第三章 したいのしたに

第三章 したいのしたに

  *

 少年は傘を畳み傘立てにつっこむと、ローライズのジーンズに真っ白なシャツの女を捜した。

 シャツの胸元には真っ赤なイラスト。

 入り口で迷っていると、少年はウエイターに声をかけられ、右往左往して慌てている。

 仕方ないなあ。

 彼が困るのを眺めていた女は、ため息をついてアイスコーヒーを飲む。からからから。品よく細い、白いからだのストローを指先でもてあそび、十二分に間をおいて、彼女は片手を振り上げた。平らげたパフェのガラスに、いくつかの影が映り込む。

「ゆきやくーん」

 こっちこっち。

 ひらひらひら、と手首をふり、水上茅野(みずかみかやの)は隣をたたいた。

 正確には、喫茶店の、自分が陣取った席の隣の椅子である。

 店員からも解放され、おそらく羞恥のためだろう、少年はすこし頬を上気させ、急ぎ足でこちらに来る。

「さ、座って」

「どうも」

 いまひとつノリの悪い少年は、生真面目に礼をして、向かいの席に腰を下ろす。

 かわいー顔してんのにつまんなーい。

 まだ短大に入ったばかりの茅野は、実は同い年という、少年の顔をじっと見つめる。

 これがうわさの「いちぞく」の人間か。初めは気構えもあったものだが、今となっては、一族であろうとなかろうと、感覚がそう違う者ではないことがちゃんと茅野にも分かっている。

 明治頃から急速に近代化が進んで、それと前後するように、人でない者はいっそう人のなかに入った。

 闇が薄れ、知の曖昧な部分に紛れる彼らは科学によって生きにくくなり、結果、その中になじむことで生き残りを計った。

 人ではないことに生きるのではなく。

 ひと、として生きるようになる。

 茅野は肩の辺り、くるくるとウェーブをかけた髪をいじる。

「ばーちゃんがいってたっけなあ」

 人として、人と交わって暮らすうち、人か否かを忘れてしまう。

 茅野の家は祖母が健在でまだ「いちぞく」を覚えているが、両親はそんなことはおとぎ話だと言って信じはしない。茅野はかろうじて、みえないものをみる人だったので、ま、んなこともあるかもねー、などと思ってはいたのだ。

 首を傾げている少年を見て――いや、年齢的には青年か――茅野は本題に戻ることにする。

「出たんだって。いぬがみ」

「イヌガミ?」

 アイスコーヒーに沈んだ氷は、あらかた全部、溶けている。それをしつこくからからと回しながら、茅野は重々しく頷いてみせた。

「親戚筋、私のひいひいおばあちゃん辺りが傍系らしいの、スガ、菅浩太。あいつ検屍官になって一年か二年なんだけど、今朝のニュースとワイドショーを騒がせた事件のアレ、イヌガミの仕業じゃないかって電話よこしたんだ」

「イヌガミって――なんでしたっけ、使い魔?」

「やーね知らないの? イヌガミ」

 すいません、まだ日が浅くて、と謝ってしまう少年に、卑屈、と呟いて更に硬直させ、茅野はふつうに話し出す。

「犬の神ってかく犬神。一時期ドラマとかではやってたじゃん平安時代物とか。アレでけっこう知名度あがったと思ってたんだけど。大事にしてた、まさに愛犬ってかんじの犬を、殺して、頭を土に埋めるのよ。それでできるだけ沢山の人に上を歩いて貰うの」

 恨みや、他人のエネルギーや、飼い主への憤り、愛、さまざまな思いを使って、犬神は誕生する。

「あんま見たこと無いし、あたしもよくはわかんないけど、たぶんそんな感じ」

「そうなんですか」

「ほんと、なんも知らないんだね」

 一ヶ月前、本家の使用人の頭目、明良忠信に呼ばれ、面白そうだから参加を決めた少女は、銀月の一族の遺物が面白くてたまらない。遺物――たとえば目の前の、人ではないという少年。

