第二十一章 玉竜

 玉竜の力の流れは、金色の水が流れていくのに似ている。山々の穏やかな連なり、幻想的な黒、薄墨の風景は、学生を詰め込んだ会場で誰一人喋らず、声とも意識しないと息の重なりだけがあるように、気配も密度もあるのだがひどく静かだ。その中を、ゆらり、ゆらり、溶かした金の川が、山々の気配やらをなぎ倒し、溶岩流のように、進んでいく。

(どこへ)

 行こうというのか。

 キセはうっすらと瞼を持ち上げ、流れを意識で捕まえる。

 流れの周りでは木々が芽吹き、力つきて枯れ、また芽吹く。その、こぼれ、持てあまされた力、玉竜の力の流れに触発されて大地のあちこちから引きずり出されてきた生命力、霊気、それらが混ざり合って、または反発し、蛇のようにうねりながら、金の流れの周りを囲む。前線が山にぶつかるとき、前線どうしがぶつかるときのように、もつれ、絡まり、急激に別のエネルギーが発生する。雨、雷、自然現象になぞらえてみれば、何かが起こることは分かる。実際に何も起こらないまでも、「起こる」という緊張感、張りつめた空気は存在する。

 そのおこぼれの力を、かすめとる。

 気付かれるか、それで笑われるか。どうでもいい。キセはかすかに肩をすくめる。玉竜は、そういう、人間やそれ以外のもののせせこましさを、不愉快か面白いか、何か思うのだろう。思わないのかもしれない。

 玉竜の力に潰されず、触れてかすめ取れる辺り、キセは自分の持っている血の半分がどこから来たのかが、どうしようもなく、分かってしまう。親和性があるから、神気に左右され滅ぼされることなく、扱うことが出来る。

「キセ……?」

 集中を、ふいと、軽く話しかけただけで打ち破った。キセにじっと見つめられて、里見孝はきょとんとした。

「あの、それでどうしたらいいん、ですか」

「……これから、辺りを囲む。大野大元の顔は知っているか?」

「はい、前に菅さんが写真を」

 住まいにしている家のリビングに広げていたので、見る気がなくても、目撃している。

 ならばいい、と頷いて、キセは「裄夜」と話を振った。

 いきなり呼ばれ、傍観者のつもりで日向と二人で見学態勢に入っていた裄夜は、びくりとした。

 金色の目がじっと見ている。道端で出会った、名前も知らない野良猫のようだ。

「俺の力では、ウタウタイの力が暴走した場合、引きずられて「別のもの」にならないと止められぬやもしれぬ。故に近くにいた玉竜の力と、それに喚起された「辺りの力」を用いる」

「……キセ、開き直った?」

「何が」

「いや……」

 言いづらい。裄夜は、キセが、玉竜に対して複雑な思いを抱いている、というよりも――まぁ何かを抱いていると思っていて、だから今回名前を平気で連呼したり、力を借りてくるなどと言うのが、無理をしているんじゃないかと思えて、何とも言えず居心地が悪い。けれどキセに対して心配するというか、何かを吹っ切ったのか本当は無理矢理やっているのかなどと問いかけるのも、日向と孝にどう説明したらいいのか、そもそも言うに言えないわけで(キセの気持ちにも関わるわけだし)。そもそも下手に突っ込んだら、「そういえば何で玉竜の力が側にあるんですか」とか「何で玉竜の力を使えるのか」とか「やっぱりキセは玉竜と親子なのか」とか日向が言い出しかねない。するとキセがまた拗ねたりしかねないというか。何というか。

 もやもやした思いが、うまい言葉の形ではまとまりきらなかった。

「別に……」

 奥底では繋がっているというのなら、分かれ。と思いながら、裄夜は言葉を濁した。

 何を言い合っているのか分からない日向は、瞬きして、先程のキセの言葉に対する疑問を投げた。

「えーと、詳しい意味は分からなかったけど、キセの力だと、孝くんの力が暴走したら手に負えない、から他の力を借りるってこと? 玉竜って、昔この地に降りてきたっていう、伝説のアレよね。伝説のアレは、この土地にまだ、住んでるの?」

 たとえば、この湖であるとか。

「いや、それはない。ないが、今は、大野大元も玉竜も近くに在る」

 他の力を借りるという表現が気になって眉をひそめつつ、キセは続けた――裄夜はこういうときだけキセの表情もとい気持ちが読めてもしょうがないよなと思った。

「ともかく、他の力を使うのだから、裄夜が、ウタウタイが力を使う間に場の制御を行なうことも、可能だ」

「……は?」

 油断していた。

「孝くんと裄夜、二人まとめて実地訓練っていうか実験するつもり!?」

 日向が、裄夜の気持ちを代弁した。大声で叫んだものの、誰も返事をしなかったせいで、鳥の羽ばたきや木の葉ずれの音が異様に大きく聞こえるばかりで、日向は肩身が狭そうに首をすくめた。

「……キセ一人ではやばいから、他の力を借りたんだよね? なのに初心者である僕に制御なんて任せるのは、変じゃないか?」

 しばらくしてから裄夜は抵抗したが、キセは「どのみち、ここには水瀬裄夜、中津川日向、里見孝の三者しか居ない。俺は過去の亡霊のようなものだ」

 あくまでも、自分は「今は」裄夜なのだ。そう、言外によって主張した。

「基本的に、そういう決まり事とかややこしい」

 ぼそっと言ってから、日向が小さくため息をついた。あー、と言って気合いを入れて、頬をたたいた。

「やらなきゃ終わらないなら、やらないと! ね!」

「それは、中津川さん見てるだけだからさ……言えるよね……」


 風が啼く。湖と一繋がりになっている、濁った沼の、表面が逆立つ。

 裄夜はキセに錫杖を渡され、地面に突き立てて、身震いしていた。

 少し開けた、湖の側で、里見孝がこれまたがくがくと震えながら、猫背で立ちつくしている。

 怖いだろう。人は、喋るときに気持ちを込めている。平坦に話すと、言葉はうまく伝わらない。声の表情をつけずに出来るだけ小さく、差し障りのないことを話そうとしてきていた孝だから、自信を持ってはっきりと発言するのは、ちょっと大変そうだった。

(でも、この間、各務瑠璃子相手のときに、使えたって言ってたから)

 そう恐ろしいことは起こるまい。と、期待しよう。

 日向が、裄夜の斜め後ろで、目を開いてこちらを見ている。キセはいない。裄夜が自分で事態に集中するために、出てこない、ということらしい――多分。

(曖昧なことが多すぎる……いい加減に出来てる)

 先程、自分で考えて決めた口上を、決意して孝が述べはじめた。

 裄夜は錫杖を握り直す。つめたい金属の肌。地面に突き立てたときに、蛇の尾のような「何か」を突きさした感覚があって、「ソレ」が力の渦だから離すなとキセに言われている。錫杖を離さないのはともかく、この状態で、孝の頼みを聞いた何物か達が大暴れしたら自分はどうしたらいいのだろう。「ソレ」が一体何の役に立つのかもよく分からない。

「大野大元、という人を捜して、います」

 孝が、くうに向かって声をかける。

 吹きちぎられた木の葉が、ちょうど中空で輪を描き、そこに風がたまったことが肉眼でも確認できた。

 地名をあげて、何をしている人なのかを言い並べて、

「どこにいるか、ご存じですか」

 風が、一瞬やんで葉が下降したが、すぐにまた、くるくる、と丸く輪を描いた。端切れが、東のほうを指さしている。

「ここからは、近いですか」

 頷く、ようなそぶりだ。

「その人を、僕がこうやって、やるみたいに、壊したり怪我をさせたりしないように、そっと、連れてきて、置いてくれませんか」

 孝はしゃがんで、木の葉の一枚を両手ですくい上げて、また、衝撃がないように丁寧に地面の上に下ろした。

 風は、ぱっと四方に散っていった。

 虫の音もなく、木の葉ずれの音もしない。

 裄夜は、汗ばんだ掌を片方ずつ、服で拭う。

(確かに……言葉で説明されなくても、何となく分かる)

 錫杖の下に居た「何か」は裄夜の意志に従い、孝や日向たちを包んで、ちょっかいをかけようとした「虫みたいな何か」を追い払っている。目を閉じているときに部屋で茶バネゴキブリが駆け回っているのと、どこにいるのかと捜すときの意識の向けかたのことを思い出した(日向の絶叫も思い出したので、少し眩暈がした)。

 多分、そんな感じだ。役に立っているのかいないのかは分からないが。

(山を三日歩いただけのことはあって、気配には敏感になったかもしれない……妄想じゃなくて。ムカデとか、結構歩いてるし、見えなくても……)

