第一章 予定調和

「里見の意識が戻りました」

 無感動にそう告げると、部屋中にせせら笑う響きが満ちあふれる。

「意識?」

「アレの体も」

「なにもかもが」

「――なかったのだというのに?」

「だから早う始末をつけろというておったのに。アレの力は驚異だ」

「驚異も脅威。ましてやアレはまたもやじぶんのちからも制御できぬ」

「せんねん前にも始末をつけず」

「まったく」

「まったく」

 白い部屋に、人の影はない。

 家具さえない。

 打ちっ放しではないものの、コンクリートに一点の曇りも許され得ない白の壁紙が張られている。

「明良忠信」

「お前、一族の望みを忘れたわけではあるまい?」

「のう?」

 くすくすくす。

 笑いさざめく彼らの声は、まるで潮騒のように、耳に張り付いて離れない。

 まるでハエにまとわりつかれて難儀なように、男はそっと耳元を手で払う。

 そんな仕草でさえ、彼らには面白い、人ではない彼らには。


 偽られている。

 水瀬裄夜は壁があることを疑わない仕草で、そこにある闇の中に寄りかかった。

 ここはいろいろなものが偽られている。

 何が?

 よくは分からないが。

 手のひらから自分の肩へと落ち着ける位置を変えられた錫杖の円環部が、ときおり、つまらなさそうに音を立てる。

 ここにいるのはいやだった。

 しかし、なにかを思い出せそうで、裄夜は望んでそこの場所に立っていた。

「裄夜ー!」

 声ならぬ声が、急にはっきりと形をとった。

 現代日本ではまだ成人しない、若い女のものだった。

 ああ、と裄夜はうつろに思う。

 危なかった、この闇は待っていたのだ。

「今帰るから!」

 まだ完成されない若い声。

 それでも闇をうち払うだけの、凛とした、核を失わない声だった。

 まるでそこだけ切り取ったような真の闇。

「……キセ、あんたはどうしてなんにも残していかないんだよ」

 ぼそっと呟き、裄夜は錫杖を力一杯横に振って、迷いのない足取りでそこをあとにした。


「よかったぁ」

 花が開くような笑み、とはこのことをいうのだろうか。

 裄夜はつられて微笑んでから、我に返った。

「あっ……れ、ここ、どこ」

「あ、起きない、ほうが」

 日向の制止も間に合わず、裄夜は頭をおさえてうずくまった。がん、と金属の音がして、しばらくの反響が壁に残る。

「……で、ここ、どこ」

 頭をおさえたまま呻くように問う裄夜に、強情ね、と呟いて、日向はひとつの地名を告げる。

「え、それ、聞いたことがないん……だけど」

 すると、急にあははと軽く笑って、日向がうん、と頷いた。

 あまりに軽いその仕草に、裄夜はかすかに眩暈を覚える。

「もしかして、中津川さん、知らないね」

 ここがどこか。

 顔を上げなくても大体分かる。

 えへへへへへー、と笑われて、裄夜は頭を押さえたまま嘆息した。

「ありえない……」

「何が?」

 何も考えていないような気楽さだ。目を閉じて、頭痛を追い払う。

 裄夜の上にあるのは縦横に張り巡らされたパイプだった。ベッド下にいるのだと分かり、慎重に這い出る。

「ここ、どこ」

 再び浮上した疑問に、日向がしばらくの間をおいてから「浩太さんの病室」と答えた。

「浩太さ……無事だったんだ!?」

 一人部屋の病室内には、二人の姿しかない。

「ほんとは浩太さんが裄夜くんに、って言って、開いた部屋まわしてくれたらしいんだけど」

「は?」

「浩太さんね、一命を取り留めた後――正確には前なんだろうけど、島根のおばあちゃんが訪ねてらして、気合い入れて帰られて」

「はぁ」

「それで傷はまだ痛むらしいんだけど、ほとんど支障がないって言ってもう退院しちゃったの。そこへ裄夜をねじこんだってわけ」

「ねじこんだって……」

「別室に里見孝くんがいるよ。本当はここに里見君を移そうとしたんだけど、裄夜がどこに帰ってくるのか分からなくて、それじゃあってことで浩太さんがこの部屋を着地点に出来るように選んでくれたの」

