第十九章 裁定

   *

(何なのよ!)

 まゆらは、荷物を掴んでひた走る。びっくりしたあまり、ホテルから転がり出た後、階段で転んで膝を打った。制服の裾も汚れていて、しかも涙目だった。通りすがりの人が、一瞬だけ手を貸そうかと迷う目を向けるのが、自分がどれだけしょぼくれているのかを表しているようで、悲しかった。

「でも、私が勝手に、押し掛けたんだよね」

 何の作戦もなく唐突に、感情にまかせて家出したのだ。たまたま瑠璃子は悪い子ではなかったから、これまであまり使わないでため込んでいたお小遣いでやって来られた。

 そこに到った途端、現実を突きつけられた。

 バイトをさがして面接は受けたけれど、学費も住居費も携帯だって皆、親や他人のお金でまかなわれている。

 恥ずかしい。

 ひとけが少ない道を足早に通る。

 母親の件でも、父親が色んな事をないがしろにしてきた事でも、まゆらはまだ怒っている。許さない。でも、同情でも何でもなく、親を早くになくした瑠璃子が本気でまゆらに怒鳴ってくれた。だから、生きているうちにちゃんと、喧嘩しよう。

 動揺が醒めれば、空は汽船の音がしそうなくらい、藍色でひろく、広がっていた。

 多分大丈夫だ。瑠璃子が何で父親と知り合いなのかとか、何でホテル暮らしなのかとか、この近くの高校じゃない制服姿なのは何でなのかとか、一杯、彼女を疑い怪しむべき部分はある。でも、つんけんしていたあの子が、いきなり気の変わるあの子が、折角、言ってくれたのだ。

(私を追い返したいだけかもしれないけど、追い返したいんだったら、最初から何にもいわないで、いきなり嫌いとか出ていけって言いそうだもん……)

 理由を考えているのだから、そのぐらいは気をかけてくれようとしている、のだろう。多分。

「パパの、バカ」

 どんな言葉でなじってやろうか、そんな事を考えながら、まゆらはあっという間に、道場の前に辿り着いた。いったん通り過ぎてから、裏から入る。家に直行だった。

「……あれ?」

 夕方一旦帰ってきたときにはなかったものが、玄関先に落ちていた。

「何だろ、これ……」

 骨壺みたいな大きさの壺だ。素焼きだった。

「やだ、何で骨壺なんて思ったんだか」

 門灯が消えていて、ほとんど真っ暗なのもあって、まゆらは自然、不安を振り落とすべく声を出した。鍵を取り出し、キーホルダーについていた、静電気をため込んで光るライトをつける。あまり帯電していなかったのか、すぐに消えた。慌てて、手探りで鍵穴を捜す。

 不意に、開いているのではないかと思い直した。鍵を差し込んだまま、そっとドアを引っ張った。

「嘘……」

 父親はいつも、大体、日が暮れると戸締まりをする。あれだけずぼらな男でも、家の鍵だけはしめて寝るのだ。

 なのに、まだ鍵がかかっていない。

「前にこっそり帰ってきたときは、しまってたのに」

 だから、まゆらが留守だから開けてあるとは限らない。おかしい。

 だって最初から気付いていたじゃないか。玄関先を見た瞬間から。異様な雰囲気が、……まるで、葬式前夜の家のような、静けさと、薄暗さが満ちていることに、まゆらは最初から気が付いていた。

 近づいたら、だめだ。食べられてしまう。

 雰囲気に飲まれることを直感して、まゆらは反射的にそう思った。下がろうとしたけれど、ドアから手が離れなかった。踵がこつんと何かに当たる。振り返った。骨壺みたいな壺が、無表情にこちらを見ていた。

 身震いする。見ているわけがないじゃないか。相手はただの物なんだ。

 まゆらは、お化けなんて信仰してないんだから。おそれるものなんて、強盗ぐらいしかない。

「強盗……!」

 小さな声で呟いた。ドアにかじりついて、鍵穴を見る。鍵を引き抜いたけれど、変な感触はない。ピッキングなどの手法は使われていない。

「……パパ」

 この時間、父は帰ってきている筈だ。道場も閉まっていた。外食は多分しない。まゆらが帰ってきたら困るから。

(本当に、そういう人なんだったらいいんだけど)

 まゆらが知っているパパが、本当に間違いなく大野大元なんだったら、十数年間一緒に暮らしてきたんだから、予想は当たりやすい。

(……人の考えてることなんて、分かんないんだから)

 人の好意が、本当の善意かどうかも。瑠璃子がまゆらの友達だったのかどうかも。

 大野大元が、まゆらをちゃんと心配してくれるパパであることも。

「パパがバカ面したいい人なんだってことぐらい、私にも分かる」

 酷いことを言いながら、まゆらは玄関先にあった壺を掴んだ。重いので、首を振って左右を見る。父親がサラリーマン時代に貰った古いゴルフクラブが、錆び付いていたが、傘立てに置かれていた。掴む。ざらりとした埃の感触があった。

「……あの人に何かあったら、やったやつ、ぶっとばしてやるんだから」

 声が震えた。玄関先に鞄を置き去り、靴のまま、廊下に上がる。万一のとき、逃げようとして滑り転けないように、靴は脱がない。靴下を脱げばいいと、後で気が付く。

 手前の部屋から一つずつ中身をあらため、一旦二階の自室も見た。

 降りてきて、奥の部屋の通帳と印鑑も確認する。大体、まゆらが知っている種類のものは揃っていた。大丈夫だ、と安堵する。父親が母親を放置して入院費用にするべく貯めてきた金額は、そう多くはなくても、見ず知らずの誰かに持って行かれたらあの日々自体が冒涜されたようで、腹が立つのだ。まゆらはゴルフクラブを持ち直し、再び室内を探索した。部屋は荒らされた形跡がない。冷蔵庫の中身も、消費期限が明日の豆腐や肉が並んでいるから、父はちゃんとしょぼくれたなりに買い物をして、ご飯を食べているようだ。

(そうでなくちゃ、罪悪感でしんでもしにきれないわ)

 冷蔵庫の扉を閉める。

 あとは、見ていないのは仏壇がある部屋だけだった。

 襖に近づくと、ぼそぼそとした話し声が聞こえた。

 客の靴は玄関には無かった。どこから誰が上がり込んだのだろう。

 父親が泥棒に遭遇した、という想定が俄然現実味を増してきた。

 女子高生一人で来るのではなく、近所のおばさんやおじさんに助けを求めればよかったと、今になって気が付いた。

 でも踏ん切って、襖を開けた。

 目が暗がりに慣れていて、光源がなくても、外から漏れてくる街灯などの明かりで充分見えた。

「パパ?」

 薄暗い部屋の中、父は電気もつけずに、母の遺影を抱きしめていた。しかし、本当に父親なのだろうか。さっきまで、わずかに言い争うような声がしていたのに、見えるのは父親一人だ。父親に見えるだけで、前を向いたら顔が別人であるような気もした。

「甦ればよかったのに」

 ぼそり、と呟かれた声は、大元のものだった。でも安堵は出来ない。いつもとは違う。まるであの日に――まゆらの母親が死んだ日に戻ったように、生気のない、すべてに詫びて泣くことすらできない呆然とした口調だった。

