第一章 かげのしたに

第一章 かげのしたに

   *

「だーからぁー。カレンはチョコチップが良いと言ったのよ」

 クッキーを片手に、カレンの姿の冷羽がくどくどと説教ぶって言う。明良忠信はただただ困惑するばかりでは生きていけないと学んでいたから、とりあえず差し出されたクッキーを受け取った。

「ほらみてよ、わかる?」

「マーブルですね」

 チョコレートの生地がきつね色の生地にマーブル状に混ざっている。なるほどとうなずき、明良は部下の名を呼んだ。訳が分からず平身低頭の部下は、買い出しに行かされた自分の過ちに驚き、慌てて買いなおしに行こうとする。

「いいのよ別に。わかればいいの。カレンはチョコチップクッキーをお願いしたのだけれど、栗原サンはマーブルを買ってきた。今度からは気をつけてね」

 小柄な美少女がにこりと微笑み、部下・栗原はぼうっと見惚れた。気まぐれな主が、本当に女の子になって帰ってきた日には驚愕でそれどころではなかったが、ここまで可愛らしくなるとは怪奇である。ごくたまにたすくが廊下を歩いていても、唐突にカレンに成り代わるので、カレンやたすくに会うのは、まるで発作に立ち会うようなものだ。いつどちらに出会えるか分からないし、前触れもなく一瞬で入れ替わる。外貌も性格も、着ている服でさえ。

「で。明良、おまえのほうの首尾はどうなの」

 腕を組み、カレンが口調もそのままに本題に入った。銀月王ではないと本人の口から言われ、文献を照らし合わせたり情報を収集するのに方法を変えたりと、あわただしい日々を送り始めた明良は、疲労の残る頭で、カレンの望む答えを繰り出す。

「ウタウタイ、と呼ばれる能力者のことで幾つか分かったことがございます」

 顎をそらし、少女が先を促す。

「銀月の一族には、ひとでありえぬとされたものが集まっており、特に銀月王、花陽妃に次ぐ地位の術者集団があったということです。最大時には総勢十七名、…時にして第二次世界大戦時、最後の頃には六名が、銀月王に関わっていたようです。六名の他に、各々の部下と、補佐的な一族がつきます。未だ六名について役割には確証はないのですが……」

「知っているわ」

 そんなこと、とカレンがさめた目で明良を見つめる。

 冷羽は銀月王や補佐役のもののことは覚えている。

「誰が何をしていたかなんて、そんなこと知っているもの。ほしいのは「今」の情報よ、過去の事実じゃない」

「過去が分からなくてはわたくしどもには動きようがございません。もっとはやく知っていらっしゃることを教えていただかなくては…」

「悪かったわね」

 まったく悪びれず、少女は長い髪を揺らしてちょこんと椅子に腰掛ける。

「そうね。わたしの説明は後でじっくり聞かせてあげる。今は「今」の情報をわたしに聞かせて」

 本当に言うとおりにするのか、大きな疑念がある。しかしため息を殺して明良は口を開いた。

「…言葉に力のある、ウタウタイのことはご存じですね」

「過去のことならば」

 うなずき、明良は続ける。

「文献にありました。最後の大戦の際に、銀月王が失われ、六名の術者が消えました。声で浄化や呪いをおこないすべてを現実化できるウタウタイ数名も、彼らとともに、どこかへと散ったそうです。そのうち約一名が、銀月王の声を封じているのだとか。近郊でウタウタイとおぼしき人物を発見いたしましたので、とりあえず御確認いただきたく存じます」

