第十七章 Calling, calling, and calling!!
公園に昔風に土管が置いてあって、表面はカラフルに塗装されていたけれど、中は泥とか葉っぱが沢山落ちて汚れていた。
雨が降る中、まゆらは行き場が無くて、しょんぼりとそこに座っていた。
図書館は五時で閉まったし、店もそのうち閉まる。夜明かしするにはゲームセンターはうるさくてまゆらは苦手だし、友達に迷惑をかけたくない(多分すぐに大元に連絡が行ってしまうし、そうしたら大きな声で叫びながら来て迷惑になる)。
(バカみたいだな、私)
自嘲していると、父が土砂降りの中、傘を持って走っていくのが見えた。数メートル先も見えないような、土色の、暗くなってからの土砂降りなのに、まゆらははっきりと父だと分かった。父が、公園の少し前の道路に立ち止まる。右手にはぎゅっと、まゆらの小さい頃に使っていたピンクの傘が握られている。もう私、子供じゃないのに。まゆらはかすかに頬をふくらませた。そのまま見ていると、父は再び走り出した。
どたどた走るので、足は水をはねるし、下半身は雨の中だ。頭も、横殴りに吹き付ける風で、傘にまるきり庇われていない。
ばか。それじゃ傘差してる意味ないじゃん。
思わず腰を浮かせかけたが、まゆらは自分がさっきまで怒っていたことに気付いて、座り直した。
日が暮れる。眠くなってきて、ゆらゆらと眠りに落ちる。目が覚めると、
「みーつけた」
頬に絆創膏を貼り付けた少女が、にやにやしながら、目の前の水たまりにしゃがみ込んでいた。透明な傘を差し、その安っぽさとは裏腹に、彼女はまったく雨に濡れていなかった。
その子は妙なことを言った。
一緒に来ないかと。
*
惨めだし情けないしダサいし、何か気が向いた、だけだと思う。
思いついただけなのだ。本当は。
瑠璃子はパパと喧嘩したんでちゅかーなどと言って散々まゆらをからかった後、不意に真面目な顔で言いだした。
「あー。一人なんだけど部屋、シングルじゃなくて二人で、とってあンだよねェ。連れが帰ってくるかどーかわっかんないし、そもそも同室なんて気持ち悪くてブッコロシテやりたい相手だし。だから、あんたがヨケりゃ、来れば?」
「は?」
まゆらがきょとんとした。そうすると、今時の女子高生らしくないくらい、幼げで人さらいにあいそうだった。まぁどのみち皆そんな歳だけど。十五で元服、十二、三で結婚して妊娠だなんて国の時代に生きていない。見えないだけで、世界のどこにでもそういう光景はあるのだろうけれど。
瑠璃子は知らないし、他の学生なんかも当然、知ったことでもないんじゃないかと思う。
生きてるだけで。
ところでまゆらのそういうあどけなさが、翻ってお前バカとか言われたように感じられて、瑠璃子は一気にキレて、
「あーもー勝手にすれば!? そんで水たまりで死んじゃえ!」
子供っぽい言い方になったのはご愛敬だ。先日から「色んな物」が近寄って来なくて、遠巻きに囲んではいるけれどあのよく分からない自称何様かが決めた通り、巫女、として、手を出されないでいるらしく、だから夜も眠っていても無事で、おっかなびっくり、珍しく休むことが出来はじめていて、ゆとり、とでも言える精神的な余裕が生まれていた。余裕は、視野を広げる。怒鳴り回さなくたって、まゆらをいじめたいと思った怒りと、そもそもの目的、「あっこいつ雨にうたれててかわいそー大元の子だし何かおもしれー、これ手懐けて連れてったらあのおっさん慌てるかなーアハハハ!?」を思い出せば、天秤にかけて「むかついたののほうが大きいから殺す!」とかではなくて、一緒に行かないかって言っただけじゃんとだけ言えば済むというくらいの判断はつく。
何がしたかったのか、には、いちいちどうしてか、そういう、むかつくとかアレが嫌いとかアレが気に入らないとかがまとわりついてきて、そのどれもが、あんまり気付きたくもない「誰だって持っている、自分にもある何か嫌いなところ」の正体の一部だったりして、憎しみは互いにぶつけあって連鎖するのがよく分かる。お互いに言い合っていれば自分の汚いところを「見せられ」合い続けるのだから、そりゃあ喧嘩は死ぬまで収まらない(というのは瑠璃子の考えであって他の連中の首を捕まえて聞いたわけではないからよくは分からないが)。