「甦れば」

 目が、むき出しにされたまま、大元ががくがくと小刻みに震える。

「よよよよみみがあ」

 もしかして、母親のことでまゆらが家出したから、こんなことを言うのだろうか。

「パパ、ごめんなさい、私」

 子供に戻ったように、たどたどしくまゆらは言い出す。

 どうにか父親を、これまで見ていた人に戻したかった。

 苔色に青ざめた頬と見開かれたまま瞬かない目、焦点が合わないままで大元はうわごとを呟く。

「はははうつわはすぐちかくにもあるすべてはてにはいる」

「そうしたらよみがえるのかよみがえるのか」

 一人の口だというのに、出てくる声がまるで違った。片方は老いて枯れた老人の物、片方は、父が憔悴しきったときのものだった。

「よよよみがえるともお」

 語尾が伸びる。老人が高笑いした。割れんばかりの声だった。耳が痛んで、まゆらはゴルフクラブを取り落とした。ごとりと鳴って、クラブは畳の端をへこます。

 ふうふうと、獣のように、歯は噛み合っているが息だけ吹き出し、大元は正座をしたまま、のけぞってうめいた。目が合う。

「――パパ」

 背にしみ出すのは寒さか。恐れか。背筋へと這い上る寒さが、ある一点から、一気に、のぼりつめる。

「ぱ、」

「よみがえれ、すべて」

 大元の声が二重にも三重にもぶれる。吐き気がして、涙を拭うこともできずにまゆらはよろめく。

 こんなものは父じゃない。

 こんなものは大元ではない。

 こんなものが人だというなら、自分は人であってはならない。

 嫌だこんなの、

「これは面妖な」

 暗闇の中、ふと落とされた声は大人しく、それでいて空気の質を塗り替える。

 類を違えた感があった。ひとではなく、ひとの声ではあるが、何か別の音だった。

 ふいと、黒髪の者が現れた。場違いに、ひょいとそこに存在していた。

「あなた、」

 誰、と言う前に、大元だったものが動きをとめた。少年を見つめて、けたけたと笑う。

「ほうほう! 面妖とはこちらの台詞ぞ! この落ちものが。わしのことでも祓いにきたか!」

「いや。お前に用などない」

 たまたま通りすがったと言わんばかりに、平静に少年が告げた。

「だが巫女がうるさい」

 片目だけ細める。虎のような金色の目が、細めた方だけ、鋭い光を増していた。

「みこ? 貴様さようなものが必要であったかな」

「要不要の問題ではない」

「布石にすぎんというわけかぁ」

「邪魔だ。退け」

 会話を切って、少年は簡潔に用件を述べた。

 大元だったものが、変な声でうめきだした。

「貴様、わあしにじゃあまだと申すか」

「言葉のあやが問題か?」

 笑いもしない。少年の超然としたところは、助けを必要としているふうに見えない。だが、まゆらは思わず少年の着ているコートの、袖口を軽く引っ張った。体は動かさず、少年がちらりとまゆらを見る。不興を買ったことは明らかで、冷ややかな目に、失敗した、と肝が冷えた。全校集会のときに転び、ステージ上で椅子に座っていた校長のかつらをはたき落として倒れたときよりも、冷や汗が止まらなかった。

 比べるべくもない事を並べてしまう脳が憎らしい。おかしくもないのに、笑いそうになる。

 少年はだが、不意にはっきりと微笑んだ。目は相変わらず冷ややかだけれど、目元が和らぐ。目元の筋肉は意志の力では無理に動かせず不自然な笑みになると聞いたことがあって、だからまゆらは、多分少年が機嫌を直してくれたと思った。理由は知らない。

「あの、これ使って。あとあぶないから、逃げた方が」

 矛盾した発言をしながら、まゆらはゴルフクラブを差し出す。少年はひらりと掌をかざし、その仕草だけで、まゆらは武器を退(ひ)いていた。

「ごめんなさい、要りませんでした、よね」

 どう言えばいいのか、分からない。

 ただ、まゆらが泣き出しそうなのは事実だった。前門の虎後門の狼、そんなことを思いついた。

 しゅうしゅうと歯の隙間を鳴らしながら、大元がこちらに向き直った。

「じゃあまだと言うのなら、わしを殺しでもしてゆけばよいわ」

「面倒だ。退け」

 労力が惜しいと言外に述べ、少年はすっと、まゆらから目を逸らした。どっと熱い汗が噴き出したので、まゆらは袖で額を拭った。

「貴様あ! この、神が、神が貴様などに祓われてなるものかや!」

「祓わない。退けと言っている」

「食ってやるう」

 幼稚な口調で叫んだ大元もどきは、老人のような手を伸ばし、飛びかかってきた。

 口元を押さえたまゆらの前に出て、少年にしか見えない、それでいてどこかずれた平静さの者が、ほんのわずか笑ってみせた。凝視しなければそれと分からない呆れが、そこには内包されていた。

「そうはいかない。私が死ぬことは既に決まっている。だから――この子がいるんじゃないか」

 いつの間にか、まゆらは目の前にもう一人、小さな影が居ることに気が付いた。少年の隣に居た、小学生より幼い少女は、まるで何も映さぬような瞳を開き、じっとすべてを見つめていた。そのまっさらな魂に何を刻みつけようと言うのか。彼は片手をあげて、おもむろに口を開いた。

「大野まゆら、お前はコレをどうしたい?」

「小癪な!! 既に神の座を追われた者が何を言う!!」

「まゆら、答えよ。お前は口を利けるだろう? 今だけ、お前に許す。言え」

 何を許すというのだろう――まゆらは小刻みに震えた足を引きずって、前屈みになって言葉を探した。

 何だ、何を言えば正解になる?

(これも人間じゃないんだ、夢かも知れない、ひどい悪夢)

 思考を遮って、少年が朗々とうたう。

「殺しても良いのか、それとも生かしてこの自称する神とやらを世界に具現させておくか? 切り離せぬこともないが――それは私の仕事ではない」

 前に立たれているため、まゆらからは少年の顔が見えない。けれどその背は暖かみがあるように見えてその実冷たく、すべてを突き放して孤高、隣に立てるのは真実をまともに理解しない小さな少女一人のように見えた。

 少年は短くため息をついた。大元の姿をし、目の下にくっきりと隈を浮かべたやつれはてた男――それが、一歩こちらに踏み出したからだ。

「このままこれを封じ込めておいても、じきに自我は崩壊する。自称の神は本人と融解し、大人しい人間の性格は食い荒らされ、人は既に人を失う。人として死なせるか? それとも、化け物として死なせてやるか」

 選べと言われ、まゆらは数度首を左右に振った。目だけは父をとらえたままで、顔を背けようと必死になる。

「い、や……!」

「最後のチャンスだ。お前の力を使って甦らせるという手もあるが、これとあれを切り離すのに、魂が分離しすぎれば『かえらせ』ても戻りきれない。罅の入ったままの魂などかえすに意味がなかろう? 破片だけの父親など既に別人。狂乱であってもいいのならば、それもよかろうが」

「で、も」

 意味は理解できない、けれど声はひどく耳に快い。右耳からずるりと流し込むように、少しだけ冷たく、声は響く。

「人として死なせるか」

 否。

「では神として死なせるか」

 否。

「ではどうする」

 ため息をつかれ、まゆらは震える肩を両手で抱きしめる。どうすれば良いのか分からない。ただ、徐々に空気が重たくなって、息をするのがやっとだった。誰かの葬儀のときのようなしめやかさ――深淵をのぞき込むような思いがする。

 ここは人間の――まゆらのいる場所ではない。

「パパ……帰ろう」

 言うと、大元の姿をしたものが微笑みを浮かべた。吐き気がするほどよく似ていた。

「ッ! パパを帰して!!」

 即座に嫌悪を示した少女に、大元の姿は困ったように首を傾げる。その様はできそこないの傀儡のようで、こめるだけの魂も無い癖にただ操られるだけの種類に見えた。

「――ギョクリュウ、お前、人間ごっこは楽しいかぁ?」

 高低の激しい、まるでテレビで見る誘拐犯のつぎはぎした犯行声明のような声だった。さっきまでの、老人の声ですらありえなかった。目尻からついに涙がこぼれ落ちる。まゆらは必死に考える。

 嫌、助けて、怖い、殺される、

「違うだろう?」

 ふ、と口の片端をあげて、少年が肩越しに振り返った。まゆらの目を、真っ直ぐに射抜く。まるでうろんな穴を覗き込むように、見つめている。

「殺すのが、恐ろしいだろう? お前は昔からそうだった――人の魂をもてあそぶ罪を自覚せよ」

「――ッ」

 両手で口を押さえたが声は漏れた。古い記憶が早回しで思い出される。周囲を群れ飛ぶ蝶、虚空にきらめく星々、降る闇、草原の中に置かれた素足、そこここに見える誰かの手足、横顔、さぁ、取り返したいものはどれか? 選び取って集めて、指でさして、ほうり出して遊んだ。

「あ、れは、夢じゃないの?」

 まゆらは呆然と呟いた。少年は軽く、鼻で笑う。

「夢だと思ってきたのならば夢だろう? すべて世は夢にすぎぬ。我らはどこからともなく訪れる客人。そうしてすれ違う。消えていく魂をつなぎ止める者がなければ我らはただ薄明の世に理ごと死すのみ」

「わ、からな、」

「ではこういえば分かるか? ――お前は力があるのに母親をあの丘で見つけることができなかった。甦らせるための情感はあり条件は揃っていたのに、お前は失敗したのだ。巫女として捧げられた身でもない故仕方のないこと。けれど、お前が遊びで声をかけた者は、何人か中途まで甦った」