 さすがに裄夜も、錫杖一つで行き先まで指定できるわけではない。突然病院の廊下に出現して病人の心臓を驚かせるような真似はしたくはない。

 あのとき、里見孝が消え、中津川日向が彼を追って闇に飲まれた。人ならぬ何者かのつくりだすどろついた影の中、キセが裄夜を誘導して孝と日向を捕まえさせた。先に現実に返された日向が色々と走り回っている間に、裄夜は孝を連れ戻し自身も戻るという体験を果たした。

 孝は日向よりも一段以上重たいぬるま湯のような場所に引きずり込まれていた。それゆえ彼を連れ戻すのは根気が要る作業だった。

 視認できる状態ではありえなかったゆえに、裄夜は初め、彼を見つけることが出来なかったのだから。

 身震いして、裄夜は顔を上げる。

 それから、

「……中津川さん、浩太さんに会ったんだ?」

 気付く。中津川日向は菅浩太を先程から「浩太さん」と呼んでいる。

 おそらく本人からそう呼ぶように指示されたのだろうと見当をつけると、狙い違わず、彼女はこくりと頷いた。

「ほんがみ、だけど菅浩太、って言ってた」

「あぁ、そう」

 着地点にするためだろう、四方の壁と窓には赤い札が貼られている。医療用のテープで貼られていたそれらを回収し、日向はそれを裄夜に渡した。

「これ、私が持っててもどうしようもなさそうだから」

「僕が貰ってもどうしようもないと思うんだけど」

 困った顔でそれでも札を受け取った裄夜に、日向はふんと鼻を鳴らした。

「バカね、キセが居るじゃない。シズクは人間じゃないんだから札を使うような術は使えないのよ」

「あぁそう……え?」

 人間ではないのは、キセも同じ事であるはずだが。

 いぶかしげに見た先で、日向は飄然と言葉を続けた。

「ヒトガタをとってはいたけど、シズクの本性は獣だよ。緋色で大きくて、毛も柔らかくてふかふかしてて、とっても綺麗な目をしてた」

「見たの?」

 夢を介して見たのか、それとも日向の中にあるシズクの記憶を共有したのか。

 それとも、キセのように、不意に現実の者となって立ち現れてきたものか。

「どうだろ?」

 期待に反して、日向はどうもはっきりしない。

「よく分かんない。闇の中で見たような気もするし――そうじゃなかったような気もする」

「……そう、なんだ。じゃあはっきりしそうだったら教えてよ」

「何で?」

 急に反抗的な言葉を返した日向に、裄夜は何とはなしにぎょっとする。しかしすぐさま動揺を隠し、出来るだけ冷静に言葉を選んだ。

「一族のことが何か分かるかもしれないから」

 感覚的に「分かった」としても、それを独占するのは現時点では得策ではないと思われた。出来るだけ個々人の理解分をかき集めなければ、対処できない壁がある。

「僕も、キセにいろいろ、吐かせてみるから」

「……どうして?」

 どうして、その必要があるのかと。

 何故か、日向は首を傾げる。

「え……?」

 裄夜は先程より強く虚を突かれ、いっそう深く眉間にしわを寄せた。

「どういうこと? 中津川さん、知りたくはないの? この、異常事態をどうにかしたいとか、思わないの?」

「だって……今のところ、無事だったからそれで良かったんじゃないかなって、思って」

 そういえばそうだよね、と目を逸らしながら日向が笑う。かすれた、気弱げな笑いだった。

「だよね、今のままじゃ、いけないよね?」

「……だと、思ってる」

 もしかしたら、中津川日向は、水瀬裄夜の味方にはならないのかもしれない。

 この現状に甘んじてうやむやにされたまま引きずり込まれていく気はない、それは、ほぼ同時的に現実と乖離させられた日向とは共有できると思っていた。

 裄夜は一旦ため息をついて、そろそろと病室から外へ踏み出す。

「とりあえず難しい話はおいといて、ご飯食べにいって良いかな」

「だよねっ、裄夜、一日以上何も食べてないんだよ」

 点滴も打たれてないのだと何故か自慢げに言い、日向は財布を持って外に飛び出す。

