第十六章 close to you
その日は、幾つかの「いつもと違う」出来事があった。
昼間には明良忠信が妙な事に巻き込まれ、今も廷内に浄化するための装置だとかが運び込まれて、あの家は色々と忙しい状態にある。
日向も裄夜も、あそこから無事に(一応)戻ってきたものの、孝は「気になることがあるから」と浩太に呼び止められ、どうせなら泊まっていけばいいと中城たすくに呼び止められて、戻れなかった。日向も泊まりたいといったものの、翌日また小テストがあるため、泊まると遊び気分でポーカーなどしかねないから、渋々帰った。裄夜は、何だかあの、泥と水の、不可解にまとわりつくような、匂いが気になり、幾分か住み慣れつつある場所に戻って休みたかった。
(そうだ……今は、平穏無事に暮らしているつもりになっていることも、あるけれど……本当なら、非常事態だ)
非常事態が長く続くと、人間、どうしても感覚が麻痺して慣れていくらしい。本来の居場所であるところの、実家にも、元の学校生活にも戻れず、まるで見知らぬ地でまるで知らない人たちと暮らし、それがいつのまにか当たり前になりつつあった。
キセの、ことも。
思いながら、裄夜は、自分の寝床に入る。辺りは住宅街で、静かだ。
非常事態だキセだ何だと思い出しながらも、裄夜は一つ、大事なことに気が付いていなかった。普段なら、住まいであるこのマンションに戻れば一度や二度は姿を見せる筈のキセが、その日はまるで戻らなかった。そして、それにあわせたように、裄夜は、一つの事実を思い出した。
夢という、無自覚に理性のタガを失った世界の中で、何かを掴んだ。
言い忘れていたことがある。
(何でいちいち、忘れるかな)
あれほどはっきりと見たのに、今の今まできれいに忘れていた。
この間の旅行、玉竜と伝説、オチミズなどに関わることを調べに行ったのに、何の収穫もなかったことに「なっていた」。
本当は違う――裄夜は額を押さえ、ため息をつく。部屋の時計は三時半を指している。ぼろぼろと崩れてくる土壁のように何かが分かっては、すぐに他のことに気をとられ、あるいは寝ぼけたついでに忘れてしまう。まるで世界に騙されているような、道化のような気がしてくる。
(今は、うん、思い出した)
キセはほぼ間違いなく、玉竜の子だ。
(覚えてるうちに、書かないと)
机の上に手を伸ばし、ボールペンを掴む。かち、と安っぽい音を立てて芯を出した。
「……書くものが、ない」
薄暗い部屋の中、ベッドから這い出した裄夜は、じっと自分の手を見つめた。
*
「本当に必要なかったの?」
不要だと。
生まれる前から決まっていた。あの頃玉竜は血を分けた物事について興味関心をまったく抱いていなかったのだから。
小さな声。ささやくような声と――明晰な夢。
首に手を当てる。裄夜はひきつれた咳をしてから、瞬きした。
強い憎悪と、そこはかとない不安、恐怖。暗闇から感じられるのは安堵と、そして、
解放。
「キセ」
呟いても、答えるものは何もない。
襖の影で、布団を頭から被って丸くなった日向が、何故か鼻の先だけ布団の長辺からのぞかせて寝息を立てている。二つとった宿の部屋のうち、一室に、二人は押し込められて眠っていた。舞台はオチミズの眠る山、だと思われた場所。
もしも伝説通り、この場所が、玉竜の降りた地であるならば。
玉竜の子であるキセが、反応を示さないわけではないのだ、多分。
おそらく――生々しい手のあとが、視界に入る。鎖骨の下に、爪で引っ掻いたあとが残されている。それは女の手のものだ。この場にいる誰でもないもの。過去が引き起こした残像。幻。
符崎キセは、京都とも奈良とも離れた、それでいて近い場所で生まれ育った。山中にある村は、商売をする者だけが移動し、定住民は稲作と畑作で暮らしていた。稲作から得られるものは微々たるものだったが、それでも、税をおさめるように通達したどこかの「偉い人」の言葉を、面倒そうに村人は受け入れていた。土地などここに住む者の物なのに。そう言った近隣の村の老人があっけなく首をキレの悪い鉈ではねとばされ、恐慌に陥った村人が使者を殺し、おかげで虐殺されたこともあった。それで、この辺りではそれなりに黙って、少ない食糧を渡している。
キセはそのころ、ただのキセだった。珍しくもない黒髪の少年は、まだ骨ばった細い手足で、岩石で出来た斜面を駆け上っては、野山の菜を集めていた。あるいは、よくしなる蔓と細い枝でもって弓矢を作った。切れ味の良い石器は、川底よりも山からのほうがよく取れたが、磨いてモノになるのは川の石の方だった。鋭く研いだ小石を懐に入れた布きれにおさめ、彼はその日も、兎を捕えて足を括り、背に負って歩いていた。