 声が歌う。眩暈がする。

「夢の中で丘を巡り、お前は何人も、臓物の一部だけ生き返らせては滅ぼし、殺した。戯れに。それを知れば、死んであの丘にいたお前の母はどうだろうな? 自分の娘が「行き帰り」の力を行使出来るというのに、母親である自分だけは放置。恨みは大きいだろう。玩具遊びは面白かったか人間の娘。お前が母親を、友人を、誰かの死を見捨てた故に、お前の周りには「行き帰り」損ねて「死んだままにされた」あるいは「中途半端に何度も死なされる羽目になった」、「彼ら」の恨みが集うこととなった――お前が命を戻せるのに自分たちだけは戻せなかったと言われて穏やかに霧散できる魂もあるまい?」

 理解が追いつかない。元より声は麗としすぎて、彼女の頭では言葉としては理解できない。

 ただ、音を反芻して、理解する。

「私が、呼び戻す?」

「そう」

「なにを?」

「お前は答えを知っている」

 言うのが、恐ろしかった。

「ありえない」

「ありえないものが今、どれだけお前の前に具現してある?」

 いっそ穏やかなまでに、少年が言葉を紡いだ。勇気を出し、水槽の中から外を見ているような気分のまま、まゆらはぼそりと口を開いた。

「しんだひとが、いきかえる……」


 水が、まゆらの足下から湧き出ずる。展示会場にあった画に触れたときにも、水は溢れた。父が持ち帰る水に、いたずら半分でゴミを入れたりして触った――水は人に配っても配っても、まゆらが触れるたび増えていった。その水を飲んだ人の病が癒えた。まゆらの持つ常識的な考えが、それらを「ありえない」と否定していた。

「……まさか……」

 まゆらは呆然と呟いた。意志を無視して、水はこんこんと、清水のごとく湧き続ける。

 それを見て、大元が歓喜の声をあげてしゃがんだ。

「ふははぁ、見ろ、見ろ、これはすごい」

 両手で水をすくい、天へ跳ね上げる。その様は子供じみていっそ滑稽、それを通り越して無気味でさえあった。

「これひとすくいで何度生き返る? これは素晴らしい力じゃ、与えるものを間違えたなあ月の使者、神の使い! 価値のわからん人の子よ、うぬし、本当に見事であることよ。ははぁ」

 大元は水に口を付けた。一気に、すすりこもうと身構える。

「させぬさ」

 少年は手を振り下ろした。たいした所作でもない、けれど水が一瞬で消え失せた。

 両手ですくった水を飲みほさんとしていた大元が、真顔で口だけ開けて首を傾げた。

「ほぉ、邪魔をするか」

「邪魔立てはそちらだが。私は私の行く道に居るお前に、退けと初めに言った筈。誰に非があるかはすでに明らか」

「さて。ならば――決めるか」

 勝者だけが生き残る。通り道は一つであり、誰かが避けない限り、その場所は、通ることが出来ない。道理である。

「理をまげたのがカミセぞ。その長が我と争い、道を通るか」

「私はカミセから出た。既にアレは我が手を離れ、元より私のものでもない」

「今は――そう、銀月の一族と言うのであったか」

 大元が、老人の声でくつくつと笑った。

 その様子を見ながら、

「まぁ、私が構うのも道理に反するか」

 大儀そうに吐き出して、玉竜はまゆらの方を向いた。

「退けろ」

 まゆらが退くと、

「意味が分からないと?」

「あ、退けじゃなくて、パパを退けろって……」

 まゆらは納得した。

 納得してから、我に返る。

「あなた、パパをこのままにして行くつもり!?」

「お前は決定しなかった。私はこれになど関わるつもりが毛頭無い。お前の父が、水をくみに行った先で自称の神に憑かれたせいで、私の通ろうと思う道がふさがれている、それが不便であるのにすぎぬ」

「つかれ……?」

「憑かれた理由は明白。あれは娘に突き放され妻にしなれ、気が落ちていた。娘は娘で、母親の死の直後「生き返れ」と念じる力が昇華されたわりに、まるで力の使い方を知らなかった。その力で大した格でもない自称の神を呼び覚まし、父に憑かせる結果を招いた。すべてお前が元凶だ。気が向いたからお前の願うとおりにこれを死なせようとしたが、選ばないなら、これをお前が退けるがいいよ」

 すらすらとよどみなく言われ、まゆらは頭に血が上った。

「パパに死んでほしくないけど、こんな化け物ごめんだっていうのよ! ふざけんじゃない!」

「ふざけてなどいない」

 一気に血の気が引いて、まゆらは目が覚めた。

「本当に、パパとこの化け物、分けられないの?」

「どうする」

 こちらの意見などお構いなしだ。どれを選ぶのか、少年は待っている。押しつけがましい設問だとまゆらは思う。相手が人間じゃないにしても、選びたいものが存在しない三択問題なんておかしい。――テストじゃないんだから、正解はない。

「……さっきの、変な水、持ってっていいから。あんなのなくなっていいから、パパを返して」

 少年がため息をつく。

「この先、再び同じ事は起こる。一時的な平安を得、そのときが来れば、お前がとどめをさしてやれ。さもなくば」

 死を暗示して押し黙り、少年は再び、写真をほうり出した大元の方に向かう。

 踏み出すと、大元が悲鳴をあげて後ずさった。

 一瞬、少年の体にまとわりつく、ゆらりとした青い火花を見たような気がした。

 眩しくて、まゆらは目を閉じる。

 ごとんと音がして、目を開くと、そこには父が仰向けに倒れていた。室内に、他の影は見あたらない。

「いーたいー」

 うめいている声は、元の通りだ。

 何だったんだろう。本当に本当のパパなんだろうか。

 分からなくて躊躇った。けれど、情けない顔をして大元が、「うわまゆら!? お前帰ってきてたのか、そうかぁ、飯食ったか、昨日すき焼きしたんだ、残り、卵とじにしてやるから待て、待ってくれよ」と情けない口調で言ったので、飛びついていって、わんわん泣いた。

 パパのバカ。鼻水を顔にかけられ、けれどしがみつかれているので起きあがれず、大元は「どうしたんだまゆら、なぁ」と何度も繰り返した。まゆらの頬を撫でる手は広くて温かく、まゆらは、心底、失わないで済んでよかったと思った。

   *

 マンションに戻り、翌日。孝は、皆が起きてきたあと、自分の話を聞いて貰った。そこには何故か、リビングで寝ていた菅浩太も混ざっていた。

「どうしたらいいのか、ずっと、ずっと考えてたんです。一人で。でも、何も思いつかなかった。多分、それは、自分が何も知らなかったからだと思うんです……ウタウタイの事も、銀月の一族の事も」

 各務瑠璃子のことも。

「知らないものを考えたって、悩むことになるだけです。知らないんだから、考えようがない。各務さんは、里見の両親と各務さんの親の、もめた件があったから、兄貴と一緒にまるで忘れたみたいに生きてた俺を、恨んだ。聞いた話から想像するしかないけれど、……あの人は、元々、何だか分からないものを沢山見て、それらに絡まれて、精神的に疲労していて、それもあって、脳天気に見えた僕を、ひどく憎むようになった、だとしたら、僕に出来ることって、謝る事じゃなかったかもしれない。謝っても、あの人の心は、全然、安らがない。だって、両親はいなくなってしまったし、兄貴と俺は前とは違うところでもまた、普通に生活を始めたし、各務さんだって、どういうことか分からないけど、生き返った、その上、もう誰も絡まないことになったって、慈雨爺が。僕が頼もうと思ったんだ、そういう、見えないものからの攻撃を各務さんがされないようにしたい、って。そうしたら、もう各務さんには、別のお手つきがあるから、迂闊にはさわれる者なんていないって言われました、」

「慈雨?」

 浩太が、長い長い語りにくちばしを挟む。孝は、思い浮かべていたことを一気に話したせいもあって、乾いた口で息を吸い込み、むせそうになって、日向に水を入れて貰って受け取った。

 一口飲んで、

「慈雨爺と、自分で名乗った、姿の今は見えない、気配だけの何か、です。悪いものではないみたいなんです……」

 ちらりと浩太に見られ、裄夜は困惑気味に、振り返った。何もいなかった筈の背後に、黒い和装の男がいる――キセは素知らぬ顔で、孝の顔を見つめていた。特段、何か言う言葉はないものらしい。「慈雨爺」とやらは、どうやら、キセがどうにかしなければと警戒するようなものでは、ないのだろう。

