第十四章 確約

   *

「無かったね、結局」

 確かに、証拠となるようなものもすべてを解決できそうなインスピレーションも、何もなかった。けれど裄夜は一つ、見たものがある。

 薄暗い水面にちらりとよぎった影。銀色の。

(銀色)

 長く、そしてそれぞれの繊維の細い、束となってもまだおのおのが独立していて、さらりと流れる絹よりもさらりとした銀色。

(あれは、)

 銀色に近い、灰色の双眸。平静と言うより冷徹な眼差し。薄い唇に浮かぶ表情はない。ただ真冬に鶴が首をもたげるように、不意にこちらに気付いて、振り返った。

(銀月王)

 その人に、よく似ていた。水面に浮かぶように見えた、影。はっきりとは視認できなかったし、ほんの一瞬、瞬く間に消えた揺らぎだったから、他の者に「見えた」と吹聴して廻ることは到底出来なかったが、あれは、恐らく銀月王だ。その影だ。

(どうしてこんなところで白昼夢みたいに、一瞬だけ見えたんだ?)

 この沼が玉竜という「銀月の一族と関わりがあるらしい者」と縁があると言われたから、その先入観が、一族の長であったという銀月王を思い出させたのか。

(錯覚)

 確かめるには、キセの姿もない、他の誰も「沼に人影があった」などと言わない、分からない、言い出せない。

 沼の水を、濁っているにもかかわらず浩太が指先で掬って、口に含んだ。

「バカ! あっぶないでしょ!?」

 茅野が、地滑りしそうな草を踏み分けて慌てて浩太の腕を引っ張る。

「何ともないみたいなんだけど。味というか舌も痺れずかといって魔術的なものも感じず」

「そうじゃなくて! 足下も危ないっしょ!? あと大腸菌なんて目に見えないんだから!」

「あ、腹下したらピンチですかそういえばいやしかし俺大丈夫中国行ったときも三日で慣れたし胃腸薬持ってるしいざとなったら処方箋自分で書けるし!」

 ぐっとガッツポーズで言われてもどこにどう突っ込んで良いのか裄夜にも日向にも分からない。茅野が呆れた顔で「勝手にすれば」と言い、手を離した。上着をぱたぱたとはたいて掴まれていた所為でついた皺を伸ばし、浩太はうん、と困ったように微笑む。

「ごめん」

「最初っからそう言えば良いのッ」

「しかしおかしいよなぁ……ちょっと先の清水のあるほう、源泉まで俺行ってくるけど、多分これ、水の所為じゃないなぁおっかしいなあ」

「何がおかしいの?」

 うん、と思案深げに浩太は腕組みする。したまま、心ここにあらずといったふうに空を見て、歩き出した。

「水自体に特別な力はまるっきり感じられない、やっぱり大元当人に問題があるとしか――あ裄夜くん水くんどいてね持って帰るから」

 ペットボトルも空の容器も何も持っていない裄夜は、手ぶらで来たことを後悔した。しかし日向が準備よく持ってきていた清涼飲料水のボトルを差しだし、採取に不都合はなかった。


 ともかくそういうことがあったので、皆黙々と宿に戻り、戻った頃には、「そもそもここには遊びに来たんだよね」というような意識の切り替えを行なっていた。だから、日向が温泉に行く前に旅館の浴衣を手に持ちながら呟いたので、微妙な空気が戻ってきた。

 しょうがなさそうに浩太が、空元気で言う。

「ひーなたちゃーんジュースほしくないかなー」

「要らないです」

「あとでアイス買ってあげるよハーゲンダッツ」

「近くにスーパーかコンビニ、ありましたっけ?」

 口先だけではないかと警戒しながらも、日向は機嫌を直して行ってしまった。手を振りながら、浩太はあぶねえあぶねえ、と江戸っ子の口調で呟いた。

「茅野ちゃん先にお風呂行っちゃったから良かったものの……あ、裄夜君も絶対蒸し返さないように! 頼んだから俺絶対絞め殺されるのごめんだからもうほんとちょっと頼むよアイス君もほしいの? 三つ? 五つ?」

「大分錯乱してますね、浩太さん」

「うん多分絶対混乱! 大丈夫!」

 この調子だから、裄夜は、どうしても、言い出せなかった。

 特別、重要なことでもない。

 ――それが積み重なってしまうことの危険性を、未だ知らないまま。

   *

 湯船で眼鏡が曇るので外しておいたのだが、実際曇らない眼鏡でも外しておいて良かったと裄夜は思った。先に温泉に入っていた浩太の姿が見えないなと思ったら、隠れていて、背後から頭を押さえつけて沈められた。命の危機を感じた裄夜は本気で暴れようとしたが、もしやこれは黙って一旦沈んでから静かになったところで起きあがった方が良いのではないかということに気づき、実行した。当然浩太は慌てる。

「あっごめん裄夜くん!」

 ただ焦っただけではなく、温泉の上がり口付近に、キセが居た。

「うわ来ないで来ないでうわー! ぎゃー!」

 騒がしい悲鳴に、垣根で分けられている風呂の反対側から笑い声が応じる。

「おじさん大丈夫ー?」

「カレンちゃんさぁホントおにいちゃん三十五のダメージ。起きあがれない」

 おじさんか、と湯に沈んで泳いで逃げながら浩太が呟く。どうにか這い上がった裄夜は、出口に近い位置で、湯に入ったままため息をついた。風呂一つでここまでうるさくなるとは思わなかった。幸いにも他の客は来ていない。カレンにしても、他の客に見られていないといいなと裄夜は思う。どうせ幻だか何だかで銀月の一族らしく突拍子もなくここに来たのだろうが、そうなるといきなり廊下などで出現するところに出くわしたご老体に何事かあってもおかしくない。今度キセにも言っておこうかなとも思う。出てくるときは自然に。とりあえず自分たちには先に予告をくれればありがたい。そこまで考えて、我に返る。

「浩太さん、迷惑になりますから。やらないでくださいよ」

「裄夜くんもっともなこと言うけどね修学旅行でもやんなかったクチかい枕投げとか早く寝たヤツの顔への落書き大会」

「してません」

 裄夜の通っていた高校では二年のときに修学旅行に行った。今裄夜が三年として通っているところでは、三年の春に既に行ったという。場所によりけり。日向は二年の役をやっているから、このままここにいることになれば、修学旅行に行くことにもなるだろう。