「ええと、キセだっけ」

「水瀬です。水瀬裄夜(みなせゆきや)」

 あれから何度か接触したが、彼はいつもかたくなに言い張る。

 自分は水瀬裄夜だと。

 だろーねー、と茅野は重要そうでもなく思う。

「ゆっきも大変だね」

「は?」

 眼鏡の似合う少年の、瞳の奥はまだひとだ。キセなら瞳孔は漆黒なのだが、虹彩の光は金色をしていたという。裄夜はまだ茶色だった。光にすけると金色に見えないこともないが、人間離れして見えることはない。

「金の稲穂のてっぺんみたい」

 彼女は独特の感性をしている。

 裄夜は一ヶ月で、彼女の言動を深く考えないことにしていた。

「ともかく、犬神が、あの殺人事件に関わっているんですね」

「断定はしてないよ。でも、なにせ検屍官の言うことだからね。アレでなかなか鼻は利くんだ、転がってるものならあいつの推理を逃れるものはない」

「検屍官……今回の件の担当ですか」

「そ。明良に言ったら、裄夜に報告するように言われて。ゆっき、なんでケータイ持たないの」

「要らないですよ、そんなの」

「ツカイマもシキガミもないくせにさー、不便じゃん充分」

 考える時間はなくなるし、相手の迷惑も引き裂いて踏み込むけれど。

 だからこそ、いま、一族には必要なのだ。

 孤独は最大の落ち度となる。

「今回のテキはね、ぜんぶ一人のときを狙うんだって」

 茅野はポケットにつっこまれた電磁波の塊を思う。

「ひとり。いろんな意味があるけどね。みんなといても、ひとり、ってあるじゃん、あはは」

 なにがおかしいのかよく分からないが、裄夜は曖昧に頷いた。

「で。とにかく、どっかと繋がれば助かるんだって。電話って、空間ぶち抜くんだってね、結界も無関係に。ぶちぬいて、で、ひとりを回避する。なんか夜道でわざとケータイかけるみたいだよね、痴漢の牽制っていうかさ。ちなみに今回のテキ、物理法則にしたがっちゃうから目くらましはあんまり効かないんだって」

「つまり?」

「結論を急ぐ男は嫌われるよ、女は急がすのは好きだけど、急がされるのは大嫌いなの」

 年齢は同じであるはずだ。だのに、あしらいでは茅野の経験が上である。彼女はにやりと口の端をあげ、コーヒーを飲み干した。

「やばくなったら電話をかければいいってことさ。今回に限って、なんだろうけど。明良もオッケー出してたし、たぶん効果的だと思うよ。さて」

 新しい客の分の注文を取りに来たウエイターを追い返し、茅野は伝票と税込みで代金を渡す。レジまで来るように言われても、払ったではないかと言ってきかない。彼女は裄夜を連れて歩く。厨房を抜けて、ウラの素っ気ない非常口に向かう。