 孝が続ける。

「それ以外は、本当、幽霊とか全然見えないんです、でも、願い事を叶えてやるといって近づいてくる気配や、声、それとわずかな輪郭くらいが見えて、分かるくらいで。だから各務さんが何に苦しんでいたのか、僕には分からないんです、ウタウタイは取り囲まれて殺されそうになるよりも、力を使うのが怖くて逃げ出したような、害になる側の者だから」

「孝くん」

 苦笑混じりに、浩太が呟く。分かってます、と遮って、孝は、

「そういう、卑屈なものの考え方が、各務さんや他の人、……それに自分自身を、苛立たせた」

 ひどい目にあわせようとするものを追い払えるような力が、使おうと思えば使えるような力があるというのに、孝はうまく動作しないウタウタイの力に怯えて、まともに「使えるように」取り組もうとはしていなかった。

「変わろうと思うんです……変われないかもしれないけれど、出来るだけ、言葉が暴走しないように、うまく、意図したものを通じさせることが出来るようになりたい。……なります、たびたび暴走して、大事になるかもしれない、だから、ご迷惑をおかけします、出来たら助けてください」

 突如素早い動きで正座し、頭を下げた孝に、日向は慌てながら手をのべかけた。が、他の誰も動かないし、当の孝は必死の形相で、頭を下げたままである。横から覗いた孝の横顔は、どこか泣きだしそうにも見えた。

 間をおいてから、浩太が孝の肩に手を置いた。

「練習しようとしたら、大損害大迷惑が起こっちゃうことは自覚してるわけだよね、正直でよろしい」

 孝は頭をなで回され、子供にするようにされて、安堵して良いのか、複雑な思いで、困惑する。

「助けを求められても何も出来ないかもしれないけど出来うる限り手は出すから。それでいいよねゆっきやくん」

「何で僕に振るかな……キセ」

 裄夜は振り返らないまま、面倒そうな顔を真顔に戻して、問いかけた。

「彼の意志をおした場合、僕らや周りの人の、安全を保証できる?」

「お前もややこしい物言いをするようになったな」

 キセは呆れた裄夜を見やって言ってから、孝の顔を真っ直ぐに見つめた。

「まっとうな心根で、自分の芯を持って立て」

 どうやら、ウタウタイの意見に支持を表明してくれた、ように見えた。

「あのときみたいだ」

 ぽつりと、孝は呟いた。

「何が?」

 浩太が問うと、孝は左右にかぶりを振った。視線を受けたままのキセは、素知らぬ顔でどこかを見ている。

 岡野が逃げた。拘置所ではなくて未成年だからいったんどこかの保護所に入れるとかでもめて、留置場に放り込んでいたら暴れ、飯を食わせたら大人しくなった。平静に受け答えするので、大丈夫だろうと思って、息抜きに外のトイレに行かせた。そうしたら逃げられたので、明らかに人為的なミスで、警察としては言い逃れできない。

 だから浩太におはちが回ってきた。高校生以前からずっと、本上として、表の経理に出ない、紙代とか称して経費を落とす、もっぱら「秘密の頼み事」のために使われてきた。今でもそうだ。検屍も鑑札も、浩太が好きで入れている仕事であって、本来的な本業ではない。

(で、岡野はーどーこ行ったかなもう)

 一度捕まえたものをもう一回捕まえるのはややこしい。

 でも、前とは違って、迷わずに捕まえていいのだから、そこは便利だ。

 札を使う。

 使ったらなぜか各務瑠璃子がいた。道端で出くわした。いかにも学校帰りみたいに鞄を持って、片手では単語帳をめくっていた。何かものすごい普通だった。驚いた。相手も驚いて、それからシット、以下諸々のスラングを話しだした。

 急に英語に目覚めたのかと思いながら、浩太もストレートに言い返した。どちらかというと、多少癖はあっても浩太のほうがなめらかで自然だった。よけいに瑠璃子は怒って、暴れた。

「駄目だ俺こんなとこで喧嘩してる場合じゃなかった!」

 押しのけて道を渡る。うっとうしいので瑠璃子も相手にするのをやめた。

 歩いていく。元々の目的を忘れたように、敵に絡まず、歩いていく。が、

「……あぁ?」

 後ろから気配が近づいてきて、不穏な口調になった。

「ンっだよテメエついてくんなボケ」

「君の行く方向が俺の進行方向オーケー?」

 浩太が、隣を歩いている。

 気づくと競歩になっていた。走り出す寸前で、足は地面にいつも着く。

 角を曲がった先に、ふらふらと歩く岡野の姿が見えていた。

「いたあっ!」

 いきなり叫んで走り出す。思わず瑠璃子も駆け出していた。

 岡野は最初気づかなかったが、人混みがわかれて浩太と瑠璃子に道をあけるので、気配で分かった。明らかにびっくりして、慌てて駆け出す。が、わずかな差で、スタートが遅れて、背中に手を伸ばされた。

「駄目だ触れるな!」

 また、先日夜と同じく、キセが不意に現れた。

 また首根っこを掴んで引きずられ、二人は口々に文句を言う。

「なっにすんだこの!」

「何で。何でだよキセ。これ、岡野って、大した力もない、ただの先祖がえりだろ!? ただ死者の姿を暴くだけじゃないのかよ」

「忌部の、力の名残でしかない。確かにほとんど、当人には術と言えるようなまねは、出来ない。しかし、名残だからこそ」

 キセが手を離した。よろけながら、瑠璃子が立ち上がる。浩太も、自分をとめたキセの腕を掴み、少し楽をして体勢を整えた。

 岡野も、今の隙に逃げ出そうとしたが、足が地面に張り付いていた。キセは相手が走る意欲をなくしてから、その術をほどく。岡野は初めてものを見た赤子のように、ぱちぱちと腑に落ちない顔で瞬きしていた。だが、不意にかすれた声で笑うと、右の掌を、映画に出てくるゾンビのように、ふらふらと前に突き出して歩き出した。

「ふ、あはは! さわったら、おまえらも泥になるのか!? 俺のこと殺そうっていうんだろ!? 俺の、おれの、」

 ぶつぶつと呟きながら、岡野が前進を続ける。また壊れたらしい。

 浩太が一度前に出ようとしたが、キセが肩を掴んで離さないので、思い切って問いかけた。

「……キセさ、聞くけどさ瑠璃子がアレに触っちゃならない道理があるのは分かるとして、なら、なんで君がさわれないんだ? 捕まえてくれって頼んでもこの分じゃ断りそうだろ」

「岡野は、暴く。死者というより、元々は、隠されたものを暴く力がある。神であれ魔であれ、偽りであれ何であれ、真実の姿を映し出す鏡のようなものだ。山神の姿が何であるのかは知らないが、道端であばかれて危険がないものとは限るまい」

「あぁそうそれで俺もつかまえてるんだへえふうん」

「……意味が、それだけであると言うのなら」

 浩太に負けずおとらず、キセも、やけに引っかかる言い方をした。浩太は軽く目をすがめた。

「でも俺は興味があるかな各務瑠璃子が「何によって出来ているのか」」

「悪趣味だ」

「だって当人に聞いてもしらなさそうじゃん」

 岡野がふらふらと近づいてくる。瑠璃子は、どう逃げ出したらいいものか、迷っているようだった。

 気味が悪いから吹っ飛ばしたいが、何だか本能的にか、触れたくないという意識が勝つ。

 指先から逃れるように、塀づたいに、背を滑らせて、ずるずると逃げる。

 キセが、つかの間迷いを見せた。行くべきか、とめるべきか。

「何で迷ってるか教えてくれ」

 浩太が、目をぎらつかせて問う。

 答えていいものか、ためらいながらも、

「瑠璃子の正体を、岡野の力で暴けるか、不明だ。岡野の力が強ければ、俺やお前の、おおもとの姿を暴くだろう、けれど、たまたま、弱い死者を暴けるからといって、……各務瑠璃子のように、恨みや憎しみで力を強めている死者をあばけるほど、力があるかどうかは分からぬ」

 キセは瑠璃子がどのような姿なのかを知らない。また岡野の力が、単に「元々弱っている死者(大野が水で生きながらえさせた死者は、恨みだとかでよみがえる連中より、意志が欠けていて弱かった)」に対してしか効かないのではないかという疑いも持っていた。

