んん?」

「こーたさんっ」

 慌てて止めようとした裄夜を左肘で押し返し、浩太は首をひねりながら、中身を小さな皿のようなものに注ぎ入れた。

「ん?」

「何ですか浩太さん、飲む気ですか人のうちのお酒。勝手に」

 日向の非難がましい口調に、浩太は真顔のまま「違う違う」と背中ごしに首を振った。

「これ飲めないよさすがに俺にも。だってコレ薬物入ってるし」

「え!?」

 裄夜と日向の声が綺麗に重なる。丁度畳を踏むかすかな音が聞こえて、二人は慌ててお互いの顔を見て静かにと指示しあった。

 しばらく待って、誰も来ないと見るや、浩太は皿の中身をポケットから出したハンカチめいた布にしみこませ、小さめの遮蔽の袋に放り込んだ。さすが元科捜研というべきなのだろうか。それともただの変な人なのか、評価に迷うところである。

 どうしたものかととまっていた裄夜と日向に、浩太が振り返りながら言った。

「月の水、酒、ソーマ」

 ソーマは薬物でもある。だから、特別、おかしいことではないのだ。神の酒に、人がトランスするような薬物が混入されていても、当然といえば当然である。

「あのねぇ日向ちゃん、顔しかめるけどちょっと聞いてくれるかなコレ実は儀式って基本的に人間が人間から離れかける状態っていうのが必要とされるわけねコレ分かるよね。ホラお祭りとかでおっちゃんたちお酒飲んで酔っぱらうでしょテレビ出るときもおっちゃんが酒飲んでたりするよねいわばトランス状態というかありていに言えばまぁ酩酊なんだけどそういうときって周りが人間だろうがそうじゃなかろうが関係ない感じでねぇ不思議なことに「人間もそうでないものも一緒くたになって」普段とは違う光景を生み出せる状態なんだよ。酒、煙草、どっちも元々は宗教的儀式のためのもの。麻薬も。幻覚見たりするキノコあるけどあぁいうのもね使うわけ大体。ほらお寺って大体薄暗くしてお経一定の調子でお約束事みたいにして延々よみあげるでしょアレ途中からぶわーって気持ちがもうお経の世界に集中しきって「自我」もなくなっちゃうの、あれも一種のトランス。まぁ普通はそこまでやんないかな俺よく知らないんだけど」

 しかし当然のことながら、一応の法治国家であるところの現代日本では、使用が禁じられている薬物が混ざっているので、違法となる。

「これ大元知ってンのかな」

 人の良さそうな感じを思い出すと、お金にがめついとか嘘をつくとか薬物で人を支配するとか、そういうことをしなさそうに見える――というよりも、そういったことに頓着しない、興味がないといったふうに見えた。

「さて、背後に何かいるかなこれは」

 大元の意志ではない事が、行なわれている。

「やっぱり法人化をすすめたやつが一番怪しいっていうのかなそこらへんがあの狐目と繋がってくれてたりしたらもんのすごい分かりやすいんだけど」

 再び人の気配が近づいてきて、浩太は酒にハンカチをひたし、密閉用の小袋に入れてポケットにしまった。さっと座って、何事もなかったかのような顔をしている。

「あー……俺これでこのまま海外行こうとしたら麻薬捜査犬にわくわくして噛みつかれて吠えまくられてとめられちゃうよ。まるでスパイだよ」

 スパイは麻薬の運び屋ではないと思うが。裄夜がそんなことを考えているとき、日向は、今充分スパイなのに、と違うことを考えていた。

   *

 その後、社や本殿と呼ばれる建物に入り込み、捜索を行なったが、めぼしいものは見つからなかった。

「まぁいざとなれば薬物のコレでしょっ引けるけどそれじゃあ意味がないんだよね。水の正体がただの薬物なんだったら死体が防腐処理されて一ヶ月経っても腐らないとかはあり得ても、生き返って歩き出していきなり潰れたりはしないものだからさ」

 言いながら、廊下に出るべく、歩を踏みだした瞬間。

 白装束の女と出くわしてしまった。金切り声をあげられた。

 本殿奥まで入り込んでいたのがバレて、三人は外に追い出された。今度やったら通報しますよという、あまり効果のない言葉がくっついてきていた(今度も何も、裄夜も日向も多分二度とここには来ない、つもりだった)。

「力の流れが前に来たときよりも明らかに少なくなってるんだよね元々大量でもなかったんだけど、あの変若水の付近だけが水のような滑らかで清い気は持って無くもなかった。それがなくなってる」

 かつては、水というイメージで表現される何かの力の流れは、大元の付近と本殿としている部屋までゆらゆらと川のように流れていた。

 今はそれがない。

「よく考えてみると本殿の裏が住居なんだよ。二階の窓見た? アレ娘の部屋だよ」

 カーテンと窓辺に飾られていたぬいぐるみが見えたらしい。

 さっき曇り空ののぞく大元の家の玄関先で、そんなところまで浩太はちゃんと確認していたようだ。

 道場からぽんと追い出されて、濡れた路面に立ち、浩太はノンストップで話し続ける。

 相づちをうちながら、裄夜は、それで結局何を確かめに来たんだっけ、と曇天を仰いだ。眼鏡のフレームに雨粒が当たって、音を立てて高くはじけた。

 話すだけ話した浩太は、話が集束出来たのか、やけにすっきりとした顔でありがとうを連発した。何もしていない偽高校生二人組は、晩ご飯おごるからと言われて、気を取り直した。