遠くで、人の声がする。清水の小川で顔を洗ったキセは、機敏に背後を振り返る。普段から兎や蜥蜴、トンボにバッタの気配ならすぐに気づけた。けれど、人の気配や食用ではないものについてはあまり勘が働かない。瞬いて、キセは首を傾げる。拍子に、水にかすかに顔が映った。
村人と決して仲が悪いとは言えないが良いとも言えない、その理由であるのは、キセの持つ目の色彩だった。キセ自身は見たことがないが、どうやら自分の目玉のそれは他の人の色とは違うらしい。獣と同じ色だと言われたが、見たことがないのでさすがによく分からない。ただ、嬉しくはないと思った。この顔かたちと色の所為で、キセを生んだ女は、キセを手放すのを拒みながらも、依然として、殺意を抱き続けている。
今も。
木の葉を集めて口に入れていると、突如として背後から突き飛ばされた。思わず手を突いたが、掌に鋭い痛みが走る。勾配のきつい斜面を転がり落ちながら、キセは石の食い込んで残った手を握りしめてから、次に迷わず、木の枝を掴んだ。痛みが麻痺してくれることを祈りながら、体を起こす。その頬を、履き物を履いた足が蹴った。二度、三度と繰り返されるうち、女の足から履き物が脱げた。キセの手がそれでも木の幹から離れないのを見て取るや、彼女はうねる黒髪を振り乱し、何事か叫びながら両手の爪で息子の顔を押さえつけながら引っ掻いた。
泣きわめくから、下にいるキセの頬に涙と唾と鼻水がしたたる。眼球に涙を落とされ、視界を塞がれたので、キセはとっさに、拳を避けることが出来なかった。
鈍い音を立てて、体が斜面を再び落下していく。跳ねた体が数度斜面に叩きつけられながら、苔むした朽ち木に落ちて、落下を終えた。
息を荒くした女が、素早く駆け下りてくる。哄笑すらしない。ただ怒鳴る。あのひとがいなくなったのはおまえのせい。おまえなんて生まなければよかった、
行きずりの男と――神のような威厳と気配、それに植物を根付かせ戯れに人の病を治して見せたあの人間には見えない男、彼と関係をもった彼女が悪いのだ。そもそも母が、あの男が決して人間になど人がもつほどの情は持たないという事実に気付いていながら心にフタをしてごまかしたのが問題なのだ。すべての発端。
生まれざるを得なかった親のない子供は、常に飢えの危機を抱きながら、それでも、どうにか生き延びていた。去りもせずに居座る子供に、村人の目も冷たい。それでいて強くは追い出そうとは出来ないのだ。神が残した子供だから。厄介な、子供。疫病でも起これば、即座に殺されるような状態だった。「犯人」は、神の子でありながら何も出来ず、またそもそもただの化け物の残した厄介な布石なのではないかと思われるような存在、そんな彼ぐらいしかいなかったのだから。
言葉数の少ない子供には反駁の術がなかった。何一つ満足には言い返せなかった。
母親に未練はないが、ただ、存在を拒否されながらも食べて生きて朝廷におさめる税のかたはしを担わなければならないという現状があって、生きていなければならないのに何故生きていてはならないと糾弾されるのかが理解できなかった。そのころ、商売人や役人についていけるほどこの村に来る彼らはあいにく甘くなく、子供の足で三山程度なら簡単に超えて行けても、その先どこでどう生きていくのか、この場所を離れるには未練が尽きなかった。
踏みつけられ、もみくちゃにされながら、キセは見たことのない父親を呪った。それでいて、ならばどうすれば良いのかと不安に思う自分も居た。
首を絞められたのは何度目だっただろうか。なかなか死なない息子は、仮死状態になって動かなくなると、即座に母親の手によって水につけられ、起きろとどやされ、金切り声で懇願された。死なないでくれと。死ねと言いながら死ぬなと言う。意味が分からない。そうしたことが日常茶飯時的に繰り返されて何年が経過しただろう。
あるとき、一人の僧が村を訪れた。
南の岬まで旅をしており、そこから都へ戻るようにと望まれたのだという男は、もう随分と老いていた。村の人々が一夜泊めてやったが、キセはそれを知らなかった。村はずれで、火を隠しながら焚いて、捕った鳥を食っていた。明け方、また母親に発見され、追い回され、首を絞められた。
意識が朦朧とし、かすみがかった視界に、ようやく救いのように声を落としたのは、他ならぬその僧侶だった。