 廊下には静かに、雨の音ばかりが響いていた。


   *


「兄貴……」

 目の端に溜まった水滴が生ぬるくて気持ちが悪い。

 息をする代わりに呼んだような名前に、相手は律儀に反応を返した。

「孝、目が覚めたのか? どこか痛いところはないか?」

「兄、貴が、手、……痛いから」

 すぐさま右手を強く握られたので、孝はのぞき込まれた顔に向かって苦情を申し立てる。

 泣き笑いの顔で頷いた里見裕隆は、間髪おかずに孝の頭をかき抱いた。

 息苦しいが、なぜだかひどく安心した。

 風呂にも入らずつきっきりでいてくれたのだろうか。知っている匂いに嫌悪よりも安堵が浮かぶ。

「兄貴、ごめん、」

「何がだよ」

 そのまま、息が詰まって言葉にならず、裕隆はただわしゃわしゃと頭をなでた。

 唇が何度も、よかった、と言葉を結ぶ。

「ちゃんと、言っておかなきゃいけないと思って」

 孝はされるままになっていたが、やがて、兄にもう一度詫びた。

「ごめんね、兄貴。僕の所為であんなことになったし、僕らはもう、戻れないし」

「確か、に、保険証も使えなかった」

「え?」

 涙声で答えた裕隆は、鞄から保険証を取り出す。それから自動車の運転免許、パスポート、身分を証明できるものには、すべて小さな付箋が貼られ、そのどれもに不可と丁寧な文字がえがかれていた。

「これは、病院で住所とかでもめたときにいらした、ええと、なんとかの団体の」

「銀月」

 呟いた孝は、呆然と窓を見る。

「まただ、神隠しにあう」

「カミカクシ?」

「にんげんはいるのに、いないことになってる」

 聞き取れないかすかな音をひろおうとするように、孝は目を細めて耳を澄ませる。

「今は昔より消えにくい時代なのに、まだ曖昧が残ってるから逃げられる……って、アメが」

「アメ?」

「雨。慈雨爺と、名乗ってる、そこの」

「どの」

 部屋の片隅を見据えた孝に、裕隆が恐怖の混じった目を向ける。

「見えない?」

「分からない」

 黙り込んで、孝はああ、と違和感の理由に思い至る。

「僕だけの記憶じゃあないんだ、これ……。それで君たちと会話ができるんだね」

 寝ぼけているような真剣な話しぶりに、裕隆が混迷を深める。

「兄貴は、忘れてるんだろうけど」

 兄に苦笑を投げて寄越し、孝はペンと紙を要求した。

「できる限り説明するよ。僕もまだよく分からないんだけど。全部を鵜呑みになんかできないんだけど、まったく無視し続けることも難しいだろうから」

 白い壁の中、彼はようやく落ち着いたように剣呑さをひそめて、話し始めた。


   *


 食堂は比較的空いていた。午後も遅くなると閉まってしまうらしいのだが、それでもまだ数名ほどがお茶の一杯で世間話に花を咲かせている。天井へいくほど灰色がかる壁には丸い壁掛け時計が茫洋と二時をさして止まっていた。

 消化の良いものをと考えてうどんを腹におさめつつ、裄夜は飛び跳ねるようにして去っていく日向の背を途方に暮れて見送った。

 日向は携帯電話の電源を切っていなかったらしく、裄夜が食べ始めてすぐにメールの着信があった。いくらかのやりとりがあって後、彼女は了承を取って席を離れた。

「里見孝の意識が戻った……」

 彼女の声を脳内で思い出し、復唱して顔をしかめる。

 正直なところ、あのまま消えてくれていた方が面倒は少なかったのではないだろうか、そう思う。けれどそれを口に出すことも出来ず、裄夜は箸をとめてため息をつく。

 真剣な顔をしてうどんとにらみ合う少年に、老人の一人が声をかけた。朗らかな笑みとたわいもない会話に笑みを返し、裄夜は食事を終わらせる。見舞いに来たことにしておいたが、その見舞い相手が退院していたと言うと目を丸くされ、しかしすぐさまよくあることだと大きな声で笑われた。緊張が溶けていくのを感じ、裄夜は名残おしいながらもすぐにそこを離れた。