札師も、似たような物かも知れない。同族嫌悪。
水たまりを蹴って離れたら、瑠璃子の足下から泥水が飛んで、跳ねて、まゆらは頭からかぶった。
「うわっ、もー、びしゃびしゃ……最初から濡れてたからもう、いいけど……しょうがないし。え、何でそっち汚れてないの?」
怒るのではなくて、まゆらは瑠璃子が自分は器用に避けて汚れていない事に驚いていた。目を丸くして見上げられて、こいつ何、と瑠璃子はいっそう顔中に皺を作る。
まゆらを連れていったのは、食事は別の、格安ビジネスホテルだった。カプセルホテルだと体が伸ばせなくて、エコノミークラス症候群みたいになると瑠璃子は思っている。
毎度一ヶ月分くらい先払いで「誰か」がとっておいてくれるホテルで、瑠璃子は指示された日に「パパに言われたンでェ」とか「美大とかの塾。浪人生みたいなモンで。来てるだけ」とか言いながら、だらだらとチェックインする。泊まって、盗まれるような持ち物もないから鞄をほったらかして出かけることもある。ゴミがあっても夜には片付けられていて、快適ではある。
札師が帰ってこなければ。
今日は居ないようだった。フロントで受け取った紙製のカードキーでドアを開け、瑠璃子は足でドアをとめて中に入る。
「入れば?」
肩先で顎をしゃくって、まゆらに指示。
「風呂も。先入れば。あたし濡れてないし」
器用だし。傘を畳んでフロントに置いてここまでくる間にも、瑠璃子は埃を寄せず、制服に水はねもほとんどさせずに来ている。
フロントで大きなバスタオルを貸して貰ってかぶせられていたまゆらは、自分の格好のすさまじさを思うと、顔から火が出そうで慌ててシャワーを浴びることにした。
「着替え、貸すけど。後でコンビニで買えば」
「あっ、うん、あの!」
「ハイ?」
バスタブのところにあったホテルのタオルを持ち上げて、鏡に映った自分の泥姿にうわあと顔を歪めたまゆらは、瑠璃子を見て、
「ありがとう、ごめんね」
「その顔で言われても」
ばたん、と瑠璃子に戸を閉められた。白い、プラスチックの安手の戸は、閉められた後も壊れそうな音を立てた。
瑠璃子が蹴るか殴るかしたらしい。
(何コイツ)
息が楽だ。このホテルだって安全とは言えなかったのに、まゆらが来て、風呂に入って出てきて、そうしたらぐんと楽になった。
(……気のセイ、ッつうには、変だと思うべきだよなァ)
顔をしかめた瑠璃子に、まゆらは「え、泥とかまだついてる? あ、タオルとか勝手に、備え付けの分使っちゃった、ごめん」と見当外れな事を言った。瑠璃子も同じようにして返す。
「晩飯どーすんの」
「外にコンビニあるよね? それでいいよ私」
持ち合わせが微妙なところで、出来ればホテルなどで散財したくない。
*
岡野は、最近人混みが嫌いだ。昔はそうでもなかったと思う。愛媛の祖母の家で、毎年夏休み、虫取りをするのだけれど、そのころだって田舎でのんびりするよりは、都会の鬱陶しいくらいの人いきれやアスファルトの匂い、焼け付くゴミ、そういうもののほうが心が和んだ。
だから、本当なら、ごみごみした場所の方が好きだ。温泉に行っても、バカ騒ぎしている大人が好きだ。数人が寄り固まってぼんやりしていたりする、そういうのは、何かが近寄ってきそうで、恐い。
(何かが)
夜中の源泉かけながしの露天風呂は、月夜で本当に美しかった。水面がゆらゆらしていて、光は体に吸い付くようで、水音がやけに静かだった。
ああいうときのひやりとした感触。心の底に、冷水がぴちょんと、落ちてきたような感じ。
喧噪の無い場所は嫌いだ。
気配がたくさん、渦巻いている気がする。人間がいるところなら、人間しかいないから良い。
妄執めいた恐怖を、感じなくても良い。
でも今は違う。人混みにいても同じ恐怖を味わう。肩が触れただけで相手の体が突き崩れる。
べしゃ、と温めすぎたジェラートみたいに、地面に倒れて、ひしゃげてしまう。
人間、あるいは犬だったものたち。