   *

 目の前で人が倒れた。服もぼろぼろになり、さっきまでの豪勢なアルマーニスーツが形無しだった。

 各務瑠璃子は、ひらりと避ける。ついでにくずおれた膝を蹴り飛ばしてやり、正座するようにしてぐしゃりと倒れるのを助けてやった。

 起きて半畳寝て一畳である。正座したほうが場所を取らない。

 飛び散った泥に、女性が不気味な悲鳴をあげる。中心からごとんと音を立てて、骨がこぼれる。人波が途切れる。悲鳴よりも戸惑いのざわめきがある。

 瑠璃子は、包帯の裾をセーラー服からはみ出させ、怒ったように踵から力いっぱい踏み込んで、歩く。

 死が、あまりにもきたなかった。

 おぞましかった。

 ただのモノになるのなら、いままでみていたのは一体何だったというのだろう。

「ゴミじゃん」

 瑠璃子は吐き捨てる。そして、ついこの間まで自分はそうなろうとしていたのだということに吐き気を覚えた。

 綺麗な幻想は、一瞬の境を越えた途端に汚らしく歪み、消える。

「くっだらねー」

 彼女の中では、死は決してきれいなものではない。

 中身を撒き散らし、歪み、淀んで、いままでの汚れをすべて洗い出すという行為のように思えた。

 もし体という神聖な物体からケガレた魂が出ていくのなら、それで道理で死体がちゃんと世界に戻っていけるはずだと笑えた。

 よく体を蔑む連中がいるけれども、それはむしろ逆ではないか。

「私たちがはいってるから、汚いンじゃんねぇ」

 ああ、でもそうすると、生理がないぶん、男のほうが汚いのか。

 適当に考えを打ち切って、瑠璃子は顔を上げた。

 すでに死んだ身の彼女にとっては、どうでもいいことだった。

 もう一度死なないように、ただ食事をとりにいく。

 辺りは夜。ネオンサインが、まばらに青や紫に輝く。

 ウラニウム。

「変な名前ー」

 日向が言うのを、裄夜はただ漫然と聞いていたわけではない。

 頷きたかったが、その看板のさらに上に、ピンクの電飾と校長の姿がかいま見えたのだ。

 もしかしなくてもまずいのではないだろうか。

「はあーい、ここ入りますよーこんばんはーおひさでース」

「裄夜、行くよっ」

 浩太があっさりとのれんをくぐったので、日向も気負いなく飲み屋に入る。

 どうしようか、と思ったが、

「……出くわさなきゃ、いいんだしなぁ」

 見間違いであればもっとよかったのだが。

 ひとりごちると、さっさと店内に踏み込んだ。

 ここのおでんおいしいんだよねー、よっにーちゃんまたかい今度は誰だい若いねえこのう。

 そんなやりとりを眺めながら、ここの店は浩太の職を知っているのかと一抹の不安を覚える。

 浩太はついさっきまでばらばら死体と向き合っていたのに(泥になった元人間で、途中で警察関係者の持ってきたシートに隠され、持ち去られたモノなのだが)、すすめられた牛スジやモツなどに平気な顔をしてゴーサインを出していた。

 これが大人なのだろうか。

 多分違う。

「浩太さんが浩太さんな理由だ」

「は?」

 浩太は大根の煮物を口に運び、咀嚼し終わらないうちに箸を青菜に向けている。夏だというのに、季節外れのハウスモノ根菜も味が冬に負けずおとらず、苦くもなく甘く、柔らかで美味だ。

 どうしたのか、ときょとんとされ、手で食事を促した。

「どうぞ、気にしないでください」

「ほ? はらひいへろ」

 そう? なら良いけど、と言ったつもりの浩太は、日向と裄夜にも注文をさせる。

「おごるから。俺、今日、ちゃんとお金あるんで」

「えっ、本当に良いんですか」

 ぎりぎりになって撤回するのではないかと、ちょっと疑っていたのだ。

 日向が言って、店主や浩太を苦笑させた。

「女の子って割り勘が基本ていうけどほんとなんだね」

「でもそんなもんですよ?」

 なんだか変なことを言っただろうか。日向は首をすくめ、助けを求めるように裄夜を見る。

「あー……僕は、場合によるかな」

「あ、逃げたー」

 不満げな声から目をそらし、ありがたく注文をさせてもらう。

 辺りはひどく賑やかだ。

 窓の外、空は暗く、雲が地上からの光の反射で、下だけぼんやりと白く浮かび上がっている。

   *

 簡単に牛丼屋の前のサラダバーでスープとパスタを咀嚼し、各務瑠璃子は店を出た。

 息が暖まり、自分がかつて死んだことすら忘れてしまう。

 あー本当は死んでなくて死にかけたところを改造でも何でもして生きながらえちゃったんじゃねえのマジでさもう、長々しく内心で、そんなことを考えた。

 星が、地上の灯火に負けて、見えない。ましてや薄曇りの空だ。また雨が降るかもしれない。まゆらがいつまで、自分が住まいにしているホテルにいてくれるのかも分からない。

 こうやって一人で勝手に時間を潰したら、あの子どうするんだろう夕飯。自分で食べるのかな。

 自分の飼い犬でもあるまいし、手をかけてやらなくてもあの子は高校生だ。人間だ。口もあれば手もある。嫌になったら、叫んで逃げ出せる。

 縛り付けてるんじゃないんだから。

 そんなことを考えていたら、首が前のめりにうつむいていた。嫌になった。目を上げる。いっそう嫌なモノが目に入った。

「嘘だろ」

 呟いた。各務瑠璃子の前に、大野大元がいた。目が落ちくぼみ、すっかり憔悴したように見えた。

「オイおっさん!」

 声をかけると、大元は、のろのろと立ち止まり、振り返った。

 元々ガタイがいいので、あまり痩せては見えなかった。ただ、レスリングでも出来そうな体格なのに、それまであったような身から溢れんばかりの生命力、のようなものがまるでなかった。

「おっさん」

 娘がいないだけで、人はこうも、一気に老け込んだようになるのだろうか。

「おお、お嬢ちゃんごめんな、今道場のほう、閉めてんだ。全然相手になれなくてごめんな、飯食ったか。生きてるか」

 大きくて太い声は、少し揺らいでいたが、割合いつもどおりのように聞こえた。瑠璃子が怪訝なような顔をしたから、大元はうつろに、聞かれてもいないことを口走った。

「ごめんなぁ娘がちょっと、家に帰ってなくて。荷物は、とりに来てるみたいなんだが、でも年頃の娘だろ、何かもう心配で」

 はは、と笑った声が気弱げで、喧嘩したくても見ていられなくて、瑠璃子は憤然と駆け出した。逃げるように。


 ホテルの空気は生ぬるくて、折角雨で冷え込んだ外の空気を暖めていて、おかげで体中が湿ってやれない。温度が高いと含むことが出来る水分量が多いんじゃなかったのかこの湿気野郎と毒づき、瑠璃子はボタンを押すのももどかしく、ホテルのエレベーターを飛び出す。一階下で降りてしまい、階段を駆け上って、廊下を走った。息がうまく続かなかった。死にそう、と死んだ後なのに思って、おかしかった。

 笑いながらドアをたたいた。酔っぱらいみたいな瑠璃子に、不安そうにまゆらが鍵を開けて顔を出した。

「え、何、どうしたの?」

 勝手にあがっていいよって言われててホテルの人も知ってるからあげてくれたけど、いけなかった?