(というかそもそも中津川さん、大学一年の歳で高校二年やり直してるんだから、もし皆の記憶が戻ったりしたら、そのときどうするつもりなんだろう)

 完全に世間から一旦ドロップアウトしてしまった人生なのだから好きに生きる、というのが丸見えのようで、裄夜は他人事ながら心配になる。

(そう、本当にいつまでも、この状況が続くとは限らないんだから)

「がぼ」

 息継ぎなしでどのくらい泳げるか試していた浩太が、むせながら起きあがった。

「何か今俺ものすごい無謀なことしてた!?」

「今更気付かないでくださいよ」

 女湯では、騒がしい男湯と対照的に、それなりに通常通りのにぎわいを見せていた。

 日向と茅野は最初こそ顔を強ばらせていたが、悲鳴をあげかけたカレンがしかし「いやっ、可愛い……?」と呟いたことで我に返った。

「……で、あれ狸?」

「え、猿じゃ?」

 湯船の端で、人間以外の動物が湯を浴びている。おそるおそる湯に入ると、別に攻撃されることもないので、二人は大胆になって肩まで体を沈めた。隣の男湯で大騒ぎしている声がしている。茅野は「恥ずかしくて穴に入りたいわ」とぼやき、日向は苦笑いした。

「まぁあれはあれで、いい人なんですよ、きっと」

「そりゃアレは一応私の彼氏なんで分かってるつもりなんだけど何て言うか耐えきれないことってあるじゃない?」

 バカップルなのか仲が悪いのか微妙な線である。日向はさあと首を傾げ、それから背後で猿を観察しているカレンを見やった。

「カレンちゃん危ないよ」

 白い肌をさらし、寒そうに見える背中が少しずつ猿に近づいていく。

「襲われるからやめなってカレンちゃん」

「大丈夫ー」

「大丈夫じゃないってば」

「自業自得になって懐石っぽいもの食べらんなくなるだろうけど良いんだカレンちゃんって」

 茅野が言う。カレンはびくりと止まり、恨めしそうな顔をして振り返った。

「食べられないの?」

「というかそもそもあんた来ないって言ってたから数に入れてないし」

「だって寝てたらふわーって気配がして、真っ白い道歩いてたらぶわーって温泉が」

 言い訳なのか、意味が分からなくて茅野は首をひねり、日向を見る。日向も聞かれても分からない。ただ――一つ気付いたことがある。

「もしかして、キセに頼めばここまで一瞬で」

「あーそれ微妙なんじゃない? かなりエネルギー食うってあいつ言ってた。空間ずらしていっぺんここじゃないところに落ちてから、その中でどこがどこと繋がってるのかわかんないことには出来ないんだって。たとえば向こう側で酒屋の隣の位置がこっち側の千葉の山中とか。そんな感じ」

「聞いたんですか?」

「さっき廊下で庭見てたから蹴り飛ばして引き倒して吐かせた。あたしも忘れてたのよね、車に乗ってなかったのにここに来られてようやく気付いて怒鳴ったわけ、神出鬼没が出来るなら、最初ッからあたしら運べって」

「でもキセは裄夜だから、乗ってなかったとは言い切れないような気が」

「……。そういやそうだね」

 問題なのは千明カレンで――くるくるした目で嬉しそうに歩き回る姿は可愛らしい妹分のようで、いてくれたほうが楽しいが、一体どうやってここまで来たのだろう。

「って、カレンちゃん!?」

 ふー、と言いながらカレンが猿の手前で温泉に沈んでいた。

 赤くなった肌に、

「……のぼせたの?」

 と茅野がぼんやりと呟いて、それからいっそう眉をひそめた。

「何ソレ」

「私に言われても」

 日向は空を切った掌を握りしめ、首を振った。

 カレンの姿は、まるで空気中に投影された映像のように、不意に消えた。


 茅野が報告すると、売店の前で、飲み物を持って、浩太がへえ、と頷いた。

「カレンちゃん来てたんだー?」

「来てたっていうか消えたっていうか。ていうか喋ってたじゃんあんた垣根越しに」

「消えたのかー幻? いやだってホラカレンちゃんの声したからうわーカレンちゃんだなつかしーって思ってそれでそういやいつ来たんだっけあっそっか幻聴か俺偉いよく分かったなソレえへへとか思ったっていうかキセがいてそれどこじゃなかったっていうかぁそっかそんなに来たかったのかなぁホラ恋いこがれるあまり魂飛ばしちゃうのそういや飛び梅って」

「こーたさんこれ買っていいですか?」

 売店のアイスを掴み、わくわくと日向が聞く。ふっさふさのシッポがあったらぱったぱたしてるんだろうなぁと思いながら浩太はいいよと頷いた。

「じゃあ五つください!」

「えっちょっとまって日向ちゃん剛毅だね全部食べるの」

「皆の分です!」

「キセも頭数の中に入ってるんだ……」

 裄夜がぼそりと呟いたが、日向は当然のように頷いた。浩太は「日向ちゃん俺も数に入れてくれてるんだうっわーうれしー俺キラワレテルんだとばっかり思ってたえっへ」と言いながら浴衣の懐から財布を出して、日向に無表情に見上げられた。

「ごめん、今お兄さんが間違えた。悪かった」

「何がですか?」

「浩太さん、」

 二人の間の微妙な緊張関係を察し、裄夜がぼそりと助け船を出した。

「浮かれて一言多いのが敗因だと思います、いい人なのに」

 助け船というより泥船だった。裄夜だって多いー、と日向がアイスを顔に押し付けながら言った。既に一つ目の袋を開けようとしている。裄夜はじっと見つめ、日向をたじろがせてから、充分な間を持って、ため息混じりに声をかけた。

「中津川さん、アイスは食後にしようよ。料理食べきれなくなるよ」

「わ、分かってる」

 日向が慌てて頷き、駆け出した。部屋にある冷蔵庫に冷凍設備なんてついてたかなと思いつつ、裄夜は茅野と浩太が部屋に戻るのを見送ってから、ロビーに視線を一巡させた。日向が「キセも来てるって」と自分の手柄のように頬を上気させて言っていたのが思い出される。上気していたのは温泉の所為だろうが。