「死にたいか」
かすかに届いた声に、涙で呼吸もままならなかったキセは、びくんと跳ねた。押さえつけてくる女の顔から髪の毛が落ちかかり歯科医は本当に黒く染まっていた、白ではなくなっていた、辺りに満ちた霧がようやく見えて、キセは、うめき声をあげて女を蹴った。がむしゃらに手足を振り回して暴れた。
「生きたいのか」
うあぁあ、と獣じみた声しか出なかった。肩で息をして、我に返った頃、女は人二人分ほど向こう側に転がり、嗚咽しながら、それでも未練がましくこちらを見ていた。
「あ、あ、」
女の声が、辺りに響く。
夜明けの鳥が、声を立てて飛び立った。
「生きたいのならば、付いてこい」
そのときどうしてだろう、キセは、逡巡してから、後を追った。その僧侶の、後を。
山を越えた。いくつ超えたか定かではない。ただ、相手は老人のくせに異様に足が速かった。背も曲がりかけていたがそれでもぴんと立っており、すり足めいた歩測だが岩など一瞬でひらりと越えた。子供の足のキセがそれを追うのは、実際至難の業だった。歩幅が小さく、またさほど遠くまで旅をしたことのない体には、一日ならば歩ける行程も、速度をあげた上に七日以上ともなると、無理が出る。ほとんど休みなく歩いたあと、暮れ上がった空を見上げて、老爺が言った。
「まだ付いてきていたのか」
見くびるような口調と鼻先でのかすかな笑いに、キセは怒りで視界が赤く染まるのを感じた。
必死で追いかけてきた、それはこの男の、付いてこいという一言のためだったというのに。
両手で膝をつかみ、やがて倒れ込んだキセに、男が、そのままの口調で告げた。
「名は?」
キセは徒労のひどさを感じながら、どうにか「キセ」とだけ答えた。男は頷いてから、口を開いた。どこか億劫そうにも見えた。
「そうか。私は深淵という。これから都に向かうのだが……そうだな、キセという名だけでは不都合がある。符崎キセとでも名乗ると良い」
「ふざき……?」
「そう。名前が一つしかないならば、増やして、そこから削り取る。符崎キセであればキセという名で呼ばれても不完全、符崎キセと呼ばれても、お前はキセだから不完全。およそ呪詛に不適当な名に還元される、言葉遊びのようなものだが」
なぞめいた笑みを浮かべた男の顔に、克明に皺が刻み込まれる。それがすぐに笑みを消され、闇の中にとけて消えた。
「今日はここで休むか」
ささやくような声だけが、辺りに響いた。
キセは火をおこしてくれないかと頼まれ、ようやく、自分が一人ではなくなったのかもしれないと気が付いた。
あれから何世紀の時が経ったのだろう。子供だった者は大人になり、やがて歴史の舞台から姿を消した。
今ここにいるのは、水瀬裄夜。符崎キセは、もういない。
(筈、なのに)
どうしても胸騒ぎがする。自分であると言われたが、どうしても、キセの感情は知人のそれを逸脱しない。
憎しみからは何も生まれないと言う。
けれど、そこから這い上がった人間を見ていると、そのエネルギーの大きさには、戸惑いを覚えざるをえない。
キセは今も、まだ、あのときの思いに囚われているのではないだろうか。
裄夜は問いかけてみたかったが、キセは決して目の前には現れてくれなかった。
部屋の隅に向かって、日向が寝返りを打って転がった。
*
「耳なしほういち!?」
居間にいた日向は、ぼんやりとした顔であらわれた水瀬裄夜に悲鳴をあげた。
玉竜はキセの父、母は人間、色々あって深淵という僧侶に拾われ、京へのぼる。裄夜の体に、そうペンでくっきりと書かれていた。それぞれ十回以上ずつ、二の腕や着衣の腹や膝辺り、足の甲、手の甲、胸元、素肌の左腕などに散らばっている。
「いや、忘れまいと思って。朝ふっと目が覚めて、前に旅行に行ったときに夢で見た筈のこと忘れてたことに気づいたんだ。それで」
「へぇ……この色々って何?」
「……何だっけ」
寝癖のついた前髪を揺らし、裄夜は斜め前に首を傾げた。
「何だっけ? しんえんって誰?」
「裄夜が見た夢でしょ、何で私が知ってるのよ」
「だってシズクだし」
「だったら、裄夜だってキセじゃないの」
「あれ?」
台所でぼんやりと立ち、裄夜はしばしくうを睨んだ。
「――寝直してくる」
「寝ぼけてるね、相当」
防衛本能からか、人は見た夢の大半を、綺麗さっぱり忘れてしまうという。
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