 まゆらの見当違いの不安に、瑠璃子は端的に、斬り返した。

「まゆら、お前は家に帰れ」

「え? どうして急に」

 真剣な顔をして、瑠璃子は続ける。

「よく分かんないけどさァオヤコとか親子愛とか、気持ち悪いと思うし、だけど、……お前いっぺん帰ってやれよ、オッサンむかつくしウザいけど、何かアレはやばいぞ」

「……おっさんって、パパのこと?」

 どこで会ったの。一気に顔つきが険しくなったまゆらに、そうすると今疲れ切っている大元に面影が似ていないこともないなと、瑠璃子は遺伝の不思議を思う。

「嫌。だってあの人、ママの命日も忘れて……! 他人と自分のことばっかりじゃない、ママが病気になったときだって、仕事仕事仕事仕事、死んじゃったら今度は、勝手に思い詰めて仕事辞めて、変な、宗教なんか始めちゃって……! やだよもう……」

 怒ってはいるが、目には涙が浮かんできていた。まゆらはそれを、手の甲で拭う。はなをすすった。

「嫌なの、もうあんなヤツ、パパじゃない」

「ないかもしれないけど、死んだら会えなくなるから今のうちに、顔見て罵倒してこいよ」

 一度自殺した自分が言うのも、妙な話だが。瑠璃子は、その辺りの事情はしらないまゆらに、声を荒げる。

「テメエの言葉で怒鳴りつけてこいっつうの、気が済むまで素手でボコれ、お前手足細いし大して腕力もないんだから、手とか肩ぶっときゃ大元程度、死にゃあしねえよ。腹とか頭はやめとけ、女子供の手でも本気でやったら、死ぬから」

「……何言ってるの」

「アイツが嫌で家出したんだろ!? だったら、あんな顔させてて幸せか、満足かよ!? ウゼえんだよ!」

 何を言っているのか、自分でもよく分からないまま、瑠璃子は鞄や本などをひっつかんでまゆらに押し付けると、まゆらごと押しながら、ホテルの部屋の外に追い出した。

「帰れ! ダチんとこ泊まり歩いたり変なとこで隠れたりしたら、承知しねえ、追いかけてって祟ってやる!」

 そう叫ぶのが、やっとだった。

 諦めてまゆらの足音が完全に去るまで、扉を背にして押さえていた。何でこんなことしてるんだろう、思ったけれど、瑠璃子は自問するのをやめた。

 急に善人になんて、なりたくなかった。

   *

 ウタウタイの力を、学ぼうともしていなかった自分には気が付いた。以前、各務瑠璃子に遭遇した時に。

 けれど、恐怖は根強かった。数学の答えを板書するよう指示をされたときでも、国語の、現代文の音読でも、ふと口を開く寸前、待ちかまえたような、広いステージに一人で立たされたような、妙な緊張と圧迫感がある。ただの精神的なものが原因であれば、おそれていても、他のあがり性であるとかみっともない姿をさらしたくないという自尊心の問題のようなものだろうから、そう悩むまでもなかったかもしれない。あがってしまうものは仕方がないと割り切ってしまえばいい。

 言葉が、暴走したらどうしよう。

(どうしようって、なってみないと分からないけど)

 とぼとぼと学校から、住まいとしているマンションに戻りながら、里見孝はため息をつく。図書館だので時間を潰しながら、ずっと同じ事を考えていた。

 そうして歩いているうちに、橋のたもとまで来た。

 薄暗い空の下で、湿気の多い風が音を立てて吹き抜けている。車は、帰宅する会社員たちだろう、渋滞するほど増えて、橋の上を占拠していた。

「あれっ」

 声が出た。小さな公園のような広さのある河原の、草の生い茂る場所で、一人のセーラー服姿の少女が、鞄を派手に放り投げ、自身の爪で、くたびれた長袖の、袖口の留め金を剥ぎ取って、包帯をまいた腕を引き裂かんばかりにかきむしっていた。その姿を見た。

 見たら、孝は、走り出していた。逃げるのではなくて、追いついて止めるために。善意ではなくて、むしろ、自分自身の醜いものを見せつけられたような――あるいは自分のせいでそうさせてしまったような、ひどい罪悪感のようなものに突き動かされて。

   *

「各務さん!」

 名を呼んだ、薄暗くて顔ははっきりとは見えなかった。知らない相手で、言葉がまったく通じなかったら危なかったと、後で気付いた。

「各務さん、」

 呼んでも反応がない。少女はまるで獣のように、瞬きせず自分の、みみず腫れになった腕を睨んでいる。黒い瞳が、ほとんど機能していない飾り物のようにも見えた。

「自分から自分を破壊するなんて、いけないことだよ」

 とりあえずそう言うと、相手は、ぎろりと、焦点の細かに揺れる目をこちらに向けた。

「は! てめえの観点で勝手なことほざいてンなよ!!」

「……何かあったの?」

 少女は無言で目を逸らした。湿った空気が、雨も降っていないのに服を濡らし、体を重たく感じさせる。

 各務瑠璃子だろうか。本当に。孝などどうでもいいと、追い払うように手を振って退けるなんて、これまでの執着した罵倒ぶりからしたら、妙に思えた。――いや、そもそも、これまで孝の前に現れ、孝に罵りの言葉を何度も投げつけた少女は、自殺した各務瑠璃子、そのものなのだろうか?

「各務さん、各務さんは」

「鏡よ鏡ッてか!? あァ!? 人がキレてんのがわかンねェっつうのかお前はよ! テメエ殺してるほどヒマじゃネんだよ!」

 何に怒っているのか、孝には分からない。とにかく、自分の疑問をぶつけた。

「本当に、里見孝の知っていた「各務瑠璃子」が、貴方なんですか。まったく同じ人なんですか、本当は、死んだ各務瑠璃子と、そうだと思いこんでいる別の人なんじゃ、」

 少女が、眉間に、深すぎて真っ黒にそまる太い皺を刻んだ。

「……あたしが、各務瑠璃子じゃないって言うのか?」

 それは理解を拒む。

 それは認識の外にある。

 汝が汝たると、汝がそれ以外ではないと誰が証明する。

 デカルトすら大敗し、科学者もまたすべてを把握できないことを認めた。

 誰が自分の存続を言い募れる?

