第二章 紀元の伝説
*
「じゃーん!」
銀月の一族が持つ邸宅の一つには、仕切りというものがほとんど無かった。もとから無いわけではなく、ただ単にすべての間仕切りを取り払っているだけである。
どこかへ消えた障子や襖は、そのうち日が暮れる前にどこからともなく現れた女中のような男女たちが片づけてしまう。初めのうちはびくびくしていた日向や裄夜や孝らだが、徐々に慣れて深くは考えないでおくことにした。
さておき、そんな屋敷で、庭からひょいと顔を覗かせた菅浩太が四つ足で縁側を這って上ってきた。畳の縁を蹴る音で茅野が振り返り、眉をひそめる。
「こーたっ、がっさがさしないで。格好悪いよ」
「いーやだってさあっ聞いてよ聞いて聞いてくださいお願いしますこれ見てよ」
言う側から音高く畳を擦って歩く。
「ぎゃーもう人ンちでそういうことしないでよもー! あんたそれでも本上で作法やった人なの!?」
「えーだって俺大学国外だっしー」」
「関係ないじゃん!」
なにやら慌ただしい。丁度休日で、ここに集まっていた水瀬裄夜、中津川日向も、七並べに使っていたカードを片づけながら振り返った。
「どうかしたんですか、今日もまた汗だくで……」
「浩太さん、もしかしてまた勤務時間なんじゃない?」
白衣の裾を翻し、きちんととめたボタンを引っ張って風を送って浩太は頷く。
「裄夜くん、今日もまたしけた顔してんねえ哀しいねえ俺この紙で君を幸せにできる?」
「いや、そう聞かれてもちょっと……今すぐには判断がつかないというか……」
「あのねーお土産だよ!」
裄夜の答えをはなから期待していない。浩太は即座に自身の話を続け、何とはなしにへこんだ裄夜の背を日向と孝が軽く撫でて慰めた。
「プリントしてきたんだよこれ、これ」
ひらひらと右手でコピー用紙を振ると、浩太はそれを差し出して部屋にいた者から注目を集める。
その左手に持っているのは、緑みを帯びた和紙の表紙で、数枚の和紙を糸で綴じた冊子だ。一見すると謡曲の教本のようにも見える。視線を受けてか、浩太は裄夜に本を渡した。そして本をめくる代わりにコピー用紙を繰って示す。
「ここから、今裄夜くんに渡した文献を現代語訳にしてあるんだけど、読み上げるね」
それを聞き、カードを揃えて卓の上に置いた日向が、慌てて廊下へと顔を出した。
「あーきらさーん」
声は廊下の上を跳ねて、どこへともなく流れて消える。黒光りする茶の板床はこの暑さでもしんと冷たい。もう一度叫ぼうと息を吸ったところで、
「良いから、日向ちゃん。あの人にはあとでコレ渡せば充分だから」
浩太が振り向きもせずに手招きし、日向は明良を呼ぶのをやめ、廊下を振り返りながらも戻ってくる。
「これはねぇ、ちょっとはしょるけど、まぁ俺ンちの蔵かなんかにあったわけだよ」
「なんかなんですか」
「ゆっきうるさい」
「うるさーい」
笑いながら日向が便乗し、その明るさに孝がびくりと身をすくませる。確かに最近日向のテンションが高い。高すぎるような気がして、裄夜は何だか落ち着かない。――元々声を立てて笑いはしゃぐ女子と親しくなかったという理由もあるが、最初に目に見えた異変を持ち込んだ千明カレンこと冷羽の調子を思い出すから余計に不吉に思われるのだろう。
「どしたのみんなー? 何でそんなにバカみたいに怪談百物語とかしたそうなの俺今なら三十一個知ってるけどそれ以上言うとホントに色々あるからヤメテとか大学時代に日本文化を知りたいって言ってた先輩が」
「はいはいこーたっ」
真っ昼間に生ぬるい風を受けて恐ろしそうな顔をする少年たちの様子を評し始めた浩太の白衣の裾を引きずって座らせ、茅野がコピー用紙を指先で叩いた。
「ねぇそれでこれって何なの?」
「昔話だよ」
あっさりと話を元に戻し、浩太は用紙に指を入れて綺麗にめくれるようさばいた。
「昔々……そう、一族の根幹に関わるのかも知れない、一つの伝説。ありがちなんだけど」
――それはごく普通の、昔話らしい昔話。