 説明しきる前に、岡野が、瑠璃子にたどり着いた。

 走るような足音が、やけに大きく、反響して響いている。鳴り響いている。

 手が、瑠璃子の頬に届いた。瑠璃子はそれを、振り払えなかった。

 雨の残滓が、頬に唇に肩に降りかかる。

 霧雨が、過ぎ去る雲から、通り雨として降りそそぐ。

「う、わあぁああああ」

 ひどい声だった。喉をつぶされる鶏でも、もう少し高く悲鳴をあげるだろう、ひきつれて牛蛙のようにひきつれた声だった。

 紙のように白くなり、顔と体が、くしゃりと握りつぶされたように細長く、つぶれそうに見えた。

 明らかに、人ではない。

 ただの死者ならば、骨子が見える。でもこれではまるで――紙切れのような。

「やめてよ!」

 どん、と岡野を突き飛ばし、誰かが間に割って入った。せき込んだ瑠璃子が倒れ込むが、その姿は、元通りというべきか、手足のある、髪のざんばらな、つらそうに顔をしかめた少女だった。

 間に入った少女は、頬を上気させ、怒ったように声を荒げた。

「何なの!? あんた、岡野でしょ!? 知ってんのよ、私。あんた警察に捜されてたじゃない、学校さぼって帰って、ものすごい疑われてて、うちの学校の生徒、あんたがやったの!? また、今度は通り魔なんだ!? 私の友達、集団で手に掛けようっていうなら、」

 そこまで叫んでから、少女は、キセと浩太と、岡のを順に見、どう考えても多勢に無勢だと気がついたらしい。急に勢いを失ってから、

「そ、そうだっ、警察呼ぶから!」

 言うが早いか、防犯ブザーを鳴らすと、瑠璃子の腕を掴み、引きずり立たせた。

「きゃああ火事よー! そこの家の岡倉さんちが燃えてる!!」

 よほど発声練習をして鍛えていたのかと思えるほど、少女の声ははっきりしていた。鋭くて長い悲鳴のせいか、周りの集団が慌ただしくなる。

 携帯で警察を呼ぶのかと思い、いつ奪ってとめようかと構えていた浩太は、予想外の展開に面食らった。

 岡野は、触れた相手がぐしゃっとなった後に、精神的に耐えきれなかったらしく、自分でも悲鳴をあげて、近くの電柱にすがりつくようにして泣き出してしまった。

「何これ……」

 阿鼻叫喚となった現場で、浩太は、警察が来たときにいったいどうやって説明しようかと、途方に暮れた。キセは当然、もう居なかった。


 大野まゆらは、手を離さなかった。

 どうして。

 化け物だって、知ってるくせに。

 何だ。

 親子して、人をバカにしているのか。同情したり、憐憫だったりするそういう気持ちが、見下されているようで、各務瑠璃子はうんざりした。

 そういうふうにしか考えられない、自分自身というものにも。

(だからそういう悩み方が癪に障んだよ!)

 振り払った。腕は強く振られて、自分の拳も痛かったが、多分まゆらも驚いただろう。

 でもまゆらは振り返って、ふわっと笑った。

「よかった。呆然としてたみたいだから、私が勝手に走って連れて逃げちゃった。ごめんね、勝手に腕なんか、掴んだりして」

「いや、ンなことどうでも」

 どうでもいい。そうじゃなくて。

「あたしが、」

 一度死んでるのに。化け物なのに。言いかけて、やめた。

 大野は、瑠璃子が一度自殺して死んだことだとか、話を聞いても、嘘だとは言わなかった。最初こそ茶化して、妄想か、なんて言ったけれど、事実と妄想を混同しているような事を、瑠璃子には感じなかったらしい。途中から、死のうとしてはいけないとか、これから死のうとしているのだと思いこんでいるふしはあったが。……要は、死んだと言いたいくらいに、その気があるのだと思って、(そしてそれは、瑠璃子が妄想したことではなくて、そう言わなければ心がもたないのだろうと思って)嘘だとは言わなかったのだろう。

 お年寄りの言葉もうんうんと聞いているのと同じで、そのうち妄想をうまく誘導して、「お財布をお嫁さんがとったなんて、ありませんでしたよねえ」という話に変えてあったりするように、瑠璃子のことも、いがみあう気持ちから抜け出させようとしていたのかもしれない。

 瑠璃子の話は、信じてもらえたわけではないのだろう。

 でも、きっと前に進むと、信じてくれた。

 人は、よくなるだろうと。

 無邪気に。真摯に。

(待ってくれた)

 今すぐに、思い通りに変わる、ことを望まれていたのではなくて。

「駄目だ!!」

「え」

 瑠璃子は叫んで、身を翻した。

 駄目だだめだだめだこんなの!

 恨んでいなければいけなかった。憎んでいなければならなかった。

 死んだ理由も、生き返った理由も、それ以外の何物でもありえなかった。

 憎んだ原因が、その当時あったのだからそれ自体は消えないとしても、今はもう、ほとんど、ない――じゃあ、何で死んで、その後生き返って、今も、岡野とかいうモノから逃れて、必死になって生き残っている?

 ぞっとした。

「でももう、あなた、私を助けてくれた」

「え」

 思考を読まれたのかと思った。まゆらはただ、先日のことを言っているようだ。

「この間、パパが、危なかったの。あの、変な人が、家に出てきた日に、パパがちょうど危なくて。でも、何とかなった。訳はうまくいえないけど……パパを、失わずに済んだの、たぶんあなたが、帰れって言ってくれたからで。口は悪いけど、ホテルに泊めてくれたし。話をしてたら、ほら、時々笑いあう」

 ふふ、と秘密のことを言い合うように、まゆらが笑った。

「だから、いいの。助けたいから助けたの。自分に気を許して気をかけてくれたひとの、私少しは助けになれた?」

「……多分」

 もう既に。十分。英単語のリーフを鞄からはみ出させて、瑠璃子は半ば呆然と頷く。よかった、と笑う相手は、日の光の下で育った健康な顔をしている。その裏側にどんなものを隠していても、気持ちに触れたことにはかわりない。瑠璃子の、気持ちを、上向けたことに、かわりはないのだ。

 瑠璃子は、ふと狐目の男を思いだした。

 離れられるだろうか。

 勝手に生き返らされたけれど、今は放置されているに等しいけれど、あいつらから逃げられるだろうか。

 岡野みたいに、後になって、再び捕らえられはしないか。

 その日にならなければ、分からないことだ。

 だから。

「瑠璃ちゃん?」

 掌をぎゅっと握りしめた。普通に生きられたら、すごいことだ。何たって瑠璃子は、一度死んでいる。恩返しとかそういう殊勝なものではなくて、出来たら、こういう変なやつに出くわしたことを後悔したくないから――こういう変なやつが、あいつらにどうこうされたら不愉快だから、だから、きっと守ろうと思った。

 守れたらの話だけれど。

(そんでいよいよ、アイツを恨む暇がなくなる)

 牙を抜かれた各務瑠璃子だ。ははっ。

 内心で暗く笑うと、まゆらが、今度パパとご飯食べよう、と、わざとらしいぐらい明るい声を出した。

 まゆらの力も、大元の現状も、瑠璃子は知らない。ただ、縷々流れていく気持ちの行く末を、ほとんど初めて、希望を持って見つめていた。

 その後、平静に見えたまゆら自身も、実は混乱していて、よく分からないことを言いはじめた。どうやら瑠璃子が会ったことのある化け物によく似たモノに会ったらしい、ということは分かった。

 化け物。あの、金色の目をした、やたらに落ち着き払った、噛みつかれてもまるで稚児のようなものだと反応もしようとしない、器が大きいと言うよりは態度がでかいアレ。

(玉竜。それでオッサンが、助かったとか何とか……何しでかしやガッたんだ)

 玉竜と名乗った者の、あの余裕ぶりを思うと、むしゃくしゃして腹は立つ。が、しかし瑠璃子が彼に会った日以降、あれこれと見えないものに悩まされる機会が減っていて、日常生活に使う頭の領域が増えて楽になったことは事実で、複雑といえば複雑な気がした。

「それでね、色々あったけど。ありがと、瑠璃ちゃん」

 勝手に名前を省略して呼ぶな。怒鳴りつけたい気持ちの苛烈さは、今も前も同じままだ。ただ、それをするまえに、ばつがわるくて出来なくて、気持ち悪ィ、とかぶっきらぼうに言ってそれがまるで照れているように響くことは、何度もあった。

 自分で、ぬるくなったのが気持ちが悪い。

 嫌になる。

 だけれど、この得体の知れない、特に理由もなく安堵したということが、そう悪くないと思えてもいた。

 瑠璃子は、孝の態度といい、札師が最近姿を見せないことといい(どうやら、元々の塾講師のバイトの方に専念しているようだが、アレは自分の恨みはどうしたんだろう)もやもやした気分はあったが、徐々にそれらから離れていくような気がしていた。

