第九章 おしまいのひに

第九章 おしまいのひに


   *

 もう、終わりにしよう。

 これまで、孝が後ろ向きな考えでさぞかし気に障っただろう、悪いことをした。

 これまで、孝が言葉をうまく扱えないで、誰彼かを傷つけたことだろう、すまないことをした。

 でも。

 これでもう終わりだから。


 タイヤが鳴る。

 止まりきるのを待たず、日向は車から飛び降りた。

 往来から悲鳴が上がったが、むしろそれで日向自身が我に返る。

「……うっわ、シズクちゃんてば、ときどきすごいことするよね」

 そうでも言っていないと、気が変になりそうだ。

 孝の後ろ姿が、半分空間にめり込んだかたちで中空にとまっていた。

「孝君! 聞こえる? 聞こえるなら戻ってきて!」

 叫ぶ声は届いているのだろうか。

「日向ちゃん! そこ、周り中になんかいる!」

 車から出ようとせず、半分耳を塞ぎながら茅野が教えた。

 ざわざわとざわめく音に気がついて、日向はぐっと目を凝らす。

 空間を歪めているモノ。

 それは、夏の怪談特集でもみかけたような、奇怪な顔をした細い手足の有象無象で。

 半分以上が半透明をしており、ぎょろんと日向に目を向ける。

 息をのみ、自然と後退する。

 が、その間にも、孝の姿はどんどんと見えなくなっていく。

「どいてよ!」


   何を言う。

   ウタウタイが望んだことよ

   そう、たくさん考えることがあって大変だなぁにんげんは

   だから我らもやりやすい

   これは望まれたことなのだよ

   ウタウタイの力を取り込んで我々はつよくなれる

   おおきくなれる

   腹がくちるまでくえる


「それが本音ね」

 犯人は一人ではなく。

 たくさんの事象が便乗して、推測者の邪魔をしている。

「孝を返して」

 胃の腑からはい上がるものを押さえ込んで、日向は声を絞り出した。

「返しなさい」


   断る

   ――もう、いいんだよ


 不意に、透明な空間に透明な顔が浮かび上がった。寒天より弾力性に富んだそれは、ぶよぶよと不安定に波打っている。それが孝をかたどったモノだと気づくと、日向は吐き気をこらえながら、手にした携帯の通話ボタンを押した。2コールで相手と繋がる。後ろにいるひとたちより、なぜかずっと近くて遠い、奇妙な連帯のある相手に。

 水瀬裄夜に。

「中津川さん?」

 むこうの息が上がっていて、日向は一瞬、息をのむ。よほどまずいことが起きたのだろうか。不安をよそに、裄夜はいつになく早口でまくし立てる。

「僕、携帯、持ってたんだね忘れてたすっかりまったく全然、持ってないつもりになってて、ホント滅多に使わないしかかってくるのも明良さんからくらいだし、だから持ってないと思いこんでたよ、あぁやられたなぁもう、そうだよね三日くらい前に契約したんだよね、ああそれなら自分で電話した方が連絡はやいよね、里見さんに悪いことしたな頼んじゃって」

 で、今どこ。

 どこ、と言われても、答えようがなくて焦る。電柱の番号を読み上げたが、検索システムも付いていない人間なのでどうにも手がかりになっていない。

 ふと、携帯電話を通しても異質なほど、りん、と清明な音が届く。

「何の音?」

 孝から目を離さずに、日向は透明なモノたちがなぜか日向から離れることに気づいた。それはまるで、闇が光を避けるように。

「これ? これはキセの錫杖の音」

 しゃんしゃん、と裄夜が多めに鳴らすと、明らかにそれらが散っていく。電波にのせて、それでも、仏具の霊験はあらたかであるらしい。

「裄夜、それ、いっぱい振ってて」

「え」

 道ばたで、ひとりで錫杖を持っているだけで充分異様なのに、それを振れと言われ、裄夜は明らかに動揺した。

「え、でも」

「おねがい」

 小さくささやかれ、裄夜は一瞬黙って、応を伝える。

 緊迫が伝わったのだろうか。

 聞き返されても応答する時間がないことに気がついていた日向は、おとなしく錫杖を鳴らしてくれる裄夜に感謝する。

 そして携帯電話を握りしめ、圧力に負けぬようにぐっと一歩踏み出した。

「孝くん! 戻ってきて! ちゃんと戻りたいって思って! せっかく生まれてきたのに、消えようだなんて思うのは……! ねぇ戻って」

 甲高い声をあげて、自分でも不思議なほどに躊躇なく飛び込んだ。いや、本当は怖かったのだ、ただ、立ち止まって取り返しがつかなくなることを思うと、自然と考えないようにしてしまった。

