第八章 アンセルムスの剣(つるぎ)
第八章 アンセルムスの剣(つるぎ)
*
浩太が救急車に運び込まれ、裄夜(ゆきや)は里見裕隆を伴って病院行きに同伴しようとした。
しかし、周囲の雑踏に、やけに覚えのある匂いがして足を止める。
「あ、水瀬くん!」
手を伸ばした裕隆を置いて、裄夜はまだ出発していない車両を飛び出した。いったん引き返して連絡先を告げ、明良忠信に水瀬が別行動をとったと言って貰えるように頼む。
そうして、了承もきかずに走り出す。
「待て!」
人混みのなかを、まるで生き餌のような春色をした服が行く。するりするりと殺伐としたあわいの足下を抜け、そこ一点だけ色づくレースとスカートが行く。人か否か識別する以前に、意識に切り込む衣装だった。人形か人か、判然としない。そこは問題ではないのかもしれない、誰かを思い出すときに、その胴の長さを具体的には知らないように。
「ま、て!」
気づくとどこかの公園まで来ていた。
大きくもない広場には、不思議なことに人影がない。
もう子どもは帰ってしまったのだろうか。
こぢんまりとしたブランコが風もないのに大きくきしんだ。
立ち止まった足に、急激な変化に非難するように血流が流れ込む。じめついた肌に風がやけに粉っぽく感じられた。空気に異質な粒子が混ざっているのかと思わせるほど、ぬれた肌が気持ち悪い。
少女は無言で裄夜に背中を向けていた。
この段になって、裄夜はようやく、追いかけていた相手が少女だと言うことに気がついた。
彼女が裄夜の胸当たりまでもない身長で、両手に余る茶色のテディベアを抱えており、少々時代がかったようなフリルだらけの服を着ていた。それにも、今ようやく気がついた。
「待ったわよ?」
耳に甘い声がして、裄夜は、途方に暮れたような気持ちで少女を見つめる。
「私は貴方の言葉に従ってあげたのよ? 契約には報酬を」
無知を嘲るような、密やかな笑いを含む声だった。ふわりとした金髪が空気を含み、湿度をものともしないで柔らかく少女の頭におさまっている。
「違うな、お前が勝手にとまっただけだ。そんなささいな言質で動く――それがお前たち西洋神魔のやりくちか?」
口をついて出たのは、裄夜の言葉ではない。裄夜は操り人形にでもなった心地がしていた。意識はあるのに、身体が思うようには動かないのだ。妙な熱を持って、金縛りにでもあったかのように自由が利かない。
しかし恐怖は薄かった。キセは今のところ裄夜を死に至るような危機に陥れたことがない。むしろ裄夜でいるときよりも、有効に体を使っている。――それはかなり、腹立たしくもあるのだが。
「なぁんだ、気づいてたんだぁ」
くすくす、と軽く笑い、少女はスカートの裾を翻す。
レースの縁取りを思わず目で追い、裄夜は低くうなるように言う。
「やはりお前か、とキセが」
不意に自分に身体の主導権がうつり、重さに耐えかねてよろけながら裄夜は告げる。
不安定なようだ。
裄夜は眩暈をこらえながら、逃すまじ、と相手をにらみつける。
ちいさな少女は年に似合わぬ傲慢さで肩をそびやかした。その背には、見えないけれども奇妙な力が凝っている。
「あぁん、じゃあやっぱり貴方がキセなんだ? 符崎奇跡(フザキキセ)――分不相応よねぇ、奇跡(ミラクル)ですって? ただの化け物が」
毒づくセリフに、裄夜は再び眩暈を深くする。
「――それはそちらも変わりない」
金色の瞳と目を合わせ、少女はしかし怯むことがない。
キセは自らの色を持ち、闇色の法衣をはためかせてそこに立つ。
「アンセルムスの剣――生きていたとはな」
裄夜より低い、直接脊椎に響くような声。
「ふふ、いい加減飽きてきたけれどもね。……そっちもまだ飽きもせずに生きてるじゃない、おあいこよ」
少女は言葉とは裏腹に、どこか喜ばしそうにそう答えた。
裄夜はいつの間にか自分の隣にキセが立っていることに気がつく。
疑問を口走るより先に、少女が答えた。
「私たちは肉体によらないものでもある。身体が無ければ互いに干渉しあえないし、面白いことをするためにはけっこう使うけれどね。そう、この世界には本来なかったハズの元素。いえ、あったけれども物体ではないもの。夢想と呼ばれるもののたぐいでもあって……この世界の元素を集めて実体にしたり、人たちの意識に入りこんで『存在』を認めさせる幽霊。ふふっ、実体を保てるたぐいの神魔は、魂を他のやつにとられても、記憶から存在を再現できるってコト……うふふふふ、柄にもなく親切なことをしたわねぇ」