「ウタウタイか……厄介ねぇ。なまじ世界と共感して、人間とも親しいから…、おとなしく教えてくれるかしら。……さて返してくれるものか、わたしたちの過去」

 最後の方には冷羽の口調か。

 さぁ、今度はあなたの番です、と明良が促そうとしたところ、カレンは身軽に短いスカートの裾を翻して廊下に駆け出ていってしまった。

 やはり教えてはくれないのか、と思いながら、明良は食い下がろうと後を追う。

 チャイムが鳴って、席に着く。ただそれだけなのに、生徒は重い空気を抱えていた。

 高三。

 いわば受験生だ。

 一応、進学を目的にする里見孝は、少しざわついた世界にため息をつく。

 どうしようか。

 こんな世界と別れられるなら、進学して、全く知らない人々の中で暮らすのも悪くない。


 そういえば。


 いつにもまして風当たりが強い一日だ。

 どうしたことか、登校して着こうとした机に、ぼろ雑巾と汚水がぶちまけてあった。

 ……今時、ひどくめずらしい。

 孝は一種、感心さえしていた。

 ここまではっきりした悪意を向けられると、かえって晴れがましい気がしてくるから不思議だ。

 最近は無視だ何だと、目に見えず、「思いこみ」の一言で片づけられるような、賢しく精神的にきつい攻撃ばかり喰らっていたから、目に見えるそれが、可笑しかった。

 しかし、表には出すことはない。

 ただひたすら淡々と片づける。

 いったん不利な状況に追い込まれると、教師まで便乗する。この学校に味方はない。


 本当は、敵すら居ない気がしてくる。


 しばらくすれば、標的は変わる。

 流れに流され、普段は目立たない弱い自分が、彼らの標的になったことの方が奇妙なのだ。目立つ「対象」など山ほど居る。それこそ、「気に入らない」ところは誰もが持っており、誰に対してもある。

 叩きのめせれば何でも良い。

 サンドバックを殴れない彼らは、力をもてあまし、変なところに突出させる。

「こらー席につけぇ! ……おい里見ぃ、またお前散らかして、なあ」

「すみません」

 思って無くとも口をついて出る。

 くすくすと、笑いが起きる。


 何故。


 なぜ変わらないのだろう?


 諦めた自分が悪いのか。



 やがて、授業がまた一つ終わる。孝は教室を出た。

 稼ぎ手の裕隆に迷惑をかけたくない。

 親の残した財などわずか。高卒で働き始め、家計を助ける裕隆は、今は人手不足の個人塾に雇われて講師をして稼いでいる。子どもの数が減ったといえども、未だに塾は盛況だ。

 進学させてくれようとしている兄。拒否はしない、できない、せっかく彼は孝のためにしてくれているのだから。

 主体性がない、と嗤われることだろう。しかし孝は、自信を持って、ときに偉そうに主張できるような目的も情熱も持ってはいないのだ。そういう人間のほうが、本当は多いのではないだろうか、そうでなければ、いじめなんておきやしない。

 人間は、きっと、とてもさみしい。

「ゆ、ゆきやっ」

 ふと、耳に聞き慣れない単語が届く。すこしだけ、口に出すことにためらいがあるような、ぎこちなさの残る口振りだった。廊下から、人目を気にするように肩をすぼめて教室を覗いていた少女が、中から現れた少年を引っ立てていった。彼らをぼんやりと眺め、孝はようやく、少女の口にしていたものが名前だということに気が付いた。そういえば彼女ができてつきあい始めたばかりの元・友人も、あんなふうに初々しい応対をしていた。

 移動教室でもないのに、息が詰まるのを嫌って廊下を行きながら、孝は少し首を傾げる。

 ゆきや、なんて三年にいただろうか。

 人の顔と名前が一致しないまま一年を終える、ということが茶飯事の自分なら、知らなくても当然かもしれない。確かに、出てきた少年のほうは、日本人で、染めてもいないのに(目立ちたくなさそうなふうだった)やけに明るい髪色をしていた。本来ならばひどく目立つ。そうであるはずなのに、おとなしく、印象が薄い。

 疑問に答えが返ってくる。

「兄妹らしいよ」

「名前(名字)がちがう転校生」

「親が再婚だって」

「えー、恋人同士じゃないのぉ」

 女の子は残酷だ。

「ま、根暗はやだけどぉ」

「あはははっいえてるぅ」

「でも、けっこうかっこいいかも」

「あんた、かわってるね」

「えーそうかなー」

 予鈴。

 ちがう、本鈴だ。

「うわっ」

 小さく叫び、孝はきびすを返した。

 その後ろで、ゆきや、と呼ばれた少年も慌てて戻ってきて教室に駆け込んだ。

 一瞬だけ、孝の背に目をやりながら。

   *

 見つけた。

 くすくす。

 ささやくような笑い声。

 学校の、敷地を囲む高い塀。

 手にぶら下げた買い物袋が、足下でがさりと音を立てた。


 裕隆は苦い顔で塀を見上げた。

 塾の予定は午後五時からである。彼は午前中は仮眠をとることが多いが、今日は買い物がてら、自分の出身校の近くを回って歩いてみたのである。

 相変わらず人目を阻むように塀は高く、息が詰まらないのが不思議なほどの圧迫感を与えていた。こんなところで勉強をしていたのだなと思うと、弟がここに進学するときどうしてとめてやれなかったのかと後悔のようなものが胸に浮かんでは消えていく。