昔、三人の天女が森に降りてきて水浴びをしていた。
「間、大分はしょってるからねー」
天女の一人が羽衣を無くし、天へ戻れなくなった。
「その近くの村の若者に隠されていた、ってセンが濃厚だけど。それについては記述がない」
天女は途方に暮れたが、とりあえず近くの村で暮らすことになった。彼女は大変気立てが良く、村にすぐなじみ、親しまれた。
「――天女、ですよね」
「えらくまたあっさりと受け入れられたんですね」
孝の呟きと日向の感慨をよそに、話は進んでいく。
「ある日、平穏が破られた」
兄である竜が降りてきて、妹を返せと、盗んだ人間たちに怒りを落とした。村には風が吹き荒れ雨が降り注ぎ、森がなぎ倒され、穀物の多くが奪われた。洪水に飲まれた中、人々は祈った。
「最終的には妹である天女の懇願によって兄は怒りを鎮め、妹を守ってくれていた人間たちに礼として玉鋼色の鱗の一枚を与えた。彼の舞い降りた場所には水が湧いて、その水を飲むと病が癒えるとかなんとか。で、それはともかくとして」
「えっ今の前フリなんですか!?」
裄夜が思わず叫び、持っていた原書の紙を少し握りつぶした。
「うん、実は前フリ。本題はここから。この天女の名前が花陽なの、竜の名が玉竜」
「か、ようって! それって」
花陽。それは銀月の一族の、最も高い位置にある者らの片割れの名に酷似する。
言いよどんだ日向に浩太は多分正解だと軽く返した。
「でも確証はない、ここの連中は皆曖昧で明確を嫌う。それに一族とは名ばかりで、実のところまったく団結する気がないらしい、それぞれの意志で好き勝手に生きてるだけだ、もし銀月の一族がもとは結社的なものであったとすれば形骸化もいいとこだね」
「つまり伝説についてとか一族がどんなものだったのかって部分については誰も教えてくれなかったってことっしょ、こーた」
どうでもよさそうに浩太から目を逸らした茅野は、ふと、裄夜が真剣な顔をしてもとの原稿を繰っているのに目をとめた。
「どうしたのゆっき」
裄夜は答えず、原書の一点を見つめている。
「裄夜?」
おそるおそる問いかけた日向に一瞥もくれず、裄夜は原書を回して浩太が読める向きで差し出す。
「……浩太さん、これ」
「何、なになになに、何かあったの?」
「玉竜、って言いましたよね、今」
「うんうん、うん? あー言ったね、言ったいった。花陽妃はあるのに銀月王が居ないってことは二人は別々に集まってきたものだと思ってたから玉竜のほうはノーマークだった実は」
「……この、竜のほう、知って、るかも」
「ええっ!?」
「いや何でそこで中津川さんがびっくりするの」
「だって……いつそんなの知ったのよ」
居心地悪そうに言った日向に、裄夜は君も居たはずなのにと首を傾げる。一族の持ち家を巡るわずかな期間で――一つの家に一週間を限度に留まって記憶の戻りと一族の裁定を待っていた時に、一度、裄夜は日向と共に異質の民にあっている。
「前に一族の家で、東北だったかな、ほらトカゲの」
「あ、ああああっヤモ! ヤモリ! ヤモリの人だ、思い出した。あの時? 何かオオスギサマがキセのことを知ってるからって、ヤモリの人が庭掃除の手伝いさせてくれたり」
「……待って日向ちゃんあのさあ俺人のこと言えないんだけど今君すごく意味不明なこと言わなかった?」
「あっえーとね、ヤモリの人っていうのはその屋敷を守ってる人たちのうちの一人で、いつも作務衣の姿の格好いいお兄さんなんですけど、元々ヤモリの仲間みたいなんですって」
問題なのはそこではない。どう言ったものかと沈黙した浩太に、孝が周囲の説明しがたさの雰囲気に飲まれて妙に落ちつきなく急須を手に取っては台に戻した。
「……えーと、まぁ色々あってですねっ、裄夜がキセの手がかりを得ようってことで、山に一人で出かけた日があったんです。そっか、どこかで聞いた気がしたと思ったら、裄夜が言ってたんだ、ギョクリュウって」
「そう、そこで大杉様がキセの父親の名を」