「……さっき浩太さんも、キセがいたって言ってたけど」

 何しろ裄夜はそのとき温泉に頭まで沈んでいたので、見ようにも見えなかった。

 頑なに姿を現わそうとしない(ような気がする)相手に、裄夜は小さく吐き捨てた。

「こそこそするなっていうんだ……」


 館内を歩き、部屋に戻る途中のことだ。浩太と茅野だけで館内を見回しながら歩いていて、

「あれ? おにーさんどっかで会わなかった?」

 不意に浩太が手を伸ばした。すれ違いざまに見知らぬ他人を捕まえた男に、茅野が慌てて蹴りを入れた。

「すいませんホント! こいつバカで!」

「うわっ失礼な! 自分の恋人つかまえて何て失礼なっ!」

「いえ、別に気にしていませんから」

 その男は気弱げに首を振る。

 暴れる浩太を引きずって茅野は後ずさりながら逃げ出した。

「ねぇ茅野ちゃん」

「何!?」

 角を曲がり、エレベーターに監禁され、更に二階で引きずり降ろされたところで浩太が茅野をじっと見つめた。

「本当に――今の人、見たこと無かった?」

「何言ってンのよ!」

 知り合いならば、向こうがあれほど困ったように反応を返すわけがない。

「それにあたしナンパしてるみたいで恥ずかしくてまともに見てないもん! あの人の顔!」

 斜め下から顎と後ろ頭をちらりと視界に入れただけだ。それ以降はひたすら、下を向いて浩太を引っ張って逃亡することに集中していた。

「嘘何ソレ」

 呆然と呟いて、浩太はその場にしゃがみ込む。

「あんたがいきなり見ず知らずの人の腕に抱きつくからでしょ!?」

「いや、だってね」

「だってじゃなーいッ!」

「すっごく親しいというか親しくなったばっかりの人だった気がして」

 などとぶつぶつ呟きつつ、浩太はようやく立ち上がった。

「あぁうん、でもね」

「何よ」

 浩太はそこで茅野の目をまじまじと見つめた。

「な、何よ」

 たじろぐ女に、彼は言う。

「すっごく似てるけど、気配が微妙に他人のそら似だった」

「分かってンなら飛びつくなー!」


「いいじゃん旅の恥はかきすて」

「お前は捨てすぎじゃボケー!」

「あれ、茅野さん?」

「その声は裄夜君!」

 呼ばれてもいないのに浩太が天の助けとばかりに飛びついた。裄夜はホテル入口付近の自販機で缶ジュースを買ってきたらしい。イヤそうに浩太を避けたが、浴衣の所為で歩幅が減っておりぎりぎりのところでかわしそこねて抱きつかれた。

「なーんーでーすーかー」

「うわッ冷たい! 冷たい!!」

 浩太の顔をジュースを持った手で引きはがし、裄夜は次は何が起こるのかと身構えた。冷えた缶が頬に当たるのを嫌って浩太はそそくさと裄夜から離れる。

「きーてよゆっきー。こーたがさぁ、知らない人に抱きついたんだよ」

「……へぇ」

 裄夜は半眼で二人を見比べた。

 ただの痴話喧嘩には巻き込まれたくはない。

「じゃ」

「あッ裄夜くん!?」

「あっ待ちなよ、もー!」

 裄夜はさっさとエレベータ前のホールを抜けた。つられて浩太が駆け出して、茅野は盛大にため息をついた。


「あっぶなかったねー」

 にやにやと口元をだらしなくゆるめ、床にしゃがんだ少女は浴衣の前に抱え込んでいるクマのぬいぐるみを狂言回しのように動かした。

「やぁやぁお兄さん、失策は許されないのではなかったのかね」

「くちさがない連中に構っていられません」

 少女に触れないで床まで振り下ろされた足が、クマの頭を踏みつぶしている。

 相変わらずがさついた包帯を左手首に巻き付けた少女は、それをむっとして睨み付けた。

「ンだよつまんねえな」

「面白さが求められているわけでもあるまいし」

「ちッ」

 立ち上がり、浴衣の前の乱れも気にせず彼女はぼやく。

「やだね、これだからインテリ崩れは……ッ」

 不意に男が指を伸ばす。びくりとした少女の肌には触れず、浴衣の着崩れを直して男は歩き出す。

「まぁ、まだ異変はないんです。気長にいきましょう」

 去っていく後ろ姿を睨み付け、少女はホールに響き渡るようにばたばたっと地団駄を踏んだ。

   *

 道は相変わらず暗く、遠い。時折銀色のしるべのようなものがよぎる。ほのあたたかい橙色の光もよぎる。夜半にたわむれに舞う蝶のように、はかなく頼りなく、ふらふらと飛ぶ。

 唇に浮かぶ笑みを、自然とかきけそうとするような気配がある。ひたひたと真後ろから押し寄せてくる影。波打ち際のような音、気配、ひたひたと忍び寄る気配。黒い道筋に描かれたかすかな白い波打ち際。背後からそれが迫ってくる。

 ただの印象だが。

「あぁ……あれはいつだっただろうか」

 似たようなものを見たことがある。戦場かそれとも日々の泡か。記憶にはとどまらない。

 追いかけようと思えばいくらでも出来る。けれどそうはしなかった。

 不意に視界がぎゅっと圧縮された。白くなる。黒がすっかり一点になるまで、玉竜はそれをまんじりともせず見つめていた。背中の娘は眠っている。黒がかき消えたあと、唐突に風が戻った。止まった空気が動き出す。真っ暗な夜空、足下には人の生み出す明かりの星。前髪が風になぶられ、目を細めて彼は笑う。

「丁度――羽虫がいるが、布石もあるか。花陽に見つかるのは面倒だが……銀月、お前、私を呼んだか」

 風に耳を澄ませるように、玉竜は金色の目を閉じ、黒髪を風になびかせた。ほとほとと扉をたたくように、幼げに風が声をかける。

「いや、まだお前は起きていないのか。恨み言だけは強靱と見える、声は過去のもの――近くに感応する巫女がいたか」

 肩にクモの糸でもかかったかのように、玉竜は軽く手ではらった。それから、歌うように呟く。

「私は確かに、人に与える誓いなどない。しかし人が私に投げる誓いならばある。ともかく、もうお前は悩まされることはないだろう、だのに何故、あえて影を追い、憎しみを倍加させる?」

「決まってンだろ、あのクソヤロウぎゃふんと言わせないと死んでも死にきれねェんだよ!」

 だん、と床を足で蹴りつけ、宵闇の降りつつある空を窓で切り取って眺めながら、各務瑠璃子はこぶしを握った。

「いちいち! 高みから!! 声かけてくんなウザい!!」

 こんな声は聞こえない!