「そんなんは実感だよ! あたしがあたしだっつーのはあたしが決めることだ!!」

 自身の胸の上を親指で叩き、前のめりに、足は前に、瑠璃子が言う。ぎらついた目は檻の中の獣のようで、しかしどこか誤っている。死にかけた魚が最後に水面でもがくような、

「大体そりゃあお前もおんなじコトだろ!? いちいち他人のコトばっか気にしてンじゃねえよ!」

 自分の爪が掌に食い込んで皮膚と肉を傷つける。内出血の後がいくつも残る。そうまでして保たなければならない自我か。あらず、と瑠璃子は即座に決する。そんなもんじゃないあたしの覚悟は!!

「何をそんなに飢えて、」

 それを飢えだと断定できる孝もどこかおかしい。歪んでいるくせに外見だけ弱い兎を気取るから許せない。だからと言って本性のままに振舞われてもそれはそれで吐き気がするが。

「同じくせにみっともない真似すンじゃねえよ! 知らん顔して他人事決め込んで……ッお前気持ち悪いンだよ!」

「だからどうしろって言うんだ……っ」

 苛立ちに、周囲の風景が同調して揺らぐ。蜘蛛の張る網のように獲物がかかってかすかに揺れ、網の主人が糸をたぐり寄せようとする――ウタウタイを守ろうとして、誰かが見えない網を瑠璃子にかけて、食おうとしている。待てと孝は眉を寄せながら願う、言葉に出さなければ孝の場合は通じない、だから唇だけ動かして願った。手出し無用と。通じてくれたら、いいのだが。

「どうしたいのか分からない……こっちも、そっちも……本当はただ苛立ちがあって、その原因がもっと細かくて理由にならないようなものだったり、自分でも分からなくなってて、だからかえって衝動でしか動けなくなる」

「何の自己分析してるわけ? アタマが良いフリしてて楽しイ?」

 押していた扉を急に引くように、瑠璃子の声が熱をはらみ、すぐに冷める。次の一打を予想させる呼吸に、孝はあえて割って入った。

「分からないなら助けを求めれば良いんだよ、専門家に!」

「何言ってンのバッカじゃん!? ンなもん自己満足で虚像造ってそれ壊して構成しての繰り替えしフェチの良い実験材料じゃんかクズ、人馬鹿にすんのも大概にすれば?」

「各務さんがそんなだからどうにもならないんだよ、だって自分で変わるしかないだろう!?」

「お前がソレ言う?」

 嘲るように、枯れた声が笑った。瑠璃子の前で、孝はすとんと内臓が地面に落ちるような感触を味わう。

 そうだ、ついこの間まで、孝は、同じ螺旋の中でただ回っているだけだった、外へ出ていくことが出来なかった。それが今はどうだろう、本当に出られたのか、錯覚ではないのか――何故なら今は孝は物わかりの良い子供を演じていられるけれど本当はまだ――。

「……だって、物わかりの良い言葉だとしても、そうするしかないから……そう、なりたいから」

「なれねえ癖に他人に説教たれてンじゃねえよ!」

 ばしりと頬が鳴る。瑠璃子の爪が孝の頬に血の赤を滲ませる。続けざまに二度打たれ、殴られ、ほお骨が軋んだ。蹴り倒される。女の腕は細く頼りないがかえってしなやかで、柳のようにまとわりついて強く痛む。

「っ、か、がみ、さ」

「うるせえ! 過去洗い流したッつーツラして偽善者ぶンな! お前腹に何溜めてんだよ目障りだッつーの!!」

「――!」

 頭蓋骨が蹴られるのはさすがに初めてだった。孝は背を丸め、出来るだけ衝撃から逃れようとする。けれど執拗に腕は伸びて孝の髪を掴み顔を上げさせ足の先が顔を蹴った。

 理不尽な暴力など、慣れている、そのつもりだった。けれど久々にどす黒く歪むものがあって、孝は何故揺らがせるのかと憤る。

 このまま放置しておいてくれれば自分はこのまま、誰かを傷つけるような言葉も吐かず、荒れず、ただ穏やかに過ごせたのに。

 何故ことさらに疵を抉るのか。何故傷を見過ごせないのか。孝が見ぬふりをした欠陥を瑠璃子は疎ましがり、呪い、見るがいいとつきつける。

 何故、何も手出しできないのにこのまま傷を眠らせて傷が治るに任せない?

(それが、間違ってたって、いうのか)

 孝は右目からこぼれた涙を瞼で押しやる。

 そうだ――罪など消えてしまうと思った、このまま抱えて静かに、海の底の骨のように、綺麗に。洗い流されて、やがて分解して消えていくと。

 けれど、過去にあったものは消えず、向き合わないが故に孝は偽りの層を重ねただけで根底からは変わらない。

 時折胸を突き上げる苛立ちのような衝動、理解されないで意志疎通が滞り無視されることには慣れていても、それでも、執拗に言われてカンに障ることは誰しもあって、それによって普段のかすかな衝動が抑えられなくなる。

(みんな、ぼくがわるいのか)

 瑠璃子は既に物を言わない。荒れた息を吐きながら、それでも手も足もとめることはない。当人の掌も足も赤くはれはじめていたが、なおも彼女は孝を打ち据え続ける。

 まるで何かの贖罪のように。

「自分の闇をことさら見る必要はないが」

 不意に誰かの声が落ちた。月明かりがぱたりと降るように、唐突にそれは夜に落ちた。

「確かに、目を背ければ仕返しをすることもあろう」

「ッ誰だてめえ!」

 脇から獲物をかっさらわれ、瑠璃子が不機嫌に足踏みする。孝の体をすくいあげるように腕で拾って肩にのせ、符崎キセは闇色の法衣を翻した。

「お前と争う気はない」

「ンだと!?」

「まがりなりにも玉竜の名を受けた巫女ならば、もっと道理を踏みしめるが良い。お前自身のうちなる道理は、真実これを求めてはいまい? いたずらに別のはけ口を求めると欲の根源を見失うぞ」

