第二十章 類型三種

   *

 カードを切る。台の上に並べられたのは三枚だけだ。

 竜。人の中の変異。自然(じねん)のうちよりいずる、変態する意志。

 見えたのはそれだけ。

「それだけだっつってんじゃん」

 目元の泣きぼくろまで歪めて、薄い唇を黒の混じる赤い口紅で厚ぼったくした女が、煙を吐き出す。黒塗りの煙管は、以前菅浩太がどこかの骨董市で手に入れてきたものだ。意外に安かったけれど、江戸後期のもので、漆塗りがほどこされ、いくらか煤けている。

 煙草をバラしてフィルターまでつけて我流で吸って、女は、真っ黒くてゆるやかにうねる髪を、頬の上からすぐそこのテーブルに払い落とす。

 うす紫色にされた光源が、くゆった煙草のせいで、余計に暗く見えている。

「延滞料とるよ」

「レンタルなの?」

「延長料金っつったら、どこの水商売よ」

「流れ流れていくものを扱ってる時点で、十二分に水商売だけど」

「じゃあ、本屋もパン屋もストリッパーもおんなじだわ」

 女は、奇数枚あるカードを綺麗に並べる。長い爪はてらてらと光り、赤い色が、なまめかしい。でもそれは実際の爪ではなく、タンパク質ではなくて合成樹脂で出来たつけ爪だ。

「でさぁ今回俺が関わってるの、そこがポイント?」

「そ。ドラゴンていうのは、日本にゃいないでしょ。まぁキリスト教における異端はドラゴンだから、日本の神様なんざどっちになるんだかよ。人の中の変異は、ちっちゃーい男の子。心当たりある?」

「ちっちゃーいかどうかは分からないけど、ある。変態する意志は?」

「んー。難しい。多分あんた、会ってる。でも、ふつーの人間。人間に見えるけど、何か取り憑いてるっていうか」

 女は、がしがしと外見にそぐわぬ仕草で頭をかいた。

「あーヤダ。あたしこういうの嫌い。こういう気味の悪いヤツ占わされるのってヤダやだ。占いったって、統計学だよ。現実の諸問題すべてが解決出来るだなんて思うなよ。金縛りがゆーれーの仕業だって信じてるヤツぐらいにつっまんない考えだよそれ」

「うん金縛りは身体現象だからね体が寝てるのに頭だけ起きちゃってるヤツだからさ。アレの一番怖いとこって二度とこのまま現実世界に起きられなくてこのわけわからん、頭が作り出した妄想世界に置き去りにされちゃうんじゃないかってところじゃない?」

「金縛りキラい」

 話が噛み合わない。浩太は気にせず、カードを操る手を見つめていた。

「感覚的な世界って実在かどうかわかんないし、今が実在かどうかわかんないじゃないかって引き合いに出す子もいるけどさぁ。でも気味悪いでしょ頭ン中だけ妄想の世界から帰って来られなくて、肉体だけこの現実にいるからおかしな言動繰り返すのって」

「そういう子今多いの?」

 口をへの字にして、女は頷く。そうしていると、日の当たるのどかな田舎の小学校で机に頬杖を突いていた、あの日の幼い女の子の顔と同じだと思わされる。

「前から居る」

「最近は特に多いんだ?」

 答えず、女はふいとそっぽを向いた。

 カードを、滑らかな手つきで一つに集める。タロットでもトランプでもない。激情のままにえぐった絵が、片面に塗り込まれていた。べったりとしたアクリルの絵の具で直接、カードの表面に描いたようだ。実際は印刷で、元の絵は、浩太が知っている人が描いた。茅野ちゃんの友達は結構偉いよなぁと思う。

「ともあれ道代ちゃんありがとう! 恩に着る!」

 拝んだ浩太に、同じ地方出身者である女は、ひらりと掌を上向けて見せた。

「着るのはいいから、料金払って」

   *

「失敗してみないと分からないことってあるじゃん」

 だから、やってみようと思う。

 浩太の発言に、背を向けたままのキセが嫌そうな顔をした。

 縁側にほのぼのと日が当たる。頭をなで回されて迷惑そうな猫みたいに、キセは、黒い着物を掴んで離さない浩太から逃れようとしている。

「やるよ俺!」

「宣言せずに、勝手にやれ」

「また浩太さん絡んでる」

 日向が、ぽつんと呟いた。

「その絡んでる人に貰った洋菓子食べてる時点で、僕も中津川さんも、手出し出来ないよね」

「知ってる」

 裄夜に応答し、日向は、レーズンサンドを頬張り、日本茶に手を出す。

「だからね! 裄夜くんと日向ちゃんには大野大元を追って貰いたいのね今彼行方不明で」

「ええ?」

「娘は戻ってきたのね張ってた警察のおにーさんたちが言ってたの、だけど今度は大元の様子がおかしくなって今朝方かな猛然と玄関から飛び出してきて、がうがううめきながら寅の方角に走っていったって」