 ――聞かなければならないことがある。


 病院の廊下には蛍光灯の落とす光の反射が満ちている。外部の薄暗い木の葉の群れと風の鳴る音が、ガラス一枚に阻まれてもの悲しげにないている。

「中津川さんが居ないほうが、良いと思って」

 眼鏡のつるを指の関節で押し上げ、裄夜は逃すまいと相手を睨んだ。

 相手は腹が立つほど余裕釈然と顎を上げ、それから白い壁に背を預けた。

「俺に尋ねごととはな……どういう風の吹き回しだ」

 闇色の衣はしっくりと世界になじんでいる。掲示板の賑々しい張り紙を間近にしながらも僧衣姿が浮き上がらない。むしろ自然と見落としてしまうような景色に似ている。

「里見孝の意識が戻った」

 裄夜はキセに問う。その黒衣の青年は白い壁に右肩からもたれかかり、うろんげに前を見ている。

「里見孝がウタウタイなら、一緒に消された里見裕隆さん、は何なんだ?」

 戸籍ごと存在を抹消されたのは、何故か無関係なはずの孝の家族。

「……アレは一族に関係した過去を持っている。ウタウタイに引きずられたのだろうが、さほど重要でもない」

 問題なのは、その事象。

「一人ずつ見つかるなんて、何かあるんじゃ」

「一人ずつ?」

 疑問を挟まれ、裄夜は黙る。口を閉ざしかけたキセの、続きを待ち、空を睨む。その目に宿る金色が、再びちらりとかすめるように揺らぐのを見た。

「また、逃げる」

「逃げてなどおらぬさ」

 裄夜のため息混じりの声に答え、キセがそっと呟いた。

「ウタウタイと親王が共に見つかった。その場には札師も居た、なぜだ? フザキキセもシズクも冷羽も、何故寄り集った?」

 なぜ、今。

 その問いに、背筋がぞくりとする。総毛立つ右手で左手を掴みながら、裄夜はゆっくりと憶測を口にした。

「銀月、王が、何故今なのか、と。考えろと、言って。――あんたたちは本当に、何も知らないのか?」

 疑問形ではあるが、確かめるべくもないことだ。彼らは何かの動きにそって、渦の中央に集められ始めているのに過ぎない。何かが、後ろにいる――誰か、事態を動かしている者が他にいる。

「必要性も意味性も、終わった後にならいくらでも言える」

 言って、キセはそれきり沈黙を保った。


   *


 雨が降る、天は灰色を帯びて暗い光を宿している。

 太陽は時折顔を覗かせるが、それでも快晴と言うにはほど遠い。

 学校に向かうには遅すぎ、また帰るには早すぎる時間帯、住宅街を抜けていくのは一人のセーラー服の少女だった。肩を越す髪は染めずに元の色彩を保っていたが、それは別段意志があってのこととは見えない。夏に近いというのに長袖で、袖口のボタンを留めずにだらだらと手首を振っていた。肩にひっかけた通学鞄は見る影もなくへこみ、少し開いた口のところから雑誌の透けて見える紙袋が顔を覗かせている。

 先日ヒットチャート入りした芸能人の曲を口ずさみ、少女はやや剣呑さのしみついた目を珍しく笑みの形にゆがめていた。

 今日はまだ調子がいい。

 少女は左目の眼帯の下で疼くまぶたのことを極力思い出さないようにしていた。

 通りすがる人々は、こんな彼女に声もかけない。

 サボりの学生やら学生ではない者による制服姿は、今ではさして珍しくもない。ましてや犯罪多発の気短なバカどものために命を危険にさらすような真似をしたいものは少なかった。