日向の説明に勢いを得た裄夜は、しかし言った瞬間に首をすくめた。嫌な予感でもしたのだろう、回りを見て、キセなどの姿がないことを確認してから口を開きなおす。
「玉竜、だと」
潜めた声が思いの外広く通って、裄夜は苦い表情になった。陰口をたたいている気分がするのだ。気にせず、浩太は渡された原書の文面を指先で辿った。
「てことは彼は父親が竜ってことにはなるのかな母親は何だって言ってた? ていうか大杉って何? 杉?」
「杉です、千年くらい生きてるとか言ってましたけど、近くの雀が、キセが生まれるより前にいたと言っていたのでもっと長生きの。でも杉の木に見えなかったから杉じゃないかも」
「ちょっと待って裄夜くん、もっと長生きだって判断したってことは、キセが幾つか知ってるってことだね?」
そこで、しばしの間が開いた。蝉がかすかに鳴いている。どこか遠慮がちに風鈴も鳴った。浩太は原書を手近に居た孝に渡す。渡され、孝は困惑して周囲を見たが誰も受取手は居なかった。
「あ、あれ?」
「もしかして裄夜、気付いてなかったの? 私もよく分からなくなるけど。記憶が自分のかシズクのか夢で見ただけなのか」
所在なさげな孝の隣で、日向が上から投げ落とすような音程で声をかける。
日向も、初めにシズクの記憶を寝ぼけたときのように現実の中に混ぜ込んでしまった経験がある。その黒い目に力づけられるように裄夜が頷いた。
「そう言えばおかしいですよね、僕キセの年齢知らないのに」
「年齢じゃないってことは、何で判断した?」
「……年代です」
裄夜は、目覚めた直後に夢の内容を忘れてしまうようにして記憶に逃げられないよう、慎重に自身の脳裏に映る影を追いかけた。
「朱塗りの門、現代で言うところの平安時代より少し前の辺りに、どこかの農村部での記憶があるので――多分キセの記憶、だと思うんですけど」
「あぁ夢かも知れないよね、そういうの良く分かんないよね、深層心理とかで混ざっちゃってるのかもしれない」
「キセには聞かないの?」
日向が首を傾げ、孝から原文の本を受け取る。裄夜は小さくため息をついた。
「聞けないよ、だってあの人ふらふらふらふらしてて訳分かんないよ、僕が何聞いても謎かけみたいで」
「案外それしかできないのかも知れないね」
呟き、浩太はうん、とコピー用紙を日向に手渡す。
「とりあえず俺もう一回洗ってみるわ、うんそうしよう裄夜くんも日向ちゃんも、できれば孝君も! 何か思い出したことがあれば俺に教えてよ、俺実家じゃ結構冷たくあしらわれちゃってホント全然一族のことわかんないから。教えて。それじゃ!」
そうして、音を立てて白衣を畳から引きずりあげ、浩太は来たときと同様慌ただしく縁側から出ていった。すぐに庭先で使用人らに声をかけられているらしい気配があったが、それもやがてかき消える。
「……どうなるんだろね」
呟いた日向に、それはこちらが聞きたいと居合わせた全員がぼんやりと思った。
*
「伝説、ねぇ」
首を傾げ、新しい宿泊地で日向は荷物を開封する。
「伝説って何だろね、ねー裄夜」
「ええっ?」
聞こえていなかったのか聞いていなかったのか、裄夜がキッチンから顔をのぞかせる。冷蔵庫に買い物袋の中身を放り込んでいた彼は、金色にも見える目を細くすがめた。
「伝説? 何が?」
「だから、玉竜とか。銀月の一族って、そういう一族があったってことでしょ、そういうのが今も分かるっていうのは、伝説とか歴史とか、噂とかが残ったせいだよね」
「まぁそうだろうけど」
それがどうかしたのだろうか。裄夜は首を傾げつつも自身の作業に勤しんだ。青葱を洗って刻み始めた男子高校生の後ろ姿を眉をひそめて見つめ、日向は、段ボール箱を部屋の片隅に押しやった。
「何でそんなに自分で料理できるんですかー」
「何でそんなに恨みがましく言うのかな中津川さん……」
「だっておみそ汁の出しも夜から取って朝ご飯の時におみそ汁つけるんだよ、あり得なくない?」
「なくはないでしょ……」