 青年は色素の薄い目を細め、ざわめく梢から道路へと視線を戻した。

 高校の裏門にさしかかる。

 住宅街に面した、しかし時間帯によっては人通りの途絶える一車線道路に、自分以外の人影を見る。

「あ」

 裕隆は瞬間、体の力が抜けるのを感じた。


 気が向いたのだが、足が向いて良かったとも、悪かったとも、彼にはいうことができなかった。

「孝……」

 こう、と、彼は幾度か口の中で弟の名前を転がした。裕隆の前にあるのは、塀に押しつけられ、口元の血をぬぐうことすらままならない弟の姿だった。

「てめえむかつくんだよ……!」

 腹を蹴られても、少年はなぜか抵抗を示さない。

 自分たちの頃にも暴力はあった。いろいろな意味で子どもも大人も闘っていた。今だってそうは変わらない、現に裕隆も職場の人間関係や、何を言っても勉強しかできない子どもの傲慢さ加減に手を焼いていた。

 でも。

 どうして、あの、やさしい生き物があんなふうに、

 扱われないとならないのだろう。


「……っ!」

 近所の中年女性が家に入っていく。誰も何も咎めはしない。みんな命が惜しいのだ、余計なことをして自分の危険を増やしたくはない。それはいわばごく当たり前のことで、でもだからこそ裕隆は胸が詰まった。

 孝は、たぶん、ずっと黙っていたのだ。

 どうしようもないからとあきらめて?

「こ、」

 たしかに裕隆は無力だった。

 殴られる弟を前に、数人の学生には自分一人では勝ち得ないことに気が付いていた。

 二人揃って殴られるとしても、駆け出したかった自分がいたが、行ったところで火に油を注ぐことは目に見えていた。

 足はすくみ、買い物袋はやけに重たく感じられた。

「こう!」

 それでも、彼は声を挙げた。

 考の瞳が歪められるのがはっきりと分かったが、裕隆はとまらず、しかし焦らすようにゆっくりと歩き出した。

   *

「いたた」

「動いちゃ駄目だよ、兄貴」

 脱脂綿にしみこませた消毒液は、皮膚を切り裂くようにしびれさせる。

 裕隆は呻きながら目をつぶった。

 合気道を習っていてよかったなと思いつつ、最近では使ったことのない技で、変にねじった腰が痛い。彼が堂々と向かっていくことで威圧された者はいいとして、窮鼠猫をかむ、バカ正直にプライドを守らねばと勘違いした連中が問題だった。投げ飛ばし、大半は黙ったからまあいいとしよう。しかし、逆恨みしたテキが、ナイフを出すとは思わなかった。しかもそれは、隙をついて孝の手を引いて逃げ出した(さすがに延々けんかするだけの気力はない)裕隆を追ってきて、仕方がないので電車に乗ったりと複雑にまこうとしたのに、ちゃんとついてきていた暇人だった。

 駅員がかけつけ、取り押さえられた少年は、自分は悪くない、こいつが悪いと叫んでいたが、やがて「反省している」に変わり、見事にしおらしい演技をしていたので、たぶん今日中に釈放だろう。世間は「いいこ」に甘いのだ。