 危険な獣を飼っているのは、何も特異な人間だけではないというのに。

 少女はぺろりと唇をなめて気持ちを落ち着ける。

「今日だってさ、ヨミガエリの水だって。バッカじゃないの」

 はるか後方には、最近出来たばかりの新興宗教の道場がある。先程出てきたその場所を思い出し、彼女はくすくすと笑い声を立てた。

「ま、『各務瑠璃子』だって似たようなもんかァ」

 いっぺん死んでるもんねぇ。

 言って、彼女はくるりと回る。傘はささない、このぐらいの小雨ならと見くびったわけでもないのだが、持ち出すのを億劫がったためである。

「ふふふ、あははは!」

 浮き足だって歩いていたが、彼女は不意に、咳き込むようにしゃがみ込んだ。

 大野だ。

 あいつのことを思い出すと、胸から腹から何ものかがあふれ出てくる。噴出する。知らないフリをして放っておけば、いくらでも幸せで生きられるだろうに、そこまでは愚かでも賢くもなかった。

 自殺なんかしちゃいけない。

(なんで)

 瑠璃子は両手を、片手ずつで掴み寄せる。

(なんでそんなキレイゴトばっかりいうのよ)

 目に突き立てようとしたナイフも、あと一歩というところでまぶたをかすった。左手首のためらい傷の多さも、また自分の愚かさを示している。

(痛めつけなくちゃ)

 だって、いけないこなんだもの。

 痛烈にそう思う。

 同時に、周りの言う正しさに泣きたくなった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 うわごとのように繰り返し、熱に浮かされたように拳を地面に叩きつけた。

「うるさいよ」

 ややあって、自分の唇を割って、荒い息を吐く。

「うるさいうるさいうるさいうるさい!」

 ぱん、と景気よく、真上の街灯の明かりが消えた。人気のない道に一人佇み、我に返ったように沈黙する。

 やがて、顔を上げ、瑠璃子は歩き出した。

 生ける亡者ののこしたあとは、頬からこぼれた、涙一滴。


「大野様」

 社務所渡り廊下に跪き、巫女装束の女が言った。

「お時間です」

 大野大元は相変わらずの無精髭を眠たげに触れた。女の冷たい赤一色に塗りたくられた唇に、セロファンをつけて「キスマーク」などとおどけたかった。しかし準備を整えつつある生真面目な顔をした人々の雰囲気に飲まれてしまい沈黙した。血の通いが見えない顔を見て、ただ気圧されて頷くばかりである。

 彼はきちんと腹の帯が締まっていることを確認して、束帯も確かめて、もう一度鏡で確認しようとしたがせかされて諦めた。もし鏡を見たのなら、どこかの格闘家まがいの巨体にどこかまぬけな芸人の風情漂う自身の滑稽な装いが分かったことだろう。外見など別にどうでもいいのだが、信者とやらがそれを許さない。

 もともと大元は一人で近所の老人たちの悩み事を聞いている気のいいおじさんだった。

 今でもそのつもりではある。

 それがどうしたことか、一人娘と旅行に行き、散歩に出かけて森で迷子になったとき、泣きわめく娘に水を飲ませようと思って自分が先に毒味した水のおかげで、気付いたら教祖にのし上がっていた。

 その水を飲むと、迷う内につけた傷の治りが良く、娘に飲ませてすぐに泣きやんだ。大元は随分かさの減った水筒とペットボトルに水を詰め替えた。幸いすぐに、泊まっていた宿の人間の通報によって救助隊が来て助けられたため水を飲む機会は失われた。

 そしてその水は、うっかり屋の大元が帰宅後にうっかりと自宅の縁側に転がしておき、足腰の弱かった老婆が飲んで杖なしで歩けるようになったことでその効用に気付かれた。

 ……以降、大元は年に数回、水を汲みにその地へ向かう。

 不思議なことに大元がくみ出さねば効用が出ない、だから聞きつけて水を横取りしようとした業者もまたたくまに大元をウソツキ呼ばわりするようになった。


 先々年、経営コンサルタントだかファイナンシャルプランナーだかにすすめられて独立法人化したのだが、あれは失敗だったとサバサバと思う。あまりぐだぐだ悩んではいない。ただ「やめときゃよかったけどやっちゃったからもうしばらくはやってみることで何が出来るかみてみよう」などということを思っていたりする。