「寅ってどっちですか」

 日向の声には答えず、浩太はハイ、と笑顔で地図をくれた。

「頑張れ!」

「意味が分からないんですが」

 裄夜が呟くと、浩太は「俺はさ札師何とかしてくるから!」と叫ぶや、中城たすく宅から飛び出して行った。

「……意味が分からないなりに考えた結果、僕らが大野大元を見つけてこないといけないってこと?」

「多分……この地図! 裄夜見てみて」

 地図の上、点滅する光源がある。丸くて小さい光は、すうっと、高速道路沿いに斜め左を移動中だった。

「……車じゃないみたいだね」

「そりゃあ、がおがお吠えながら家を出た人が、まともに車なんて運転出来ると思う?」

「出来るかもしれないよ」

「レンタカー借りて?」

「じゃあ、山を全力で突っ切ってるってこと?」

 二人が、同時に言うことを無くした。静かになった中、たすくが通りがかった。

「キセは?」

「キセを使うってことですか?」

 つい、日向は丁寧な口調になる。幼い筈の相手は、真っ黒い目を、ひらりと舞う蝶のように、ふいと瞬く。

「西のが、追跡の術は使えている。キセに、同じことが出来ないわけもないと思う」

「何を根拠に」

 キセが呟くが、日向と裄夜に、おいしいおやつを持った人間を目撃した犬みたいに見つめられて、ぎこちなく固まった。

 長いため息をついて、目を閉ざす。裄夜はじっと見つめ続ける。

「キセ。出来るよね」

「キセ、大野大元って人を追いかけないと、どうなるの?」

 事態がどう運んでいるのか分かっていないようだ、ある意味究極的な質問である。日向が瞬きしながら聞くので、半眼になったキセの眉間に、皺が寄った。

「自分で考える努力はしないのか」

「聞くは一時の恥って言うし」

 唇を結んでから、キセはようやく瞼を開いた。

「銀月の一族はかつて花陽と銀月を見失った。今度は取り戻すことで、今何が起こっているのかを知り、探り、対処しようとしている。これまでの流れは、俺にはそのように見えるが」

「……そういえば、キセ、竜が舞い降りてきたとか天女とか、そういう文献の話をしたときに、一族に関係があるとかないとか、自分の血筋とか、全然発言しようとしなかったね」

「覚えていなかったからな」

「今、さすがに思い出してるんじゃないの」

「多少」

 だが、キセも、すべてを覚えているわけでもない。知っていることであっても、謎かけのようなことでしか、裄夜に伝えない。自分で、捜して、知れと。裄夜が知っていることしか今はまだ、知れないのだから。

 キセは裄夜だから。

「あれ……? 裄夜がキセだとして、じゃあ、この間ひそひそ話でキセのお父さんのこと、話してたのって筒抜けってこと? ほら、大杉様とか、ヤモリさんのこと話したじゃない。あと、水源に行ったのは、大野さんちの変若水の謎解きがメインで、……銀月の一族の、花陽妃に関するものが見つかるかも知れない、ってことでもあった……から、キセのお父さんかどうか調べるって、大々的にキセには言ってない、言ってないけど筒抜け?」

 日向が片手を挙げた。たすくが、おや、と瞬きする。

「父親?」

 恐らく菅浩太からも、事態の報告は受けているのだろうが――たとえば、龍神伝説がある地の竜の名前が、キセの父親の名ではないか、とか――改めて、キセに親が居る、というのが不思議な感じがするようだ。人ではないものは、ある日忽然と現れる印象がある。ツクモガミのように、人の中で思いを込められて生まれるものもあるのだから。

 キセは瞬間、顔をしかめた。

「人の係累を問答している暇があるのか」

「だって、」

 日向が言い返そうとしたが、

「……お前達は何故、変若水に拘る?」

 あからさまに話を変えられた。キセは、多分知っていて、言わないのだ――夢の端で、女に首を絞められたことを思い出して、裄夜は一瞬身震いした。

「いや……別に、拘ってはないけど」

「えーと、変若水が不思議なのを、浩太さんが調べてて」

 日向が、何気なく指を折り曲げて数え上げた。

「人が泥になって倒れていくのも異常だから調べてて、あと、大元の水が犯人かもしれない、っていうことで水源を見に行って。水源といえば、キセのお父さんかもしれない竜が同じところにいたっていう文献があって、……竜と水は関係なかったよね?」

 大野大元が振舞う「水」。

 その水源付近の伝説――竜が舞い降り、以後その水を飲めば病が癒えるという話が、浩太の持ってきた文献には書かれていた。

 更に、文献に併記された言葉。「天女の名前が花陽、竜の名が玉竜」

「同じ土地での出来事だから、って安易に関係を疑って調べてたから、当然、無関係な物事もあるわけで――竜と変若水、みたいに。だから、必ずしも大野さんと、人が泥になる事件と、変若水には関連がないかも、しれなくて……」