「何だアレ何だアレ何だアレ何だアレ!!」
家に帰り着くや否や、岡野は布団を被って目を開けて叫ぶ。声はかすれて悲鳴にもならない。
我に返る、体にうっすらと泥が付いている。あいつらはまるで、ちょっと腕でつついて落としてしまった油粘土の像のように、岡野が触れただけで崩れてしまった。他の人間同士がぶつかっても何事もなかったかのように歩いて去るのに、何故、なぜ自分が。
(俺そういうホラー、何ともないのに)
ホラー映画やパニック物にはあまり反応しない。周りに人がいるからかもしれない。校内で一人になっても恐くないし自宅で一人になってもおそろしいとは思わない、校内には何人か必ず人がいるものだし、家の外に出て叫べば野次馬が出る。ただ元々人の数が少なく限られている場所に行くのが、息苦しい。
それだけなのに、恐い物が増えてしまった。
やはりアレは人間で、触ったら泥になった。なったのだと思う。
いやそもそもアレは人間なのだろうか。
人間じゃないなら?
(そんなの、ガキの妄想じゃあるまいし)
愛してるなら証明してみればとかいって絞めたのが間違いだっただろうか。
あの後くらいからこの症状が出始めたんだと思うから。
でも、だからってどうすればいいんだ。
警察に行って事情を話してマスコミが騒いで静かになって、それから少年院かどこかに行って、義務を果たして出てきて、あぁ機械いじりとか面白そうだしそれでもいい、何か仕事について、生きていこう。
よし。
珍しく、殊勝にまともな考えが出た、岡野は自分でそう思い、気が楽になった。
シャワーを浴びて頭をすっきりさせて、腹が減ったのでジュースと朝の食パンの残りをかじって、冷蔵庫にあったハムをそのまま食べた。どうせ今から刑務所行きになるんなら、家族に悪いなと思う量が増えたって、しょうがないと思った。
死刑になるにしても、こんな恐い思いするぐらいなら、マシだ。死んだら恐い思いをしない。
家にあるものを残らずかじりながら、岡野は瞬き一つせず、柱の時計を見つめていた。
もうすぐ、午後の八時になる。
*
どこをどう走ったのか、覚えていない。雨があがったばかりの路上を走った所為で、服の裾が泥だらけだった。岡野は吐き気をこらえながら、生ぬるい空気を肺に送り込んでは足を前に進めていた。
人が多いほうへ行っているつもりだった。駅前の交番なら人が多くて、考えてみると事件事故が多すぎてまともに取り合ってもくれなさそうで、途中で駅方向の途中にある警察署を目指した。大通りを走っていたつもりで、気付いたら、まだ通りに出る手前の、町内の小道を走っていた。
おかしいと気付いたのは、真っ暗になった空を見上げてからだった。
星が見えないのは慣れている。しかし周りの家の明かりも見えない。あるのは、ぎらぎらした街灯の、一本きりの明かりだけだった。
いぶかしくて、立ち止まる。
緑色の公衆電話が、ぽつんと公園の脇にあった。
手前に、和装の男が立っていた。着慣れた様子で、人待ちをしているふうに見えた。
背のわりと高いような気もする。
岡野は、よろめきながら路地を抜ける。
早く警察へ行かなければ。そのことばかり考えていた。
すれ違いざま、
「岡野?」
男が、声をかけてきた。名字を呼び捨てた。知らない男だった。岡野は、どこかで会っただろうか、親の知り合いか、と目を細めながら睨み付けた。暗くてよく見えない。雨あがりの空気が、べったりして服と体の隙間を奪う。不快だった。
「誰」
ぶっきらぼうに言うと、それが答えになったようだ。
「岡野」
狐の面のように、うわあっと、笑っていた。目と、薄い唇。穴のように見えた。
まるで金色のように輝く、薄い目。
総毛立ちそうになった。足の裏が意に反し、濡れた路面に吸い付けられて離れない。
男は、ゆら、と立っている。上背もあって岡野よりも大柄だったが、どこか枯れた柳のような、乾いた骨の印象を受けた。
風が吹く。生ぬるく頬を撫でる。声が、耳の端を打った。
「失礼。貴方には死んで貰わなければならない」
「は、あぁ!?」
走り通しで苦しかった。喉がそれでも、大きく鳴った。
何。何だソレ。死んで貰う?