「お客様、困ります」

「お黙り、客が死んでもいいって言うの」

 茅野は傲然と言い切って、携帯電話の液晶画面を店員に見せた。

「呼び出されてるのよ、あんのバカ王子に」

 それとこれとは、いったいなんの関係があるのだろう。

 たぶんない。

 裄夜は肩で風を切る女を眺めやる。

 なぜ茅野が呼ばれたのか。

 理由はしごく簡単だ。

「来るよ」

 茅野は店員をついに押しのけ、かん、と高い音を立ててコンクリートの階段を踏んだ。

「ああ店員さん、できたらお客をテーブルの下なんかに押し込めるといいよ」

 彼女はウインクしながらささやく。

 そして、いきおいよく下り始めた。

「フィールド、広いほうが戦いやすいんでしょ」

「いやーまだほとんど戦力にはならないんですけど」

「ないよりまし。あたし分かるだけだから」

 彼女が呼ばれた理由はこれ。

 比較的小回りが利くという点も買われたが、最大の原因は――音と匂いだ。

「こっちから出よう、入り口はやばい」

 一階まで降りて、彼女は迷わず女子トイレに飛び込む。

「茅野さん!」

 裄夜もさすがに女子トイレに連れ込まれるのには抵抗したが、結局は緊急事態に理由を置いて、茅野のあとに続くことを選んだ。

「よしっ、開く!」

 がん、と小窓を上に引き上げ、首だけ出して周囲確認した茅野は、裄夜を手首で呼び寄せた。人が来ないように祈りながら、裄夜は彼女に近づいていく。


 茅野は聴覚と嗅覚がいい。人の基準値ではとうてい把握できないものまで拾うことがでる。それは生来のものであって、その気になれば「閉じたりもできる」らしい。

 絶対音感保持者がそれをオンとオフに切り替えるように、彼女の場合のある種の霊感は出力調整ができるのだ。

 できない場合も、多いのだが。


「何が来てるんですか」

「なおんないねー敬語。いいけど別に。来てるのはさっきのヤツだ。噂をすれば影がさす――ちょっとはやすぎだけど」

 つけられていた、と考えるのが自然なほど、気配はぴたりと戸口に付く。

 茅野は人目もはばからず、するどい舌打ちを繰り返した。

「効くかどうか、だな」

 鈍く、コンクリートに何かが当たる。茅野が急ごしらえで行なったことが、確かに相手に効いていた。

「いかん――!」

「へ?」

 急に裄夜が茅野の体を抱え上げた。

「うわーゆっき積極的」

 冗談でも言っていないと、悲鳴を上げていそうだった。

 窓枠に足をかけて越え、狭い路地を一気に抜ける。何事かを呟いて、裄夜は真後ろについて来る、黒い塊を睨んだ。一瞬だけ怯んだ獣は、しかしてらいなく牙をむく。

「雑鬼が」

 犬の形に見えなくもない、影の周りをいくらかの影が追う。

「犬神、といったな」

「え、ええ? あたし?」

「あれは犬神か? 俺にはそうは見えないが」

 なんとも言えない腐臭が漂う。もしや、と思って茅野は男を見上げようとしたのだが、邪魔になるので押し戻された。

「かおのないもの、犬神に似たもの――」

「ひょっとしてキセ?」

「……水辺はどちらだ」

 少しやんでいた雨が、再び路面を濡らし始める。

「水、あるじゃん」

「……そうではない、もっと大量に」

「ン」

 きれいにそろえた爪をかむ。

 水、水?

 裄夜がここまであからさまに、態度を変えるのは初めて目にした。

 唐突にうめいて、茅野は言った。

「おろして」

 道ばたに立つと、往来の人が波が引くように流れていく。それはそうだ、成人男性であっても女性を横抱きに抱え、走れる者はそうはいない。まだ高校の制服を着用しているが、若者らしくないさまで、ひどく鋭く一点を見る。