「それを確かめるために、大元から話を聞こうとして、お前達は道場に行ったな」

 日向は、うーん、と目を上げた。

「確かめる、っていうか……浩太さんの調べ事だったから、あんまり意識して無くて、よく分からないというか」

「大元本人は留守だったし、浩太さんいわく、彼には何の特別な力もなくて、水に力を与えている「何らかのもの」はどこかから流れてきている、と」

 代わりのように裄夜が応じる。

「どこからだ?」

「……娘さんの部屋? かな?」

 日向が呟き、口元に手を当て、じゃあ、と目を見開いた。

「大野大元の娘が、ただの水を変若水に変えてるの?」

「お前達は本当に、他人任せだな。自分の頭では何も考えていないのか」

「普通の生活を送ることに腐心してるんです。テスト受けたり学校行ったりっ。シズクの力があったって、それで何を出来るっていうの……」

 それに、と日向は開き直った。

「変若水を調べたって、それ、一族と関わりがありますか」

「関わりなくば、触れたくないか」

「浩太さんには悪いけれど……正直、あんまり。つい半年前まで、ただの高校生だったのに、何の義務を果たせっていうの」

「菅浩太の助力を受けても、恩義には感じないか」

「恩はあるけれど、好奇心で要らないことに首を突っ込んで、余計なことで身を滅ぼしたくはないです。身の程を知ってるの――浩太さんは、札を使って戦える。私たちは、実戦で戦えるようになるまで術を学んでいけたとして、それで何をするの? 人助け? センスがあっても医学じゃない道に行っちゃう人がいるみたいに、人じゃない人の間に居て「術が使えるようになる」としても、私と裄夜は、そうじゃない人生を選んだっていいじゃないの。術なんてなくても、人は暮らしていけるもの。……術が使えたら、身を守りやすいかもしれないけど……」

「いずれ事態は変わるやも知れぬ。だが、今そうではない。だから今生き延びる為に学ぶ、という自衛の気持ちはないのか」

「なくはない、よ。僕は」

 このまま、不確実なキセの手を期待しながら一族に属し続けるのでは、危ないと感じている。キセは、確かに今のところギリギリのときには助けてくれている。だが、いつもそうだとは限らない。

「自分でやらないと。今は、一族の者だからって理由で、攻撃されたり食われたりしうるし……力が必要なのは、分かってる。……やらないならやらないで済めばいいと思って、避けようとしてるのも事実だから、矛盾した、言い訳だけど。でも、あえて要らないことに首を突っ込む理由にはならない。浩太さんは、今まで自分で首を突っ込んだことには自分で片を付けてきたはず。僕らの助力がなくても、」

 不意にキセが笑みを浮かべた。意地の悪い笑い方に、日向が、何故か裄夜を睨む。何とか言ってやれ、ということらしい。裄夜が反応する前に、キセはするりと口を開いた。

「お前達に任せたことで、菅浩太は他のことに集中しているだろうな。大元についてはお前達が見つけてくれるものとばかり思って、気にもしていない。すると、お前達が何もしないなら――」

「浩太さんの立てた何らかの作戦が、水の泡、とか……?」

 日向が、不安げになって裄夜を見る。手前勝手に「関係ないことはしたくない」と言ってみたものの、自分たちのせいで事故起きるのは、ひどく後ろめたいらしい。自分たちが勝手に浩太の戦力に数え込まれている、その、浩太の身勝手さについては、思い至らないようだった。

「で、僕らが行くってことを、キセは見越して、誘導してるわけ」

 裄夜が嫌味を込めて言うと、キセはただ一言、

「どうする?」

 悠然と腕を組んで、首を傾げた。

「……行くよ……捜す。水と竜は関係なかったみたいだけど、大元やその娘と竜が無関係かどうかは分からないし」

 じっと、金色の目を見つめ返す。何を思っていたのか、表情は読めない。

「……大元に話を聞いても、分からないかもしれない。キセが、大元の雰囲気とかを、読んでくれたらいいと思う。勿論、出来るものなら自分でやるよ、今はやり方を学んで自分でやってる時間もないし、自分でやるなんて不確実だ、だから、確実だと思われる「先生」の力を頼みにします、お願いします」

 先んじて、キセの力を頼みにすると宣言した。

 どのみち人に頼る。卑怯だと呆れられて、逃げられても当然だった。

 しかし、キセはわずかにため息をついて、

「……支度を」

 結局は甘い、と日向は、二人のやりとりを見ていて思った。

 その甘さにつけ込んでいる自分に、嫌気がさしたが、しょうがない、と割り切ることに腹を決めた。


 山間にある、古びて腐り落ちた山小屋、昔の人家。ウロのような狭い洞穴。

 一晩に三時間ずつ歩いては、野宿同然に一休みするという、無茶な行軍をした。裄夜は体力がつきそうだなとぼんやり思った。

 初日の夜には、満天の星空に驚嘆していた日向だが、夜中かさこそと身近で虫がはい回る音を聞いていて怯えきり(その割にはよく眠っていた気がするが)道案内するキセの背に「いっそ大野さん、連れてこられないの?」から始まる一連の愚痴を投げかける言葉も少なくなった。

 二日目の昼。

 汚してもいい服装、というよりも丈夫な服。厚手の上着。夏に近いとはいえ、山は冷える。あちらこちらで霧や靄が広がり、視界は悪い。白と黒で塗り分けられた水墨画風の遠景、濡れた苔と得体の知れない茂みの近景、目の前に広がるのは、延々と代わり映えのしない、ともすれば同じ所を歩いているのではないかと錯覚するような、木、低木、ぬかるんだ小川になる寸前の泥地。

 すぐに、大野大元は見つかると思っていた。だが、追跡する浩太の術は作動しているものの、その場所そのものにキセ達が魔法のように出現する、ということは残念ながら不可能だった。