「せ……説教なんざクソ食らえだ! 縛!」

「破」

 一言のもとに、瑠璃子の札が破られる。

「折角の札師の札もかたなしだな……お前の負が強すぎて腐食する。けだし珍しいことだ」

 かすかに、哀れむように言われて、瑠璃子は頭に血が上った。ありったけの札をばらまき、指示を下す。「殺せ!」

「札師の札は、どれほど弱い者の手によっても、数倍の効果を生み出すことが出来る。……それほどの逸材を失ったことは、それなりに困ったことになった」

 他人事のようにそらんじて、キセは小さくため息をこぼした。

 歩いて帰る男の背に、札が全部地面に落ちて、風で飛んでしまって手も足も出せない瑠璃子は、せめてもと唾を吐きかけた。

「ちくしょう!」

 近くで、仕事に向かう途中の札師が見ていたことを、瑠璃子が知ったらいっそう怒り狂っただろうが、生憎瑠璃子は全く気付かず、逆方向へと姿を消した。

   *

 符崎キセは、荷物のように孝をかついだまま、中城たすくの家に辿り着いた。

 玄関のたたきにほうり出され、孝は腰骨を打って悶える。うめいたおかげで、周りの空気が「ウタウタイがいじめられた」と緊張したが、キセが黙れ、と玄関外に向かって吐き捨てると、不満げではあるが、静かになった。実力差というやつだろうか、孝にはよく分からなかった。

 たすくは、何も聞かなかった。ただ帰るにはもう随分と外が暗く、女子高生でもないのに、日が暮れたというだけのことで「泊まればいい」と勝手に決定した。

「今、丁度西のが来ている。話し相手になればいい」

「……西の?」

 黒濡れた瞳を瞬いて、静かに立ち上がり、たすくは和装の裾をさばいてどこかに消えた。墨のような髪が、記憶に残る。焦っていた気持ちも、混乱も、彼に会っただけで、見る間に静まってしまったのが不思議だった。相手は、中学生くらいの年頃だろうに、何もしていないのに持ち合わせた雰囲気だけで、孝をなだめた(と、孝は思っただけだが)。

「やっほーどうしたの孝くーんもしかして寂しかったの最近会ってないもんねっ俺のこと好き?」

 何だかよく分からない発言が聞こえた。

 孝は、廊下で直立したまま、背に冷や汗が浮かぶのを感じていた。

「……この間、会いました、あの、水瀬さんとか中津川さんたちがいました、一緒に住んでて、あの、菅さんが入り浸ってて、」

 しどろもどろにそう言うと、あははごめんごめんびっくりさせちゃった、てへ、と、菅浩太が襖を派手に開けながら現れた。すぱーん、といい音がした。

「で、悩み事は何?」

 見抜かれるほど悩んだ顔をしていたのは、多分菅浩太に出くわしてしまったのをどうやり過ごせばいいか、考えていた所為だと、孝は思った。


「まぁた各務瑠璃子かー」

 棒状のアイスを囓りながら、菅浩太は奥の部屋で話を聞く。小豆の粒が見え隠れしているアイスは、以前、ぴょこんとした小動物めいた千明カレンが「アイスいっぱい食べたいな」と所望したために、大量に買い置きされた氷菓の一つである。最近彼女がここに来ない為、わりと大量に余ったままだ。

 さておき、あらかた事情を話してしまった孝は、胸がしんどくなりながらも、ついでに思ったことを吐き出した。

「自分が持ってる暗い部分、見てもしようがないんです……だってどうにかしたいのにどうしようもない……。指摘されて、そこがおかしいって自分でも思うのに、そういうふうに螺旋が出来てて、そこを巡るようにしかなってない……ぼくはどうにかしたいのに」

「うーん、まぁ俺も人のこと言えないけどねホラこの性格だからかなり恨まれたり疎まれたりやっかまれたりするわけだけどそれでも尚直さないから余計こう」

「……」

 そういう話ではないのだが。

 孝は黙って言葉を噛む。何をどう告げれば良いのか、諦めて投げ出しそうになる。刹那、雷光のように閃いて、浩太の言葉が目の前に降った。

「だから君は怖いんだね。自分が変わることと、変われないことが。孝君さー結局君はどうしたいのかもあんまり整理できてないんだよね、だったらまず考えてみよう考えなくてもこの際いいや別に。脊椎反射で答えてくれる? じゃあ行くよー君ってその力、封じる気はある?」

「封じ……られるんですか?」

 驚いたような顔をあげた孝に、浩太は苦笑に近いものを見せる。

「多分ね、君がうまく命じれば叶うよだって君ウタウタイだもんすべてのものに愛されうるならばそこから愛憎が生まれて憎まれることくらい当たり前でだからこそ迂回して曲解されて君の望み通りにはならない世界が構成されるかもしれないしされるんだろうけど。あぁつまりね」

 面食らっている孝に、浩太は丁寧に、つとめて緩やかにこう告げた。

「君が命じれば、君の能力を無視するように、世界を変えることも可能だということだよ。君の力が影響する範囲を考えれば、まるきり不可能というわけでもない。ただし、そうしてもし封じられたとして、君がたとえば彼女が出来てドライブに出かけて途中で事故に遭ったとき、目の前で彼女が死にそうで、もしウタウタイの力があれば願いを叶えられるのにそうできないっていうことに、なるよね。そこまでの覚悟。将来の自分がその結果まで飲まざるを得ないことを覚悟すること。君は出来るか?」

 後悔くらいいくらでもする。それは当然だ。けれど浩太はそうではなく、今の自分が、本当に、

「……願いを叶えたいとねがう浅ましさごと、君は許容して生きていくほうが良いかもしれない。本当に、君がその能力を疎ましがっているのならばともかくとして、君は現に、その力を制御できさえすればその恩恵にあずかって生きる方が得な筈だ。君の歪みは大きくなるだろうから、もっと力の組み込みかたを考えないとならないけど。孝君はさ、……多分、ウタウタイの力を乱用していい気になってエライ人になったりお金持ちになったりしようとは、しない子だから、俺はそう言うけど」

「そんなに、お金とか、欲しい物って多くないですから……乱用しようとは思わない……し、いっそなくても」

「だから、なくても良いかもしれないけど、もうちょっとやってみない? 俺思うんだよね、捨て方にも色々あって、人によっても時と場合によっても色々変わっていくものなんだよ本当はさ。君は、面倒だから、ややこしいから、制御できないから、できそうもないから捨てるンだろ? 俺も手伝うしキセも引きずり込めば良いし、何とかなるんじゃないかなぁ」