 鉄筋コンクリートの建物にいると、有象無象の気配は、人いきれや無機物が主になる、のだろう。種類が少し、違っている。

 どこかが開けている。

「あれ!」

 日向が叫んだ。目視するよりはやく、孝の目の前に、スライディングの形で荷物がほうり出された。

「大野、」

 さん、と日向は細切れに呼びかける。

 孝は、想像し得た最悪な姿ではなかったので安堵したが(一応人間の形はしているし)、生き物に対する扱いではなかったので肝を冷やした。

「だっ、大丈夫ですか、」

 額をすりむいて白目を剥いた、頬の痩けた男に、明らかに腰が引けながら、「大野さん、生きてますか、」と声をかける。

 風が、宙にかたまって待機していたので、

「解除を」

 裄夜が促し、孝は慌てて礼を述べる。風はどこか嬉しそうにはね、ちりぢりに、木の葉を散らした。いなくなってしまったらしい。

「……連れてくることには成功したんだけど、どうやって連れて帰ろうか」

「あ、ここに連れてくるんじゃなくて、菅さんに連絡して拘置所を開けて貰えばよかったんじゃないの? 直接、ぽいって放り込んだら……」

 よかったんじゃないだろうか。

 日向が名案を思いついたようだが、後の祭だった。

「もう一回、あの人に頼んでもいいけど、次も「生きて」運べるかどうか、分からない、ですよ……」

 あらぬ方に曲がっていた大元の手を見ながら、孝は弱い声でぼやいた。

「キセ、ちょっと。大元見つかったよ」

 裄夜は錫杖を引き抜こうとしながら、辺りに声をかけた。

 しかし返答がある以前に、不意につり上げられるようにして、大野大元が起き上がった。頸骨を中心にして、鞄が持ち上がるように立ち上がった。

「明らかに人間じゃない動きしたんですけど!?」

「中津川さん!」

 動転した日向は、足下の木の根に躓いて、「うわ」仰向けにひっくり返った。

「大丈夫!?」

 錫杖が抜けずに身動きが取れない裄夜は、大元から目を離さないままで問いかけた。「多分今のところ……あたた」日向は、駆け寄ってきた孝に手を貸して貰い、両足で立つ。

 ゆらゆらと揺れながら、大元は白目のまま、三人の学生のほうを見ていた。

 だらしなく開いたままだった口の端からは唾液が流れ落ち、片方の掌に当たって、やっと気付いたように舌なめずりして口元を拭った。

「ふ、は。何だこれはぁ。あの小娘どもめ、余計な真似を」

 この場に居ない人間の話をしているようだ。文脈と、大野大元の経歴から連想して、

「……まさか、大野まゆら、さんが、何かしたとか?」

 日向が呟く。家出した娘、大野まゆらが、家に帰ったら今度は父親が家を飛び出した――浩太はそう言っていた。

「おおのぉ、まあゆら、……ハ! 邪魔をしおってぇ貴様あ」

 無関係な筈だが逆恨みのように睨まれて、裄夜は思わず一歩退く。だが、錫杖が相変わらず抜けない。身長と同じくらいの長さで、重たいが、それにしても異様に持ち上がらない。焦る。

「大野まゆらに何かされて、おかしくなったのか、大元!」

 問答で時間稼ぎしてみることにした。思わず呼び捨てにした裄夜に、指で押して黒目を見せた大元は、上から下まで、じっくりとした視線を向けた。

「お前はぁ誰だぁ。ここはぁ……」

 語尾が途絶える。獣の息づかい。

 どうも、自分が何故ここにいるのか、分かっていないようだった。

「何で、貴方はこんなところまで走ってきたんですか?」

 誘導してみる。

「わぁたしはぁああ……はははは、そうだぁ、住処に戻ってきたあ」

「住処?」

「この大野大元の娘まゆらがあくそおおおおぉう……ギョクリュウめぇえカミセごときがあ」

 要領を得ない。あまり動いて刺激したくはないが、裄夜は目を合わせたままで、錫杖を揺らし、抜こうとする。

(というかこれキセが抜かないと、取れないんじゃないだろうか! 僕が手を離すとでも思って、ご親切に縫いつけておいてくれたとか……)

 気持ちが逸れた時、どすん、と大元が一歩進んだ。裄夜も、日向も孝もびくりとする。

「わつあしの、わたしの、わしの新しい住処、大元の巣、から出て行けと……追い出しおったわぁあの、不信心不心得ものめぁぐあああ」

「大野まゆらが、追い出した?」

 何の力もない、普通の女子高生、ではないのか。部屋から何かが流れ出ていたという話を思い出す。

「大野まゆらには、何か、力があるのか?」

「不信心って……貴方、大野大元じゃないの」

 裄夜と日向の声が重なる。そのどちらにも、大元は、痰の絡んだ咳をしてから、

「かようなことも分からぬか人の……」

 嘲るように笑って、急激に表情を抜き落とした。

「その、錫杖は」

 見る間に憎悪に満ち、大野大元の姿をしたものが、牙を剥いた。

「愚か者めがあ!」

「何!? この人、キセの知り合い!?」

 錫杖を見て態度が変わったのだから、と簡単に考えて、日向が叫んだ。

「聞かれても」

 知らないし。裄夜は錫杖から離れたかったが、離れても逃げ回る以外出来ない。

 気合いを入れて、目の前に壁があるといいと、願った。

 するりと、蜘蛛の網めいたものが広がり、大元を絡め取った。

「裄夜!」

「忘れてた……」

 そうだ。自分は術なんて使えないと思っていたけれど、一つだけ、出来ることがあった。

 中津川日向に出会う前に――「糸」を、戯れにだが操ることが出来たのだ、水瀬裄夜は。あの頃は、時折、自分であるにもかかわらずキセとしての気持ちのありように流されていて、半ば夢の中で別の役割を演ずるような感じがしていた。だから、「キセ」として別に、キセが姿を現すようになって以後は、糸を使えるということすらピンと来ないで、忘れていた。

 集中する。

「使える……!」

 自己暗示し、裄夜は大元を押さえつける。

「裄夜、格好いい! 頑張れ!」

「頑張ってる!」

 日向の声援も、しかし虚しく、大元は細くて柔らかな糸を破り、体に絡みつかせたまま再び、もがきながらこちらに向かってきた。

「役に立ってないけど惜しい!」

「褒めてないよ中津川さん!」

「だって! こんなときに限ってシズク、出てこないし!」

 孝も、来るなと叫んだら大元がどんなことになるか分からず、焦るあまり差し障りの少ない単語も思いつけず、日向に張り付かれたまま硬直している。

「うわ!」

 真っ先に近場の裄夜が覚悟したところ、錫杖から半径一メートルという狭い範囲だけを残し、風が起こった。濡れた土や葉で叩き回され、大元は目と頭を庇って、猿人のような歩き方をした。うまく前に進めず、時折倒れ伏してしまう。

「……セーフ?」

「裄夜っ、どうするの!?」

 錫杖の力か、あるいはキセが何かしたのか。孝を手伝ってくれた「風」が手を貸してくれたのか。ともかく助かった隙に、日向が、声を投げてきた。

「その人、大元だとしたら、中に何が入ってるの!?」

 もはや呼び捨てでも全く気にならない。怖いとか敵だと思うと、相手に対する気のつかいかたなんて頭からは吹っ飛んでしまった。

「知らないよ!」

「知らないことは知ってるから、何か思いつかないか聞いてるの!」

「えぇ!? 取り憑くって言ったら、幽霊とか!?」

「この辺りが住処って言ってた! から、この辺りに居たものが、……水くみのときに大元に憑いたの? 元の住処に追い返したらいい!?」

「からの祠か何かがあれば、もしかしたらそこに最初、居たのかも」

 一見悠長だが、早口に、素早いやりとりをする。菅浩太と過ごした日々のせいか、早口を聞き取るのも慣れつつあって、孝もちゃんと理解したようだ。

「祠っ、捜します!」

 四つん這いになったまま、斜面を見回し、茂みをかき分けていく。標高を記した石は見つかる。だが、地蔵も祠も見あたらない。

「いや待って孝くん! 大元、フリーズドライに出来ない!?」

「中津川さん今ものすごく残虐なこと叫んだの、分かってる……?」

「違ったっ、えぇと、ほら、封印してあとで何事もなかったかのように「戻せる」っていうの、そういうのないかなって思って、そしたら」

「表現がフリーズドライになった、と」

 可逆な方法を不可逆な方法の名称で表現してしまった日向は、とりあえず意味が通じたので頷いておいた。

「フリーズドラ、」

「言っちゃ駄目!」

 言いかけた孝は、口をつぐみ、それから「大野、」と言おうとして、足場が悪くて転んでしまった。泥だらけだ。

「ごめん!」

「いや大丈夫です……」

 そうこうしているうちに、大元は吠えて、両腕を振りかざした。風が止む。

 肩で息をし、大元は三者に向き直った。

 先程までの、人を捨てた所作は影をひそめ、ごく自然に、そこに立っていた。

 青ざめた面(おもて)だが、齢幾百年かの古木めいて、どこか神聖ですらある。

 喉を鳴らして、大元は口を開いた。

「お前たちはすでにして滅びているのだ――カミセ。銀月の一族よ。それであるというのに何故、今わしのような「神」に逆らう。邪魔をする。しようとする」

 陰鬱な声は、さも超常ぶって厳かに言う。

「滅びた?」

 邪魔をした云々は、大元を追いかけて捕まえたせい、だろうが。銀月の一族を知っているこの「誰か」の発言に引っかかりを覚え、裄夜はわずかに首を傾げた。

 銀月の一族はたしかに大戦終了間近にいったんは途切れた。らしい。

 思考を読んだように、違う、と闇のような相手はせせら笑った。

 大野の内側を食らい、そのものは言う。

「銀月の一族はすでにして見捨てられている。もうずっと以前から」

 この男は何を語るのだろう。まるで神のようなことを言う。

 見てきたかのようにその言葉を、ある種の「天啓」を与える。

 神だから。

 この山に生まれ、根付き、様々な物の生死を内包し、薄暗く淀み、また清らかに浄化された水を湧かせ、あめくもの中を育つ――神気を抱いた「もの」だから。

 言葉は、異様に胸を打った。嘘ではないと思わされた。

 山を歩いていたせいで、この山の気配に近い、仙人めいた風情を醸す相手に、膝を折りかけた。

「でも裄夜……この人、大野大元の体を、乗っ取ったんじゃないの」

 日向が、冷徹に指摘する。声は震えているけれど、弾劾する響きに満ちていた。

「この神様は、人の体を!」

 足から力を奪われ、不意に大元が倒れ込んだ。

(現世のヒトは幽世の招きにあらがいがたくあらがえず)

(いつか還れといわれたところでそれを恐れぬいわれもない)

(すなわち死であり遠ざかる場所であり。そこへすべからく逃れ得ず辿り着く)

(神に魂だけを食い殺されて、いずれ死すべきと分かっていても、恐怖は消えない)

 高いところの枝葉が鳴る。鈴のように軽やかに鳴る。

 誰の声だ。日向と孝が、怯えた表情で、辺りを見回す。裄夜は錫杖を両手で握り、

「大野さん! 貴方の意見は!!」

 戻ってこい、と。引き寄せようと。強く願って――意識を失った誰かに呼びかけるように、「聞こえてくれ」と、大声で叫んだ。

「大野さん!」

 日向が便乗し、孝が躊躇いがちに、更に呼んだ。

 大野大元本人が、獣のように、ううああ、と呻いた。

「い、いやだ、いやだ私はこんな」

 舌を噛んで、言葉が不自然に途切れた。

 その禍々しいまでに赤い口腔を見ながら、裄夜は顰めすぎた眉を戻す。

 大元が近づき、手を限界まで錫杖から遠ざけて裄夜は下がった。大元は錫杖に躓く。何の表情をもたたえず、錫杖はうっすらとした風に打たれ、黙ったまま裄夜の手の中にある。

「がっ……! きさ、ま、らは滅べ、と、自然が食うて再び一に戻れと」

「銀月の、ことを知っているんですか。貴方は」

「大野を呼び戻したいのか、神があることを望むのか、いずれかや」

 にい、と笑って。

 前屈みになった大元が、素早く、右腕を伸ばした。

 掌の上から錫杖を押さえられ、裄夜は知らず、声をあげた。

 引き裂くような痛みが走る。肌の上ではなくて、骨を伝って。

「落雷……?」

 日向の呟きで、何が起こったのかを悟った。

(誰だ? 自然現象?)