 消えて現れるのにも、多少なりとも法則があるらしい。決まり、とも言える。

 一度目印をつけると、後で別の場所とその場所を「繋ぐ」ことは出来るようだ。だから湖や、裄夜達が住まいにしている建物、部屋、中城たすくの根城、今裄夜達が通う学校、そういったところ同士ならば、移動が簡単になる。または、「元々気脈のように、「裏側」にある道を通って、その道の途中の目印から「出て」こちら側の世界の、ある決まった場所に現れる」こともある。「道を歩く」方法だと、どこかの神社の縁日のような道を歩いて移動しなければならないが、前者のように体を分解されるような気持ちの悪い状態にはあまりならずに済むし、知らない場所にも行くことが出来る。自分でつけた目測位置というのは、多くの人外が利用する「裏側」とは違って、よく誤るものでもある――十年使っていないと、殆ど使うことなど出来ない。らしい。

 他にすることもないので、日向も裄夜も、延々と考え、キセの言う言葉のイメージをふくらませていた。そしてよく考えた後、それ以上は展開しなくなった。自分なりの答えが出てしまい、行き着いてしまったので、飽きた。

 うつろに空を見上げながら、日向はたまに、ぽつりと呟く。

「キセでも誰でも、都合良く大野さんの目の前に出現するとか、捕まえてくるとかは、難しいのね……」

「出来ないこともないんだろうけど、……どうなんだろう。僕が思い出してないことは出来ない、とかもあるかも」

「裄夜、思い出してよ」

「中津川さん、疲れのあまり目が据わってるよ」

 歩き続ける。

 他にすることがないと、本当に、人間というものは一旦無になるくらい空っぽになってから、ぬるぬると考え事が湧いて出てくる。普段無視をして過ごしているなにがしかの事が、誰かの呟きのように、囁き続けられる。嫌になって、日向も裄夜も、たわいもなく以前過ごしていた高校での文化祭のことや、お互いが知らない、もっと小さい頃の思い出話で沈黙を引き裂き、気を紛らわせたりもしたのだが、やっぱり自分の内側から来る囁きには勝ちきれなかった。

 気が付くと、山の中腹にある、誰かの家の前に居た。

 キセが、幼い女の子から頼まれて薪割りをしていて、終わったので薪の一部を火にくべ、家の裏手の風呂を沸かしていた。

「やっと我に返ったか」

 疲れたように、キセは苦笑いする。裄夜は、隣でぼうっと、近くの谷を見ている日向にも気が付いた。

「ちょっと、中津川さん、しっかり!」

「闇の底ばかり見ていると、狂うぞ。まぁ、すべての人間はもとより狂っているとも言えるが……少なくとも、そのままどこかへ意識だけ持って行かれても、楽しいことなどないだろう」

 正気であるということの原理は解明されていない。初めから狂っているともいえる。

「人は芸術活動であれ身体を使う運動行為であれ、様々な方法によってあらゆる快楽と苦痛を得る。――それは<ここ>を越えていく精神、それに光明を見出すということでもあるから」

 幼い、舌足らずの声が面倒な事を羅列する。不気味なほどに穏やかで、裄夜は、反射的に握られた手を振り払っていた。

「あ、ごめん、」

 見下ろすと、自分の手を取ろうとしていたのは、肩口で黒髪を切りそろえた女の子で、はたき落とされた手を、じっと見ていた。裄夜の謝罪には構わず、その子は先程の続きを、舌先で述べた。

「人は常に狂いたがっている。狂うことが目指されている。そうしてそこから過剰に戻れなくなったものは恐怖される」

 狂気とは、境界を越え続けて<こちら>側に戻れなくなったものを蝕む病である。

(笑っ、)

 裄夜は、心の内で呟きかけ、暗い笑いを浮かべた少女から体を退いた。言葉の意味云々ではなく、見た目の薄暗さではなく――ただ臓腑を素手で掴まれたように、ひどく得体が知れなかった。日向の手を掴んで、「中津川さん!」と呼びかけた。必死すぎて恥ずかしいほど、慌てた声で呼びかけていた。

「あまり、からかうなよ」

「からかってはいないけれど」

 キセが、少女の答えに困った風にため息をこぼす。

「お前が見ているものの多くは、人間の器には耐えがたいものだ。ぞろぞろとして、精神の一部を絶えず削り取られるような不快感を伴う。そんなものを、連れに見せるな」

「貴方の連れならば、貴方が守るべき客人でしょうに」

 ここに宿を求めたのは失敗だったかと、キセの思いが聞こえるようだ。

 一日目の夜、わずかな休息だけをとった、そのことに文句を言ったのだが、二日目の晩に、屋根のある家屋で寝泊まりできるとはいえ、得体の知れない者の家だと知っていたら、文句なんて言わなかった。裄夜は、日向の肩を揺さぶる。

 狂気のうちにあるものたち――彼らはただ笑い、越えた地点でここを見据える。

 その透徹が人を畏怖させ、恐怖へと駆り立てる。

 ここではないような精神の位置。

 認識が、もっと遠くにあるのだと、気づかされる。理解の及ばない範囲、出会うこと自体が本来あり得なかったのかもしれない。人はみな、正気だと思い合うが、初めからずれているのだ、きっとごまかされ続けてきた無の匂いが、繋がれない恐怖が、すべてを飲み込む予感に駆られて狂気を否定したがる。