 できないから、できそうにないから、他の何かを壊す前に、その所為で疎まれる前に捨てる。

 孝は胸の支えがとれた気がして、直後、言い当てられたのだとさとった。

 過去、ウタウタイは山へ逃れた。異能でありながら人の前に居続けたのは惰性かもしれない。人を離れて一人で生きていけないと思っていた。あのとき、ウタウタイは、自らの能力をうらみながらも、捨てることも出来ず、かといって制御しきることもかなわず、人と共に生きられず生きる方法を思いいだせず、ただ混乱する闇の中にすべてを埋めて隠してしまった。

 あのときからよどみは続いていたのだろうか。何年経っても、繰り返し、繰り返し、その性質が時と共に変わりながら変わりきらず、そのまま孝もまた、自分で自分の歯車を自分の手から離したまま誰かの救いを待っていた。

 巡り合わせのおかげで、ウタウタイはキセに拾われた。

 あれは、本当は、ウタウタイ自身が、誘われるようにして山に入ったから起きたことで。

 もしキセが居なければ会わず、ウタウタイが山に逃れていなければまた会わず。

(本当は、俺にだって、ちゃんと、動く力があるのかもしれない)

 ある、のだ、本当は。

 その、動かし方が分からないだけで。立ちすくんでいるだけで。過ちに気付いて涙を堪えて座り込んでいるだけではなく、座り込んだ時間ごと自分の糧にして歩き出す、その時が、

 来る。

「遭難したら下手に動かないほうが得策だけどさ、本当はね。だけど、何年も同じ場所に居たって、助かるものも助からないよ」

 山神は山のたとえを呟いてほの暗く笑った。

「俺たち、皆、生まれたときから迷子だけどね。だから手を繋ぐわけ。周囲の連中の囲う世界の中で、怖がってばっかりで生きてもしょうがないから、とにかく生きるために、お互い、まろうどたちはこの世にとどまって生きるんだよ」

「……」

「――なんてね」

 晩ご飯の支度が出来たのか、ダシが味噌とあわさってできる、良い匂いが漂ってきた。風向きの関係か、それまで食べ物を想像させる匂いが、目の前の棒アイス以外から流れてこなかったため、孝は何故か、驚いた。

 静かで、落ち着いていて、どっしりと構えたようなこの屋敷でも、炊きたてのご飯やみそ汁の匂いがして、ついでに香ばしい、焼き魚の匂いまで流れていく。

「あー腹減った栄養満点考えてある塩分過多の日本食でも頂いて帰るか! さー孝くんも参りましょ」

 いい笑顔で言われて、孝は戸惑う。自分のことが、何だかひどく、悩むばかりでぐちゃぐちゃで、こんな普通な空気など、場違いな気が、していた。

「生きるとは、そういうことさ」

 浩太は笑って、孝の肩をたたいて先に行く。

 掌でたたかれると、孝は不意に、目が覚めた気がした。

 あぁ、ご飯を食べなくては。

 後ろでキセが、「腹が減った……?」と不可解そうな顔をし、浩太を薄気味悪そうに見送っていた。

   *

 朝焼けの時間の前、空は薄明、静けさの中で朝刊の配達をするバイクの音が、まばらに間を置いて、響いていく。

 夜遅くまで眠れず、朝早く目覚めた里見孝は、空気の冷えて締まった中、中城たすくの家の庭に出て、深呼吸する。

 結局、いくら考えても答えなど出ようもない。

 どうすれば、僕は君にあがなえる?

(うずくまって考えたって、各務瑠璃子は、死んでる、過去のことは変わらない)

 何をしたところで、口先ばかりのものにしかならない。

 自分が死ぬほど苦しんだのは、くだらないけれど自分自身の力の所為だ。瑠璃子の死の重さよりも、人の死を簡単に導ける「周囲の反応」へのおそろしさだった。そういう自分を、孝は恥じた。

 言葉を学べばいいと、山神の青年は言った。だけど使い方を学んだところで、それが一体何になるだろうか。誰も傷つけないしうまい使い方を見いだせるかもしれない。

(だけど僕は「僕のままだ」)

 困惑して座り込んだ孝に、いつの間にか近づいていた中城たすくが、そっと傘を差し出すように告げた。

「ならば一生涯背負えば良い」

 自らその罪に甘んじて「可哀想な」人生を自ら演じ続ければ良いと。

 反発しかけた孝の口が震えてうまく動かすことができなかった。

 哀れみなど。

 そんなものが何の役に立つのか。

 自分で招きたくて招いた結果ではないのに。

 そうじゃないそうじゃないそうじゃない、そうじゃないんだ。

 どの提案も虚無に聞こえる。

 どの提案もずれて聞こえる。

 そうじゃないんだ。

 僕には別に、まだやることがあるんだ。


 目指すもの、求めるもの。

 喉元で言葉がつかえる、

 それを、まるで黒猫のように艶(あで)やかに目を細めて、彼が見つめる。

 ならば何かと。

 いつの間にか、それこそいつの間にか誘導されて、言葉がするりとこぼれ落ちていた。


 救いたいと。

 この現状に甘んじて生きていたくない。

 僕は変わりたくないわけじゃない、

 ただ、変わる先が見つからないだけ。

 方法が見えないんだ。


 彼女がどうしたら幸せになれるんだろう。

 彼女はもう死んでいるのに。

 それでも今目の前にいるのだから届く言葉はあるのではないかな、少なくとも、「会話が成立する可能性があるのならば」今はまだ間に合う。

 孝よりもずっと年下の彼が、最後の最後にそう告げた。

 穏やかな声が、彼の印象を初めて強くさせた。

 まともに見上げた少年の顔は、多分、離れたら数時間も経たない内に忘れ去ってしまうだろう。

 だけど孝は、多分忘れない。

 忘れられない。

 静かに寄り添う黒の気配。

 まるで、雨の降る日に、屋内にわだかまる不可解なまでの静けさ、それと同じ気配。

 唇を引き結んで、涙をぬぐった。


 立ち上がる前に、昨日の夜わずかに降った雨の作った、泥水を、踏んで彼は去っていった。

 思わず頭が下がる、それで、周囲がざわり、とした。

 あれを守ったほうがいい? 報いたほうがいい?

 あれもこれも、と、「皆が」孝の――ウタウタイの面倒を見てくれた人にお礼をしようと躍起になって騒ぎ出す。

 中城たすくはそれに気付かない、聞こえないのかもしれない。

 まだ聞き慣れない感覚に眉をひそめ、ぎゅっと手を握りしめて、孝は立ち上がり、かすかに首を振ってみる。

「大丈夫」

 本当に? 本当に? あのひともしかしてわるいひとだったの?