「何で」
思わず、まっとうな言い返しをしてしまった。自分でも、通り魔だとか恨まれているからとか、そういう事が頭の端をかすめたが、会ったこともない相手に恨まれて殺されるような理由が、思いつかない。
何かしたか。
男は答えない。糸のような月を思い出す目で、街灯を背に笑っていた。
「邪魔です。貴方個人に、私をどうこうするような力はないが、私のやり方に差し出がましい力を働く。目障りです」
「何、俺がどっかいきゃあいいんだろ。いなきゃ済む、話」
息継ぎが、うまくできない。人通りのない路地だから、薄暗くて、街灯以外に光源がなくて、隣家も亡者のように静かで、無気味だった。
「ははは、どうせ俺、今からケーサツ行くしよ。別に。あんたが、俺殺さなくたって」
上滑りの口調になった。コロスという言葉は、普段騒ぎながら、学生同士が口にしあっているのとは、別の、変な響きに聞こえた。自分で、あぁ何俺、動揺してんの、さっきアレ見たもんな、そんなことを考えた。
考えたら思い出した。泥が、
「う、え」
嘔吐しかけて、胃の辺りを押さえる。その姿を、男は恬淡と眺めている。口を開いて、舌を閃かせて勝手に自分の事情を話し出した。岡野には、その半分も、意味が分からなかった。
「忌部は死者に関わりのある者。その忌部と先祖を同じくし、しかし早い時期に分かたれ遠ざかった者に、たとえ化性の者が紛れ込んで力を得ても、結局、元の血の働きに沿う――忌部の子の、随分と人に紛れてただびととなった者が、狸を嫁に貰い、やがて時に目覚めては力をふるう、その末の者が、岡野。すべての死者を暴く鏡。岡野は、ないものを暴き映す者……岡野という名自体は珍しくもない、ただ、転勤を重ねて係累を隠す、貴方の血の繋がりの「岡野」が、それそのもの。近辺で、一度死んだ者の正体をあばき泥にかえす事件が起こった、その犯人……」
一触れで元の姿を現わし、二触れでうち砕く。男が探していた「岡野」は、最近、マスコミなどをにぎわせた、泥の話にも関わっている。
「探しました。トウゲの連なりでもあるとはいえ、本当に傍流で。どの者も皆、祖を等しくし傍流であるということは、アダムとイブに例をとるまでもなく用いられる方便ですが」
邪魔な力が、他に具現したかどうか、調べていて、男は見つけた。岡野一人にしか、その力が今、継がれていないと言うこと。
「暴くだけの力は、見る力のある者らにとっては、無意味に等しい。見ない者にとっては、目に明らかにするという力は、素晴らしいもの」
す、と目が、細く瞬かれた。岡野は、逃げたいにも関わらず、どうしても目が離せなかった。
「邪魔なのです。これは私の、試みだ。このままでは、作ったくぐつが皆壊れてしまう」
どうしても、意味が、分からなかった。
転勤族の両親、中古で買ったマイホーム、仏壇もなければ神棚もなく、あがめる神などいなかった。道ばたの地蔵にも何も感じないし、神社で新年、友達に呼ばれて初詣に行く程度。
くぐつって、何。くつ?
岡野は、人違いじゃないの、と言いかけてやめる。
男が言った、言葉の一部が、妙に喉に引っかかった。
泥?