「闇はつねにわだかまる。それゆえそこばかり見ていると、自分を見失う。今ここである自分が、どう変わろうが自分であると学者は言うがな。自分として統合し取捨選択してきた情報の塊が融解しすぎていったいどう自分だと思えるのだ?」

「知らないよそんなこと!」

「わっ?」

 日向が我に返った。「何!? 何なの、どこに着いたの!?」まだ歩いている夢を見ていたようだ。一応正気ではあるらしい。

 長いため息をついた裄夜は、黒々とした天に昇る、冴えた月の青さを仰ぐ。

 風が草木をわずかに揺らし、気が狂うほどの静寂と耳鳴りで立つ位置さえも判然としない。

 火を焚いていたキセが、裄夜達の側まで歩いてくる。火が遠ざかったというのに、法衣が闇の中に浮かび上がる。

 木の下の影を出て、月に姿を切り取られる。

 くっきりとした輪郭を結んだ長躯でさえ、ひとときも残されはしない。

 一歩進んで、

 ただ金色の瞳が残像のように意識にとどまる。

 何があって、何がないのか、

 ……いかにとらえるのか。

 移ろいの中で把握する生き方のもろさに、気づく。

 山はとぐろをまいて眠っている。

 ないもの、あるもの、すべて古き世よりいづれの人も問い問われてきた。

 それを今もなお続ける、永遠のようなゲームに答えがないことを彼らはもとより熟知している。

「理由を、求めたのは、人だから」

 人が求めた、だからすべて、人に知覚されるものでしか示され得ない。

 すべては隠喩となる。

「分からないのは、あなたがちゃんとみていないから」

 先程の言葉は、キセのものではなかったらしい。

 ぼんやりしていて気づかなかった。先程の少女とは違う、もっと幼く、高い、触れれば壊れてしまいそうな声。

 視線を落とすと、裄夜の右手側にゆらり、と黒い頭が見えた。大きな赤い、刺繍だらけの手まりを抱えて、視線はかなたに向いている。先程の少女の姿は既になく、雰囲気のまるで違うこの少女が、先程の子と同一人物なのか、顔が似ているので、よくは分からなかった。

 この少女は、まるで、この世に二人きりのように――間近に感じる。

 隣につかず離れず立って、そのおかっぱ頭の少女が呟く。

「風、ひらいていい?」

「駄目だ」

 不意に間近に聞こえた低音に、裄夜は呪縛がとけたようにはねあがった。

 がさがさと遠慮なく下草が鳴らされて、その音は山の停滞に吸われていった。

「駄目なの?」

 裄夜の様子に何も言わず、キセは少女の頭に軽く手を乗せる。

「お前が風開きをすれば、せっかくの稲穂が駄目になる」

 裄夜はばつのわるそうな顔をして、二人のやりとりに目を向ける。

 激しいリアクションに、当然だが自分がいちばん羞恥心を生成した。しかし派手な反応をしたことについてコメントがないと、それはそれでいたたまれない。日向も、先程からずっと近くに立っているのだが、月を見上げて「ここ、どこ……」途方に暮れているので、あまり周りを見ていなかった。

「そっかぁ……まだ緑だから大丈夫かなって思ったンやけど」

「花もまだついてはおらぬが、それでもあまり風を起こしすぎるなよ」

「はぁい」

 得体の知れない宿。我を見失って夢の中に引き落とされるような不安定さ。

 こんなことなら、銀月の一族になんか関わりたくない。

 正直に、裄夜は思った。日向も、うつらうつらしていたが、「やばっ……なんか変なもの見えたっ」何度も、びくりとしては辺りを見回していたから、裄夜の意見には同意をしてくれそうだった。

   *

 山の端、赤いきのこがのそのそと並んで生えている。妖精でも腰掛けていそうだった。

 日向はしゃがみ込んで、黄色い、細い軸をつつく。粉っぽい胞子がいっせいに飛び出してきて、むせてしまった。

 何事か呟きながら立ち上がった日向に、裄夜は親切心から声をかけた。

「中津川さん、あんまり単独行動しない方がいいよ。危ないよ」

 明らかにいらっとした顔で、日向は裄夜を睨み付けた。

「何よ、何も出来ないって思ってるでしょ」

「いや、その逆なんだけど」

 日向が何かしそうで、一応裄夜は心配である。

「山で迷子になったりしたら、捜すのが大変だし、こけたら怪我するんだし」

 当たり前のことを並べた裄夜に、日向はいっそうむっとした。

「裄夜なんか、だーいっきらい」

 本気ではないと分かる程度の勢いをつけて言い放ち、日向はだっと森に駆け出す。

 こけはしないかと思いつつ、裄夜はその背を見送った。

「中津川さんてば……もう、何考えてんのかなあの人は」

「女のことは、女にしかわからんよ」

 慣れたようにキセが呟く。

「シズクも?」

「あれは女のうちに入るものかな」

「さぁ」

 キセに首を傾げられ、裄夜も首を傾げてみた。似てはいるが、並べてみるとあまり似ない。双眸はどちらも、闇のような森にあれば金色にひかる。日差しを受けても、金に色を弾く。ゆるい自然光や人工光の下であれば、まぶたの影になるのか、さほど目立つことがない。寝起きに見る鏡を思い出しながら、裄夜は、鏡面に反転された自分の顔と目の前にいるキセを比べる。