 耳を塞いだ瑠璃子に、果てから声をかけて、玉竜は笑う。

「恨みの念が強すぎる。一度絡んだえにしは簡単にはほどききれぬ。ましてお前はもとより縁の強い者に多く関わった。逃れがたいものから逃れようとするくせに、声をかけられることすら疎むくせに、何故ウタウタイに構おうとする?」

「あ……んたらカミサマにゃわかんないだろうな! こっちは必死で生きてンだよ!」

「立派な心がけだな、娘。自ら命を絶った者の言葉とは思えない」

 瑠璃子が、ひゅう、と息を吸い込んで、黙る。

「っせえんだよ……」

 かすれた声が出た頃には、声も気配も遠のいていた。

「ちくしょう」

 上からはらりと落ちてきた幻の衣のように、密度の濃い気配は、本当に消え去っている。それなのに体の震えがとまらない。

 腹が立ったので、腹いせに手首を切り、その血で畳に図を描いた。

「ふ、あははは!」

「部屋を汚さないでください」

 嫌そうな顔をして、部屋に戻ってきた里見尚隆が氷を投げる。

「何、氷なんか買ってきて何に使うワケぇ?」

「頭を冷やしなさい」

 札師は、どうせ湯当たりして機嫌が悪いんでしょうしという言葉を省略した。当然、お前がバカだから少し氷でもかぶって黙っていろという嫌味に聞こえる。瑠璃子は片膝を立ててひきつれた笑いをもらした。

「そういうイミか、腑引きずり出してやンぞコラ」

「汚した分、札を使ってでも元通りに直してください」

「後でやればイイんだろ? 今はまァ、見てろって」

 腹は立つが他に鬱憤晴らしの方法はある。今から、それをするのだ。瑠璃子はにんまりと笑い、図の上に指を滑らせる。畳の目に溜まって黒ずんだ血が、かすかに白く光り出した。

「何の図ですか?」

「前に、イヌガミどもバラすのに使ったことあんだよねェこれ」

 ぶわ、と黒いヘドロのようなものが吹き出してきた。白い光とは対照的な色に、札師は顔をしかめる。

「危険は、」

「召喚者にゃないンじゃねェの? 殺しといたイヌガミども全部壺に放り込んどいたんだよ。あんた説明してもワカンナイんだろうけど」

 くすくすと笑われ、札師は「用がありませんから」と素っ気なく返した。怒りもされず、逆に苛立って瑠璃子は叫んだ。

「オマエら!! やっちまいな! 全部食べて良い!」

「ちょっ、私を巻き込まないでくださいよ!」

 腹いせに、骨まで囓られてしまえばイイと思った。


 日向が戻った室内は、ちょっとした修羅場もどきのようになっていた。まだ夕飯の準備がされていない卓を前に、茅野が腕まくりして戦っていた。相手は言わずもがなであるが、状況については日向は聞いていないと思う。

「え? なんで逃げるの?」

「ばぁっか!」

 茅野に座布団を投げられ、浩太がふふん、と薄笑いを浮かべる。

「いいじゃんさぁ。最近ごぶさ」

「しね! お前なんか雑巾噛んでしんでおしまい!」

「豆腐の角に頭ぶつけて?」

 ふふ、と笑った顔は余裕で、けれどすぐに表情を失った。

「あれ?」

 気をそがれ、浩太が目を丸くする。

「居たの日向ちゃん」

「居ました最初から。すいません」

「いやいや、いやいやいや」

 茅野しか目に入っていなかったらしい行動に、ちょっと赤面しながら日向がそそくさと部屋を出る。タイミングを逸して出るにも出られなかったので、逃げても良いとなると全力で逃げる。ふすまの一部を裸足の爪先で蹴って柱に肩をぶつけ、それでもとまらずに部屋の外へ転がり出た。

「あっ待ってよ日向ちゃーんっあたしも出かけるー!」

 茅野が叫ぶ声がしたが、もうこれ以上とどまれなくて走って逃げた。


 ……逃げた先になんでアレがいるのだろう。

 ロビーでガラス越しに日本庭園の端を眺めながら、水瀬裄夜が日本茶を飲んでいる。

「あれ、中津川さん?」

 強情なまでに姓で呼ぶ裄夜に、日向がふん、と言って通り過ぎていった。

「……なかつがわさん?」

 三分とたたないうちに戻ってきたので、裄夜も妙な顔になる。

 そのうち、

「なんで気がきかないかなぁっ……」

 などと呟きながら、日向は裄夜に散歩の護衛を命じたのだった。

 外は日が暮れかかり、確かに女一人では不用心である気がする。それでも何だか怒られるのは理不尽ではないだろうか。裄夜はぽつぽつと灯をともされはじめた石灯籠を眺める。余計なことは言わない方が身のためだ。

「そういえば、アイスは?」

「冷蔵庫に入れた」

「冷凍庫ついてたんだ」

「……いっそあの人たちもフリーズドライにしてしまえばいいのにって思った。今」

「何があったの……」

 あんまり聞きたくなさそうに、けれど自分しかこの場にいないので裄夜は日向に聞いてみる。

「こいびとって、よくわかんないよ」

「……中津川さん、何かよく分からないけど、ドンマイ?」

 目を合わせず、風景を見たままで裄夜がぼんやりと言う。何で疑問形なんだろうと思いつつも、物思いも何もかもをすっと風で吹き飛ばすような夕暮れの涼やかさに、気が楽になった。

「裄夜も、この庭みたい」

「庭……」

 こんなにうらびれたところに似ているのか。ちょっと微妙な気持ちになる裄夜である。

 一方日向は諸々の浩太に言われた「嫌なこと」を思い出してしまって再びそこはかとなく怒っていた。

(シズクなのにどうして日向はシズクであることを「違う」と言えるのか)

 折角気分が落ち着いたところだったのだが、そもそも銀月の一族なんかに出会わなければ良かったとか出会っていなければ今のクラスメイトとも会えなかったわけでとか、一度思い出してしまうと、ぐるぐると黒く獰猛にも動き始める。