 まるで、自由になれるような、錯覚がした。

 数分後、まゆらと別れて歩きながら(用があるからと振り切った)、心底自己嫌悪した。

 まっとうな自分なんて、人形が歩いてるみたいで吐き気がした。

   *

 さらに日が変わったある日。孝は、川縁からかかる大きな橋の手前に居た。ガードレールは白く、日暮れて灰色になりつつある風景の中でひときわ目立っていた。

「バーカ」

 踵を踏みつけ、革靴のつま先でガードレールの端を蹴りつけながら、各務瑠璃子は、口の端をゆがめて笑った。

「こんな時間に一人ぼっちか? 待ち伏せたァいい度胸がツイタもんですねェおぼっちゃんは!」

 がっ、と孝の、制服の襟元を掴みあげる。

「決めたんだ」

「ナあニが」

「各務さんに、友達が今いるって、聞いた」

「トモダチい!? 誰が!? つうかダレにきいたあのバカ野郎か」

「どのバカ野郎?」

「死に損ないの検屍官ッ! テメエが検屍されろ!!」

「僕に言われても……あと、誰から聞いたわけでもないけど……良かった」

「は?」

 本当に呆れたのか、瑠璃子の手がゆるんだ。間近で見た彼女の顔は、確かに険しくて般若の面よりも顔を背けたくなるような、老醜めいたものがまとわりついていた。けれど、以前よりは、まとう空気が、ゆるんでいる。

 春先の、雪国で見た、つららの溶ける陽光のような――何かが、彼女にあったのだろう。

 それを他人が勝手に喜ぶのは、彼女の気性から思えば、プライドに障るだろうが、良いことだろうと、孝は思った。

「各務さんが恨む理由は、消えようがないかもしれない。僕は、自分の力が、ちゃんと制御できるようにしようと思う、あなたが本当に、大事な人が出来て、心底守りたいと思ったときに、僕は必ず君を助ける。それで許してほしいとは言わない、言えないけど、……過去を償う為に、僕に未来を許してほしい」

「ばっ……」

 バカじゃねエの、が言えなかった。瑠璃子は孝の顔を見て、実に唾棄すべき気味の悪いものだというように、あきれと嫌悪の混じった表情を浮かべたが、やがて、

「オマエほんっとクズだな迷惑勝手な思いこみの変態度合いが死に損ない!! にそっくりでムカツク」

 と、吐き捨てた。

「気持ち悪ィんだよまともぶりやがって恥ずかしいセリフ平気で吐いて、オマエ頭おかしいだろシネそこの階段転がって血みどろになってはいつくばれ!!」

「そういう気持ち悪い辺りが、無自覚にいじめられる原因になったんだろうなって、今は思う。確かに、振り返って考えたら、気味が悪いよね。自分の事ばっかり考えて、迷惑だの自分が悪いだの、びくついてて。兄貴の苦労とかも、知っててもどうしても、あのぼんやりした辺りとか、腹が立ってしょうがなくて――ウタウタイの力のことも話せないし、分かるわけないし、なのに脳天気にしててすごく腹が立った、同類嫌悪だったって今は思う」

「気味が悪いよね、ッテ辺りがおぞましンだよ!!」

 鳥肌を立てて、包帯越しにさすりながら瑠璃子が怒鳴る。距離を開けられ、孝は、シャツの首もとを引っ張って、はたき、のばした。

 声色をまねて言われると、確かに不気味だ。

「でも、このタチがそう簡単に変わるとは思えないから、これはこれなりに生きていこうと思う」

「はァそうですか!! オマエあほうだろワザワザんなこと他人に表明する変態的自意識過剰自己愛大好きッ子に近づかれたいヤツがいたら全員河原に頭並べて野犬に食わせる」

「誰かに言わないと、逃げそうだったから。人の反吐見せられて、友達でもないのにごめん」

「友達なら良いとでも思ッテんのか! 人間はテメエのタン壷じゃねえんだよ」

 良い音がして、瑠璃子が持っていた、ぐしゃぐしゃの学生鞄が孝の横っ面にぶち当たった。中に雑誌と辞書のようなものが入っていたらしく、孝はうめく。骨の周りが熱を持ってしびれて、耳鳴りがした。

「そうやって怒れる人は、……怒る矛先が違ったことを、多分知ってる……僕の気性が気に入らないとか、それは、後からついてきた理由じゃないの、別の何かが、各務さんをここにとどまらせたんじゃないの、」

「オマエ自分がクズすぎてうざくて糞憎まれてたって事実をキレーさっぱり忘れたな!?」

 向こう臑を蹴られて、孝は川縁の柵にすがってバランスを取った。

「ごめん」

「あやまんなあ! 謝るぐらいなら最初ッカら言うな!? ホント生きてるだけでうぜえなキサマ!」

 複数回鞄で殴ったせいで、瑠璃子は、鞄の中身を道にまいてしまった。音楽雑誌と英語の辞書が見えて、あぁふつうに生きてる、と、何だかあまりの普通さに、孝は気がゆるんだ。

 そこに顎へ向けて蹴りが入る。受け身もとれないで、孝はあっさりノックダウンされた。

 ひっくり返って動かない彼の側で、瑠璃子は本や雑誌を拾って、泥まみれのままで鞄につっこむ。

「中からどんだけ呪符だのわら人形だの常軌逸したモンが出てくるか、わくわくしてたなクソったれ」

 吐き捨てて、瑠璃子はとどめとばかりに、靴底で思いっきり、孝の背中を踏んづけた。キレイに茶色の足跡がついて、猫の肉球みたいにきれいだったので、気分がちょっとよくなった。

 孝と別れ、瑠璃子は路面を蹴りながら歩く。腹は立っていた。けれどそれをかき消すくらい、わくわくした気持ちが、喉元までせり上がっていた。不愉快が長続きしないのは、本当に久しぶりのことだった。

 忌々しいが、あの化け物の野郎が手をかけて以来、本当に、瑠璃子は、ぞろぞろとした百鬼夜行の群れには襲われていない。助かる、とも思いたくもないが、思ってしまう。

 気持ちを切り替える。

 さぁ早く帰って、勉強しないと。

 まゆらが以前、言っていた。自分は翻訳ミステリーが好きだから、きっといつか、日本では未発表のそれらを自分の手で訳してみたいのだと。

 でも英語が苦手で、それでも奮闘していた。

 ――図書館に行くというからついていって知った、まゆらの姿だ。

 近くの公立の図書館は、いつも暇そうなおじさんやおばさんが占めていて、学生があまりいなくて少し目立った。

 瑠璃子は英語は少しばかり得意で、まゆらの遅い訳に、整った表現を付け足してやった。

 それで、褒められたのだ。褒められた、というよりは、あのきらきらした目で、すごいよ、と言われただけなのだが。

 単純。自分で嘲る。

 純粋さが苛烈な、人の性(さが)を癒していくような簡単な癒しストーリーなんて卑しいだけだと、瑠璃子は思う。

 そんなのは孝も持っている。純粋さ故にうっとうしくて面倒で、腹が立って大嫌いだ。純粋だからって無知だからって潜在的な力があるからといって、あんなに、優遇されていいもんか。かばう人間が出てだらだらだらだら生きていて、自分の気力をふりしぼって生きようともしない。

 腹が立ってしようがない。

 歩きながらだんだん腹が立ってきたので、瑠璃子は鞄を思い切り振った。誰かに当たった。

 顔の手前で手をかかげて、白っぽい、裾の長いコートらしきものを着た男が、目の前に立っていた。

 ウザイのが出た。

 湿気の多い日本の梅雨時分に、コートだなんて前開きの変態親爺みたいで、本気で禁じ手でも浴びせてきゃあ助けてえなんて叫んでやろうかと思った。

 しなかった。そんな気分ではあったけれどもうちょっと自分でも下訳してみたい本があったから。早くホテルに戻って、このクイーンズイングリッシュの気取りやがった回りくどいたとえを、日本語らしいなめらかな響きに変えてやりたかった。

 しかし、相手の方は早く家に帰る気分ではなかったらしい。

「もう、喧嘩はやめたらどうだい」

 すれ違いざま、男は――菅浩太は、口を開いた。

「うるッさ、い」

 鼻と眉の間に幾重ものしわを刻んで、瑠璃子は振り返った。嫌悪を露わにされ、菅浩太のほうも、好奇心を隠さない。好奇、というよりは、叩きつぶす機会を見つけて、本当は億劫な気持ちがあるくせに、折角の機会だから、と嬉しくて仕方がないような、目をしている。