 まじまじと見られ、キセは、胡散臭そうに眉間に皺を寄せた。

(女、か……)

 嫌な予感がした。

 首に。

 違和感を覚える。

 ふと気づく。

 けりが付いていないのだ。

 キセは人間だ。半分だけの人間だ。

(問えば、内側にある答えは自ずと、浮上してくる)

 彼にその肉を与えた女には拒絶され、彼にその血を与えた男には爪の先ほどの情さえかけてはもらえなかった。

 夢で何度か見たのは、首への圧力と、涙声でののしる女。

 父親はいっときの手慰みとしてその女を抱き、すぐに去っていってしまった。

 子を宿した女は、愛した男が誰であるのかを思うと、産むことも堕胎を望むこともできなかった。

 神に非ず人に非ず、生まれいづる子は人ならぬものを父に持ち、ヒトの腹を借りて生まれる化生だ。

 産んで後悔が募る。いくら待っても現れない男と同じ顔をした子供は、ひたすらに憎しみの対象となる。

 裄夜自身がされたはずもないのに、喉の奥が塞がって思うように呼吸が出来ない。

 と、急にキセが裄夜の背を勢いよくひっぱたいた。

 むせかえった少年の頭をがしがしと撫でて、あまり考えるな、となにげない口調で言う。

 だってこの記憶はキセのじゃないか。裄夜は言いかけて、やめる。

 キセのだ。でも、自分の奥底に眠っている。幼児の頃の出来事を不意に思い出すように、ごく自然に、奥底にある。

 それに慣れつつある現状に、裄夜は唐突にぞっとした。何度も何度も、ぞっとはしているけれど。何度も、引きずり込まれているのだから、仕方がない。

 今はまだ、気味が悪く思えるのだ――他人であるのに、受け入れるのはおかしいと思った。

 三日目、裄夜と別に姿を維持するのが面倒なのか、キセは全く現れなかった。それでも、日向と裄夜の二人は、ちゃんと大野大元の「気配」に辿り着くことが出来た。

 すなわち、割合外れがなく、大元を追いかけている(と、浩太に貰った地図の、大元と自分たちとの距離が縮まっている辺りから、思われる)。

「わう」

 シズクが吠えて、斜面をざざ、と殆ど前屈みの四つ足で駆け上った。

 シズクというか体は日向なので、ジーンズを履いた日向が茂みに突っ込み、腕を怪我し、吠えた後に我に返ってびっくりしているのが、面倒だった。

「私、今何したの!?」

「記憶がないのが不安なのは分かるけど、普通に道案内をしてるだけだよ」

 裄夜がぼんやりと答えると、そうかなぁ、と日向は首をひねる。

「これで十回目なんだけど」

「大丈夫大丈夫。中津川さん、いつもより運動神経がかなり良かった」

「失礼なー」

 茂みをかき分け、足場にしやすいところを足裏で探りながら、裄夜も日向のところまで歩いた。

 先日見た、静かな湖面が、今目の前に広がっている。

「私たちだけで、大丈夫かな……」

 ここまで一直線ににおいを辿って来たシズクのことを思うと、日向が不安でも何とかなりそうな気もする。いざとなれば、シズクが暴れてくれそうだ。

「さて、どこまで行けばいいかな」

「水、もうちょっと上流に行けば、生水のまま飲んでも大丈夫かなぁ」

 日向が、多少息切れしながら呟いた。

「水筒、空だからね……」

「荷物、全部キセが猫型ロボットみたいにポッケにしまってくれたから、汗も拭けないし」

 呟いて、でも手ぶらで歩けなかったらもっと早くバテていたなと日向と裄夜はぼんやりと思う。

 現代日本人にしては、よく頑張って歩いた方だ。登山部でもあるまいし、三日連続で山道を歩き通して、体中は筋肉痛を通り越し、脳内麻薬が出たせいか痛みをあまり感じない。

 終わった後が、ちょっと怖い。

「山ビルとか、出なくてよかったね」

「ビル!?」

「いや、ヒル。蛭だって。血を吸う、」

「あぁ……びっくりした。裄夜がついに幻覚を見たのかと思った……」

「既に散々見た後だけどね」

 二人して、ぬるい笑いで合意する。

「ねぇ、教室とかって、ものすごいまともだったんだね……わりと安全で」

「山に比べたら、それはそうだろうね……」

 座り込んで一休みしていたら、節々が思い出したように痛み始める。慌てて、二人は立ち上がった。

「大野さーん、って呼んでも、出ては来ないよね?」

「そうだろうね……地図を見ると、すぐそこに隠れてるみたいな感じはあるんだけど」

「そ、そう?」

 日向は、ぐるりと辺りを見回す。枯れたような木の幹が連なり、遠くはよく見えなかった。

「今、気付いたんだけど」

「言わないで! 何か分かったから!」

 裄夜は日向の抵抗を無視した。

「大元、どうやって捕獲するの? 捕獲して、どうやって帰るの、浩太さんの目の前まで吹っ飛ばすの?」

 立て続けに呟いたら、木々を揺らして吹いた風の音が、何だかひどく大きく聞こえた。


 ややあって、「助けがいるのならば」キセの声が裄夜の耳元に聞こえる。

 黒い法衣を目の当たりにして、似非高校生二名は、ほっとため息を漏らす。

「よかった、このまま二人で、縄もないのに大人のおじさん一人を捕まえなきゃいけないのかと思ったー……」

 日向が再びしゃがみ込み、裄夜は、よしよし、とこれまで頑張ってきたシズクの分まで肩をたたいて、励ましてやる。運命共同体の様子には目もくれず、キセは現れたときと同じ唐突さで、ぽつりと言った。