 自然といえば、この、大元に「取り憑いている」ものも、そうなのだが。

「……生きてる」

 視界がさっきよりも幾段かはっきりして見えた。手を離し、大元がふらつきながら舌打ちをする。

「さして力も持たんガキがぁ……逆らいおってえ……!」

 かすれた声。

(僕が感電死しないように助けてくれたのは、キセか?)

 通電したわりに、大元も裄夜も、自覚的に傷は負っていない、ようだ。

(大元を攻撃したつもりなら、全然、効果はなかったな……僕が痛かったのと驚いただけで)

 大元が、追い詰められた熊のような咆哮をあげた。

 今日は面談だけだったと思う、尚隆は頭の中で反芻し、予定表を書き込んだ手帳を事務所に置いてきてしまったことを少し後悔した。

 アナログ腕時計は既に四時を指している。夜が近づくが、まだ日は真冬より長い。太陽の支配する時間は今しばらくは続きそうだ。

 五時までに支払い明細を持って銀行に行って昔父だか母だか分からない人間が残したとかいう負の遺産つまりは借金の分を返済しなければならない。正確には借金ではなく、母か父かが近所の人間を刺し殺しかけた分の慰謝料らしい。どうでも良い。

 自動ドアをくぐって銀行で用を済ませ、尚隆は一瞬煙草が吸いたくなった。しかし、そもそも自分にはそういう嗜好がさほどなく、ただ一度ばかり中学生のときに無理矢理やらされただけであるという事実に思い当たって苛立った。あの父親がいつも飲んだくれていた姿を思い出すので酒は苦手だ。無意識に思い出すのが癪に障る。今では笑顔で酒の席に居られるけれど、飲めるけれど、決して尚隆は酔うことはない。そんなものでは酔えない。

(書を)

 書きたい、と思った。不意にわきあがる夏雲のようにその思いは首をもたげた。そこにすべてを注ぎ込み世界のすべてを表す、ただそれだけの空間の状態。望むのは書と完全一対でしかない空気。自分と書とが区別がありながら区別なく交わり触れられる場。

 ため息をこぼし、尚隆は視線を近くのコンビニから空へあげる。格安店で得た眼鏡越しに見る空は、どこかフィルターがかって青く見えた。錯覚だ。

 雑踏に紛れていて心が穏やかでいられないとき、人は一体どうやってそも気持ちをやり過ごしているのだろう。

 年を重ねてそれなりに生きられている尚隆だが、札を書くこと以外に特別、満たされる気持ちになることはない。やりきれない気持ちは常にあるから気にはならない。

 角の交番のところで曲がる。身分はアルバイトと変わらないままで、職務質問にでもあったら困るなと思った。思っただけだ。

 そこで急に雑踏が途切れた。本流から離れて支流に流れ込むように。

 背中で組紐が風に揺られている。そろそろ結び直さないと、と立ち止まりかけたとき、前方の建物に背をもたせかけていた影が動いた。

 一瞬、どう対応すべきか迷った。素知らぬ顔をして通り過ぎても構わない筈だ、本来なら、そう親しい仲でもない、まともに出くわしたのは旅館で、一度きり、だ。本当は。

 けれど相手は紛れもなくこちらを睨み付けており、言い逃れをすることは難しい。瑠璃子を連れていないことを悔やみつつ、尚隆は視線だけ落として、服の上から札の数を確かめた。確かめたところで使えないが。

 相手は、薄い上着代わりの白衣、履き込んだ革靴、いかにも雑踏に合いそうでよく考えてみるとおかしい姿をしていた。

 白衣は病原菌から感染を免れるために着るから前のボタンは全部とめる、という話を聞いたことがあるが、確かに、その男も少し猫背に、ちんぴらめいた格好で立っていながら、ボタンだけは全部きっちりとめていた。

 さて、と口を開きかけた尚隆を制し、やぁやぁどうもと、相手が言った。

 存外早い戦闘開始だ。

 戦うには武器がないなと思いつつ、殺されはしないという確信があって、尚隆は足をとめた。二人の距離は、ほんの三メートルほどになった。

 相手は――菅浩太は、一旦息を吸い直してから、再び全部吐きだした。

「やぁ青少年。ていうか俺あんたより年下だと思うんだけどまァそれは良いとして」

 こないだから面倒なこといくつもやってくれたよね気付いてないとでも思った?

 浩太は、両手をポケットから引き抜いて、にやりと笑った。

「やだやだこれだから素人さんはさー」

「生憎ですが私は術だの何だのといったことについてさほど詳しくありませんから。専門が違うので」

「専門? 何の」

 否定も肯定もしないで――自分が術関係者であることと浩太に対して行なったことについて否定せずに、里見尚隆はすっとセルロイドで出来た青いフレームの眼鏡を抜いた。ポロシャツの胸ポケットに突っ込み、軽く笑む。

「私は――既にご存じかと思いますが、単独では術行使できませんから」

「そうなの? 俺ぜんっぜん知らなかったなぁそれはごめんね一人のとき狙って来ちゃってそれで術行使以外なら何が出来るのかなァ?」

 尚隆は喉でかすれた笑いをした。伏せられた目が、不意にきつくあげられる。

「ご冗談を。先日から警察関係者が私の身辺をかぎまわっていることくらい気付いていますよ。筆跡を知るために書類関連、他に指紋を採るためにグラス。他にもあげましょうか? 役所には既に手を回しているんでしょう、これ以上詳細な履歴書でも必要ですか?」

 冷徹を装って吐き捨てられ、浩太は肩をすくめる。

「いじめるつもりなんてこれっぽっちもありませんよ俺の方はえぇそりゃあ勿論当然至極のようにって日本語のおかしさとかは塾じゃ教えてないんでしたっけ?」

 思いついたままに喋る浩太に、菅さん、と固い声音で尚隆が告げた。

「それで、ご用件をどうぞ」

 私は「何も出来ませんから」。尚隆はそう付け足して、鋭く睨み付ける。

 ようやく真正面から向き合い、菅浩太は、笑った。

「札貼り付けたの、里見サンですよね」

「えぇ。正確にはいいえですが」

「札を書いたのがあんたで、もう一人、術者が居る。それが各務瑠璃子。でもどうしても理解しきれないんですよ、瑠璃子は既に死んでいる、その理解は間違っていない、そうですよね?」

「私自身が直接確かめたわけではないので、各務瑠璃子の件に関しては詳しいことは何も語れませんが。当人はそのように」

「あぁじゃあ当人と何度か接触してるわけですねそれで俺たちのこと見てたわけだ札で巧妙に結界みたいなものを形成して俺たち全員を「内側」に囲い込んでいた、だから瑠璃子はその範囲内でだけ力を行使できた、外ではただ追いかけ回されるだけの巫女体質。幽霊とかそういうのに追われてたっていう情報がまァあちこち嗅ぎ回ってると知れてくるわけでえぇほんと実に奇妙に。でも分からないんですよねぇ幾つか。各務瑠璃子は死んでいたが生き返った、あの体は何で出来ているのか。もし大野大元の所為だったら、どうして他の連中みたいに腐り落ちて死んだりしないのか。本当は彼女、別のやり方で生き返ってて、それはあんたの後ろにいるモノの所為じゃないですかね」

「いくつかのことについては、私自身も分かりかねますが」

 すべてがお前の所為だと恨みがましく言われ、尚隆は不機嫌に顔をしかめた。隠すつもりもない。お互い、若造同士なのだ。他に見ている「後輩」も居ないのだから、どれだけ醜態をさらそうが、綺麗事で勝負して回りくどくするより直球で行く。

「確かに、私の後ろには一人。各務瑠璃子の後ろにもう一人」

「もう一人? それは、」

「私が知っているのは、私が持っていたかすかな記憶に関して教えてくれるという人物、初めは書を見せてくれと言い、やがて札を渡してくれと言うようになった彼のことだけです。知っているといっても曖昧で、殆ど会ったこともない。直接的には知りません。各務瑠璃子が会ったのは別の男のようですが、それ以上は知りません」

「知らないって……里見サン大人ですよねいい歳した大人、なのに特別知り合いでも上下関係もないような人間の命令聞いて人殺ししようってわけですか見ず知らずの人間殺してあんたは、」

 息が切れて咳き込みかけた浩太に、それはすみませんね、と気のない返事を尚隆はする。

「しかし貴方は死んでいない」

「死にかけた。それに俺だけじゃない、他の子達に手ェ出してただろ」

「貴方は存外短気なんですね」

「話を逸らすのは俺の得意技なのでとらないでほしいんですがどうだろうなそれであんた一体ナニモノなんです?」

「札師の過去を持っているらしい、ただの里見尚隆ですが」

「虐待されてたそうだけど」

 唐突に言われ、意図をはかりかねて尚隆は渋面を作る。

「狙いは何ですか」

「うんまぁ事実関係の確認。確認ったってそう難しいことじゃないよ当人にうんはいそうですねいいえって言ってもらうのだけが必要なだけだからそれで貴方母親にネグレクトで父親もそれ込みで殴られたり蹴られたり食事も与えられなかったりかなり虐待されてたそうですね、昔の周辺住民がまだ覚えてたんですけど。最近じゃよくあるけど昔はそれほど皆言い出せなかったとか何とか言い訳してましたけどそれについては何か言うことありますか」