「いっぺん死んだやつが、生きて歩いてて、それに肩がぶつかったから、また死んで泥になったってことか?」
そこだけ、明晰に理解できた。
冷えた汗が額から肩に落ちる。岡野の視線を受けて、男は小さく唇のあわせをほどき、ふわりと笑った。
まるで、敵ではないように見えた。
しかし岡部は、体があげる、危機を告げる悲鳴にあわせ、何も考えずに右によろけながら避けた。
男の立ち位置は、変わっていない。しかし、すぐ近くにあった公園の、木の幹と枝葉が、ばらばらばら、と勢いよく、立て続けに崩れて落ちた。断面は、カッターナイフで紙でも切ったように、なめらかで、鋭い。雨に濡れた黒い肌の幹は、白い断面を闇の中で光らせている。
男が、再びかすかに口を開く。
「ひ、うわあ!」
岡部は、とっさに頭をさげる。シャツのポケットから、白い紙箱が転がり落ちた。青いラインの入った箱を見、男がひっそりと息で笑った。
「煙草で命を縮め、緩慢なる自殺は気にならなくても、今すぐに死ぬのは嫌ですか。おかしいですねぇ……」
本当におかしそうに笑われ、岡部は、腕中にぞっと鳥肌がたつ。嫌に決まっている、カッターでむやみやたらに斬りつけられたように、あちこちすぱっと切られるなんて、痛くて、考えただけでおぞけがはしる。
逃げようとして、足がもつれた。膝が笑う。うまく力が入らない。筋肉が、真夏に水を飲まずにいたように、ぶるぶると小刻みに震える。開いたままになっていた目から涙がこぼれ、口の端には泡がたまった。
みじめでみっともないとしても、今の岡部は、こんな状態から抜け出したくてたまらず、むしろ首を差し出して一撃で終わらせてもらったほうが良い気分にもなる。
闇に、男の笑みが、満足げな猫のように浮かび上がる。
そのとき、別の、低くはなりきらない声が、ひょいと軽く割って入った。うわーお、という言葉だったように聞こえる。軽快な靴音が、そのあとに続いた。
「やだなぁ折角見つけたのに横取りされちゃかなわないよホントマジで完全に勘弁」
ゆらり、と街灯の下に浮かび上がったのは、薄茶にも見える、夏物の、裾の長いコート。茶の髪。光を反射するいきいきとした目は、まっすぐに、その男へと向けられていた。
男は、かすかに目を細め、現れた第三者に、薄い唇を開いた。
*
窓を打ち付けていた雨は、先ほどから随分と静かになっていた。
大野まゆらを連れてきた瑠璃子は、今までにない落ち着きを取り戻していた。正しくは――何も警戒していなくてもいい、無意識的にただ「お喋りをする」という、行為に、没頭できていた。
好きな食べ物のこと、生まれた土地の名産品のこと、最近みた映画や番組の話。好きな音楽のこと。
まるで普通の女子高生のように、二人で声を高くして笑いあう。
気持ち悪いぐらいに普通だ、と瑠璃子は嗤う。これが、あの、クソ気持ち悪い、偉そうにふるまう「人間じゃない者」のよこした成果なのだろうか。
「はァ疲れた、喋り疲れた」
「嘘、まだ二時間経ってないけど」
「二ィ時間んー!? ありえねーマジむかつくなもう」
悲鳴のような声をあげて、瑠璃子は自分の頭を両腕で抱え込み、膝をまるめてうずくまった。安いビジネスホテルのシングルベッドは、スプリングがしなびたりしないようにか、ひどく堅い。沈むような体重の動きが加わると、体がみょん、と弾かれる。
まゆらは、きょとんとしたあとに、わずかばかり眉をひそめた。
「え、……むかついた?」
「……いやアンタじゃないし。自分の事だと思ったンなら謝るけどさ、でも自意識過剰」
「う、ごめんなさい?」
「そーじゃなくて。分かってねェなら答えンなバカ野郎」
(何今の。謝るけどさ!? 謝るって何)
随分態度が和らいだのか前のままなのか、るり子は自分で自分がよく掴めない。それで、我に返ると物言いが荒く戻る。
何で、普通に、相手に親切にしてやっているんだろう。あとでコンビニ行くって約束したし。居場所ないなら泊まってけばいいって思ったし。何それ。何だそれ最低。
空気があんまりきれいだから、気が少しおかしいのだ。そう……話していても、ひどく、楽だ。