「呼ぼう」

「え」

 不意に視界が揺らめいた。蝋燭の炎がゆらりと揺れるように、眩暈をともなって、切り替わる。先程までは土や木の匂い、気配、ざわめきがあった。今は違う。丸く椀でもかぶせられたように、遮断される。代わりに、コンクリートに響く誰かの足音。

 と思ったら、キセだけが消えて、裄夜は水辺に取り残されていた。

「このまま置き去りにされたら、どうしよう」

「いやー! 怖いこと言わないでよばかっ」

 さっき一旦ほっとした分、今は余計に薄ら寒い。日向は必死で耳を塞いだが、聞いても聞かなくても、事態は何にも変わらなかった。

「だって、ここまで結構、宿から距離があったよね……日は暮れてないけど、山をおりて人里に着くまでもつかどうか……」

 二人は言葉を見つけられず、どちらからともなく押し黙った。ほっほっ、と鴉か何かの、羽音が響く。力強い羽ばたきは、しかし闇雲に、辺りが自分たちの力の及ばない大きなもので出来ている、と気付かせてびくつかせるばかりだった。

「キセが帰ってくることに、賭ける?」

 日向が、恐る恐る口を開いた。裄夜は、灰色みを帯びた西の空を見やり、何かを言おうとして、唇を結びなおした。


 住居としている場に、キセは降り立つ。履き物を履いたままだが、完全には足をつけず、わずかに浮いて泥を持ち込まない。

 孝は、夕方早めに戻ってきており、誰も帰宅していないのでリビングでテレビを付けたまま、教科書を広げていた。

 裄夜辺りだとうわぐらい言いそうだが、孝は、口と表情だけで、驚きを表現した。

「手を貸してほしい」

「え」

「ウタウタイとしての力を、使いこなせるようになりたいのだろう? 細かい使い方は、後に、手を貸すと自分から言った連中に頼れ。今は、俺が流れを導く」

「出来るの!?」

「厳しいが、玉竜が近い。力を借りる」

「ぎょく……菅さんが確か、貴方の父親だと、」

 ち、とかすかに舌打ちし、キセは目を逸らして「だったら、何か問題があるか」愛想無く応答した。

「いえ、全然。ただ、本当に人間じゃないというか……そんなふうに、こう、思っただけで……」

 煮え切らない。手伝うのか、手伝わないのか、決めてほしい、そんな空気が辺りに漂う。

「あの……」

 しかし孝は、別の目的で口を開いた。

「キセ」

 名を呼ばれ、キセは金色の瞳を瞬いた。ふいと振り返る。涼しい顔をしているが、その感情は読めない。

 孝は、ほとんど初めて、キセをまともに正面に見た。

 裄夜との関連性が言われているのに、あまり似ているようには思えなかった。髪色の、黒と茶の違いがあるだけではない。雰囲気が違う。裄夜には話しかけることが出来ても、キセでは、一瞬怖じ気づいてしまう。

 でも、真っ直ぐに向き合うと、ぼんやりしている鹿や馬のように、理知的な、静かな目をしている。別に怖くはない。畏れはある。

 促すように見つめられ、孝は、ゆっくりと唇を開いた。

「あのとき、キセはウタウタイを助けてくれた」

 人に追われて山に逃げ込んだ、あのとき。ひどく昔の話だった。

「助けてくれるものなんて何一つなかった。けれど結局しななくて、自分が煩わされないようにと願ったりもしないで、人を殺さずにすんで、――あのお堂の前で僕を拾ってくれたのは、あなたですよね」

 孝が、孝ではない頃の記憶だ。はっきりとした名のないウタウタイであった昔、ウタウタイの力を制しきれず、天候さえ暴走させた。村人は、幸いを約束する予言のような力が、近頃では災いばかり招くと言って、手には武器を持って、ウタウタイを追いつめた。予言ではなく、それは口に出したとたん、叶えるためにあらゆる自然(じねん)が動き出す、それで叶うだけのことだ。彼らはその意味が分からなかった。だから、自然の多くに愛されたウタウタイを、平気で追った。人の意志は、本能を誤解する。恐れを、してはいけない思いを、何度も繰り返すうちに快楽に変える。

 必死で逃げたウタウタイは、祠ともお堂ともつかない、山奥の小さな、人工の建物の前で、ひっくり返った。意識がぶつ切りになる前、ウタウタイは草の先に頬を痛めて転がりながら、うめいていた。