「それ、とは?」

 冷静な顔で尚隆は問い返す。受けて、浩太は両足を地面につけ、それから軽く両手を振って体操めいた動作をした。

「被虐待者であったのかという事実関係についてと虐待内容についてと周辺住民の現在及び過去の態度についてですよ。恨みもひとしおでしょうにあんた結局彼らのうちの誰にも復讐しに行ってない、自分に力がないとはいえ、折角各務瑠璃子っていう術者連れてたのに何でまた」

 一瞬、尚隆の眉が動いた。どこに反応した? 浩太は思わず眉をひそめ、そのまま息継ぎして続ける。

「虐待についてコメントは?」

「ありませんね」

「それは怒りも何もないということですか? それって許したってことですかね」

「貴方は私を怒らせたいんですか」

 苛立たしさを垣間見せずただ面倒な客をあしらうのに倦んだだけの仕草で尚隆はうんざりと呟いた。浩太はかすかに微笑んでから、真顔に戻り、きつく言う。

「その通りです。怒ってください」

「何故」

「怒って貰わなきゃ喧嘩することが出来ないじゃないですか。野郎同士この歳になると本気で殴り合いなんて素面じゃ恥ずかしくて出来ないでしょ」

「殴り合いたいんですか?」

「それで理解し合って肩くんで飲み屋に繰り出すつもりはないのでお気になさらず。ただぶん殴ってやりたいだけで」

「何故」

 軽く酔ったように、浩太は絡む口調で吐き捨てた。

「腹が立つんだよ、するする逃げやがって……意図も意志も関係ないって顔で簡単に誰彼ともなくついて札だけ書いて与えて、人殺したって屁とも思わない顔死ぬほど殴りたいって思うのが普通の反応だろ」

「そう言う人だったんですか、菅さんは」

 驚きもない声に、そうですよと浩太はおどけた仕草で肩をすくめる。

「だってそうでしょ? あんた、誰にもつくつもりなんてない。過去の資料、かなり探したんですが、札師ってのを知ってる連中と記述探した結果、分かったのは、政権とか敵味方とか殆ど関係なく札師の札は使われてたって事実。それと、あんたそっくりの、特別何も出来やしない人間が一人居たって事実。あんた、里見裕隆さん知ってますよね? もしかして彼、札師の過去の、」

「兄弟、だそうですよ。私の記憶ですが生憎判然としないのではっきりとは言えませんが。苛立ちと憎しみは本物ですし、……あの男、今生で血の繋がりもないくせに、同じ姿、同じ苗字、それに選んだ仕事まで同じなんですよ」

 もしも一人ではなかったなら、虐待されても、お互いが支えになれるかもしれない。けれどあの男は、術の使えない尚隆の側を、過去も現在も離れている、とても近い存在である筈なのに、遠くに離れて、そして必ず、人生のどこかに触れてくる。

 いつも、いつでも、札師は一人で、生き延びる材料に札を置いて、札を求められる限りにおいてどこにも所属しきらず求められた。最上の札。術力を効率よく扱うのに最適の札。文字自体や札の書き方自体に評価は厳しかったけれど、その独自の体系と、実際の効果を見て術者達は沈黙した。一種尊敬の念さえ見せた。

 けれど、結局、一人では決して何の術も編み出せない札師を見下していたのだ。何も出来ない親王だけがのうのうと内裏で生き延びていて。

 ぎり、と奥歯がかすかに鳴る。

「親王の争いを避けるために、双子だった子供の一人は、……私は、殺される予定でした、けれど女官が仏心でも出したのか、単に死の忌みを嫌っていたのか、よその僧に預けられましてね。文字の効用に気付いた僧によって私は名を知られるようになり、札師として内裏近くに戻された……符崎キセをご存じですか、アレに会ったのもあの頃……何の力もない親王だけが! 何もしないでも生き延びた、銀月の連中に手を貸されて守られていた、檻を壊したのがあの小娘、それなのに一族は私も親王もあの小娘も拾い上げた。あの子供と一緒に」

「子供?」

「ふ、そもそも生まれつき大人だったものなんてないんですよ、元々人間のように育ったなら、化け物も同じこと」

「キセか。子供子供言うけど君どうなのかな結局アレでしょ自分が可哀想なんじゃないの自分だけが可哀想哀れ悲劇の主人公センチメンタルな女子中学生とか思いこみの激しい変質的粘着質少年でもないんだからさぁソレどうにかしなきゃって思わないかな」

「可哀想? 何がですか」

 急に冷笑が嘲笑に変わる。

「私が虐待を受けていたとか、死にかけたとか、そういう話は取り沙汰する者がそう思うだけでしょう。私が感知するところではない。私が責任を負うところのものではない。文句を言って可哀想がってるくらいなら少しは手を出したらどうなんです、中途半端にクチバシを挟んで、最後まで面倒見切れないくせに施設に放り込むだけが能なんだから」

 そもそも、過去をやり直したいとも思わない、自分は可哀想ではないのだから。

 札師の視線はたじろがない。真っ直ぐで、むしろ恐ろしい。自分の誤りを認めない狂気的な子供の目。大人にあると手に負えない。

 言いくるめるには厳しいか。浩太は少し眉をひそめる。けれど視界が回りかけて、深い思考はままならなかった。

「ちょっと、効き過ぎたかな……」

 家屋の影に置いておいた香炉を振り返り、酔っぱらい状態の尚隆を再び見やり、浩太はぼやく。

「俺も、解除用の香はちゃんと先に含んどいたんだけど……なんか殴りたいなもうホント本気でうわーやばい、本物のばーさまの作るものはやっぱ効きが違うねホントね!」

 叫んで、浩太は殴りかかってきた青年に足払いをかけた。

「で、うちのばーさんのフリして病院に来たのって、あんたの差し金!?」

「そうですよ! だっ、大体……ッ、各務瑠璃子がやる「喧嘩」なんですよ、本来ッ! 私は単に札の関連で、たまたま接触があって、下手に断れば殺されるし、それに断る理由もないというか、ちょっと気になったから参加してみただけで!」

「好奇心で人のこと殺そうとしてたのかよ!? 殴るぞ!」

「もう殴ってんじゃないですか!」

 口の端が切れて、尚隆がどもりそうになる。

「これ殴って、最終的にどうなったらどっちが勝ったってことになるわけ!?」

「知りませんよそんなこと!」

 香炉が転がる。爪先で蹴り飛ばした浩太は、酒は飲んでも飲まれるな、という標語の意味を深く思い知った。

 何事もほどほどが一番。ミイラ取りがミイラになった。


「うわっ!?」

 目の前に何かが降ってきた。空中で頭を踏みつけられた大野大元の体が、土にめり込むようにして倒れ込んだ。

「何、今の……」

 日向が呟く。

「自分の目を信じるのなら、あれは、酔っぱらいみたいにふらふらしている菅浩太と」

「……半分気絶した、札師の人?」

 呼び捨てにした裄夜に、日向は声を覆い被せた。

「助かったの? 私たち」

「どうだろう……あんまり、戦力になりそうにない気が」

「じゃーん!」

 大野大元の背骨と肋骨を踏みつけて、バランスが取りづらそうに立ち、菅浩太に見える物体は片手を拳に握って振り上げた。

「俺、勝ったよ!」

「よかったですね」

 意味が分からなくても話を流すことを覚えた日向である。

「浩太さん、足下に大野大元がいますよ」

 裄夜は言いながら、乾いた笑いが漏れていた。

「大元、何か取り憑いてましたよ……」

「へえ何が?」

「自称、神」

「へー神様か! そりゃあ君たちの手には余るあまる有り余る! 大変だったね!」

「大変でしたよ……」

 裄夜は、自分の体を見下ろす。服はどうやら無事のようだ。電気が通ったと思ったのも日向の発言も、勘違いだったのかと思うほど、何ともなかった。

 よいしょ、と大元に札を貼り付け、浩太は、

「俺札師に勝っちゃって! しかもこの人元々誰か特定の人に仕えるわけでもなくて単に札売って生活してるだけの「札師」だったから別に銀月で働いても、痛くもかゆくもないよこんちくしょうだったみたいでね! 恨んでる相手は里見さんだけだから無問題! 今日からボクタチオトモダチ!」

 日向と孝が立ち上がり、浩太たちに近づく。裄夜も行こうと思ったが、やっぱり錫杖が抜けなかったので、その場に残る。

「それにしても浩太さん……今の発言といい、嫌がらせに拍車がかかってませんか」

 寝たふりなのか、うなされている札師の横顔を見ていて、裄夜は多分この人に酷い目に遭わされた筈だがちょっとだけ可哀想に思った。酷い目といえば――

「浩太さん、その人の札貼り付けられたりしたんじゃなかったですか。恨みはあるんじゃないですか」

「え!? ゆっきーキセから何か聞いた!?」

 真顔で見つめられて、反応に困る。

「いや……別に。思っただけというか……直感?」

「直感か! なーんだ。じゃあ、帰ろうかな」

 脈絡がない。なさすぎて、次の号令に対して、反応が遅れた。

「ハイ手ぇ繋いでー!」

「え?」

 タイミングに乗り損ねて、日向と裄夜は同時に声を挙げた。手は繋いでいない。誰とも、だ。

 浩太は札師を掴んでいて、うめいていた札師の袖には孝が慌てて触れていて、大元は浩太に踏みつけられていた。浩太が使ったらしい転移の術で移動して、「手を繋いでいた」と思しき人員は皆、忽然と姿を消していた。かさかさかさ、と木の葉が揺れる。緑の濃くなってきた木々は、梅雨に入ってしばらく経つので随分立派に、重たげに繁って見える。

 呆然と辺りの景色を見ていた二人は、やがて距離を縮めて、ひそひそと話し合った。

「どうする?」

「帰るしかないよ……」

「当たり前でしょー!?」

 半泣きだ。

「まぁ、自力で歩けば速いかも知れない……前の通りの道を歩けば、二、三時間あれば下山できるし」

「荷物無しで?」

「不確実だけど、自分たちで移動の、何か、やってみる?」

「うー……キセですら、家から、大野さんがいるところの近くに目印があったから行けただけで、目印とか何にも知らない私たちが、何をどうしたら……」

 悩んでも、何も起こらない。山で遭難したら無闇に動かない方が良いのだが、方角と、以前通った道の立て看板を辿れば帰れることは分かっているので、二人は黙って歩き出すことに決めた。