「あァくそウザっ、さっさとしね消えろクズ。この亡霊!」

 いらいらと吐き捨てたら、浩太は驚いたように肩をすくめた。

「悪口に切れがないよ瑠璃子ちゃん」

「はァ!? 呼ぶな変態ゴミ警察で死ね」

「もしかしてさ」

 浩太が、ふいに胸元から一枚の、赤い札を出した。一万円札めいた紙切れは、かすかな音を立てて、裂かれる。裂けた紙は、風に操られるようにして宙に浮かび上がり、やがて消えた。

 浩太は、札が消える寸前、ひらりと右手首をひるがえし、肩口で、まるで盆を捧げ持つように止めた。

「君が絡んで、喧嘩する理由はもうなくなっちゃったんじゃないの、見えてないよね、前はそこらじゅうから変なのが集まってきてどばどば襲われてたじゃない」

「ナニが見えてないって。オマエこっちが襲われてンのが分かっててほっといたのかよオッサン」

 意味が分からない。瑠璃子は顔をしかめて言ってから、満足げににやりとした浩太に、

「はァ見えないって、まッさか狐がッてことか、今得意げに見せびらかしてンのがそんッなに偉そうに威張ってるワケかよ? オマエなめてんなよ蹴り殺すぞついてくんなストーカー! 気味悪」

「なーんだ見えてるのか。見えてなかったらもうそういう、君をむかつかせてるバグがなくなったのかと思ってさ前よりも周りに発散してる泥臭い黒い気配が消えてんだもん、俺これでもキミタチノコト心配してたんですよー?」

「ウルセえキモチワル」

 もう、反応するのもうっとうしい。面倒くさい。そもそも、瑠璃子の喧嘩の相手は、里見孝だ。赤の他人にしゃしゃり出られても迷惑だ(身内に出てこられても迷惑だが)。

 さっさと去ろうとした瑠璃子に、浩太はしつこく、追いかける。

「誰かが動いて、君のイライラの元がなくなったんじゃないのそれって誰かな教えてくれる?」

 教える義理もない。いっそ英語で罵ってやろうと思ったが、そういえばあのくそ札師が面倒そうに共有情報として流してくれた中に「菅浩太留学経験アリ」とあったから、英語くらいでは難解なスラングをとばしても意味がないのかもしれない。まぁ意味が分かってこそややこしい嫌みにも意味があるのだろうが。

「アレ、くそっ、何考えてンのかわかんなくなってきた」

「そりゃ普段あんだけ追い回されてたのが無くなったんだもんねよかったよね自由になってさ!」

「自由?」

 男はしつこく、後ろを歩いてついてくる。瑠璃子は呟き、図らずも聞き返した格好になった。

「そう自由。折角だからもう誰かを恨むより楽しいことしようよ」

「ゲロ親父と援交しろってかフザケンナ」

「本当、キレのない。これぞキレナイ若者」

 変な駄洒落のつもりなのか、浩太は軽く声を立てて笑った。

 瑠璃子は、なぜだか猛烈に腹が立ってきた。

 寝た子を起こすとはこのことだ。

 殺してやる。全身、指も骨も筋もずたずたに裂いてさをり折りにしてやる。

「ッてえな!! クソ、公僕が女子高生殴っていいとでも思ッてンの!?」

「はん、死人が何を言う」

 顔をしかめ、歪んだ笑みで浩太は腕を伸ばした。指先には黄色の札がある。模様はない。

「ていうかさァ、善悪二元論がまかり通ると思ってんの? そういうところがガキなんだって言ってんだよバーカ」

 大人げなく浩太が冷笑する。いつになく、嫌なやり方をした。

「てめえの忠義だの正義だのかざして他人のそれは受け入れられないんだったら、そいつはただの子供なんだよ! てめえら全員たかだか何十年かしか生きてない製造浅い人間なんだよ!」

 態度の悪さに、瑠璃子の方が気味悪そうに吐き捨てた。

「オマエ、他の人間断罪できる立場かよ!」

「してもいいんだよ分かってないなァお嬢ちゃんはさぁもうおにーちゃん疲れちゃったよ」

 浩太は嫌な顔をした瑠璃子に続けて言う。

「だからさ俺たち全員やりそこなってんのよそういうカンペキカンゼンステキムテキ人生なんてもんはさ既に理想上でも敗北しちゃってるぐらいなの分っかるう? そんな中で何を大事にするかぐらい合議してルールにして決めとかなきゃうまくいかないよねって融通有りまくり矛盾しまくりなオトナたちは頭抱えながら頷きあったわけだよ分かる? 社会契約論で喋ってるようなもんだけどねほら今個人主義とか普遍倫理がないとかほざいてんじゃん若いバカがさもう俺も若いけど若くないっつうかまぁそれはともかく」

「よく一息で喋れるな」

 しかも殆ど意味が分からない。こいつ頭おかしい。

 ぼそりと感心したように呟いた瑠璃子に、札を指から重力に任せて落としながら浩太が応じた。

「そう。俺は冗長で自分でも思っていないようなどうでもいい意味のないことを喋るから人は呆れて物も言えない。これも一種のリラクゼーションだよねと思うんだけどそこのとこどう?」

「はァ?」

「だから少なくとも俺は怒ってても君の味方でも敵でもないよ君が自分で迷いに気が付いてくれたら楽で便利だなって思うよ」

「だから、一体何が言いたいッてワケ?」

 ひら、と札が地面につく。しゃがみこんで浩太は、札をじっと見つめ、やがて拾って、丁寧に埃を払い、胸ポケットにしまい込んだ。

「君の力の方向性が以前より純化されてんだよなぁ知ってた? さっきも「自由になれた筈だけど誰のお陰か知らない?」って聞いたけどさ理由知らない?」

「ッ、知らない!」

 こいつ、訳の分からないことを言っていらつかせて、動揺させてこっちからも訳の分からない本音を引きずり出す気だ。変なトランスに陥りかけていた。引きずられた。

 気味が悪い。

 血相を変えた瑠璃子に、浩太は鼻で笑って見せた。

「ビンゴ。俺と長々喧嘩しようとするし、人と対話する余裕、出てきてるよね。やっぱり何か起きてはいるよねイイコト」

「何、言って」

 血の気が引く。瑠璃子は口元を覆い、吐き気を堪えた。何かが、胃からせり上がってくる。食堂の壁をなぞるときは冷たいと思ったのに、口腔を満たして外へ飛び出してきたときには熱くて触っていられなかった。

「あつッ」

 口から手を離す。吐瀉物は、金色の光になって宙に浮かんだ。

「うーわー何入れてたの君気持ち悪くなかった?」

「うるさッ……だまっ、」

「黙ってもいいけど黙らないよ」

 よく分からないことをぴしゃりと言い返し、浩太は光の塊を見上げる。拳大の塊だ。かたく結ばれていて、丸くなっている感じはするが中が見えない。何なのか、分からない。

「あぁ蓮かなこれは」

 まだ蕾の、蓮の花だ。茎も葉もない。色もおかしい。仏壇の飾りのようで、瑠璃子はよくこれが蓮だと分かったなと、改めて男を薄気味悪く思った。それでも、これまで残っていたしこりのような、胸の支えが取れて、毒づく力が出てこない。やけに呆然として、涙が目の端に滲んだ。

「長い長い間に恨みとか呪いが蓄積してって自分を病ませて、でもって君の体は抵抗しててどうにかして排出しようとしたんだろうけど多分うまく出ていかなくて銃弾打ち込まれた人みたいにいつの間にか体がそれを取り込んだままの状態でどうにか、成り立っていたんだろうか。君の苦しみを全部引き受けたものを作り上げて、体はやっと、それを勢い付けてタンみたいにはき出せたんだろうか……」

 男は呟いた後、聞かせるように、軽く笑った。

「知ってた? 浄土の蓮は泥から生ず。世界のすべても泥から生ず。世界はすべて悟りの世界。心を開けよ少年少女! ってね」

「イミ分かんない

「君はさぁもう最初っから自由なんだよ知ってた? 環境とか人生とか変えがたい面もあるけど、命捨てる前に色々先に捨てるもんがあるでしょ、家族とか友達とか本当にヤバイと思ったらほっぽり出して逃げなさいよ。借金抱え込んだら死ぬ前に法を頼りなさいよ、何のためにあると思ってんの。死なないために他の物を捨てなさいよ、俺にこんなこと言わせないでよ俺少年少女相談所じゃないんだよそのぐらい自分で考えてみなよ。ま、それが出来ないから心が疲れて壊れてるってことなんだろうけど」

「だっ、て」

 死ねない、死にたくない、だけどあの頃瑠璃子は化け物達に追い回されていた。どんなクズ共でも巻き込んで一緒に死なれるなんて嫌で、だからどこにも逃げ場はなくて相談しても無駄で。架空のウェブ上の相談なんてそれこそ誰も彼もオイシャサンゴッコをしているだけで気持ちが悪くて嫌だった。私にはどこにも居場所なんてない。つかみ取るのに失敗してしまった。道は真っ暗でうまくいかなかった瑠璃子を責める。あるいは可哀想だねと言う。

 何が?