 ねえきんがいい? ぎんがいい? それともにんげんが使うおかねのほうがずうっといいの? ねぇあそこにあったおさらはどうかなぁ、どうやったらあのひとにおれいができるの?

「僕が、自分でお礼はする。だから、僕がお願いするまでは、これまで通り、普通にしていてくれないかな」

 そっと呟いて、吐き気をこらえて座り込む。

(どうにかしたい。でも、どうすれば良い)

 何度踏みだしても、本当の決意をしても、気持ちは薄らいでいく。情動は変化する。

 昔の日本人にとって、愛しいとは愛(かな)しいことだったから、普段から、揺らぐ気持ちがあることを自覚し続けていたのかもしれない。

 決意を、口に出そうと思った。取り返しのつかないところまで、行こうと思った。

 孝は、早朝の中を歩き出した。きっと会えると思って、浮ついた気持ちでいた。


 果たして、昨日の橋のところで、各務瑠璃子が膝を抱えて座っていた。導かれるようにして歩いてきたので、もしかしたら、無意識のうちに、ウタウタイに手を貸そうとするものの力を借りていたのかもしれない。

(かもしれない、ばっかりだな)

 自分で苦笑する。それから、各務瑠璃子と目を合わせた。

 何しにきた、きつい眼差しが、孝の姿をとらえて、すぐに逸れた。面倒そうだった。

「話があって」

「ない。あたしにはない。帰れ」

 朝靄の名残が、河面を走る。

「各務さんはずっと、他人を殺すようなことはしてなかった」

 ぽつりと孝が呟いた。瑠璃子はぐっと眉をひそめる。

「何寝ぼけてンの? ばっかじゃねェ!? 自分がどんだけ疎まれて恨まれてるか分かってンの!? それ暴きたててやって死ねばっつってんの誰? あ、た、し、だろ!」

「そうだけど……」

 ただ殺すならもっと簡単にできた筈だ。当人が言っていた通り、彼女は殺すのではなく苦しめることを目的にしている。何の為に?

「僕がはっきりしてないから、とか、鬱陶しいからとか、それだけじゃなくて……本当は、」

 同じ境遇を共有できるはずなのに一人だけ暗い森から体が抜け出した、そのことを恨んでいるのではないか。

 皆まで言う前に瑠璃子が街灯の横腹をひしゃげさせた。まるで巨人の拳がやったようにくにゃりと曲がった棒は、車道側へ突き出す。それに早朝のトラックが突っ込んで急ブレーキも間に合わず、ガラスの割れる音を立てながら脇の店に飛び込んでいった。

 無言でそれを見ていた孝は、目の端で瑠璃子をとらえる。彼女の青ざめた顔には、勝利者の愉悦や破壊の満足は見られない。

「破壊衝動はあるけど、それが現実化したら怖いんだね」

「はぁ? なッに言って……」

「本当は、助けを求めているんじゃないのかな……」

 ――こいつは、

「……ッ」

 いまさらのように、

「今そういうのんきなこと言ってて良いわけ? 馬鹿の偽善者ぶりがこんなとこで発揮されるとはね! 見てるのも気持ち悪、手足もいで血抜きでもすれば? そんなことしても腐った心臓はなおんないだろうけど!」

 孝は静かに唇を動かした。初めての試みだけれど、心のうちに不安がない。間違えるという不安の起きないさまは、鳥が飛べることをだけ信じていることに似て、言葉を明確に伝えさせた。

「あのトラックの人、各務さんが行動して生じた怪我はなかったことにして――時間を巻き戻したように、店もトラックもなおって、三分前みたいに路上を走っているようにしてほしいんだ……頼めるかな」

 まるで気配のなかった場所に、不意に凝縮するようにして何かが現れた。半透明のゼリーがうごめき、瑠璃子はひ、と喉を鳴らす。

『頼まれてもかまわない、けど、おれたち、時間には介入できない』

 孝の側にずるりと一つ、大きな塊が出来た。それが不器用に穴を浮かべ、そこから空気を吐きだした。小さな塊たちがトラックと店にはりついていく。孝はこわばった顔のまま、わずかに首を縦に振った。

「良いです、何事もなかったように直してもらえたら、それで」

『怪我なおすだけで良い?』

「……できたら、お店とトラックも。あと街灯」

 孝の隣に居た塊がしばらく黙った。食われるか、と緊張した孝に、塊が頷き、分散した。

『ちょっと、待ってろ』

 膝ががくがくする――孝は座り込みたい気持ちを抑えこんだ。言葉を叶えようとする働きの気配は感じていたが、答えてもらうことを前提にして呼びかけたのは初めてと言えた。慈雨爺のように無害でおとなしい老爺の形をとった「いるだけ」の者はともかく、いきなり形を取り結んで現れてくる未知の相手と接触するのは初めてだ。犬神めいたモノ相手には、こちらが好んで呼びかけたことがない。

「はン! 使えんじゃねえの、力。見えてないフリして無視して、周り中に気ィ使われてンのも無視して、いい気になってンじゃねえよったく」

 ずり、と瑠璃子の靴底がアスファルトをなぞる。

「そんなのじゃない……使えるものは使おうって思っただけで……」

「それが傲慢だっつーんだよ、それとも何? オウサマでもかって出るつもりですかへーえ!? 開き直るんだ!? おっかしィ!」

「本当は、怖い。でも、」

 孝は言葉を切る。目の前に再び形を結んだのは、先程まで街灯に取りついて奮闘してまっすぐにしようとしていたモノたちだ。

 それらがじっと見上げてくるさまは、顔が無い分余計に怖い。

 けれど、孝は勇気をふりしぼった。

「どうもありがとう」

 笑顔を向けると、ゼリー状の塊たちが一斉に頷いて、ぴょんぴょんと跳ねた。嬉しいらしい。

『おれたち、おまえのことばがすき。でもあっちこっちで噂してた、おまえ、おれたちのことがきらいだって』

 少し悲しそうな顔で、大きめの塊がそう言った。

「そんなこと……いるってことに、気づかなかったんだ。それに、迷惑かけるのも嫌だったし」

『おれたちのこと、きらいじゃないか?』

 他の塊も、動きをとめて、孝をうかがっている。この瞬間が得体が知れないと思う最高点かもしれない――おそれを抱きつつも孝は答えた。

「嫌いになれるほど君たちを知らないから……でも、助けてくれてありがとう」

『みずくさいこといわずに、いつでも呼べ、な?』

 塊たちは頷きあって、それから不意に姿を消した。夢のはしばしのような情景に、瑠璃子がややあって吹き出した。

「馬鹿じゃンか。お前今、助けてくれないモノが嫌いっつったんだろ!? 邪魔で余計なものは嫌い、死ねばっつったらあいつら自分から死んでくれるぜ、かわいーウタウタイに言われるんだから! あァおかしー」