 ちょうどそのとき、山里が騒がしいから避けて山を行こうとしたキセが、通りがかった。

 うんざりしたように眉をひそめていた。その後ろを、ほとんど旅装ではない着物姿のシズクがついて歩き、止まってから首を傾げた。

 まだ、息があるか。

 呟いて、キセが片膝を落とし、右手をかざす。手が、ウタウタイの唇に近づいたとき、うおん、と周囲で風がまいた。

 シズクを呼んで、錫杖を預けてから、ウタウタイを背に担ぎ上げる。持っていた荷袋とのかねあいもあり、完全には背負いきらず、ウタウタイの足は地面についた。

 構わず引きずり、キセは茂みへと歩き出す。

 別に助けたつもりはない――ただ、面白いかと思ったのだ。

「助けたわけではない」

 孝の目の前で、キセは情景を思い出す。

 周りの空気がざわめいて、この生き物を狙っていたのだ。それを、完全には神でも人でもない自分が、かっさらっていく。手出しもされない。

 キセは口元だけに薄い笑みを浮かべる。

 まだ彼は神の尺度で言えば幼く、人の尺度で言えば老獪である筈だった。

 幼さから、キセは選んだ。

 声が耳元によみがえる。自分の声だ。銀月の屋敷についた後。人でありたいのならば、一族で封じられよ。それがいやならば、この者の力を見定めるがいい。

「助けたわけではなくても」

 孝の声で、我に返る。

「あなたに助けられ、一族の屋敷で目が覚めた。一族の、花陽さまと王に、会った。あなたは庭で会って、礼を言おうとしました。でも出来なかった。助けられる寸前のあのとき、一番強く救われたと思った。そのときに黎明はもう終わっていたんです。僕はあなたに、助けられて、再びそれまでと同じ、ただ同じ苦しみの続く生を選ばざるを得なくなった。だからお礼は言えなかったんです。花をむしって、投げつけるしかなかった」

 ぱた、と大粒の涙が下に落ちた。瞬き一つしないのに、自重に負けて、水滴は落ちる。

「でも、あのときだけは、救われた。あれは、僕の人生のすべてだった。僕の――ウタウタイの。あの日、ウタウタイは死にかけて、救われて。あとには、生きなおす僕しか居なくて。それは元通りの日常に見えても、確実に違う。救われたから、前の通りの苦しみが、まるきり変わっていないことに、いっそう苦しんだ。でも、でも、」

 言葉に詰まって、孝は胸を強く叩く。キセは止めない。斜めに足をひき、腕組みしたまま、木の根のように立っている。静かで清冽な目。

「救われたのは、あなたがいたから。再び歩いて、その中で様々なものに触れて、自分をやり直し続けられたのは、あなたが僕の命を助けたから。その二重の意味を、もって、僕はあなたに、ありがとうと。今は言っておきたいです」

「分かった」

 キセが一言を返した。感情を込めないまま頷いてから、視線をはずす。

「長い、悔恨だな」

 腕組みをほどく。

「時間がかかって……この間思い出したばかりで、今になって、キセに言っておかないといけないって、気がついたんです。自分の、けじめの為に」

「だから悔恨だと言っている。他人にとってはつまらぬことを、いつまでも後生大事に抱えている。千年経っても変わらぬ」

「確かに、千年ぐらいじゃあ変わってないや……」

 孝は笑った。

「でも、長く生きるものは、成長がゆっくりなんじゃない? 悟ってしまったら、死んでしまう」

 キセが瞬く。

「なるほど? では悟りを開かぬ現在のウタウタイに頼もうか」

「頼み事? あ、僕に来て欲しいって、言いましたね」

「手を貸すか?」

「もしも安全に、僕の力が使われるのであれば――人が、死んだりはしないのなら。是非お願いしたいんですが、一体何をするんですか?」

「ダムの補強だ」

「……ダム?」

 いらえはない。キセが踏み出すと、足下が瓦解する感触があった。突然抜けた足下に、孝はひどい悲鳴をあげた。

「あっ、キセ遅い!」

 日はまだ暮れない時間帯だが、雲が重くたれ込め、風は冷たく、薄い上着しかなかった少年少女は身を寄せ合って、斜面と木の間で震えていた。

「……悪い?」

「疑問形で謝られても」

 裄夜は、キセの真顔に、無感動に呟いた。

「それで、これからどうするの?」

「これから、ウタウタイの力を用いて、大野大元を呼び寄せる」

「最初から! 最初からそうしてよ」

 語尾をよろけさせながら、日向が遠い目をして曇り空を仰いだ。そろそろ雨が降りそうだ。傘もないのに。帰りたい。

「いや、ウタウタイだけの力では、まだ未熟。大元をあの住処に引きずり戻せば、力の加減がうまく行かずに、生卵を建築現場でアームに拾わせようとして、踏みつぶすようなものだ」

「生卵……裄夜の記憶から喩えを引きずり出してるのはよく分かったけど、生々しい……」

「力の加減が出来ないのなら、里見孝、をここに連れてきても、どうしようもないんじゃないの」

「実際に大野大元を追いかけているうちに、気が付いたことがある」

「何?」

「今は対象が近く、またいい条件が重なっていると言える――だから呼んだ」

 曖昧な発言だ。しかし、誰も問い直しはしなかった。

 裄夜は聞くよりも実際に何が起こるのかを見た方が早いと思っていたし、疲れ切っていた日向は、もはやうたた寝をして、意識をどこかに飛ばしていた。孝も、事情が飲み込めるまでは静かにしていた。

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