「やっぱりむっかつく」

 菅浩太に言われるまでもない。

 シズクではない日向自身が、自分がシズクではないと認めている。

 けれどそれならばこの言いしれぬ感覚が、一体誰のものだと言うのだろう。

 草陰にたゆとう囁き声。やァ姫、姫、見えているだろう、聞こえているだろう、少し助けてはくれんかの、そう、そこの葉の裏じゃ。

 かつて――声が聞こえた初めのうちは訳が分からず近寄っていた。近寄らない方が無難だという考えも、それこそこれは異常だと思う感覚も、はなから存在しないもののように沈黙していた。

 けれど今は違う。これが日向の感覚を通したシズクの視点での情報であるならばまだしも、これまでこのようなことが無かった自分の脳がおかしくなったのだと思うことの方が恐ろしかった。

 脳は未だ制御され得ない機関である。脳ではなくとも人は自身の制御をしきれない。

 日向の呟きにびくりとした裄夜だが、自分のことを言われているわけではないとさとり、肩の力を抜いて再び景色を見た。灯籠に人工的な灯がともっているが、どことなくのどかで、穏やかな光に見える。別の言葉で言えば、どことなく嘘くさい、チープで人工「らしさ」のある光だ。それが妙にありがたく感じられた。

「そろそろご飯の時間だし、帰ろうか」

「そうだよね、さすがに何もしてないよね、二人とも」

 分かりたくなかったのに、裄夜は日向が部屋から駆け出してきた理由が、分かってしまった。何となく。

   *

「ごっはん! 伊勢エビ!」

「居ません居ません居ないッたらこーたッむやみやたらとはしゃぐんじゃないッ」

 普通にテレビを見て雑談していた二人組を横目に、日向と裄夜は黙って正座していた。

「足痺れない二人とも?」

「こらッビールつがない!! ゆっきーも日向ちゃんも未成年っしょ!」

「えーいいじゃん旅の恥はかきすてって言うしィ」

「まだ言ってンのこの中身オヤジは」

 あぐらをかいた浩太は瓶ビールを揺らして「あっカラだぁ」と嘘くさい口調で言ってみせる。勝手にグラスに琥珀色の液体を注ぎ入れられた二人の高校生(年齢的には順当に行けば卒業しているが)は、呆然というほどでもなくただぼんやりと、自分たちそれぞれのグラスの表面についた水滴を見ていた。

「それではかんぱーい!」

 一人だけ異様にテンション高く浩太がグラスを掲げ、しょうがなさそうに茅野がそれにあわせてグラスをあげた。

 刺身、新鮮な貝、それに海藻、見たことのない干物、何だかよく分からない形の山菜とおこわ。皿が綺麗で割合盛りつけが日本料理店の感じを醸し出しており、一見、何の変哲もない料理に見える。けれど、中身はかなりばらばらだ。

「土地でとれたものとー近海でとれたもの、産地直送で来たもの、この宿の人が直接味にオッケー出したものだけ集めてるんだってネットで見たんだけどまぁおいしいからいいけど」

 おこわが三種類並んでいるのはどうなんだろう。汁物は吸い物なのだが、隣に赤だしご入り用の方は連絡をと書かれたメモが置かれていたのは何故だろう(要望を先に聞くのを忘れたのだろうか)。

 デザートのプリンと葛切りと小餅というよく分からない組み合わせを味わって、夕食の宴は幕を下ろしたのだった。ビールは、日向は一口で拒否(味があわなかった)、裄夜は半分飲んでふと我に返り、残りを浩太に差し出した。もともと両親があまり酒を飲んでいないので、体質的に飲めないのかもしれないと勘ぐったためである。アレルギーとかならすぐ出ると思うけどねぇと首を傾げつつも浩太はそれ以上は無理強いをしなかった。


 夜が更けて、何故か決まっていた部屋割りの通りに、双方部屋を別れた。

 微妙な距離を置いて敷かれていた布団を見下ろして、部屋の隅にいた裄夜はそっと足で布団の距離をもう少しあけた。日向は暇なのかどうか、さっそくテレビのスイッチを入れた。テレビから漏れ聞こえる喧噪が、かえって空々しさを感じさせた。

 夕食にありついた方の部屋は某カップルに譲ったのでこの組み合わせは逃れようもない状態なのだろう。多分。しかし。

(居心地悪……)

 二人はほぼ同時にそう思い、ため息をついた。ついてから、顔を見合わせて「あはは」と笑う。

「えぇと中津川さんどっちで寝るの、やっぱり入口側?」

「何で入口側なの?」

「そりゃあ、エレベーターの中と同じ原理で」

 エレベーター内において、女性はいつでも逃げられるよう、すみに追い詰められて身動きが取れなくなってしまわないように入口付近を選んだ方が良いという説がある。

「は、えぇええ!? 裄夜のえっち!」

「は!? 何でそうなるのちょっと、中津川さ、それはひどいんじゃない!?」

「だって! 何か変なこと考えたでしょ!?」

「考えたのはそっちなんじゃないの!?」

「何よそれー!」

「じゃあ真ん中にキセでもおけばいいだろ、キセ! 居るなら出てこい!!」

 肩で息を切らせて、二人は睨み合いながらじりじりと向かい合った。何故か日向は窓側の布団の上に陣取っている。

 こんな状況で呼び出されるキセはたまったものではないとでも思ったのか、声も気配もさせなかった。日向は勝ち誇ったように右腕を突き上げて飛び跳ねる。

「ほらー! キセも来ない!」

「何がほらなんだよ一体!」

「こっちで寝るから! 何もしないでよね!?」

「しないよ!!」


 嫌疑を掛けられるのとまるきり男として警戒されないまま同室で眠るのと、果たして不名誉なのはどっちなのだろうか。

 こんなに騒がれるくらいなら、もう同室でもまったく気にされない状態でもいいです、と裄夜は悲しくなりながら横になった。なったものの、電気を消し忘れていて、再び立ち上がる羽目になった。

 電気を消すと、やけに周りの音がよく聞こえる。

 他の部屋の客が騒ぐ声が遠くに聞こえた。

「ねぇ、一緒に寝ていい?」

「……中津川さんさ、どっちかにしてよ……」

「何が?」

「だから……もういいけどとりあえず……何でそんなこと言うの」

「何か、気配が……」

「気配?」

 言われてみれば、ひたひたと、音がしているような気がする。

「気のせいじゃない? 幽霊が出る部屋っていう話は聞いてないし」

「いや! そんなにはっきり言わないでよ!」

「ごめん」

 がばっと掛け布団をひきずりながら寝返りを打って振り返られ、裄夜はむしろ今の日向の方が怖いと思った。爛々と部屋の中に光る目があると怖い――光る目?