「だって、何もかも好きだなんて嘘じゃないか」

 孝は瑠璃子の哄笑を冷めた目で見やる。

「それに、すきかどうかですべての人に応対するわけじゃない。すきとかそういうもののまえに、もっと衝動的なものってあるんじゃない?」

 たとえば、すがりたがっているまなざしに思わず差し出してしまう腕。

 それを陰徳と呼ぶのだとか、孟子の言った「井戸に落ちる赤子を反射で助けてしまう根底の善」であるとか、そういうことを、孝は知らない。瑠璃子も知らない。ただ、気味が悪いとだけ思った。人間にそんなものがあるとは思わなかった。

「何考えてンの……」

「……そう、思っただけなんだ」

 孝は、救えるとは思わない、ただ手を差し伸べたいと思う。好悪ではなくただそのときにそう動く、孝はそう言っているのだ。

 何て不安定な情動に頼った行動だろう。

「ばっ……かじゃないの……」

 それは、いつ手を離すのか分からないということだ。倫理や正義感や情愛であれば、即座に手を離される心配は無い。しばらくの間がある。けれどそれより根源的なものに動かされると公言するなら、それは自分が信用がならないことを言いふらすということになる。

「何、たくらんでんの」

「何も……そうじゃない、たくらんではいるんだけど。僕は各務さんがもうそうやって、本当はそうしたくないのにそれしか衝動のはけ口がなくて痛いっていう顔をしてるのが、違う方向に、もっと痛くないほうに変わればって思った、から」

 馬鹿だ。馬鹿みたいだ。瑠璃子は包帯だらけの左腕をあげて顔をぬぐった。冷や汗と脂汗と、塩分を含んだ目からの水滴、それらを一思いに吸い取っていく。

「そういう、本心ぶった口調がうざい」

「嘘じゃないから、一応本心なんだとは思う……」

「何ソレくっだらない」

「ねぇ各務さん……僕は色々間違えたし、見ないフリをしてきて、おそろしいものだと思って避けてきたものがいっぱいあるけど、もちろんそれに無理やり順応する必要ってないんだとも思うけど、それでも、今から知って、態度を改めていくってことも、出きるんじゃないかと思うんだ……幸いっていうのはおかしいけど、君はここにいて話ができるんだし、そうしたら僕のまずい点を指摘してもらえるし、向きあうのってしんどいとは思うけど、でも……できないことじゃないと思う」

「向きあってぼろぼろになった連中は沢山居るけど?」

 小馬鹿にした笑いで、瑠璃子は告げる。孝は確かにそれもそうだけど、と呟いた。

「そうだけど、まったく無視しても生きられないじゃないか。こんなふうにいきなり変わってしまうことだってあるし、見ないばっかりじゃあ、僕らは変わりようがないよ」

 成長を拒否してはいけない。

 そんなことを言われても、瑠璃子は底のあいたバケツに怒りを飼うことしか出来ない。一人で戦おうとした、けれどその所為で、周囲すべてを憎むことになった。

 怒りは何だか気抜けした部分からこぼれてしまう。

 何だ、これまでのすべては無駄だったとでもいうのか。

 すべてがうろんで――、

 孝が口をひらいた。

「結局、今こうなってる以上、それがなかったら僕は気づけなかったろうし、今みたいに、言葉を使ってみようって無茶、しようとはしなかった。過去をせめてももうどうしようもないから、僕は進んでいったほうがいいと思う、過去の悪いところをなおして」

 綺麗事だ。

 綺麗すぎて反吐が出そうだ。

 今すぐ蹴り倒して涼しげな顔に靴のつま先を叩きこんで鼻柱を砕いて骨と肉をぐちゃぐちゃに混ぜてやりたい。

 けれど体は予想外に重たかった。面倒だと思った。停滞する――気持ちが、風に吹かれて灰のように散りそうだった。

「何で理解しようとするわけ……いまさらさァ」

 引きずりおろす、その恨みが今も胸を突き上げる。けれどどうしたらいいのか分からない。腐ったタマごのような目をしていた者が、いつのまにか偽善であれ、気づけば新鮮なにわとりである。

 腐ったまま殺せばよかった。惨めに死なせればよかった。瑠璃子は自身の所為で孝が勝手にさとったのが恨めしかった。人はそう、いつも思惑を外れてしまう。おもいどおりになるものはない。

「あーもうめんどくさっ……」

 瑠璃子は両手で札を掴み、路上に全部投げ捨てた。ごみになるなと思った瞬間札師のむっとした顔が思い浮かんで笑えたが、すぐに周辺の迷惑になるのが分かって怒りが沸点に達した。

「もう殺せば? 好きにして」

 いらついた瑠璃子の声に、孝は困惑を隠せない。

「殺す気はないよ、ただ」

「和解? ハッお気楽な頭しやがッて! この状況に追いこんでいったのあたしなんだけど? 犬神走らせたり山神にちょっかいかけたり散々殺したし?」

「でも、各務さんは本当は殺すつもりじゃなかった。苦しむ一点を見つめていたから、死ぬっていうことに頭が回って無くて……」

「何こういてきかいしゃくめいたことしてんの? 意味わっかんなーい何ですかそれ」

 死ぬほど痛めつけるつもりがあって殺すことが目的ではなかったならば何をしてもいいとでも言うのだろうか?

 否。孝も、イエスとはいえない。けれど、

「罪を、償うことくらい、出来るよね?」

「別にどうでもいいけど邪魔だから殺しましたーっつってご遺族の前で頭でもさげればいい? くっだらない、それで済むならお前が頭さげれば?」

「反省の気持ちがあるんじゃないの?」

「あるとでも思ったの?」

 言ったが早いか、瑠璃子は手元にあった、野球ボール大の石を振り下ろした。孝は肩を殴られ、さらに腹を蹴られて道に転がる。

 痛がっているうちに、瑠璃子は遠くへ走り去ってしまった。

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