 裄夜は錫杖を抜こうとし、ようやく、揺さぶったら地面が緩むことに気付いた。

 日向はさっさと歩いてしまう。

「ちょっと、中津川さん! はぐれるよ!」

「だって、動いてないと座り込んじゃいそうで」

 速度を落とし、日向は足をさすった。ふくらはぎは腫れるし関節はぎしぎしして、きっとここを乗り切ったら精神的にも強くなれるだろうな登山部みたいに、と、運動部未経験者は妄想して、ふらつく自分を叱咤した。

「うん! 頑張ろう! 裄夜!」

「ハイハイ」

 二人して、それなりにやる気はあった。

 もう、怪しげな人物や敵はいない。

 普通の山道を、歩いて、麓の旅館まで行って、電話を借りてたすくか誰かに頼んで。

 帰るだけだ。

「何っ、裄夜っ」

 急に、日向が立ち止まった。耳をそばだてて、首を巡らす。

 ざ、と遠くの木々が一斉に音を立てた。猪避けなのか、竹の連なった鳴子が揺れて、恐ろしい速さで鳴り響く。

「何か――」

 来る。直感して、裄夜は錫杖を揺らし、力任せに引き抜いた。錫杖の先で押さえつけていた「力」が、不意にほどけて空気に溶ける。一瞬だけ、違う空気の匂いがした。同様に、近距離から吹く、風の匂いが先程までと一転する。――周りの空気が、遠くから順に塗り替えられてくるのだ。

「急いで!」

 日向は叫ばれ、慌てて裄夜の後ろに走った。

 確信はないものの、錫杖を突き出すと風の勢いが和らいだ。ふと、首筋に感じる。笑う吐息。

 ぞくりとして、裄夜は振り返る。日向しかいない。ぎょっとした日向は、

「後ろ! 後ろだってば! あっちから何か来てる」

 裄夜の肩をばしばしと叩いた。

 確かに日向の居る方向に気配を感じたのだが、と気味悪く思いながら、裄夜は前に向き直った。不満そうなのを感じ取ってか、日向もいささかむくれながら、口を開いた。

「風の向きが、そっちだもの。何かが来ると思う。ものすごく痛くて寒い、何か」

「痛くて寒い?」

 そこまでは分からない。少し懐かしい、深いものが流れてきて、ソレは自分の行く道にある山々の、小さな気配をなぎ倒していく。そのことは分かる。

「あぁ、何か野生化してるな……」

 ぼやいて、裄夜は、息を吸い込む。吸い込んだところで、

「気付いているのなら、何故なかったことにする?」

「うわっ」「きゃ」

 日向の悲鳴は小さく、風に飲み込まれた。裄夜が気付いた通りに、真後ろに居る。裄夜だけ振り返って、見てしまう――印象に残ったのは、目だった。獣の、というよりも、仏像の見下ろしてくる深い眼差し。金の。それはキセよりも、いっそう得体が知れず、生々しくもあり、無機質でもある。印象が様々に揺らぐ、というより、すべての表象を含んでいる。

「裄夜」

 ぐ、と日向が、振り返れないまま、全身で緊張して、裄夜の腕を握りしめた。ゆっくりと、首を回して、ソレを見つめる。

「……キセ?」

「似てるかもしれないけど、明らかに違う」

 裄夜は静かに、唾を飲み込む。

 ひらりと、薄い色のコート裾が、地面にほど近いところで翻った。存在感はあっても、存在が少し薄い気がするのは、彼の気配が「向こうから来る何か」と等しく、「彼」だけが先にここに現れて、立っているだけ、だからだろうか。本体は別にいる、と。それでいて、本体に通じているから、底知れぬ深淵に投げ出されたように、吸い込まれそうに感じる。

 目の前のソレは、人の姿をしていた。黒髪は風で緩やかに吹き流され、細められた金の瞳、面立ちを含めて、それは確かにキセに似ていた。身長は、中城たすくとそうは違わず、それでいて異様に圧倒された。

「キセより幼いのに、こっちは怖い」

「この至近距離でそういう、思ったことを呟かないでくれませんか中津川さん……!」

 囁き声で、裄夜は叫んだ。

 ソレはおかしげに、裄夜に張り付いて基本的には背を向けている、日向を見ていた。

「あの、あなたは――玉竜ですか」

 虎かうろでも相手にしているような気分で、裄夜は腹を決め、話しかけた。何故裄夜がそのように問いかけることになったのか、相手はまるきり聞かなかった。かすかに唇を開き、

「否定する、根拠はない」

「銀月の一族と、関わりがあるという、」

「あった。こともあった」

 一瞬、鋭く目を細める。日本刀に差し込む光を思わす。曇り空の下だというのに、ぎらついたように感じられた。

 笑みは、消えていないというのに。

 ず、と裄夜の足が土に滑った。音。自分と日向と、相手以外である地面で鳴った音を聞いて、裄夜はやっと体感を取り戻した。手は錫杖を握っている。日向にしがみつかれて腕が痛い。足下には地面。

(玉竜に、集中していた)

 蛇に睨まれた蛙のようだ。

 何と言えばいいのだろう。直喩では表現できない。暗喩では無理だ。追いつかない。ぬるりと、近づく端から巻き取られる。合一出来ない癖に、取り込まれ切らない癖に、引き寄せられ官能的な夢を見る。

 今まで会った、どの神やそれ以外とも、何かが違う。

 怖いという気持ちと、同じくらいの強いベクトルで、惹かれていた。

 日向を、体の前に置いているから、その分怖くはないのかも知れない。もし一人だったら――

「道を通る」

「え」

「退け」

「道って、何ですか?」

 日向が、きょとん、としか言いようのない声で聞いた。思わず、空気がみしっと重たくなるのをはねのけるべく、裄夜は適当に口走ってしまった。

「貴方の、力の流れは、道のように見える。どこから来てどこへ行くのかは分からないけれど。道というのは、普通の道ではなくて、……何か目的があって通るような、「独自の意味がある道」なんですか?」

「道。確かに、これを道行きと呼び慣わすこともした」

 目を細める。興はそいでいない。まだ、話は続けられる。

「どういう意味があるんですか」

「意味がある、と言うのならば、思うところがあるのだろうな」

「まさか貴方がかつて辿った道とか、」

 裄夜はそこで唾を飲み込む。声がかすれそうになって、自分がまだ緊張している事実を思い知った。その上、会話の流れを断ち切るような、思いついたことを片端から口にする、浩太の悪い癖を引きずっている。

 玉竜は、どうやら人間の頭で思う飛躍程度、構いはしなかった。教えをこいにきた弟子をそっと見つめる指導者の眼差しをしていた。どこか、面白がる、仕草を。裄夜は再び、思い付きで述べる。

「道があって、歩いていく――たとえば、四国の八十八箇所を逆回りするみたいな……反時計回りみたいな、<時間を巻き戻す>ような感じで、この世界から、離れようとして準備しているんじゃ、」

「裄夜、何その突飛な発想」

「いや、だってどこかで見たことがあるなと思ったら……この間テレビでみたのか浩太さんが持ってきた資料に書いてあったのか、」

 キセか。彼の発想を引きずったのか。

 ふ、と空気が揺らぐ。玉竜が目を伏せた。

「浅はかと思えば機知を働かす。機知があると思えばそれもまた愚か。愚昧な民と笑うことは私はしないが、それでも思うことはある。そのぐらい愚直にもなれば、あれも楽に生きられよう」

「キセですか」

 無言で目をあげる玉竜に、裄夜はそれを肯定と受け取った。

 神は本来ならば言葉では語らない。語れない。

 語るものはあっても、その場で、共に存在してこそ「分かる」雰囲気というものがある。雰囲気に飲まれて――分かる、わかったような気に、させられる。

 怖いことだと思う。

「ホラー映画見てて、前、浩太さんが言ってたんですけど、どうも日本人だと、腕が壁から出てくるとかいうシーンがあると、その「気配」で怖いと思うようなんです、幽霊とか「得体の知れない何ものか」がいるようないないような、「いないはずなのにいるかもしれない」曖昧さで恐れるっていうか。その場に「幽霊」っていうものの「姿」とか確証された「敵」みたいなのが、はっきりあるのがアメリカだって。「腕が出てきた」っていう、実際の現象として悲鳴をあげてるらしくて。浩太さんが見てて思っただけだから検証実験も何もないし、学説も知らないっていう話だったんですけど。貴方もそれと同じで――だから、僕たちが触れている「人間ではない者たち」っていうのは、つまり、」

 その、心性に他ならないと、裄夜はふと思いついた、それを告げた。玉竜は瞬きもせずこちらを見ている。

「話が長いのは、その山神に影響されたためらしいな」

 笑ってはいるが、どこか暗い。闇夜の松明にも似ている。たとえば、面のおもてが笑みなのにどこかうろんで、その「空白」に余剰に「ないものの気配」を秘めているのと同じ。

 未だに式では表されない、漠然としたもの。

「違う、あらわされてはならないものだ」

 それは。玉竜がそっとささやく。

 すべてを見透かすように金色の虹彩がこちらを見ている。

「顕在と潜在。謎を解けば「見えなかったものが繋がる」。あまり神に問うてはならぬ。神はあるがままに秘密をもらすが、それはそのままではあまりに真理。すべてを明かしながらも直接受け渡せない、その力を隠して人に伝える。本当はお前にも分かっているのだろうと、告げている以上神は相手が「わかるものだと」思っている」

 語るべきではないのだ、「答え」など。

 確かめてはならない。

 顕在してはいるものの代替物である「言語」を持ちいてソレソノモノを顕在させることはしない。潜在された言葉で伝達し、その顕在を刺激すまいとする。

 隠れよと。

 それを日本以外にも「人間である以上」持ちうる生理であると見るか、文化的な素養のもとにはぐくまれるものであると見るか。

 裄夜は知らない。分からない。ただ玉竜がどう考えているのかは、おのずと知れる。

(おのずと、)