「早く」

「これ壊して! 中から水出るから」

 軽く構えて先程出てきた路地を見ていた少年は、叫ばれて振り返り、ぎょっとして少女を止める。

「茅野さん、それっ」

「いーじゃん死ぬよかぜんぜんましっ」

 消防用のホースを引き出し、茅野は裄夜に投げてよこす。

「あとで困るじゃないですかっ」

「防火水槽探すとかよりいいじゃんかっ」

 うるる、と喉の奥で啼き、黒い、日の下では犬にしか見えないモノが出てくる。

 人間の方もうめきたかったが、やむを得ず、左でインを結んで短く命ず。

「贏輸(えいゆ)、贏をとる」

「させぬ」

 応じたのは、犬ではない。

 往来から、何者かの声がした。

 即座に右手で指を折る。

「エイキョ」

「御前に」

「逃がすな」

 短く言って裄夜は続ける。

 大量の水は踊るように宙へ浮かび、蛇を模して鎌首をもたげる。

「いくぞ」

「これほっとくの?」

 茅野には怪獣大戦争のように見えるのだが、周囲にはどのように知覚されているのだろうか。

「用が済めばきえる。じき片が付くだろう」

 水の蛇と犬神のようなモノは、術者不在でケンカをしている。

 なにくわぬ顔でその場を立ち去ろうとした裄夜――キセだろうか、彼は不意に膝をついた。

「どうしたのよ」

「ッ」

 口元をおさえた指の隙間から、音を立てて血が流れる。

 悲鳴を飲み込み茅野は見る。

 そういえば蛇は少しおされていた。やはり術者と術とは関係するのだ。そうだとしたら今の裄夜の状態は、蛇の状態と関わっているのかもしれない。

 いや、蛇の体に傷はない――だとしたらこれはナカの問題だ。

「裄夜っ」

「蟲か、強情な……っ」

 息継ぎの間にそう呟いて、裄夜は瞳を天へと向ける。

「いよいよ、これは犬神ではない」

 唐突に声にならない悲鳴をあげて、路上に転がる少年に、周囲がようやく動きを見せた。

 彼らには犬神も蛇も見えてはいないのだろうか。

 一人のサラリーマンがこわばった顔で声を吐き出す。

「救急車を呼ぼうか」

 まだ残っていたのか、という視線を向けて、茅野はわずかに首を振る。

「いい、まだいらない」

 たぶんいらない、移動したとしても不利は変わらない。

 今ここで戦えるのは、キセだったはずの裄夜しかいない。

 往来で悲鳴があがる。

「エイキョ……やられたか、」

 やや遠くでどさりと重たい音がする。粘液質のその音は、アスファルトに生き物がたたきつけられたことをあらわしていた。

「やはりまだ、つかえ、ぬ、な」

 どす黒い、自分の吐いた血で白のシャツをまだらに染めて、なおもかすれる声で言う。

「裄夜が、まとも、に……っ、戦え、る、までは……先が、長い」


   *


「わー、降ってきたね」

 少女は本当に面白そうに、脳天気にカーテンを掴んで外を見た。

 ぱたぱたと安普請の屋根をたたき、雨が軽快に音楽を奏でる。

「裄夜大丈夫かなー」

 学校とは打って変わって、彼女は自然な調子で名前を呼んだ。

「さとみ先輩、すいませんね、こんなとこで待たせちゃって」

 首だけ振って少女に応え、里見孝は勧められた緑茶をすすった。煎れてずいぶん経った茶は、鮮やかな緑をくすませており、その底には細かい茶葉がよどむ。

 孝はしばらく液面を眺めていたが、思い切って声を出した。

「どうして僕を連れてきたんですか」

 小首を傾げる少女の仕草が、やけに完成されて見えた。からくり人形を見たことがあるが、隙だらけなのにつくりものめいて隙なく、精巧であるがゆえに不安をあおった。

 正体が不明であるがゆえに不安という。恐怖ではない。

 中津川日向なかつがわひなたと名乗った少女は、兄であるという水瀬裄夜の住む一室で、じっと孝の目を見据える。彼女に対してやましいことは何ひとつないが、視線の強さにたじろぐように、孝は顔を斜めに向ける。目を逸らされて、日向はすこし口角を下げた。

 この表情が見えたりしたら、この少年はまた居心地を悪くする。

 日向も前までそうだった。ひょっとしなくても、今でもなにも変わっていないのかもしれない。

 誰かの迷惑にはなりたくはない、だけれど迷惑になってしまうことをしてしまわずにはいられない。人は矛盾に満ちている。

 秋葉、元気かな。

 おさななじみの男を思い出し、日向はぼんやりとしてため息をつく。

 向こうはどうせ覚えていないだろうが、日向は彼をすげなくあしらいもしたし、都合のいいときだけ頼ったりもした。そんな自分が嫌になったりもしたが、どうしても、変えられなかった。きっとどこかで、傷つけた。