「君が死んでいいわけがないんだよ! だってまだ生きられる命なのに、なんでそこで切るのよ、もったいないよ、痛くたって苦しくたって、そこであがいて、ちょっとだけの幸せに満たされる日のためにでも生きてよ、だってまだ私たち何もわかんないんだよ、私なんて今みたいなことになるなんて考えもしなかったし、何が起こるか分かんなくて、それが苦しいを倍にするかもしれないけど、でも、私は分からないからまだ、生きたいよ、生まれたのって産んでもらって育ててもらって、世界のおかげでいかしてもらえてるんだから、次はないだろうしちゃんと肯定してあげたいじゃない」

「……中津川さん、意味が」

 よく分からないんですが、と呟いて、電話の向こうが苦笑した。

「でも、必死で肯定したがってるのはよく分かった」

「そうよ」

 やっぱり帰りたいなぁ。日向はそう思う。幼い考えだが、それでも、自覚してもなお、帰りたかった。

「親とか。うちは結構厳しくてさ。大嫌いなんだけど、でも、肯定されないとやっぱつらい。オッケーがほしい」

 存在を、認めてくれるはずの人だから。そう、思うから。

 何度裏切られても、子どもは、親を慕う。なぜか慕う。

「それでね、そんな、うんでくれて育ててくれるって、ものすごい大変だろうなっておもうの、ひとりになって思うくらいだから、自分が親になったら泣くかも」

「なにそれ」

 笑いを含んでいるが、そこにあざけりの色はない。

 許容され、日向はひとつ安心する。

 だから、周囲が透明でぶよついた闇に覆われていても、どうにか、両足でふんばって立っていることが出来たのだ。

「あぁ、やっぱダメ怖い」

 呟いて、歩き出す。

「孝くーん」

 おそるおそる声を出すと、潮が一斉に引くように音を立てて周囲がうねる。

「ひっ」

 生理的に受け付けないざわめき感の、理由に思い至って納得する。

「これ、ゴキブリの大群に似てるんだ」

「え、君ほんとにどこにいるの」

 言った途端に怖気がして、日向はがむしゃらに走り出した。

 ついでに悲鳴も上げてみる。

 電話の向こうがかなり慌てているが、叫んだおかげで落ち着いてきた。

「人生はジェットコースター!」

「君ほんと、なにしてるの」

 もしかして、孝はもう消えてしまったのではないのか。

 呆れた声に、我に返った日向の冷静な部分が小さくささやく。

 外のうねりが生ぬるい風を生み、何度も転びかける。

 どうしよう。

 たとえ孝を発見できても、ここからどうやって戻ればいいのだろう。

 ちゃんと考えていなかった。そう思うと、怖気が走る。

 ましてや。

「……こわい」

 孝の、姿がもしも見つからなかったら。


 この暗闇に、すがれるものは何一つなくて、自分自身の姿を見ることが出来ること自体が奇妙なことだと気がついてしまう。真っ暗なのに、おぼろに見える何かの影。自分の走る足音が、粘質の周りの音に飲まれて消える。