 それこそが「言葉そのものの背後、謎掛けの先にある気配」を察するということ。

 ホラー映画一つでここまで玉竜がとまってくれるとは、裄夜も、あまり思ってはいなかった。

 他にすることが、質問したいことが、あったのではないかと自分でも思う。けれど他に出てこない。いざ面と向かうと、言葉など必要がない気にさせられてくる。

(伝わってないのかもしれないのに。何も知らないのかもしれないのに)

 日本のカミはかみゆえに尊い。人に相撲で勝てないとしても、かみは尊い存在であり、見下してはならない。

 そういうものだと分かっている者が、今の日本にどれだけいるのだろうか。

(違う、そういう話をしたいんじゃなくて、)

「キセ、が、貴方の息子なんですか。銀月の一族とか、花陽妃と銀月王とかと、一体どういう関係が」

 一瞬、玉竜が顔をしかめた。人のような所作だが、面が傾きで喜怒哀楽を表現するような、妙な感覚がつきまとった。

「ともあれなかなか聡いことを言う」

「どの点がですか」

 ともあれって何だ。と思いつつ、裄夜は聞く。

「花陽を銀月よりも先に置いた」

 単純に、AでなければBだと言ってしまっていいものか、迷う。裄夜は、素早く言葉を継いだ。

「銀月王より花陽妃、花陽妃より貴方が上にあるということか」

「答えは、記憶を継いだ者ならば初めから知っている筈」

 答える義理もないと、玉竜はうそぶく。

「記憶?」

「銀月王と花陽妃の居場所を、ご存じでしたら教えてください」

「銀月については、私より、お前の方がよく知っていよう。それだけはっきりと、通じたままでいるのだから」

「え」

「うしろ!」

 裄夜の背後、湖が広がっている。日向が指さした方は、玉竜の姿が佇むのとは逆方向だ。銀色の、亡霊が立っていた。玉竜が嫌味を込めて顔を歪め、低く笑った。

「浮薄」

 手をかざされて、うっすらとした影は文句を言いたげにかき消えた。

「今はまだ「亡霊」とやらで済んでいる。だが、充分だろう。根が通じたものなど、追うのはたやすい」

「通じてるって! 何で、ですか」

 日向が聞いた。じっと、二人まとめて見つめられた。息が出来ない、体の内側をなぞられ、水でいっぱいに満たされるように感じる。

「お前たちは、知っている。それを、あえて説明する道理はない」

「知ってる?」

 日向に問われて、裄夜は玉竜を見たまま、分からないと短く答えた。

「とまれ、聞きたいことはそれだけか。気が済んだのならば、退け」

「あっ、花陽妃のことは?」

「いずれ見つかる。あえて捜さずとも、何の支障があるか」

 どうやら花陽妃の話はしたくないようだった。

「妹さん、なんですよね?」

「アレはそう思っている。どちらであれ大差ない」

 何と何を比較した?

 それ以上質問しては興をそぐ。不穏な空気を感じて、裄夜は言葉を躊躇った。

 日向も同じで、身動きが取れない。

「それでもなお、知らぬ、というのなら……近いとだけ、答えておく。お前達が捜す物は、ごく近いところにいる。そして尚も遠い。無理に早く、集めようとしてはならない。自らの思い述べるところをかんがみよ。答えを知っているはず。辿れば、着く。浅はかに振舞えば見失う。己が足で進めよ」

 言葉をいうのが面倒でやれない、といった表情で、玉竜は、意外にもゆっくりと述べた。意味は分からずとも、身の内に染み入る。具体的なことは教えられていないが、自分たちできっと、思うとおりに歩いていけば、結果は出せると「保証」された気がして、裄夜と日向は気が抜けた。

 退けと、幾たびかめに言われて、我に返る。

 玉竜は――やけに親切だ。

(何故? そういえば、銀月王と花陽妃と、キセの話をした頃から、少し、気配が怖くなくなっている……?)

 空気が「近く」なって、「馴染んでいる」ような錯覚を覚える。

 見知らぬ人と、顔なじみになった後のような。静けさ。安寧。安楽。

(だから、神は、人の側に長くはいられない、性(しょう)を忘れる、おちる、人の世に引きずり下ろされて苦しむ、狂う)

「そういえば、玉竜って、キセのお父さん?」

 再び日向が唐突に、気楽そうに声をあげた。

(呼び捨て!?)

「勇気あるー……」

 裄夜はぼそりと呟いたが、口に出したら平常心が戻ってきて、黙っているよりは比較的楽だと気が付いた。「怖い」もの相手だが、言ってしまえ、と思ってしまった。

「当人に聞けば済む」

「キセは教えてくれなくて……あ、キセは今、裄夜なんですか?」

 変な質問だ。あわあわと手をばたつかせて、日向は言い換える言葉を探している。

「裄夜としての人生を生きてる、今の裄夜は、昔はキセって人生を送ってて」

 玉竜は、愛想なのか分からないが、うっすらと微笑みを浮かべている。全く癒やされない。むしろ怖い。

「でも、裄夜とは別に、今キセとして、ときどき実体化して、裄夜と会話なんかしちゃって、裄夜の知らないこともできるっていうのがあって……その、別の人として実体化出来てるキセは、裄夜なんですか?」

「符崎キセが水瀬裄夜であるとは言い難いが」

「え!? 別人ですか!?」

 図らずも真っ直ぐに玉竜を見てしまった日向は、キセよりも引きずり込まれる感の強い、きつい眼差しにたじろいだ。

「お前は、シズクと同じだと言われて、同じだと思えるか?」

「えぇと……」

「シズクと中津川日向とは、別の人生を生きたと、思うだろうか?」

「あ、ハイッ」

 そこだけはよく分かった、ということが他人である裄夜にもはっきりと分かる、いい返事だった。玉竜はするりと呟く。

「その見方においては、「である」とは言い難い。他の見方でも、そうであることがある。ないこともある。同じではあるが、違うと言えば違う――実体化した符崎キセは、水瀬裄夜の、いわば頭の中で区分けされた「別人」としての役割を演じさせられている水瀬裄夜自身ではある。彼が基づいて動くものの見方、基準、基づく人生が、裄夜全体とは一時的に異なる「別のもの」であるために、別人として行動できる」

「……聞いておいて、よく分かりませんでしたすみません……」

「多重人格みたいなもの?」

 裄夜が助け船を考えつく。玉竜は浅く笑った。

「今では、中津川日向の知識に依れば、統合失調とでも呼ぶのか。三秒ごとに切り替わる意識の不連続を、明確に切り分ける「異常」。異と呼ぶのさえ、さして問題にはならない。今ここにいる中津川日向の持つ「見方」にとって理解しうる言語に換えて呼ぶまでのこと」

「……」

 日向が、助けを求めて目だけで裄夜を見る。だが、裄夜も手が出せない。

 何て言ったら良い?

 思いにもならないものを、玉竜は実に親切に、器用にすくい上げる。

「あることに何の意味がある? ないことに何の意味が? お前達が意味を問うた。だが、なぜ意味など求める? あることもないことも、同じ事。どちらもある。ないこともあれば、あることもある」

 そして今、明確なことがもう一つある。

「話が終わったのならば、道を空けろ。意味は分かるな」

「何故、退かないといけないんですか。僕らぐらい、少し避けたら、貴方はいくらでも通れるはずだ。上も横も、あいてますよ」

「分かっていないな……先程、自らの口をもってして、道に意味があると言い出したものを」

「……巻き戻す、為とかいう話で、」

「道は、一つ」

 私の必要とする道筋は、一つ。

 だから、阻む物は退ける。それだけのこと。退ける手間を億劫がって、退けと、相手の意志に任せているだけのことだ。言われる側の、退かないと言う自由はない。

「争ってでも、道を通るっていうんですか」

「神は争うものではない。ただ生きるものだ」

 ただ、生きる過程で邪魔ならばどけねばならぬ。

 細い一本道で、互いに身を逸らしあってすれ違わねばならぬのと同じ。

 同時には立てない。

 同じ位置に立つことは出来ない。

 だから、領域を侵せば、争わざるを得ない。

 なぜ仲良くできないのかと問われても、その問い自体が意味を成さない。

 立つ位置は一つなのに、どこへどう行けと言うのか。

 どこへ行っても他のものがいて、もう密度上は負荷がかかりすぎているのに、それでも仲良く暮らせと言う、それはお前たちが忘れてのセリフなのだろうか、しかし私は覚えているし、ケモノもちゃんと覚えている。