 日向は今、二年の校章をつけたセーラー服を着用していた。

 本来ならば今年の春にも、あの高校を卒業しているはずだった。

 いったいどこを踏み違えたのだろう。

「まずい……」

 さきほどの深いため息で、呆れられた、負担になったと怯えているような孝を通り過ぎ、日向は視線を玄関に向ける。

 一人暮らし向きの、一室にキッチンと風呂、トイレのついたアパート。

 近くに大学があるから、ここも大学生や専門学校生、一人住まいのOLやサラリーマンが夜中だけでも帰ってくる。夕方ともなれば、人の気配も当然だった。

 しかし、これは果たして人と呼べるのだろうか。

 ちり、と産毛が逆立つような、奇妙な高揚感が体を走る。

 日向は渇いた喉の奥に、むりやりつばを押し込んだ。

 気配がとまる。

 今さっき、日向はうっかり見過ごしていた。

 今回は一人になってはいけないのだった。

 これは先程、裄夜が孝を連れ帰ってから、かかった電話で明良が告げたことだ。


 一人で居ると、ひとは輪郭を見失います。


 明良はせわしなくファイルをめくる音を立てながら、受話器を掴んだ日向に言った。

 今回われわれは問題のウタウタイの真偽を確かめ、該当すれば回収するというだけの作戦を立てていました。しかし実際あなたがたに動いてもらって、調査だけでは出てこなかったモノが見えました。私はあなたがたが出ていく有用性を疑っていたのですが、小手調べとしても大きすぎる相手が出てきたようです。――これは我々一族向きの事件です。


「里見さん」

「はっ、はい?」

 急に呼ばれ、孝は裏返った声でこたえ、立ったまま玄関をにらみつけている少女を仰ぐ。

「どうかしましたか?」

「あなたを見つけた裄夜は、ただ何かしてあげたかっただけだと思います。道ばたで、そんな、泣きそうな顔で、――そんな捨てられた子犬みたいな目で見られたら、声かけずにはいられませんって」

「犬」

 頬を赤くした孝と思わず目が合い、日向も顔が赤くなる。

「うわなんで照れるんですか里見さん先輩」

「だって捨て犬だなんて、うわ、なんか恥ずかしい」

「かっ可愛いじゃないですか」

「男が可愛いいとか言われても、あんまり――むしろあなたのほうが」

「え」

 混乱してきた二人組は、そのまま見合って、数分経ちそうな勢いがあった。

 しかし、沈黙は破られる運命にある。


   *


 腹の内からすべて吐き出し、赤黒い中の一点に手を突き入れた裄夜は、何かを掴んで思い切り投げた。空を飛んでいたカラスが、意思あるようなそれを飲み込み、不可解に身をよじって地面に落ちた。

「ばく」

 やけにすっきりした顔で、裄夜は両手で何かを結ぶ。

 カラスはもだえ、なきわめく。

 やがて断末魔の叫びを挙げて、カラスは黒い羽をあちこちにばらまいた。

 最後の血の一滴まで吐きつくしたような色にそめられた地面だった。裄夜はつばを吐き出すと、荒い息を整える。

「なんだったの、いまの」

「呪術のたぐいだ」

 茅野に答え、裄夜はぜいぜいと鳴っていた息を次第に回復させた。

「蟲を放って、狙った相手を蝕んでいく。操ったり、用途はさまざまだ。今回の相手は、なかなか我流の使い方をする、これは正規の術者ではない。俺たち同様に」

 一拍を置いて、再び告げる。

「しかし、蟲とイヌガミまがいは主を別のものとしている。それは確かだ」

「追わなくていいの?」

「どうやって?」

 金色にも見える、光に透ける目がこちらを見ていた。

「どのみち俺は動けない、術は裄夜にはまだ使えない。まして詠出ではヤツが上だ、勝ち目はない」

 片手を付いて、やけに軽々と起きあがる。ぱん、とズボンの裾をはたき、裄夜は細めた目で空を仰ぐ。

「エイシュツ?」

「うたをつくることだ」

 わずかばかりの間をおいて簡潔に応じ、男は迷わずきびすを返す。

「性格は悪いが、穎悟(えいご)な男だ……」

 相手の賢さへ賞賛ともつかぬ声を投げ、裄夜はふっ、と気を抜いたかと思うと、そのまま地面に倒れ込む。

「うわっまじで?」

 儚い期待はやはり儚い。

 自力で立って歩いてよ、と祈りながら、茅野は眠っているようにしか見えない男の頬をたたいた。

「寝ちゃ駄目ー! 起きろバカーッ! こんなか弱い乙女に運ばせる気かよー!」


   *


 唐突に、犬の鳴き声がした。

 喉の奥でうなる声。

 それらは敵意を隠そうともしない。一匹や二匹ではありえない息づかいがドア越しにも伝わってくる。ときおり前足でドアをかくのか、爪が耳障りな音を立ててこちらの気をあおった。