 走っているのか歩いているのか、よく分からない。

 このまま、眠ってしまえば心地よいのかもしれなかった。

 手にした携帯電話が伝える音色だけが、涙が出るほど暖かかった。

   *

 闇の後ろで、一人の少女が笑っている。たくさんの赤い札(ふだ)を数えながら、まるで札束のように音を立てさせる。

 あとどれくらいかしら。

 目的が同じだから手を組んだのだ。

 この札を書いた男も、空虚な夢を抱いていた。

「こんな世界、壊しちゃおうよぅ」

 くすくすくす。

 眼帯に、左手首の包帯と血が痛々しい。少女は虚空に向かい、札を一枚、軽く投げる。

「一人、逃げたね」

「逃げたわけではないでしょう」

 茶色の毛束を風に流し、一人の青年が不意に言う。

「私の札は間違えません」

「使い手によるんでしょ? フフフ」

 お互い、ただの手駒にかわりはない。今はただ、ある革命家の手先を演じ、その役割のために試験を受けているのだ。劇の端役にも選抜が必要なものなのである。

「じゃあさぁ、この、ウタウタイの魂閉じこめて、貰って帰って使うの、って作戦、できないじゃない? 失敗になるの?」

「いえ、逃げた一人に仕掛けを」

「あぁ……よく分かんないけど」

 面白そうだね。

 少女はくらい愉悦を浮かべる。

「ルリコさん、そろそろ出ないと」

 青年が、闇から浮上するようにふうっと背を向けた。彼の描く札はどうしてか絶大な力を生み出す。ただし、術者の手の中にあってこそのことである。

 肩をすくめ、少女は後に従った。術がまったく使えない青年の代わりに、札を起動させて闇を開かねば外には出られない。

「さァ、宴の始まりだね」

 いつになく明るく微笑んで、少女はゆっくりと両手を掲げる。

   *

「危うく、検屍官が検屍されるところだったじゃないのよ!」

 がすっ、と勢いよく怪我人に突撃し、うめかせた女は力一杯わめいてやった。

「ばかばかばかばか! こんなんだったらあんたの助力なんかいらなかったわよ、協力なんてさせなかったわよ」

「ごめん」

 やけに神妙に応答し、静かになった水上茅野を引きはがして、菅浩太は真顔で言った。

「まだ結婚もしてないのにね」

「何の話だ!」

 未亡人じゃんうふふあはは、と面白くもなさそうに言って、浩太は茅野を抱きしめる。

「腹に効くから、あんまきつくこないでね」

 と呟きながら。


 しばらくの間をおいて、浩太は一番気にかかっていたことを聞いた。

「そういや、裄夜くんとか事件はどうなったの」

 茅野は赤い目で応じる。

「あんたが里見裕隆に襲いかかった塾生から里見を庇ってそのせいで怪我をしたってことになってる。事件の方は、里見孝が自分で自分に力を向けたらしくって、見える範囲にいなくなったから今裄夜たちが探してる。たぶん行方不明事件になるだろうって話だった。未解決だね、残念だったね、浩太せっかく事件に関係してたのに」

「別にいいけど。犯人は?」

 浩太は、里見孝の言葉や兄の裕隆、塾生の少女、三浦珠洲など以外にもう一人居なくてはならないと思っていた。

 しかし茅野は首を振る。

「犬神が里見孝に襲いかかろうとするのを邪魔する裄夜に攻撃を仕掛けた、あのときに、犬神の代わりに戦闘を仕掛けたやつがいるのよね。そいつは見つかってない」

「……だとしたらそいつの札かもしれないな。裕隆は本を見て書いたと言っていたが、アレは本流を大幅に外れている、うちの連中でなきゃ使わないような本来は動作もしない札だよ」

「何が?」

「茅ヶ崎の鞄の札、里見裕隆のモノとは別物にすり替わっていた可能性が高い」

「うえええぇええぇ?」

「おかしいなぁ……たぶんもう一人、死ぬんじゃないかと思ったんだけど結局もう事件起きてないでしょ?」

「う、うん」

「……最後には、君たちが探していたウタウタイをつぶして終わるかと思ったんだけど」

「なんで?」

 んー。

 浩太は微笑んで、茅野の頬を両手で挟んだ。

「カ、ン」

 使えるんだか使えないんだか分かんない男だ。

 茅野は断定して、ほっぺたをのばしたりと遊ばれているままになって声を出す。だから言葉のほとんどが、発音不明瞭となって意味が不明だ。

「あのねぇ、本上のお家から、すっごい剣幕で電話きたよ」

「来たんだ」

 それでも理解しているところがなんとなくさすがである。

 浩太は恐ろしくなさそうな顔でおっそろしーと呟くと、

「また職場に連絡行くんだよ、うちのを返せって。べっつに向こうが頭下げて俺採ったんじゃないってのにねぇ」

 職場のひとが大変だ。茅野は浩太の身辺を思って納得する。

「おばーさま、まだすごい?」

「すごいすごい。むかしっから本上の当主(オレ)が病弱だったモンで異様に過保護。まだ過保護」

「まだか」

「でもっ、茅野ちゃんとは籍入れるから! 裏手配されて籍外されても何度だって入れるから!」

「そういうことはいわんでいい!」

   *

「人の識閾(しきいき)にはおりません」

 ただ、誰かが、意識に触れたような形跡だけは残されております。

 明良の告げた言葉に、裄夜はゆるく虚空を睨む。

「どうすればいい?」

 問いかける先に、ゆらり、とかげろうのように大気を揺らがせて闇の色がひるがえる。

「呼ぼうか?」

 口の端をあげて、その男は金色の目を猫のように細めた。

 驚きを隠せない明良たちの前で、彼はふいと右腕を振る。鈍く暗いさび色をまとう錫杖が、瞬きの間をぬうようにして現出していた。差し出された錫杖を受け取り、裄夜は日向らが消えたという方角を見据えた。艮(うしとら)の方角、すなわち東北、俗に鬼門という。