 彼は言う。

 それはただの事実であって、そこには何の感情も込められない。

 あるとすれば、それは哀れみに近いもの。

「なぜ、占めている範囲を忘れる? 自分が占めている範囲を区別しないから、だからお前たちはそんなに気軽に、平和だのと叫ぶのだ」

 区別するものたちは知っている。

 争って、位置を勝ち得なければそこにはいられないのだと。

 知っている。

「厳然とした区別、区域、なにもそればかりが正しいというのではない、しかし正義をかざし決然と正否を決する連中のことも、蔑んではいられないぞ」

 冷めた瞳に宿るものに、裄夜はふと視線をゆるめる。遠い、直感よりも深いところで、誰かの声が口からのぼる。誰か。それでいて、限りなく自分自身であるもの。

「あなたは、変わった」

「変わるよ。変わらぬものなどない。何を嘆こうと、連続した命を証拠立てられるものなどない、意義は消える」

「そうじゃない」

 緩く、首を振った。

 キセの感情が、心のはしを浅く焼いている。

 邪魔だ、と思うのに、それをさえいとおしむ気持ちが生まれている。

「あなたは、かつて、キセを捨てた」

 事実だ。そして彼は――父親である玉竜は、それを今も何とも思ってはいない。

 その愛情の欠片もなさを、責めることは、できない。

 それまでの彼は、情愛という感情をヒトとは違うかたちで持っていたのだから。

 あまねくすべる神々が、何を思うのか、それをたかだか二十年ほどしか生きてはいない人間の若造になど分かるよしもない。

 ただ、自分と近いように見えるものたちに、感情移入するという形で侵害を起こし続ける限り、ひとは、そのことを認めない。

 認めようとは、しない。

「ぞっとするよ、おまえたちがいう言葉に」

 それはまったく恐れなど持たない、氷片の散るようなやけに神錆びた笑いだった。

 裄夜はこの、眼前の生き物は、ヒトではないと、ただ思う。

 ただ、思う。

「怖くなる、まったく疑わぬ、その純粋さに。嫌悪も浮かばない、私はむしろ可愛いとさえおもっているよ」

「これは僕の推論です、別に、彼自身がそう思ってるとかそんなことは、考えてない」

「どうかな」

 うそぶいた男に、裄夜は静かに告げてみる。

 今なら、ひとではないこの生き物も、話を、聞いてくれそうだから。

 昔は、目線を近づけるという無理な侵害、優しくも愚かな真似を、しようともしなかった男だった。

 でも今は。

 息を、吸い込みすぎてむせた。むせながら、必死で、失われゆくことばをつかまえようとして、祈るように手を伸ばす。

 真実を、ささいな真実を、掴みだして、この揺らぎを、

 ……そとに。

「かつては、あなたは神だった。少なくとも、人ではない。でも今は、近づいている……今なら、わかるんじゃないですか? どんな理由にせよ、心境変化が、起きているなら」

「だまれよ?」

 笑んで言われた穏やかな声が、ここまでにまで力を持つ。

 ふと温度が下がる。

 足下が揺らぐような錯覚が起こる。

 風が鳴り、急にやんだ。

 さや、とも音を立てない森が、固唾をのんで、かみのいらえを、判じを、その先を、待っている。

 裄夜は背筋を冷やし、ぴんと背を伸ばし、息ができないことに気が付く。

 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。

 今、出くわせたことは僥倖だ、なぜなら彼はかつて神でありいまだ神であるから。

 ここに、居続けられるような存在ではないのだ、本来、神はきえるものだから、神は現れるものであり、普段は隠れているものだから。

 ある、としても、常に覚え続けられて把握され続けるようなものでは、ないのだから。

 人と同様。

 裄夜はまけじと気を張った。

「あなたは、ひとを愛している」

 見下すことにも。

 いとおしいとうそぶくことにも。

 本人は結局は違うものだと突き放し続けてはいるが、それでもなお分かちがたく、近づいている。

 近づきすぎている。

「あなたはかつて、戻らないことを選んだ。それは退屈のための暇つぶしだったのかもしれない。それでも、いまここで生きる人々に出会って、影響を、受ける形をもっつことを選んだ」

 雨を降らせ、時に食を与えられ、信仰を受け、時に妖魔とののしられながら。

 その神は、人である時間を、長く持ちすぎた。

 滅びねばならないほどに、ここから、離れられなくなっていた。

「帰れといわれても、帰れないんだ、もう」

 そうまでして、長い長い暇つぶしを終える。

 裄夜には、神の境地など分からぬ。

 ただ、

「かわいそうだとは、思います」

 ヒトとは違うがゆえに、ヒトの尺度での反応を面白がるしかなかった玉竜の、その、

 ……選んだ末路が。

「別におまえに哀れまれる必要などない」

 私は私の好きにしてここまでできあがったものだから。

 その視線は、ふわりと優しい。

 それは未だに境地を違える。

 ずれた次元の、いきものである。

「哀れんでなど、いません」

 かわいそうだと、たった今言った口で、裄夜は答える。

「ただ、そういう、ものが」

「私はしぬよ」

 唐突に、彼は言った。

 相も変わらず、感情のない表情豊かな顔をしていた。

 あまりに綺麗すぎて、疑いを起こさせない。

 それがじわりと不安を産む。

「あなたが一族を捨てたのは」

「私が出ていったのは、飽きたからだよ。今ほど熟んでもいなかったしね」

 死の間際、自然の獣は死に場所をさがして群れを離れるという。

 そう疑ったが、よくよく考えると一族を捨ててからは二千余年が過ぎ去っている。

 ……時間の尺度が分からないが、それでもたぶん、裄夜の推論は外れているのだろう。

「それでもなお、滅ぶわけにはいかないのだよ」

 死にたくはないと言う。

 その、いささかの迷いもなさ。

「この力も位置もすべて、継ぎ足しておこうと思ってね」

 それは、彼自身がいきのびることと同義ではない。

「娘が、いるのだよ」

 最後まで、自力でたどりつけとでも言いたげに、彼は中途で言葉を切る。

 笑んだ顔が急に遠くなって、眩暈をこらえ、裄夜は叫ぶ。

「あなたは何を望んでるんだ!」

 いらえはない。


 ただただ、森がざわめくばかり。


   *

 その後のことを、正確には覚えていない。

 記憶の大半が吹っ飛んでいて、日向と裄夜は気が付いたら山の中に立っていたので、お互い、「これが実物であるのか?」と疑念を抱き、

「裄夜、こないだ冷蔵庫のプチシュー、食べた?」

「食べてない。あれは、犯人が浩太さんだっていうことで、決着したじゃないか」

「だよね。でもあれ、どうも孝君が間違って食べたみたい」

「本当!? 一時間待ちで買ったという有名シェフのお菓子と、中津川さんと茅野さんで作った岩石を間違うなんて」

「パティシエっていうの! というかそもそも岩石って何よ! さすが、本物の裄夜ね、容赦ない……」

 そういった会話によって、どうやらお互い「本物」であるらしい、と二人は確認しあった。

「で、何があったんだっけ? 裄夜が、喋ってたんだっけ」

「……途中までは、覚えてるけど」

「途中? どの辺り?」

「抜けがあるんだけど、銀月王と花陽妃がどこにいるのかとか聞いたら、近くって言った気がする」

「気がする、ねぇ」

 蔑むように言われて、裄夜はいささかむっとする。

「中津川さん、途中から意識放棄してなかった?」

 途中放棄した人に、バカにされたくはない。日向は執着なく、あっさりと罪を認めた。

「してた多分。あのね、ものすごく可愛いロバが来て」

「うわっ明らかに頭の中身がどこかへ」

 今も大丈夫ですかと、裄夜は日向のこめかみを両手で挟んで、軽く揺さぶった。

「やーめてよー! もう! あんなの、朝礼の途中で寝ちゃう人間には、耐えがたいの!」

「玉竜も朝礼と一緒にされたら怒ると思うけど」

「面白がるんじゃないの?」

「どうだろう」

「とりあえず、帰らないとね」

「だね」

 少しだけ、さっきよりも疲れが取れている。晴れやかな気分で歩いていたら、二十メートルくらい先に、里見孝が落ちていた。

 どうやら、札師の服を触っていただけでは「手を繋いだ」ことにはならなかったらしい。

 ひっくり返って意識を無くしていたものの、日向が呼びかけると、目を開けた。

「どこか、うってない?」

 うつろな目をして、孝は、高い木の、そのまた上の方をぼんやりと見つめた。

「ない、みたい……ウタウタイも案外、ありがたいのかもしれない、あんな高さから落ちて、体のどこも痛くないなんて」

 後半は完全にひとりごとである。

「そっか」

 日向は感傷を断ち切るように、わりとドライに言い放った。

「孝君、立って歩ける? 麓まで歩くよ」

 二人が三人になったが、歩いて帰ることには変わりない。頷き返して、孝はゆっくりと立ち上がる。


 途中で、山道の側を車道が通っていることに気付いた。

「もっと早く気付けばよかった」

 浩太に貰ったままの地図を確認し、それが国道か県道かは分からないがアスファルトが敷かれていて、一応街への案内表示もあり(何キロ、という表示はあえて見なかったことにする)三人は大分ほっとした。

 まだ日は暮れず、じめついた風が、首筋を冷やす。

 歩道はない。狭い道幅だが、たまに農道代わりに軽トラックが行きすぎる程度だから、轢かれない程度に端に避けて、のろのろと歩いて山を下った。

 乗せてくれないかと思ったのだが、世知辛いことにどの車も(三台だが)とまってはくれなかった。中津川さんが足を見せなかったからだということで決着が付き、男二人はセクハラのせいで、日向に泣かれた。

 滅茶苦茶だった。

 そんな中、疲れ果てた里見孝が、思わず気を抜いてしまったことを、――誰も責めることは出来ない。

 孝は、そのときぼんやりとしていた。

 思ったことを、本気で、口に出してしまっていた。

 遠く、町並みをのぞみながら、車道をふらふらと歩いて、孝は言った。

「無事に、家に帰れますように」

 孝が言った途端、前を通ったトラックが、反対車線にはみ出した。それというのも、左車線を、向こうから、茶色い、角の長い水牛のようなものが五頭、歩いてくるところだったからだ。

「……アレで帰るの?」

 呟いた日向の前で、牛がとまった。

 頭をさげて、角の位置を低くしたあと、牛は、日向の服を引っかけて、吹っ飛ばすようにして自分の背に叩きつけた。悲鳴をあげた日向を、誰も助けることが出来なかった。自分も同じ目にあうと直感した裄夜は逃げだそうとしたがあえなく同じ目にあわされてしまった。

 裄夜が気を失っている間に、牛はふもとまで歩いていった。時速七十キロは出ていたかもしれない。あまりの速度とその姿に、すれ違う車は急ブレーキや急ハンドルをして、あわや事故というところまでいっていた。

「騒ぎになってるね……」

 やっと目が覚めた裄夜に、半泣きで日向が言う。寝るにも寝られなかったらしい。恨みがましく見つめられ、裄夜はごめんというほかなかった。

「そ、それにしてもさ、こういうとき、冷羽がいたら便利なのに」

 ごまかすように呟いた裄夜に、日向はきょとんと聞き返す。

「冷羽?」

「幻については、冷羽が十八番だったから」

 冷羽なら、付近の目撃者を眩惑して、こんな騒ぎになるようなことは起こらなかったと、記憶を混乱させて思い違いさせることが出来た筈だ。

「そういえば、最近カレンちゃん見ないね」

「……そういえば」

 これまで毎日のように入り浸っていたカレンは、温泉でのぼせたとき以来、姿を見せていない。恐怖を忘れる為には、人間は何でもする――世間話で、現状を忘れようとし、日向と裄夜は千明カレンについて熱心に考えてみることに決めた。