「中津川さん目が光ってるんじゃない?」

「光ってないわよ失礼な! 怪獣みたいに言わないでよ!!」

「怪獣って目が光るのかなぁ……いやそういうことじゃなくて」

 枕元に置いた眼鏡を掴み、裄夜はそれを顔に載せる。

 カーテン越しにもれる外の光のおかげで、日向がこちらを見ているのは分かる。先程はがさがさ動いたりする塊だけが見えていたので、裄夜は、はっきりと日向を視認していたわけではない。眼鏡がないとすべてがぼやけて境界を失った布織物のようになるのだ。

「……中津川さん、クロ連れてきた?」

「ううん。何で?」

 自分で気配がすると言ったくせにこういうときはどうしてこんなに鈍いのだろう。

 裄夜は、日向がきっとするだろう行動を予感して、先に両手で耳を塞いでから告げた。

「後ろに、狼みたいな黒い犬が五匹くらいいる」

「嘘」

 ばっ、と蓑虫のように布団を巻き付けたままの日向が回転し、窓際の何かを目に留めるや否や、一気に布団を跳ね上げたのが分かった。

 絶叫があがった。

 その後、キセがあちこちの部屋に現れた黒い染みのような「中途半端な犬」を始末して歩いた。さすがに裄夜に抱きついたまま離れない日向を心配したのかもしれないし彼らがそのまま喰い殺される可能性を危惧したのかもしれない。それは分からなかった。

 ただ、裄夜は、数十秒間ずっと爛々と光る目を睨み付けながら浴衣一枚の少女にしがみつかれているという状況を思うと、絶対に、キセに頼らず自分で術が使えるようになりたいと誓うのだった。その状況は浩太ならかなり喜んでいたかもしれないが、裄夜にはちょっと辛かった。

   *

「たすくさーんお土産でーす!」

 引き戸を開けてよく通るように声を整えて出した日向は、すぐに明良忠信の見慣れたスーツ姿を発見してほっとしたように微笑んだ。

「明良さん! お久しぶりです!」

「お帰りなさいませ、日向様。いかがでしたか?」

「はいっ、何か色々ありましたけど、無事に帰ってこられました」

 無事に――その言葉の重みを思うと、日向の後ろについて玄関に入っていった裄夜は眩暈がしそうだ。

 まず帰り道、高速道路で菅浩太がハンドルを握った。

「いやー左ハンドルばっか運転してたンだけど伊達に日本警察の看板しょった車警部に命令されて運転したことがあるってェわけじゃないね! ちゃんと右でも出来るじゃんうんうん!」

「何で高速道路で浩太さんとかわったりしたんですか」

 最初のドライブインが高速で後方へ流れ去るのを横目に、裄夜はこっそりと茅野に聞く。助手席にいた茅野は、真顔で、

「高速道路って、対向車線入れないじゃん。基本的に。間違えようがないでしょ。逆送しないで済む」

「でもご老体がよくドライブインから逆の車線に入り込んで一キロ逆送とかいう話、聞きますけど」

「そんなしょっちゅうじゃないっしょ、それにあーたーしーは、疲れたの」

 ふん、とふて寝され、まぁそうだろうなとは思う。

 思って――かぁかぁ、と鴉めいた声がして、裄夜は思考を中断させられた。

「あっ何か来る! 来ますよ浩太さんっ」

 日向が落ちつきなく背後を振り返り、窓を開けようとする。何だかハスキー犬のようにも見える。一昔前に流行った動物漫画に載っていたハスキー犬を思い出し、裄夜は自分が引き綱を握る方なんだなと微妙な気持ちになった。

「中津川さん、落ち着いて。高速道路では窓を開けちゃ駄目だって習わなかっ、うわ」

「鴉だ!」

 日向は窓を開けてしまった。暴風が吹き荒れる車内に、茅野が小さく悲鳴をあげた。

「ちょっと日向ちゃん!!」

「高笑いしてる女の子がいる、あと、車の上にいる」

「何それ」

 茅野と裄夜の声が重なる。ぼんやりとした声で浩太が、

「あーもしかしてやっぱり? みたいな? 何ッかおかしいと思ったんだけどそこだけものすごく靄がかってうまく探知できないみたいなもどかしさがずうっと「ついてきて」てさぁ俺どうしよっかなーって迷ってたンだけどへぇそっかやっぱついてきてたんだアノヒトタチ」

「誰よ」

「各務瑠璃子と、里見裕隆にすごくよく似てる人」

 ちらりとバックミラー越しに目があって、日向も裄夜もびくりとする。誰なのかと聞いた茅野は、聞かない方がよかったかと、ごんと窓ガラスに額をぶつけた。

「誰が戦うのこれ?」

「俺今ハンドルから手ぇ離せないから裄夜くんか日向ちゃんかキセか茅野ちゃんでお願いマンモス?」

「語尾の意味がわっかんないのよバカ王子が!!」

 無駄に体力と精神力を消耗する会話に終止符を打ったのは、後方を見ていた日向の小さな歓声らしき声だった。裄夜も振り返る。傷だらけの少女が路上にまいた紙切れたちが一斉に鴉になっていった。後続車がフロントガラスに張り付いた紙に驚いてブレーキを踏みタイヤの甲高い音が鳴り響く。紙切れがばらまかれてその上鴉になって飛んでいったなどという幻覚が、彼らに追突事故を引き起こさせなかったのは幸運以外の何物でもなかった。

「早朝に出発してよかったねホントに。ソレと最近の運送の問題でトラックが昔より一杯走って無くてそれなりによかったっていうか」

「もしかしたらキセが何かしたのかも」

「だったらいいねぇ事故なんて起きたら寝覚め悪いでしょ君たちもホントに」

 追走劇は、何故か、いつまでたっても後続車が追いついてこないという不可解な状態で幕を閉じた。

 浩太のおかげなのかキセのおかげなのか、そもそも二人が何かしたのか、よくは分からないが生きて帰れただけで裄夜はもう充分だ。玄関前でしゃがみこんで動かない茅野は、手伝いの女性に水を貰って、幾分か調子を取り戻しつつある。ついでに裄夜も水を貰った。貰ったが、一口飲んだところで日向が座敷にあがってしまい、あがったらあがったでお茶も出るだろうし、礼とことわりの言葉を付け足して、水を一旦、元の盆に返した。