遠慮がちに孝がリビングを通過する。それに目を移し、日向はだって、と唇をとがらす。
「朝はパンだったし」
「あぁ、朝食形態が違うんだ」
それで不満なのかと、裄夜は冷蔵庫に貼られていた当番制の料理表を包丁を持たないほうの手でめくる。
「明日は里見、だよね、朝ご飯は和食の人?」
「え、っと」
問われ、運んでいたバッグを片隅に置いてから孝が答える。
「うちはその時々で違ってました、けど」
「けど?」
「コーンフレークとかじゃ、駄目ですか? コーヒーとヨーグルトと果物付けますけど。コーヒーは一応、おいしいのがあるんで」
「それで構わないよ。じゃあ晩ご飯には鮭を使い切ろうか」
裄夜は冷蔵庫の扉に貼り付けたレシート用紙を指先で引きはがした。さほど器用なわけでもないが、可も不可もなく食べられる料理を作れる学生を見やり、日向は少しだけむくれる。
「孝君は呼び捨てで私はさん付けなんだ」
「何で僕が怒られるわけかな」
百円均一で買ったスプーンでカップのフチを叩きながら、日向は別に、と返して紅茶のティーバッグを袋から取り出す。
「伝説が残ってるとしてもそれが正しいわけじゃないし、口伝されてるとしたらそれは歪むわけでしょ? 一族って、本当にあったのかな」
「話、戻すのは構わないけど。僕は里見さんって言ったらお兄さんの方になっちゃうかなと思ってさん付けにしてないだけだから」
「うんそれは分かるんだけど、じゃあ私が家族と居たら名前で呼ぶの? 名字呼び捨てるの?」
「関係ない話に逸れてるよ中津川さん」
わざとらしく名字を呼んで、裄夜は炊飯器からあがりはじめた湯気を見やった。
「でも良かったよ、皆好き嫌いあんまりなくて」
「好きじゃなくても食べられるようしつけられてるんだもん、私魚苦手。骨が」
「……揚げ物でも駄目ですか?」
孝が何故か犬嫌いの子供が犬に近づくようにおそるおそる言う。
「骨とか、しっかり揚げるとスナック菓子感覚で食べられておいしいですよ」
「うん、だからそう言うのは多分食べられるんだけど、骨を上手によけられないから苦手なの、ミルフィーユを外出先で食べるのが嫌なのとおんなじ」
「成程」
男性陣が納得するのを見て、日向は薄気味悪そうに眉をひそめた。どうしたのかと裄夜が振り返って問うと、
「何かね、へにゃふにゃした男ばっかりだと疲れちゃうなって思ったの。もっとはきはきしてほしいというか……勿論アレは行き過ぎなんだけどね」
扉を引きちぎらんばかりの勢いで開き、床板を破らんばかりの勢いで駆けてきた青年が、沈黙した若者たちに首を傾げた。
「あっれ皆どうしたの今日お通夜でもあった?」
「……成程」
菅浩太の勢いと孝のびくつきようを見ると、確かに、いい加減にどうにかしてくれと思う気持ちも分からないではない。
「俺ンち上だからいつでも頼ってきて良いよ! 哀しいことがあったらいつでもねーだけど俺最近あの部屋帰ってないわけだからむしろ呼び出すなら携帯とか使って直接喫茶店とか出先で会う方が早いというか」
「浩太さんそんな訳分かんないこと言ってないでお茶にしませんか?」
にこりと笑った日向が、段ボールから出したばかりのケトルを流し台で洗い始める。彼女のために場所を空けた裄夜は、その不穏な笑みに表情を引きつらせたが、浩太はまるで気にしない。
「お茶? お茶って言われると今年の初釜のこと思い出しちゃうから駄目だな俺すさまじいことしたから、だって備前焼なのに何で越前初めとか訳分かんないこと言ってるんだろうね!?」
「聞かれても私浩太さんのこと最近まで知らなかったですから」
「……中津川さん変わったよね」
裄夜の言葉に、日向はかすかに首を傾げた。
「変わらない方がどうかしてるよ」
それもそうかもしれない――浩太に首根っこを掴まれて隣に座らされた孝の慌てぶりを見ていると、裄夜はいたく納得がいった。
「成程……」
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