「どこ行っちゃったんだろ」

「そもそも、あれは実体じゃなくて幻、なのかな。幻が飛ばせないだけで、本人は無事、とか。それであってる、キセ?」

 唐突に話を振られ、キセが瞬く。というかいつから牛の上に居たのだろう。

「……千明カレンのことを言っているのか?」

「そう。キセもだけど、あの子はいきなり、幽霊みたいに現れるし」

「触れるしご飯は食べていくよ?」

 日向が口を挟む。

「何で最近、現れないのかな」

「どちらにしても、千明カレンって人は、どこかにいるわけだよね、幻でも実体でも、本人が忙しくて、ここには来られないだけかもしれない。で、どうなのかなと思ってキセに聞いたんだけど」

「何でも俺に聞いて済むと思うな」

「知らないの?」

 日向の無邪気な言い方に、キセは簡単に人に頼るなと若者に警句をたれたつもりだったので(おそらく)、何だか嫌そうな顔をした。警句を言った自身にも、日向にも、嫌(なふうに、裄夜には見えた)。

「……知っている。千明カレン本人は、未だかつて、一度も近くには来ていない。あれは言うなれば、幽体離脱とでもいうのか、」

「そういうのって、本当にあるの?」

「いや。単にホラー特集で見た」

 キセは日向に真顔で返す。

「それ僕の記憶だろ」

「お前達、本当にまったく気づいていなかったのか?」

 裄夜のつっこみを無視して、キセは言葉を続けた。

「あれは、冷羽ですらなかったというのに」

「……はあ!?」

 裄夜と日向の声が、そろった。キセは平然としている。

「今までお前達の前に姿を現していたのは、千明カレンという少女だった。まぁ見た目には、男女の別は分かりづらい体型と声をしていたが」

「失礼だよキセ……確かにそうだけど」

「……少女だった、ってことは、冷羽じゃなかったって判断した理由って、まさか、」

 日向が、言葉を切る。目を向けられて、まだよく意味が分からない裄夜は首を傾げた。仕方がなさそうに、日向はそっと口を開く。

「冷羽、もしかして、男なんじゃないの?」

「そうなの?」

「そう」

 綺麗に話が終わった。沈黙の中、裄夜は何かを考えた後で、

「今まで出てた幻、幻なんだよね? それが冷羽ではなくて、時々変なことを言うけれど千明カレン当人だった、として、……冷羽はどこに?」

「水瀬裄夜の隣に、今符崎キセがいるな? 同じことだ。千明カレンは冷羽でもある、ただ冷羽が別の人格として独立しているわけではなくて、まだ、千明カレンの記憶の一部でしかないというだけのことだ。記憶の人物が一人歩きをし始めると、今のような事が起こる」

「……キセ、何か不満そうだな」「別に」

「ねぇ、それで牛、どうやって、なかったことにするの。このままだと私たち、牛の伝道師だよ」

「牛の伝道師……」

 裄夜が復唱して、日向は自分が言いだしたのに吹き出して笑った。

「やだもう」

 困った挙句笑ってごまかしていることに、言われなくても裄夜も孝も分かっていた。

   *

 牛の伝道師達は、牛に御礼を言って帰って貰い、這々の体で住処としているマンション(というかアパート)に辿り着いた。詳細を説明する気力などない。

 ないというのに、浩太が来て「ちょっとお聞いてくれるう」女子高生の喋り方で浮かれて何かを言っていたので、半分眠りながら相づちだけを打っていた。

 詳しい流れは、明日からでも充分だ。そう思って。

 学校へは、どうやら孝の兄である里見氏が連絡を入れ、法事でどうしても帰ってこられないと言ってあった。

 おかげで日向と裄夜と孝は、ありもしない遠い親戚のお祖母ちゃんの話をでっち上げて、それから当たり前のようにお土産をせびられた。


 夕方、川沿いを歩いていたら、裄夜は浩太に捕まった。

 どうやら彼は、各務瑠璃子に会いに行ったばかりのようで、それも各務瑠璃子が大野大元の娘大野まゆらと仲良くなっているとか、変若水が色々あってなくなってしまったらしいとか、そういう話を聞いてきたばかりで、何とも要領を得なかった。

 多分、また、ちゃんと頭の中で整理されたら、裄夜以外の人間を集めて、あの一気に話す喋り方で教えてくれるのだろうから、今はただ聞き流した。そうしたほうが、いいと思った。

 だって、とても心配そうで。

 何か、励ます言葉も思いつかなかった。

 迷いを、見たから。

(何を、躊躇っているのかは、分からないけど)

 やがて言葉は、大分整理されていく。要点は、辛うじて分かるようになる。

「言葉が通じず、分からずに曲解ばかり繰り返して、自己憐憫に浸る生き物。人間のおかす過ちの例を、かつてある学者は、自己憐憫や恐怖などによって閉鎖された心が生み出すと説いた」

 浩太は、空を見上げている。そよ風が土手の草を揺らし、葉先がすれて、快く鳴る。

「そういうのをね、いくら知ってても俺なんかだと手も足も出ないわけだ言葉をつかえる生き物相手でも言葉の意味を、「相手の言っている意味で理解しようと、汲もうとしてくれる」わけじゃない、ただ文意のままにしか理解しない人間が相手だったら。……大野まゆらは、言葉を使わなかった。各務瑠璃子のやったことの善悪を知らないとはいえ、ただ側にいて、ただまゆらの人生を続けていて、別にまゆらは、瑠璃子に何かをしたわけじゃない。持っていた雰囲気が、瑠璃子の視界に余裕を与えた。その、まゆらの持つ雰囲気が、力を持つと、あんなふうに――大元や母親に対して強く思った気持ちに引きずられて、変若水めいたものを生み出す……」

 結局、言葉は、生きている生の人間のありかた、雰囲気という不文に、負けたのだと浩太は呟く。それは早計ではないかと、裄夜は思ったけれど、ただ浩太が今ここでこぼしているのは、言葉そのものの力の話ではなく、単に「自分のふがいなさ」を愚痴っていたいだけなのだろうと、真意を汲んだ。だから黙って、それから、それでもどうしても言っておきたい気分になって、どういうタイミングで言うか気をもみながらも、するりと口に出した。

「浩太さんには、浩太さんのやり方がありますよ……今浩太さんは、好き放題やって好き放題に言うから、破天荒なところがあって、反感は買っても、まだ話を聞いた全員からは刺されそうにないです、だからまだ、やっていてもいいと思う。ただ……僕たちは、そういう口うるさい事を、等身大の仲間に言われたら、自尊心が簡単に傷ついて、めちゃくちゃに暴れるような時代に生きているのかもしれません、言う相手の様子と、自分の、応戦できる体調かどうかを、見極めてから、説教かましてください。しなないで」

 浩太は、一瞬打たれたようにびくりとした。やがて、間をおいて、弛緩しつつ、

「いやだねえ小うるさいって言われちゃった刺し殺されそうって言われちゃった俺やっぱりかんに障る?」

「嬉しそうにしない。必死で押さえてるつもりかもしれませんけど、口の端が笑ってますよ」

「ねえ裄夜くん」

「何ですか」

「ありがとうね……やっぱり君は、キセとつながったところもある、心根の優しいヒトデスネ」

 今、派手にバカにされた気がするが。裄夜は半眼で浩太を睨み据えたが、浩太は照れたふうに笑って、それから河原のほうを見やった。

「あぁやだな何か俺達青春してない!? 万年青春!?」

「浩太さんと一緒にしないでください」

 冷たく言った言葉だけれど、顔では少し、笑ってしまった。裄夜は、吹き抜ける風が、日暮れとともに冷たくなっているのを、ほてった頬に冷たくていいなと思った。

 こんなときは多分。

 後ろから、タイミングよく、遠き山に日は落ちて、と調子の外れた歌が聞こえる。

 子供に笑われた、高校生かぐらいの青年が、俺はこれでも歌手なんだぞと叫んで、ありえないとバカにされている。

 調子は外れているが、何だか楽しくなる歌声だった。

 何度、ありえないものに出くわしても。

 いつか、辿り着きたい。この場所へ。

   *

 防音室の扉を開けて、黒ずくめでひょろひょろした友達に「おう」と声をかける。

 飄然とした「おう」に、相手はやはり見た目通りの声で返事をする。

 そのまま、たわいもない話――コンビニで新しいシリーズが出た、とか、そういう話をするものだから、遅刻を許せないで貧乏揺すりしていた少女は、ばん、と大人げなくテーブルを叩いた。紙コップにいれたコーヒーが、ちゃぼん、と間の抜けた音を立てた。お仕着せのインスタントコーヒーは湿気ていて、お湯を注いでも黴くさい。その匂いが、白くあがった湯気からも、している。

「何怒ってんだよお前」

「うるさい、須条のばか!」

「あっ、お前人のこと須条とか呼ぶなっつったろ!」

「うるさい!」

 ずかずかと歩いてきて、青年はパイプ椅子に派手な音を立てさせて、座る。ふてくされた横顔は、若いのか、老成したのか分からない疲れた表情を浮かべる。

 時々、この人の歳が分からなくなる。

 セーラー服を着た少女は、束の間、不安そうな顔になった。

 壁際に突っ立っていた黒ずくめが、ビジュアル系をはき違えて化粧してその上風邪を引いたみたいな、やたら不健康な顔で、こちらを見ていた。

 とーりあえずー、と少女は腹から声を出した。

「座ってる場合じゃないでしょ。遅刻だよ遅刻。練習だよ」

 ぐいぐいと袖をひっぱると、彼はうめきながらも立ち上がった。

 ――捜さなくては。

 無意識に刀をさがしていた。掌がつかに当たる。

 幻の中にいるというのに、刀が側にあり、質感もある、そのことが可笑しかった。

 けれど笑わず、毅然と立つ。歩き出す。

 頭頂部で束ねた、薄い茶色の髪が、背に当たってゆらりと揺れた。

 乳白色の靄。まただ、意識がふらつく。足がもつれて座り込んだ。

(あの子を、捜さなくては)

 あの、小さな女の子を。

(あの子は何も、知らないのだから)

 そう思ったとき。

(冷刃)

 あかるい、日だまりのような、誰かの声が呼んでいた。

 少年の声。懐かしさで、体が震える。意識は相変わらず遠のいていく中、思いだけは満たされていく。思うだけで。

 太陽のような人だった。

 今はもう、昔の話。

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