説明したつもりらしい。裄夜は余計に混乱を深めたのだが、プライドが高そうな少女のやけに老けた仕草に沈黙した。
キセはまだアクションを起こさない。
錫杖は裄夜が持っている。キセはどう戦うつもりなのだろう、と裄夜は身構える。
「そういえば、あんせ……って、名前なんですか?」
少女が、軽く笑いをはらむ。それがどこかうつろなもので、裄夜は発言を後悔した。
「私の名前は誰にも呼べない――教えないもの、脅迫の言葉なんてね。名前は存在を示す、曖昧でも、名によって存在を指定してイメージできるから名前はつよい。怖いモノ。私を人間ごときが縛れるわけがないけれどね! 私は恐れを知る人間にはこう呼ばれるの、アンセルムスの剣、って」
幼女の姿にそぐわぬ笑みで、彼女はこちらを振り返った。白い肌は頬だけ上気してほの赤い。かわいらしい少女だった。アンティークの西洋人形を恐れない心の持ち主ならば、彼女をコレクションに加えても良いだろう。人ならば、生きていてもおかしくはない。しかし人形のような清浄たるその顔で、瞳が生気を放っている。
これはおかしい。
本能が恐怖を呼び込む。
キセの瞳よりも作り物めいた黄金色の虹彩がひかる。
「蟲の放ち手は私じゃないから」
舌なめずりをしそうな面もちで彼女はわらう。
「裏切り者の仕業みたいよ、あのひととってもお馬鹿さんだから、私たちがつつくまでもなく勝手に走り回っているわ」
「札師か」
キセが呟き、錫杖を振る。
その、きん、とした音。
本来、錫杖は山野を巡る際に用いられたが、のちに法要で「鳴らす」ことに目的を変えたものもある。
音で、世界をひらくような。
昔、鈴が魔よけの意を持って振られたように、錫杖もまた、闇を開く。そこに存在を主張し、集中を破りかつあらたに作る。
頂部の輪形にとおされた遊環が鳴るさまは、なぜかひとを、しん、とさせる。
「なぁんだ、やっぱり気づいてたんだ」
私が実体じゃないってこと。
急速に薄れゆく姿で、アンセルムスの剣は言う。
「まぁ、キセを発見できただけで上出来、上出来」
「……あれは影だ、」
聞いているのか、と言われ、裄夜は慌てて頷いた。
理解したのを確認して、キセは裄夜に錫杖を返す。
「お前自身で身を守れ。俺は一度は死んだものなのだから」
いつまでもあると思うな。
親と金ですか、とうっかり返して失笑を買い、ほぞをかむ。しかし知らぬ顔をして、裄夜は渡された錫杖を握りしめた。
そして。
「……キセ、あんたまさか」
身長差から、自然と上目遣いになる。睨まれる形になって、キセは表情一つ変えずに見返す。
「救急車に乗せられる前、菅さんはいったん意識を取り戻した」
腹の底に力を入れて、激昂をおさえ、裄夜は低くうなった。
ウタウタイが関わっている事件は二つだけ。他の事件には裄夜が遭遇した蟲の主の仕業である。
「菅さんの教えてくれたことが、その推理が、正しいとするならば」
そしてキセが、これまでのように不規則に降って湧くだけでなく本当は今のように現れることが出来るのであれば。
「飛ばされたのは、六甲山の」
つばを飲み込む。
三浦珠洲が見つかったのは、六甲山中。
茅ヶ崎アユムが発見されたのは、学校。
他のいくつかにはウタウタイは関わっていなかったと浩太は言った。
この二つの事件は、どちらもウタウタイに関係の深い場所なのではないだろうか。ただのカンだが、間違っていないと確信した、キセはおそらくこのウタウタイを知っている、そして孝がそのウタウタイだと言うことも。
あいまいな、夢にも似た記憶が、キセとどこかで共有されている。それがひどく不快だが、現在の裄夜にとっては使える手札に変わりない。
「キセ、あんたはウタウタイのことを知っているのか?」
沈黙の闇に、裄夜はただ視線を据える。
「……あぁ」
はぐらかそうとした気配が、一瞬、諦めに似た吐息をうむ。
「本当は、俺は黙っていようと思ったのだが」
「知ってることがあるならさっさと言えよ」
ぴりぴりした口調に、キセがからかうような語調をはらむ。
「ふん? お前は俺が嫌いなのではなかったか? 不可解な事件に巻き込まれ、ましてや他人であるはずの俺の身代わりとしてその存在を要求されている」
「愉快なわけがないだろうが」