 室内は広々としていて、相変わらず現代日本からやや外れた空気があるように思える。

 時間の流れ方が違うのかもしれない。

 時計すらも、ネジ巻き式の柱時計が間延びした音を響かせていて、どこかゆっくりとしている。

「たすくくんみーつけたっ」

 たすく「さん」か「くん」か、どちらなのかはっきりと決まっていないらしい。日向の後ろ姿を見ながら、裄夜はぼんやりと「どっちのほうが適切なんだろう」と思う。

 たすくは畳の上に広げられた松などの枝を眺めていた。大きな花弁の花もある。そして大きめの陶磁器が部屋の真ん中に置かれていた。

「お帰りなさい、よく無事で。収穫はありましたか」

 黒い目が、ふっ、と人のいない部屋で急に泳いで再びとまる金魚のようにこちらを見てとまった。一度ぎこちなく停止した日向は、ややあってこくこくと小刻みに頷いて、ただいま帰りました、と答える。

「収穫と呼べるようなものは、何も」

「そう」

「あ、あの……ごめんなさい、ただ遊んできたみたいで」

「あなた方が無事に帰ってきたこと、それだけで充分。情報が得られなかったということもまた、現時点においてはその布石に意味があると見なせないということが分かったということ。収穫が本当にまるきりなかったとは、言えない」

 とても静かな語り口は、まるでこの屋敷全体と同化したなにものか人間ではない「もの」のように感じられる。

「たすくさんって、」

 また「さん」に戻った。日向は、おずおずと口を開いた。

「いっつも大人びてますよね」

「そう?」

 不意に、その目に暗いものが宿った。

「そう見える? 君たちには」

 唾を飲み、日向は土産物に移し変えそうになる目をどうにかたすくの目にとどめた。

「見え、ますけど」

「……そうなんだ」

 ため息をつき、目を逸らしてたすくは頬杖を突く。幼い横顔はそれだけの動作で、ひどく老成したものに見えた。つめたい夜の月のように、ただ凛と、しんとそこにある闇。そうも見える、彼はまだ中学生ほどの年齢だというのに。

「中城は生まれ変わりのない一族なんだ。これは一応、昔の代で実験してあるらしい。記憶を持った子供が血族に産まれないか、とか」

「生まれ変わり?」

「そう。君たちがもしそうであるのなら、そういう機構もあるのかもしれないね。モノによるということなのか、それとも、花陽妃のなせるワザか」

 呟くような喋り方だが、声は不思議と鮮明に届いた。日向の視線の先にある顔は、そこでかすかに笑みを漏らす。

「……中城はね。権力者ではないんだよ。寄り合いって知ってるかい? 地主とかが権力を持っていた関東とは違ってね、僕らのいる土地では、何というか、持ち回りというか、誰もやりたがらないけど仕方なく取り纏め役を引き受けなきゃならない人が居たんだ。中城はね、一応は上に立つ者だけれど、実体はただ下からの突き上げと調整に耐えるだけの管理職。権力を扱えるわけじゃない、ただ村人の意見の相違をどうにかしてまとめようと心を割いて行動するだけの者たちなんだよ」

「胃が痛いってことですか?」

 日向が急にそんなことを言い出したので、たすくはごん、と額をテーブルにぶつけて押し黙った。

「あっあの、大丈夫……?」

「……何だか考え方がバカみたいだ、僕……」

「え? え?」

「誰かのためにって、結局僕が選んだのに。何でだろう、責任負いきれないよ……」

 日向はふと気が付く。外側はしっかりしていて、むしろ得体が知れなく見えた少年。だけれども実体は、彼が言うように、無理矢理取り纏め役をするしかなかった、ただの子供。

 他の大人が動かないなら、自分がやると言ってしまった、他より少しだけ賢い子供。

「やあやあ諸君! 嘆いておるかねうら若き諸君!」

「こーたさん……」

 車を返してきた浩太が(それにしては異様に到着が早いのだが)、や、と手を挙げてやってきた。

「やぁ日向ちゃんこれ要る? とある事件で待ち時間中に警官が学生の夜遊びにかまけて俺が代わりにクレーンで取ったパペットちゃん。一号よろしく」

 最初の裏声を無かったことにして浩太が日向にパンダの人形を放る。それを受け取るかどうかも確認せず、彼はにい、と口の端をあげた。

「中城の秘密、そういうことでしたか」

「貴方はどこから出てきたのかな……」

 ぼんやりと呟き、たすくは顔をあげて背筋をただした。

「でも、私が知っているのはそのくらいのことでしかない。さほど重要なことでも」

「無い? 違うだろうそれはさ。俺たちがどんだけ必死で動いてると思ってるの、たかが中学生が仕切ってるなんてどういう仕組みとか理屈かって必死で悩む必要が君の一言で減るよね? そういうことだよ」

「重要、なんですか?」

 日向がぽかんと聞くので、浩太は耐えきれない、と言うように畳の上に倒れるようにして座り込んだ。

「ヤダ、皆さん本気で言ってますの? 俺可哀想? あのね日向ちゃん、すんごくどうでも良いワタクシゴトでもね、言っておいてほしいんだよ。孝君の声だって彼が黙ってたら各務瑠璃子追えないし、今の、中城だって、そういう理由で中城があるんだったら、中城に従わない一族がいて当たり前なんだって分かるよね? そこが分からないとね、やり方が違うことになっちゃうわけだよ、言うなればさほど権力ないくせにあるみたいに振舞うとかそこで言っちゃいけない素っ頓狂な提案しちゃうとか真実からどんどん逸れるとかそういうことが起きちゃうの、分かる?」

「浩太さんの言ってる内容は分からないんですけど、たすくさんがよろよろしてるなら助けてあげたほうが良いってことが分かったほうが良いってことは分かりました」

「あァまぁそう言うことだよね端的に言うと。たとえばそんな感じ」

「え?」

 たすくは目を丸くする。

「だってあれっしょ、中城が取り仕切るなら中城の責任で動かせバカ野郎何でできねえんだと言われてもおかしくなかったわけでしょ今までだったらそうなるでしょ? でも中城が中間管理職みたいなンだったら俺たちもそうそう責められないわけ。できること選んでお願いして、もっと効率よくコトを運べるって訳。だからもっと早く言って欲しかったんだけど」