「むかついたのはァ、こっちが問題。今までずっと、なんつうか、霊感じゃないけど。色々見えたしちょっかいだされたからなァ……そういう、普通に人と話してる暇つうか、余裕ないし」
「幽霊とか、見えるの?」
まゆらが声を潜める。信じないだろうがよと思いながら、この歳ぐらいだと何でも面白がってきゃあきゃあわめくもんだったなと瑠璃子は気がつく。いつもはたで見ているだけだったし、こっちが緑のゲルに追い回されたり猫の目玉のとれたやつにしがみつかれたりしている間に何謳歌しちゃってンだよと腹立たしかったからあえて普段は意識の内に入れなかった。
人間、けっこう、こんなもんか。
あのころのまま、化け物が見えても、触れられても、常に脅かされているわけではなくなったら、この各務瑠璃子というアイデンティティは揺らいで崩れて、普通の女子高生と同じになってしまうのか。
それでもいいけど別に。瑠璃子は、どこかひややかに、内心で呟く。
別に、いい。
「微妙。アレがそういうもんかどうか、わかんないし。一時期、統合失調に似てるっていうから病院行かされたけど、目ェ離した隙に刃物もないのにずたぼろになって泣いてるから気味悪がってさァ、すぐ放り出された。心理学者ッつうのは、あれだな、自分が病んでンのにもきづかねえし、助けてあげるって顔して、玩具とかゴミとか、相手そんなふうにしか見てねえの」
そうでもなければ、なぜ放り出した。瑠璃子は暗い笑いを浮かべる。
「でも、皆が皆、そういう人じゃないでしょ?」
まゆらが、さらりとそう口にする。それまで、黙って、表情を浮かべずに聞いていたのに、真剣でもなくただ事実を述べる顔で、じっと瑠璃子のほうを見つめた。
「たとえば三人の人に出会って、全員があなたにとって駄目でクズでも、その人達が必要な人が他にいたりするし、あなたにも、会う筈の、あなたにとって当たりになる、お医者さんだっていると思うけど。その、霊感とか私わかんないけど、……パパが、そういうのに関係あるようなこと、今やってるから、無いって言い切れないし、でも私としては、あんまりそういうの、無いと思ってる。無いかもしれないけど、でも、それであなたが辛いのが、なかったことにはならないし。辛いのが、今は楽になってるの? それで、それまであんまり話したことなかった内容まで他の人と話せるから、嬉しくなっちゃって、自分が何となくそれまでの自分への裏切りしてるみたいでむかついたの?」
何だ。この女。
瑠璃子は如実に顔に出す。気味悪い。
神がかったように、まゆらは疑問にも思うことなく、ヒントもわずかなのに瑠璃子の気持ちを、言い当てようとした。気味が悪い。大野だいげんと一緒だ。
無意識に正解にたどり着く、その無神経なところが嫌いだ。
でも、この子自体は、嫌いじゃない。だから、瑠璃子は、そのまま話を続けてやる。
「うわッマジでかむかつくな今の」
「今度のは、私にむかついたってこと?」
「あたり。父親と同じ事言うのなオマエ」
「パパに会ったことあるの?」
「ある。実はアタシアナタノママニナルノ」
「嘘」
「あッたりマエ」
どのくらい、話していただろうか。
笑い疲れた瑠璃子は、犬の呼子めいた、高い音を聞いた。
「あー。くそ。参ッたなァ」
別に、自分が呼ばれているわけではないのだが。
頭を乱雑にかき、泥はねのある、ビニール傘に目をやる。傘はこれしかないから、コンビニに行ったり出来るように、この子のために置いていかないといけない。自分は、雨に濡れたところで風邪はひかない(と思う)ので、このままでもいいだろう。どうせ一度死んだし。今更何を恐れることがあるか。
「ちょっと、出てくる」
「私も行く」
「駄目。つうか、まァどうせすぐ帰ってくるし。気にすんなついてくんな財布やるから」
「お財布いらないし」
ばさっと、自分の財布をベッドに放り出して、瑠璃子はさっさと薄汚れた鞄を掴み、ドアを蹴るように開けて、廊下を走る。
「待ってよ」
まゆらが追おうとしたが、部屋の鍵を探している間に、当然、瑠璃子はエレベーターにのって消えていた。