穏当な、というより優柔不断な態度は捨てた。裄夜は沸点の気持ちを抑えつけてどうにか問う。
「お前、知っていたな? 今回のウタウタイは数百年か前に銀月の一族で拾ったウタウタイだと」
「あぁ、拾ったよ」
そのウタウタイは、歌を歌えなくなったのだという。
ある日突然、声が喉に詰まってしまい、どうにもこうにも出てこない。
たくさんの妖怪たちも心配してやってきたし、土地神もまたその声を聞こうとして手を貸したのだという。
しかし、彼は話すことが出来なかった。
「なぜだと思う?」
余裕ぶったキセの声が、たまらなく憎い。
もし知っていれば、解決の糸口になったかもしれないたくさんの情報を、この男は素知らぬ顔で隠していた。過去の記憶はわずかに裄夜が拾うだけで、たまに無理矢理後ろから操るような真似をして身を守らせる以外には存在を示さなかった。
「……僕が必死で探していた間、あんたは笑ってみていたって言うのか」
「答えになっていないな」
怒りの言葉に軽く返し、キセは「まぁそう怒るな」といなしてしまう。
「俺がお前の前に現れなかったのは、意識が混濁していたということもある。最近だ、自分の意志で動けるようになったのは」
疑い深げに見上げる視線に、キセは苦笑して本当だ、と呟いた。
「しかし俺もすべてを知っているわけでもないし、お前が自分で手に入れたものでなければ何も役には立たないだろう? 情報は与えられるべきものではない、かき集めなければ身に付かぬ」
「でも」
「先程の続きを言おうか、」
ウタウタイは、力のタガの締め方を見失ったのだ。まるで、幼い頃の握力とはまったく違う大人の力に慣れずに戸惑うように。
不意に、ある成長期の晩に体のきしみを聞くように。体が、見知らぬ様相を呈する。
そのときに慣すことができるから、人々は今もまだ体を、自分を、我がものとして扱うことができる。
だが、奴は違ったのだとキセは言う。
静かに、医師がただの症例を告げるかのような平静さでただ告げる。
「扱うために慣れるには、あまりに大きな破壊を生みすぎた。慣れるまで加減を学ぶということはできなかったのだ、影響がひどすぎて練習というものがまるでできなかった。だから封じたのだ。それが余計に齟齬を生む結果となるとは知らないで」
世界は、愛し子の声を聞きたがっている。願いを叶えたがっている。それなのに、声は抑えられている。
誰の所為か?
ウタウタイが話さないのは、もしや周囲の連中の所為ではなかろうか。
ならば――。
「それは今も昔もさして変わらぬ。今回はウタウタイが精神的に不安定で自棄状態にあった、その原因をみんなで排除しようということなのだろう」
我らの愛し子を大切にしないのならば、それ相応の罰を与えよう。
それは日本の人外の存在の持つ、一つの側面でもある。
「それは実行された。一つだけではない要因が、絡まって、そうして事件の形に見えている」
一度目は、ウタウタイが追い回された、因縁深き山の奥へ。
二度目は、ウタウタイが追いつめられた、業の深い学校の中へ。
「死体はひきずられていった。世界がそうしたがっていたようなものだ……ちいさな、目にも見えぬ羽虫のような輩が、こぞってウタウタイのために仕返しをした」
これがウタウタイの本質。かわいい子どものために、皆がこぞって手をさしのべたがる。本人の意図とは関わりなしに、わずかな言葉から行動を起こす。
「そんな恐ろしい力を持っていて、おかしくならぬほうがどうかしている」
うそぶいた横顔は、有用な情報を何も示さない。
「……あんたは、どうなんだ」
「俺はあそこまですさまじくはない」
第一、あれほどの逸材は、千年に一度も出はすまい。
「あれは人として生まれたしな」
呟いた声は小さすぎて、裄夜はあえて聞こえぬフリをした。
追求するにはあまりに雑事が多い。
黙り込んだ裄夜に、キセは変わらぬ冷徹な声で言う。
「ウタウタイが消えるぞ」
「は?」
「ウタウタイは過負荷で相当きれている。自分が悪いと思っていた人間ほど、追いつめられた最後の反動は大きいぞ」
自分のうるさい周りごと、消失するかもな、それを最後に、裄夜はキセの姿を見失う。
「え、ていうかどこ、どこに行けば」
そのぐらい自分で探せ。
キセの代わりに、ざわざわと、木々が歌いさざめいた。
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