 しゃがみ込んで頭を抱えた瑠璃子の前で、「あぁ」と能天気に浩太が声を挙げた。

「開くよ、蓮。綺麗だよ見ときなよ」

「ッ、ウザっ、」

 肩に手をかけられ振り払おうとして、瑠璃子は無意識に顔を上げる。

「あ、」

 ただの安っぽい金色の塊だった蕾が、むくりむくりと内からふくらみ、やがて耐えきれないように外側の一弁ずつを外へと開いた。口をあけ、瑠璃子は中空の蓮を見つめる。

 辺りは静かで、早朝のように空気はしんと澄んでいた。

 早朝――まだ薄暗いところのある世界に、すうっと光が差していく。蓮の中心からこぼ

れた、露のような朝の光。

 瑠璃子は目を細め、知らずこぼれた涙を拭うことも出来ず、洟をすすった。

 ふざけるなバカ野郎。

 そんな、そんなキレイなものじゃない。

 世界も人も自分も、こいつらもすべて。

(だけど)

 あたたかく、光が全身を包み込んだ。

 意識が飛ぶ。途切れながら、眠気もあることに気付く。

(何、したっ……、)

 睨みたい、いきがりたい、怒っていたい、怒鳴っていたい。そうでなければ自分ではなくなる気がして。救われてしまったら、もうどこにも行けない気がして。

(だけど)

 瑠璃子はそのまま意識を失う。光がとじたとき、残されていたのは浩太だけだった。

「あーあ、どうしよ……今の消えたけど死んで消滅とか成仏とか? いやでもソレどうなんだろアリなのかそれ」

 ぼそぼそとひとしきり呟いていたが、やがて頬を手で打って、

「追跡は展開させとこーそうしようそれで見つかんなかったらキセに聞いてみよう! よし!」

 気持ちを切り替えた。

 後にキセは、

「浄土ってあるのかな!?」

 という質問を浩太からぶつけられることになるのだが、勿論さっさと姿を消して浩太が話題を変えるのを待っていた。

 サプリメントを口の中に放り込む。

 それでもすぐに吐き出してしまった。

 嚥下機能がまともには働いておらず、水をアスファルトにぶちまけて咳き込んだ。誰一人たちどまらない。目の前では色の変わった歩行者信号が点滅を続けていた。

 もはや、そういうものでは補いきれないのかも知れなかった。

 この、空疎は。

(恨みとかがキレイさっぱり拭われたとしても、毎日生きてるんだから細々、ヤなこともいいこともあるわけで。自分が持ってたこの空疎の存在が、いっそうはっきりしただけじゃん)

 鈍く笑う。

 日本画は空白を好む。

 それは希薄を精神で埋めるからだとか言っていたひとがいた。

 それはテレビだかネットだかで知ったニュースで、とてもふるい記事だった。

 空間を、埋める。

 瑠璃子は指を伸ばした。身体よりも先に、先に、足を引きずってつれていかせるように歩いた。

 その指を、誰かが掴む。

 里見尚隆かと思ったが、違った。

 もっと大きくて太い指をしていた。

 親父くさい息をはきかけられ、涙が出た。

 傘をさしているのに肩をぬらした男は、よしよしとただ瑠璃子の肩を叩き、片方の手で指を握ったまま信号を早足で渡りきった。

「大丈夫だからなー、俺もいるし、周りも、いざとなったら手ぇだそうって構えてて、もう思いやりだけで渦が出来てたぞ、あそこ」

 明るそうなのにどこか落ち着いた声だ。

 無精髭が生えた顎が、雨粒をうけてぬれている。

「大野、大元」

 鼻水をすすりあげながら、それだけを、やっと言えた。

 大野は何も言わず、住宅街沿いにむかって歩きながらそちらを見る。

 いい加減な詐欺師、宗教法人という名の悪徳商法。

 それらの団体における彼の肩書きは、彼一人をみたときにはきれいに消え失せていた。

 ただ、なつかしかった。

 これが父というものなのかも知れない。

 瑠璃子は、気づかないうちに降り出していた雨の中で泣いた。

 黙って瑠璃子をひきずっていた彼女自身の手が、ようやく、瑠璃子のもとに戻ってきた。

 放り出された感覚がたまらなくて、それで余計に嗚咽がひろがる。

 どうすればいい、とうろたえる気配が一瞬したが、大野は行動を示さなかった。

 思いつかなかったのかも知れないし、周囲の人目が気になっていたのかも知れない。

 それでも、誰かが誰かを心配するということが、ちゃんとあるのだということに、瑠璃子は胸がいたかった。

 期待は何度も裏切られたから。

 願っても、自分でつくっても、なにひとつとして評価されなかったから。

「なんだ、言いたいことがあるなら、言ってみな」

 きくだけならできる。

 そう言って、大野は瑠璃子を見ている。身長の関係でつむじが見えたが、珍しくつむじが左巻きか否かを確かめることはしなかった。いつもは指でぐるぐるなぞって時計回りかどうか確かめるのだ。

「あたっ……あたし、つよく、なり、たい……!」

 鼻水が涙に混じって落ちた。汚いと思う前に、こんなに泣けるなんて、と驚いていた。

「よ、よわいの、は、だれも、いていいっていわない、だから」

「誰かがいてもいいっていってくれなくても、お前は許されてるからここにいるんだぞ」

 言葉にならず、瑠璃子はただ喉をならしながら頷く。それが肯定なのか否定なのか、大野には分からなかった。

「……お前が、許せばいいんだ」

 その、ちいさな頭に手のひらをのせる。

 なつかない野生のけもののことばかり思い出す。

 人は、本能が壊れているという。けれど本当は、誰より野生だ。

 粗野で乱暴で、おおらかで自然の中の一部でしかない。

 いつかその死をむかえるとしても、ケモノはケモノの道をいくのだ。

「あたし、いき、て、いい?」

「安心したまえ、人間誰しも、死ぬまでは生きている」

 うううう、と呻いている少女は、その細い細すぎる手首に幾重にもきっちりと神経質に包帯を巻いていて、その腕で大野の胸を叩いた。

 体格差もあり、大野は突き飛ばされることなく、少女の拳をすこし重心を変えただけで受け止める。

「やだ、もう、ひとりは、いや」

「うん」

「……あんたの娘が、」

「うん。まゆらか?」

 大野に先に名を言われて、口をつぐんだ。でも、意地で口を開く。嫌になるぐらい、唇は震えていた。

「あいつが、あんたらが使ってる水の、源だ」

「うん」

「あれ、全然驚かねェ」

「うん。あいつがいるときしか、効果がないからさ、そんなことかもしれないなぁとは思ってたからな。あんまり驚かん」

 話はそれだけか、と言われ、瑠璃子はぐっと言葉に詰まった。

「それだけってなら、まぁ家で飯でも食ってけ。大丈夫気にすんな! 飯ぐらい食わせてやっから!」

 開け広げの笑顔に、瑠璃子は、馬鹿馬鹿しくなって、思い切り強くすねを蹴ってやった。

 悶絶した相手にざまぁみろと声をかけ、先に家に着いてやる、と全速力で走り出した。

 大元が慌てて、後に続いた。


 人ごみの中、これから使う教材を片手に、彼は不快げに眉をひそめる。

「弱いな」

 呟いたのは、それが自分の中の飢えを露わにしたからだろうか。

 気づいているのだ、本当は。

 ただ、認めたくない。

 こんなことを認めてしまったら、何もかもが無駄になると思った。

「私は、間違っていない」

 半眼で睨み据え、きびすを返す。

 それでも、その光景はくっきりと視界にやきついて容易には離れなかった。

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