 別に大元はお金がほしいわけではないのだ。

 いや、お金はほしい、必要だ。ちゃんとご飯も食べたいし、新しいMDコンポもほしいし、娘の養育費のこともあるし、土地の維持費も必要だ。

 でもそうではなく、それだけではなく。

「人間はパンと葡萄酒だけでは生きていけないのです――か」

 形式は神式だが、現在の日本人らしく何でも混ざっていて平気である大元は、必要となるとキリスト教でも仏教でも何でも自分の身にあうように解釈した。歴史的事実を無視していきなり単語を切り取ってきて解釈するのも、悪い癖である。

「クレオパトラの鼻がもし三センチ低ければ……三センチ? 三インチ? いやそれじゃへこみすぎだろ」

 いきなり呟いた教主に怪訝な眼差しを向け、冠をつけた女官姿の女が榊の浸かった酒を運ぶ。

 それに気が付き、大元は再び意識を遠くへ飛ばした。

 あぁ、ホントうちって何でもやるよなぁ。本当の神道とか仏教とかイスラムとかに悪いよなぁ、あぁでもそうか、みんなけっきょく好き勝手に解釈して解釈合戦してるんじゃんね、論理なんて引っ張り出すけど。

「イデオロギー、そのウラを暴露するのって、なんか子供みたーい」

 呟いて、呟きながら思い出す。

 仕事前に自宅のほうに訪れた一人の少女。

 いつもならキリがないので追い返すのだが、その日は知っている女の子だったのでひょいひょい招き入れてしまったのだ。

 大野大元本人はいつでも誰でもウェルカムなので何度も体を壊したりしている。しかも過労になっていることにさえ気が付いていなかったりする。だからドクターストップやら経営の専門家に仕事と私事は分けなさいと叱られて、やむなく面会などについては全ストップをかけていたりする。

 それで。

「うかつなこと言っちゃったかなぁ」

 るりこちゃん、怒ってたねぇ。ちゃん、なんて言ったら怒るか、そうか、でもなぁ。

 この男にかかると十の子供も百二十の老婆も皆等しく子供である。

 つっかかってきた少女の痛々しいまでの突っ張りように、妙に胸の奥が痛んだ。

 自分の手のひらはとても小さい。いや、一般的な日本人の手と比べたら大きいかもしれないがそれでも百匹の子猫を抱えるには小さすぎるものだ。

 けれども、その眼前に飢えた手のひらがあるのなら、差し出された手を掴んでしまう。

 大野は多くの中年男性にありがちな「オッサン思考」によって世の乙女たちや少年たちとは乖離しすぎる傾向があったが、鈍くて頓狂なやり方をする以外、いやそれをさえ含んで、彼は人間やその他のものをあいしていたし求められれば寄り添って支え合おうと思っていた。

 微力ながら。


「すくわれたい、と」

 切実に、思ったことはあるかと問われた。少し考えて、ある、と答えた。妻の死のときも、かつて受験で合格者の受験番号を探すときにも、いたって切実に求めていた。その求めは、瑠璃子たちの言うかつえとは異なる次元のものだとしても、彼が動く気持ちに嘘偽りのないことには変わりがなかった。

「救われたいと思うかね?」

 信者でもある巫女装束の女が、きょとんとした顔でこちらを見上げた。何を言っているのかを理解できない顔をしていた。

「思わぬものがおりましょうか」

「あぁ、すまんな」

 そうだろうか。

 苦しみを知らぬものが居ないと断言できようか。

 苦しみを要らぬ生き物が居ることが可能であると言えようか。

 救いはあるものだ、と、大元は求めるばかりの子供たちの姿に顔を歪めた。

 なるものでもある、しかし本当はずっとそこにあるものだと。

 そして、それに気付くときだと。


 それでも大元は、蒙昧な子供たちの中に立って歩くことを続ける。

 自分が光にはなりえないことを知っていながら、それでも、なお、歩き続ける。


   *

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