 まぁ言えなかったんだろうね、と浩太は苦い笑みを浮かべた。

「分かるよ、これは俺が勝手に共感してるだけなんだけどでも当主って立場、権力使えるんだったら何でこれできないわけとか突き上げくらうからやってらんないよね。好きで責任負ってるわけじゃないんだけど。でも仕方ない、俺が逃げないって選んだ道だし、だとしたら俺が当主じゃない世界が無いんだったら、イフの世界は無いんだから俺が背負うしかない道もあるでしょ。それってなかなか相談とかできないわけだよね。偉かったね」

 立ち上がってぽんぽんと気安くたすくの背を叩き、頭を抱きしめてから浩太は笑う。

「そして日向ちゃんも偉い偉い」

「何でですか?」

「だってあれでしょ。いきなり訳分かんない目にあってよく自分の人生投げちゃわないよね、今生きてるよね、偉い偉い」

「……浩太さんこないだ私に、ちゃんと自分に向き合ってないみたいなこと言ってませんでしたか?」

「あれ? 言ったっけ? 言ったとしても俺日向ちゃん全否定なんてしてないよ大丈夫だよ」

「何がよ」

 会話が繋がらない苛立ちで日向の声が低くなる。それを見ながら、たすくがため息混じりに笑みを浮かべた。

「本当に……歯車が動き出したかと思えば見失う。難しいね」

「ほらっそういう感じだから子供だってこと忘れちゃうのよ!」

「だって、貴方たちが……」

 そこでたすくは口をつぐむ。瞬きしてから、不意に笑った。

「そうか」

「え、何が」

「いえ、……何だか肩の荷が下りたような、一気に増えたような、そんな気が」

 これだけ年長者が集まっても、義務教育を終えていないような人間のことを頼ろうとしたり、自分のことをまるきりどうにもできなかったり、するのだ。

 何も出来ないでおろおろしている人間は、本当は沢山居る。

 自分より年上でも、年下でも、そのことにまるでかわりはない。

「僕よりずっと大人でも、これしきのことで右往左往もする、と僕からすれば思えるようなことも、ある。だから僕でも一人でこなそうとせず助けあえばいいわけだし、同時に、僕が助けなければならない面もある。元々知っていたことが後者、浩太さんが仰ることが前者」

「そういうことにはなるかなうんうん大丈夫大丈夫」

 たすく自身が体得したその意味の深いところは胸にしまって説明はせず、たすくは、静かに、深く笑った。

 どこか壮絶な――真夏の瀧に似ていた。

   *

「おいおい、こんな遅くにどこ行くんだ」

 靴箱の上の時計は八時半を指し示している。

 まゆらは玄関先で無言のままで靴を履く。

 ため息混じりに電気をつけ、大元はパパは心配なんだよとなぜかありがちなことを言った。舌打ちし、まゆらは急に頭上の電灯を付けられてくらんだ目をきつくすがめる。大元は重ねて余計なことを口走った。

「パパはお前が大事なんだ、危ない目にはあわせたくないんだ」

「何よあんたなんか!」

 まゆらは振りかえりざまに、伸ばされてきていた大元の手をはたきおとした。耳に痛い音が響き、まゆらの怒りも急激に高まる。

「ママも生き返らせらんない水の何が『よみがえり』よ! くだらない!」

「まゆら……」

「それにッ……! いまさらそんな水出てきたってもう遅いのよ! ママは死んだの!!」

 涙混じりに言われ、大元は途方に暮れる。妻を助けるためには間に合わなかった発見物。それは悔しい。けれど。

「お前だけが苦しいわけじゃないよ」

 今救えるものを見捨てられるほど大元はすべてを諦めきれてはいなかった。しかしまゆらにそれは伝わらない。

「最ッ低っ」

 吐き捨て、睨む目さえ逸らしてまゆらは外へ出ていった。音高く閉じられる扉に首をすくめ、大元は反射的に追いそうになり、その体勢のまま中途半端に座り込んだ。


 外に出たまゆらは、門の前に立つ人影に気が付く。鼻水と涙で凄まじいことになった顔を両手で隠し、うつむいて道路へ駆けだした。

「オツカレサマ」

 日が沈んだ後の薄暗がりの所為で表情は見えない。けれどすれ違いざま、彼女は確かに笑っていた。

(何なのよ!?)

 この様を見られて恥ずかしいのと同時に、腹が立った。何を知った口を叩いて笑うのかと――咎めにも行けなくて、ただ悔しくて、涙をこぼしながら坂道を駆け上った。


「大野大元、アンタ、バカだね」

 くすくすと笑い、各務瑠璃子はドアを開ける。隙間から猫のように目を細めて笑ってみせる少女の姿に、大元は一瞬はっと顔をあげ、すぐに、今日は帰ってくれと力無く言う。

「ヤだよ、折角そのくだんないスカした明るさ叩きつぶしてやれる機会なのに」

「帰ってくれよ女子高生。俺は今日は猫の相手はしてやれないんだな、悪いけど」

「イ、ヤ、だ」

 愉悦の笑みを浮かべ一歩踏み込んだ瑠璃子が、びくりとして足をひいた。

「ンだよコレえぇ!?」

「あぁ、怖いもんよけ、だ。こないだ神社で貰ってきた」

 大元はごく当たり前のように頷いた。靴箱の上にあるインドか何かの神像を睨み、この無茶苦茶ヤロウ、と瑠璃子が唸る。

「信じらんないしんじらんないしんじらんないしんじらんないブッ飛ばしてやる! こっち来い!」

「瑠璃子ちゃん、うちの娘どこに行ったか見なかったか?」

「ちゃんとか呼ぶな! 気持ち悪くて鳥肌が立つ!!」

 ドアの取っ手を乱打して、瑠璃子は大きな声で叫ぶ。

「覚えてろクソヤロウ! ぜってェ許さねえ!」

「ははは、懐かしいなその捨て台詞。俺が若い頃はよく聞いたな、あれは大学で」

 一際強くドアノブを殴り、瑠璃子は足早に玄関から立ち去る。子鹿めいたジャンプを繰り返して門の外まで出ていった少女は、室内で大元が、取れたドアノブ相手に途方に暮れている様を知ることは無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る