   *

 一度付いた汚濁は、ぬぐえやしない。

 いつか傷が癒えるとしても、過去にあったことはなんにも、まったく変わりはしない。

 きっといままでもそうであったように、これからだって、突発的につらくなったり、世界中が楽しく思われたりもするだろう。全て、感性がひきおこした幻覚のようだ。間違えたら戻れなくなる、そんな淡い、期待のようなものがある。

 ――生きにくいのは自分だけじゃない。

 知っている。

 ――雨が容赦なく降り注いでも傘がないのは自分だけじゃない。

 でもこの苦しみを、いったいどうやれば出していけるのかが分からなかった。

 一つ一つは些細なものだが、気付くと妙に絡んでいる。

 大河のような大きなうねりを、みんなもてあましてもがいているのかもしれなかった。

 孝の場合は歌があったが、それは、凶器にもなる恐ろしい武器だった。

 ただでさえ、と孝は思う。

 ――ただでさえ、歌ってやばいものなのに。なんで僕のは、ストレートに来ちゃうんだろう。

 まっすぐすぎて、世界が言質のままにとる。

 ふつうは愚痴は愚痴であって、殺意だって口にだけならいくらでも出すことができた。

 孝は自分がみだりに生き物を殺せないことを知っていたが、感情が麻痺したような、怒りで暴走したときなどには、ひょっとしたら罪悪感もなく、人間なんかをころしてしまうこともできたのかもしれなかった。

 突発的ではあったけれども。

 孝のゆがみは、彼にとっては許し難いものだった。

 それでも世界は彼の思う以上にゆがんでひびが入ったモノだった。

 完璧な世界に生きてきたはずの子どもたちが、叫び声をあげるのをきいたことがある。

 人は知っている。

 知らない世界に寄り集まって、一人だから、一緒に生きようと思ったのだ。

 たぶん。


 ずっと、孝は知っていたのかもしれなかった。

 一人だった。

 でも寄り添っていた。

 ぬくもりはいつも通じやしなかった。

 でも、いつか誰かのもとに届く。

 耐えられないような時差を経て、孝が消えたくらいになってやっと、気づくくらいに離れているのかもしれない。


 どうしようか。

 とりかえしがつかなくて、いつも怖くて泣いていた。

 積み重ねることはできたのに。

 逃げたのだ、結局。

 それしかできなかったのだとしても。痛みは孝をむしばんでいたけれども。

 他人はそれを、エゴと呼ぶだろう。弱い人間だとわらうだろう。自分勝手で、思いこみのうちに生きていて、まるで捕虫網にかかった蛾のようだ。捕まえる気もないものに捕まって、鬱陶しがられて、でも本人は必死だった。


 眠ろう。

 しばらく眠って、たくさんの感情を鎮めて。沈めるのではなく、今度は、ちゃんと、整理して。


 もしかしたら。

 あの少女の明るさは、投げ出されたゆえのものかもしれない。

 目の前にはなにもない、そのことにようやく気が付いて、途方に暮れたゆえの、反動なのかもしれなかった。


 どうしてそう思ったのか、孝自身にも分からなかったが。

   *

 影の中にいた。

 たくさんのものが息づいていた。

 彼らは皆、名を持たなかった。

 人の描く妄想が、願いが、執念が、希望が、一点への思いが、情念が彼らを形に変えた。

 シズクは闇の中で目覚めた。

 それは今や平安と呼ばれた、平穏さのまるでない世界だった。

 シズクはそもそも、人の形をとることがなかった。それどころかまるでこの世には存在しないものだった。

 シズクが名前を持たない頃に、女は愛した男に裏切られた。

 女は何一つ諦めることはできなかった。

 彼女の思いは形を取った。


「わからない」

 闇の中で日向は目覚めた。

 影の遠くに星空が見えた。

 青空にうっすらと白い月と星が散らばっていた。

 まるでそこは草原のように見えた。

「わからない、なにひとつ分からない」

 日向だ、自分は日向だ、少女は哄笑したい思いに駆られた。

 シズクと呼ばれようがそれらの記憶は日向にとっては別人のものだった。それはかつて、幼稚園の頃の自分の話をされたときのようだった。自分であったのかもしれない、しかし時を経て今やどこかの血肉に変わった部分は、確かに自分ではあるのだが、今の自分ではないような気分がする。

 同じだった。

「裄夜、わたしはここにいるよ」

 シズクではない日向自身が、自分がシズクではないと認めている。


 風が吹く。

 風が吹く、この大地に。


 何も持たない小娘にむかって。


<第一幕・了>

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