「里見くん、最近犬に恨まれなかった?」

 いつのまにか敬語が消える。

 孝はしずかに首を振った。犬をいじめた覚えはない。第一、最近ずっと、通学でしか外を出歩かない。通学路には犬を飼っている家があっても、顔を合わせた犬は少ない。

「じゃあ、犬を飼ってる人」

 ない、と応じようとして。

 孝は一気に胸が詰まった。まるで自分が体の中に綿を詰められたぬいぐるみにでもなったかのような気がした。体が重く、床に沈み込むようだった。

 過剰反応だ。

 そう言い聞かせても、反応は止められない。

「いや、だ」

 口からこぼれ落ちた言葉に、日向が首を傾げるのがわかる。

「もういやだ!」

 涙は出ない。

 それでも声はかすれ、ほとんど自分の耳にも届かなかった。

 急に静かになる戸の向こうで、女の短い悲鳴があがった。足音。無数の足音が軟らかい肉を踏む。憤然とドアに向き直った日向は、次の瞬間、意識が切り替わるのを感じていた。


 犬は、なわばり意識を持つ。

 本来は群れで動きはするものの、犬は本来、部外者にひどく警戒心を向けるものだ。

 最初孝は、犬が屋内にいるのかと思った。だがいくら見回しても、どこにも犬はいなかった。猫のケンカは夜中に聞いたことがある。それより激しく応酬が始まる。

 孝はほとんど無意識に耳を塞いでいた。

 日向のほうはあえてみない。

 人間が獣のような声をあげる姿は、なぜだか肺腑の底が震えたから。

 目を背けた孝の耳に、外のうめき声が容赦なく入り込んでくる。

 ここにいるものは何も手出しをしていないのに、水音と共に壁に何かがたたきつけられた。どんどんと鈍い音。弱った犬の、降参を示す声、それを遮るかのような家鳴り。

 そして急に沈黙が覆った。

「どうして」

 青ざめた少女は、ドアから二、三歩しりぞいた。

 やりとりとしては成功していた、それなのに突然、外の獣は何かにやられた。

 シズクの交渉は成功したのだ、どちらが上かを知らしめるには、すこし気配をあらわせば事足りた。主人に帰って伝えるように、シズクは確かにそう伝えた。できそこないのようではあったが、相手はまぎれもない、世界に現れるのに獣の姿を借りたモノだ。お互い、成り立ちの似たものどうし、あの不安も恐怖も、主人の悲しみも痛いほどよく分かる。

「どうして?」

 右頬を涙が伝う。胸を痛める悲しみもないのに、締め付けるような違和感があった。

「シズク、あなたは、にんげんじゃないのね」

 主人が居て、彼女は悲しみのあまりシズクを産みだしたのだ。

 彼らもまたシズクと同じ境遇だった。

「痛いのに、痛いから暴れるのに、まぼろしはうみだしたひとのものなのに、うみだしたひとの影響を受けるのに」

 なぜ、急に、あの犬たちは、ばらばらになったのだろう。

「どういうこと、よ」

 少年は悲鳴を喉の奥で鳴らした。発作のように息が上がって、ひきつってうまく呼吸できなくなってしまう。日向の声も聞こえない。孝は両手で口元をおさえる。震えてうまくふさげない、それでももう、何かを言ってはならなかった。

 互いにパニック状態の中で。

 ばたばたと雨の音が響く。

 廊下に生きた気配はない。


 そして電話が鳴り出した。

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