*
壁に固定されている金属板が、はじかれて鳴るような、びぃんという耳障りな響きだった。
菅浩太はコートの内側に縫いつけてみた札が早速役に立ち、今度から「携帯神様! とか名付けて販売しちゃおうかなうふふ俺天才! ていうか茅野ちゃんグッジョブ」と内心でほくそ笑んでいた。が、実際のところ、近隣の家の塀が引き裂けて地震直後のように倒壊し、アスファルトの路面もコンクリートの小さく狭い階段も壊れた状態で、自分一人無傷であることに、手放しで喜んで良いものか、分からない。
ともあれ、浩太は、札を持ったまま岡野を手招きした。怯えに彩られた頬は一気に老け込んだように血の気を失い、呼ばれても、その意味が容易には理解できなかったらしく、より青ざめて唇をふるわせるだけだった。
「な、んなんだお前らぁ……」
語尾が、気弱げに揺れて伸びる。
「そうだ俺それも気になるなぁ初めまして初対面でナンですけどこの子いきなり殺害しようとしてたからには何か、ものすごい深遠な理由がある或いは、ただの通り魔、どっちですかね、お名前聞いて良いですか」
近づいてこない岡野に、すり足気味に浩太は近づく。肩に手を伸ばしたが、寸前で大きく岡野の前に飛び出し、男が繰り出したのであろう攻撃をはじいてやった。
「見えない、んですけどそれってかまいたちみたいな? かまいたちってご存じですよねイタチが三匹鎌と傷薬と何かを持ってぶわーって来るって思われてるけど実際のところは圧力差だったりつまりは真空だったり野生化したアライグマだったりして」
「ご記憶が曖昧なようだ」
かまいたちの持ち物が最後まで思い出せなかったことを指摘して、男が笑う。かすれた喉は、明瞭な音を刻まない。ただ唇のかすかな動きで、浩太はそう言われたと予測した。
「嫌だな会話出来るなら会話しようじゃないですかさっきまでっていうかさっき途中からなんですけど二人の会話が聞こえたもんでそりゃあもうばっちりと、あなたが話せるのは俺は知ってるから」
岡野が震えながらのけぞって、それから思い出したように首を振り始めた。何をされたわけでもない筈、それとも、
「何をした?」
「答えるとでも?」
着物姿の男は、まるで平然と、半身を闇にとけ込ませるようにしてたたずんでいる。浩太が聞き取れるぎりぎりのところで応じられた声は、やはりというべきか、ひどく喜色を含んでいた。
のっぺりとして、甘く。
嫌悪が先立つ。
「何者かは自分で言ってもらおうと思ったけど、やっぱり普通テレビの連続ドラマじゃあるまいし上手に犯人があらすじ説明してくれるわけないよねじゃあ行こうか!?」
戦うか。浩太はちょうど、その日警察でも岡野の指紋や身辺の自称「友人」たちの証言から、岡野をはるべきだと知っていて、また別件も片づくのではないかという予測を立ててもおり、岡野を捜していた。
捜していたからこそ、岡野が闇雲に走り回り、誰かの呪いめいた網に引っかかっても、ちゃんと追いついて、発見することが出来た。
そういった経緯を経るうちに、気が立っていた。
すぐさま懐の札を掴み、引き寄せる。
相手は、ただでさえ細い目を、今わずかに瞬いたようだ。
気短であることが、吉と出るか。
そのとき、突然、浩太を突き飛ばすようにして後ろから、学生が飛び出してきた。
「うおあ危なっ」
誰だ。気配はなかったように思う。
少女は、息を切らせながら、セーラー服の腕をあげた。ゆらりと浮かび上がる姿は、ざんばらになり、切り揃わない髪、手首に巻かれた洗いざらしの包帯、学生用の鞄、どれにも、ごく最近見覚えがあった。
「かっ、」
浩太が名を呼びそうになったが、少女が遮るように、大声をあげた。岡野と浩太の前に出る。
「何してんだよこんなトコで!? テメエらわかってんのか!? 勝手に、散々ほったらかしにしといて、こっちからの定時連絡もさせときながら、返事もしやがらねえ! いっぺん、しばいてやろうと待ってたところだ!!」
「各務瑠璃子……」
浩太が呟くと、瑠璃子は鋭い舌打ちをして、半眼で一瞬、振り返った。
