第三幕

 ゆらゆらと、白い靄がたゆとうている。

 千明カレンは、薄目を開けて、猫のように辺りを用心深く窺った。

「――さーん」

 一枚、まくを隔てたように、看護士の声がやけに遠い。

 ゆらゆら、眠りを誘うゆりかごのように、体温に近い水のように、靄が揺れる。

 このまま、眠ってしまえたらいいのに。

 カレンはうっとりと安心しきって、目を閉じる。

 しかし不意に左手首を掴まれた。その冷たさに、ひどく驚く。

 隣に、人の気配はなかった筈だ。

 ベッドサイドには長椅子が、日を浴びて眠たげに微睡んでいる。

 今は、母は病室の外へ出ている筈だ。母は週に何度もここに来ては、物言わぬカレンの手を握る。時には何度も、何時間も。

 祈るように握りしめる、手の汗ばみを知っている。

 でも、この手は違う。少し骨張っていて、かたい、けれど細くしなやかな指が、しっかりとカレンの手首を捕えている。恐怖を抱いた。

 振り払いたいが、体は決して動かない。目を閉じようにも、今開けているのは現実とは違う。実際の体は岩のように、ベッドに張り付いていて動かない。

「起きて」

 ささやかれ、カレンは、ばっと跳ね起きる。何だか緊張したことがバカらしく思えた。

「なぁんだ、冷羽かー」

 自身の反応に照れ笑いを浮かるカレンに、手首を掴んだまま、冷羽が厳しい顔で言う。

「起きているなら、急いで」

「何? どこ行くの」

 靄が揺れる。

 ベッドの上に大事なものを置き去りにして、大丈夫だろうか。心配になって振り返る。

 眠り続ける顔は青白い。薄い茶色を帯びた髪は、病人らしくなく丁寧に梳(と)かし付けられ、先にはリボンも結ばれていた。

 母親の顔を思い出して、胸がひどく締め付けられた。

 何で。

 何でこんなことになったんだっけ。

 思い出せない。


 初めて「目が覚めた」のは、いつだっただろう。両親が半ば呆然として、扉側に立っていた。医師らしい白衣も立っていた。彼らは殆ど無言だった。

「それで――娘は助かるんですか」

 あのとき、カレンは、何を言っているのかと思った。私はここにいてどこも痛くない。それなのにどうして、こんな病院みたいなところに寝かされているのだろう。

 ――寝ている?

 カレンは、自身がベッド上に起き上がっていることに気が付いた。嫌な汗が、耳の後ろに湧きだした。

 自分がベッドについた手へ、ゆっくりと視線を落としていく。本当は、見たくなかった。ベッドの上には、しっかりとした肉の塊があった。そこに向けてほぼ直角に、自分の腕が差し込まれている。

 カレンは悲鳴をあげた。壊れかけた機械音のようだと、どこかで冷静に思った。

 母親を呼び、叫びながら、布を蹴立ててベッドを飛び降りた。ママとお母さんが混ざって、変な呼び名になっていた。お母さん!

「残念ですが、今の医療技術では」

 医師が呟き、

「どういうことなんですか……!」

 母はカレンに気付くことなく、ヒステリックに医師に掴みかかっていく。突き飛ばされる形でその場に残されたカレンは、呆然としたまま父を振り向く。

 お父さん。

 父は随分とやつれた表情で、何日も着続けてよれよれになったシャツの上に、辛うじてスーツの上着を着込んでいた。やはり彼も、カレンのことに気付かない。

 脇の寝椅子で眠っているのは、誰だろう。おばあちゃんかもしれない。遠方に住んでいるのに、来てくれたんだろうか。寝息を立てている頬をつねった。肉は、びくともしなかった。

 心中が、ざわりと粟立った。

 そんなわけがない。

 けれど足は床にはりついてしまったように、動かなかった。白すぎる部屋に、カレンは深い眩暈を覚える。

 足下が揺らいだ。

 意を決し、振り返る。

 ――そこには狙い違わず、多種の機器によってベッドに磔にされた、自分自身の姿があった。

 今度の悲鳴は、低く高く、長かった。


 あの日のことを思い出す。今でも体が小刻みに震えた。身を守る肉がない体は、何て不安で心細いのだろう。

 あれから一週間くらい経って、冷羽のことに気が付いた。夢の中で出くわしたことのある、自分と面差しのよく似た人物だった。白い着物と紺色に近い袴姿は、カレンが小学生の時に習っていた剣道の格好にも似て見えた。

 この病室で、徐々にうち解けてきた冷羽だが、それでも、どこかいつも焦っていた。何かを伝えたがるけれど、カレンにはなかなか理解出来ない。夢うつつになりがちで、まるで夢の中で別人を演じるように、自分が冷羽のように振舞うばかりだ。「自分とは別の存在」として現れる冷羽とは、接触することは少なかった。

 でも、今回は違っていた。

 冷羽はベッドの脇に立ち、凛とこちらを見つめていた。

「早く。来る」

 手首を引っ張られ、カレンは慌ててベッドを降りた。

 凛とした少年の腰には、いつもと同じ、多分日本刀、がさげられている。

 本当に信じて良いのか、不安になる。殺されちゃうんじゃないか。あるいは、悪い夢に捕まって戻ってこられないだとか。怪しげな宗教だとかが頭によぎった。

 冷羽が鋭く、舌打ちする。見抜かれたかと思ったが、冷羽の視線は戸口へと向けられていた。

「間に合わない」

 冷羽がカーテンの影にカレンを押し込める。

 不意に、病室の扉が開かれた。ソレは、草履の底をかさぺたと鳴らしながら、ベッドに近づき、中を覗いた。

「こっちだ」

 冷羽が、強く腕を引っ張る。開けられていた窓から、ふわりと簡単に、外へ出た。狭いベランダ、配管を踏んで、冷羽は外へ逃れようというのだ。声をひそめ、カレンは何か言おうとした。あれは何なの。体、どうされちゃうの。

「体を残しても支障はない。心が捕まらなければ――逃げ切れる」

 今はそれしか出来ないのだと。

 冷羽は、ともすれば泣き出しそうにも見える顔で、呟いた。

「きっと、私が守るから」

 許してほしいと、呟いた。

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