「最近の子って、まえよりずっと、ずるがしこいなあ」

 と、呟いたら、孝に涙ぐんだ目で睨まれた。

「いまもむかしも、子どもってそんなもんじゃないの」

 最近、というところに引っかかっただけらしい。

 裕隆はやはり余計なことをしたといって怒られると覚悟していたため、少しだけ、肩の力を抜くことができた。


 頬だけの怪我ですんで良かったというべきだろうか。

 頬に負った切り傷に絆創膏をはってやりながら、孝は小さくため息をつく。

 余計なことを、とは思わなかった。

 だって、助けに来てくれる人がいるなんて思ってなかったし。

 こんな、何の取り柄もない自分を、兄は大事にしてくれている。

 大事に。

 そう、大事に、だ。


 支えだけれど、重荷だった。

 いじめなんて、知られたくなかった。

 彼にとっては恥ずかしかった。

 たとえば、いじめられるに任せているのが、弱いことに甘んじているようで。なにか別の強い者に救われたがっている浅ましさを指摘されるのではないかと思って。

 そう、裕隆に見捨てられたくはなかった。

 そして同時に、これはゲームなのだから、裕隆が介入するなどということが恥ずかしいとも思っていた。

 オトナが口出しするなんて、ルール違反も甚だしい。

 これはゲーム。

 役割を演じきれば、いつか役は移動する。

 友達なんて、都合さえ付けばいい。時間が来ればけなしあう。

 ゲームがゲームだと知っていながら、まるで知らないように演じきる。やりすぎたりして興ざめさせると、いじめ側の人間だって他の役から不興を買う。

 たとえば、いじめの密告みたいに。


 やはり、いじめはエスカレートした。

 これまでは面倒くさがって、クラス以外の人間は孝にあまり構わなかったが、廊下でさえも息をつける場所は消えた。

 今度は沈黙が重くなった。

 視線を感じるのに誰の目も向けられていない。

 皮膚に張り付いた視線を引きはがすのは容易ではなかった。

 息が詰まった。

 逃げられないように張り巡らされた塀は、たとえなくても同じだったろう。

 守るための囲いは、彼らを充分に窒息させた。

 ひょっとしたら、終らないのかもしれない。

 昨日兄に、あと一年もしない、半年だもの、といってここに残ることを告げた。

 高校三年。大学は、地元以外を狙っていた。もし進学したら、高校の知り合いと会う機会はないだろうし、進学しなくても、彼らはどこかへいってしまう。

 だから、迷惑をかけるのも嫌で、ここに残ることに決めたのだけれども。

 ひょっとしたら、一度付いたよごれは、消せないのかもしれなかった。


 その日は、机に花瓶があった。

 孝は上履きを洗うのに時間がかかり、遅刻しかけて慌てて教室に飛び込んだ。

 そうすると、


 菊の花が生けてあったのだ。

 初期段階にも見た光景なので、孝はさほど驚きはしなかった。

 ただ、腐って異臭を放つことに、眉をひそめて立ちつくしていた。

 自分たちには不快ではないように、不快であっても嘲笑で気が晴れる程度、そういうことを選りすぐり、そういうことしかしないような連中だった。たぶん自分であってもそうしただろう。腐臭が室内に立ちこめるまでのことを、面倒くさくてやりはすまい。方法なんてそれ以外にいくらでも存在しているのだから。

 なのに、今日は一体どうしたということだろう。

 もしかしたら上履きは、セッティングのための時間稼ぎだったのかもしれないな、とぼんやり考えていると、

「おや、死体が帰ってきた」

 ぼそり、と、しかし周囲に聞こえるように、少年がひとり、一番後ろの席で言った。

「茅ヶ崎」

 孝は思わず声に出す。

「片づけとか、考えなかったのか」

「片づけぇ?ハッ、なぁに寝ぼけたこと言ってンだよ」

 そうだね。

 片づけるのは散らかした人間じゃない。

 この席の人間。自分だ。

 でも、と、孝は再び首を傾げる。

 なぜ今日に限って、茅ヶ崎は自分との会話に応じるのだろう。いつもは無視をとおすのに。

 しかも茅ヶ崎は、さいきんでは一週間に一度学校に来ればいいほうだ。

 よく食べ物を戻していると噂に聞く。

 ……それはたぶん、あの日から。

「なんで、僕をターゲットに選んだの」

 孝は知らず、口を開いた。

 的にされた人間は、的を選ぶときはたいした理由がないことを知っているのに、されるとなると理由をほしがる。そう思いながら、孝はぎゅっと唇をかむ。どんな答えにも倒れぬように?

 一瞬の間をおいて、茅ヶ崎は声をあげた。

 それはあまりに唐突で、孝は思わずぽかんとし、周囲は異様に静まりかえった。

「君が、彼女を殺したんだ」

 茅ヶ崎(ちがさき)アユムはわらっていた。耳につくほど甲高い声で笑った。

 雨の中になお明るく、狂い咲く紫陽花のような哄笑だった。

「ばっかじゃない? ぼくらがそんな君に悪意を抱かないわけが無いじゃないか」

 声が出ない。

 孝は脱兎のごとく逃げ出した。

 隣のクラスで、眼鏡をずりあげながら少年が一人、小さな小さなため息をついた。


 雨がかすむように紫陽花の葉を叩いていた。

 紫陽花の花色は、土地の酸性度の度合いによるという。少年は少しだけ窓を開けて庭先の紫陽花に触れてみた。しっとりとした確かな手触りに、霧のように見えていた雨がたたきつけて震えが走る。

 泣けない。

 泣けないんだ。

 なぜ。

 なぜだろう?


 泣いてはいけないのかもしれない。

 なぜなら、孝は――。

 …………………………………………

 彼女を、殺した犯人だから。

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