「ルッセエんだよクズ。黙ッて首垂れて家帰って寝込んでろ!」
「何その言い草そっちこそソレでしょー!?」
女子高生めいた口調で浩太が叫ぶが、瑠璃子は無視して、男に向き直った。
睨み付けられても、男はまるで動じない。ただ表情が、わずかに、面倒そうに歪んだだけだ。
「オマエらが近づくと、二キロ圏内でバトられっと耳元でおっさんのささやき声が聞こえるから面倒なンだよ! オマエが後からこの力、付け足したのかどうか、しらねえケドなァ!? 迷惑なのと、あと、いちいち気配がちらつくと鬱陶しいからムカツクんだよあたしの近くから消え去れ! 消え去って二度と来るな!」
「囁き……?」
「そう!」
瑠璃子はまっすぐ、男に指を向ける。手首を覆い隠す包帯の、端の結び目がほどけて、夜の闇にゆらゆらとそよいだ。
「坊主の経じゃあるまいし、テメエの力動かすときにギャンギャン言うンじゃねェよやかましくて迷惑」
「経?」
反応したのは、菅浩太のほうだった。狐目の男は反応しない。
「あぁそっかうなり声みたいなのが聞こえると思ったら術の大半は力の流出のせいでその流出が「経文」みたいに君には聞こえるわけだねなるほど。案外妄想じゃなくてちゃんとまともに術使えるんじゃない各務瑠璃子」
「呼び捨てにすンな! クソがうるせえんだよ!」
「女の子じゃなくてもくそくそいわないほうがお上品だよ」
駄目だ。こんなの相手にしていたら、目的の相手に逃げられる。瑠璃子は気を取り直し、金色に見える狐目の男をぎっと睨んだ。
「ていうかさァ、いい加減正体あらわしたらどう。何ッかおかしいと思うンだけどさァ、アンタらの目的、よく考えたらアタシ知らないまんまで力試しだけさせられてんの、何でアタシが生き返らされてるわけ!? ていうかやったの本当にアンタらか!?」
「口が、過ぎるようだ」
男がようやく、はっきりとそれだけ言った。
言われただけで、瑠璃子はがくんと膝から折れる。
「ッてえ……!」
アスファルトに打ち付けた膝頭から血があふれ出る。頭にも背にも、真上から重たい空気が落ちてきていて、肺が潰れそうで息が出来ない。
「ぐ、」
路面の砂を引っ掻いて、小指の爪を折りながら、瑠璃子はそれでも顔をあげた。
おかしいことに気が付かなかった、そのことを先日から瑠璃子は、銀月の一族の連中に対して、思っていた。せせら笑っていた。でも違う、瑠璃子だって同じだ。
「あたしは、アンタらのことを、知らない、知らないのに何で命令された……!?」
吐き捨てる。
あわせて、男が再び何かを唱えた。瑠璃子の耳にははっきりと聞こえる。僧侶が複数名でかなでるような、折り重なるような、低い経文の声。意識と記憶に、靄がかかりそうになる。
「何、仲間割れ? 君ら知り合い?」
慌てたようにそう言って、浩太は軽く頭を振った。その声にあわせたのかというタイミングで、岡野が、思い出したように猛然と走り出した。完全に不意を突かれ、浩太は置き去りにされる。瑠璃子が阻むから狐目の男も動けない。
「あっくそっ」
「アンタもクソとか言ってンじゃんかァ!!」
叫んで、走り出した浩太を瑠璃子が反射的に追った。背後にいた男は、一歩踏みだしかけて、やめる。不快げに右目を細め、目元に深く皺を刻んだ。そうすると老けて見え、実際の歳がかなり上であることを示す。
「小賢しい真似を」
足を、引きずるように上げる。右足が地面を離れる瞬間、ばりっ、と、静電気あるいは雷を受けた家電製品のように、耳障りな音が響いた。
公園の向こうの暗がりで、ひそやかに、キセが小さいため息をついた。
男が去るのを見送ってから、浩太達が去った方角へ向く。
追いかけなければならなかった。
菅浩太は岡野の特性を知っている。まだ可能性として――予測しているに過ぎないだろうが、もう少し踏み込んでその意味を理解していればいいと、期待する。
もし気付いていないのなら、悲劇は、岡野を捕まえた瞬間に起こるのだ。
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