第三章 箱のない庭

   *

 急がなくちゃ。

 せわしない人の波は常にそういった思念を彼に送る。すれ違うたびに足場を見失いそうになる。眩暈を起こしたときのように空が遠い。そこを踏みとどまって両足で地面をしっかりととらえる。足裏が固い歩道の石を認識するたびに、孝は自身が呼吸し生きている生き物なのだと確信することができて安心した。

 公園のそばを抜けて、わざと人通りの少ない道を選ぶ。木の枝と葉をすかして見える空はひどく眩しい。けれど小鳥の影がちらほらと見え、その気配は孝を恐れさせない。

 恐ろしいのはコンクリートの壁の中に閉じこめられた状態だ。

(あそこには声がなかなか通わないから――)

 どうしても、気分をもふくめた通気性の関係で人の柔軟性を疎外するような気がしてならない。これは確かに孝(こう)個人の意見だが、今住んでいる場所も高層マンションであるし、別に住み心地も悪くない。意見はあるが、さほど強く押し通せるほど彼自身に確信があるわけもなかった。

(何で、だろうなぁ)

 自然と受け入れてしまった慈雨爺(じうじい)の存在など、ちらりちらりと視界をかすめる不可解なものたちは、果たして孝の正しい感覚器官が得た認識なのだろうか。

(……でも、疑えるほど自分のことは、知らない)

 迂回路を終えて、人や車の多い道に戻った。途端に息苦しい気配に囲まれ、孝はかすかに眉をひそめる。不快ではないが、自然の流れの中でとぎすまされていく感覚にはこの感触は重たすぎる。

(昔より人が多いから……どうしても世界はひずみやすくなる……あれ?)

 呼び止められたわけでもないのに、孝は思わず足を止めた。

 吸い寄せられるように視線がとまる。

 一人の少女に。


 彼女もこちらに気付いていた。口角をあげてにいっと笑った。

「そん、な」

 バカな、と、孝が呟くのにつられて往来でざわめきが広がる。すべてはウタウタイのために動かんと欲する諸々の所為だ。その証拠に行き来する人々は特に孝たちを構うことなく日々の生活にいそしんでいる。この気配の、こちらへの集中は、紛れもなく人ではないものによる物だ。

 孝は慌てて気を落ち着け、少女のことを確かめるようにじっと睨んだ。

「各務瑠璃子(かがみるりこ)?」

 途端、癇癪玉が爆発したように彼女が笑い声をあげた。

 それは紛れもなく肯定の証。

「自分が殺した相手の顔は、ちゃあんと覚えてるもんなんだ?」

 くすくす。

「君は誰」

 周りからは――周りの、人ではないものたちからは、孝に逃げるようにと呼びかける声は聞こえては来ない。ただ、戸惑いと不安に満ちて孝を見ている。――人間たちは行き過ぎるばかりで、学生二人の異様な再会に目を留める者は一人としていなかった。

「各務さんは、亡くなったはずだ」

「あはははは! ホントに!? 信じてるんだ!?」

 可笑しくてたまらない、といったように彼女は実際腹を抱えた。そして不意に口を閉ざす。その振幅の大きさに、孝は得体の知れ無さを感じる。

「……ヨミガエリって、あるんだよ」

 ほら、と瑠璃子はだらしなく開かれた長袖の袖口を胸元に掲げた。

「これだけ傷つけても人間は死なない」

 ぐるぐると巻かれた包帯は、その下にどんな肌を隠しているのか表には見せない。

「頸動脈切るぐらいじゃないと人間は死なないんだって。でも、飛び降りたくらいでもしばらく死ねないけどねえ」

 各務瑠璃子はかつて学校の屋上から飛び降りた。

 葬儀は執り行われた、その筈だった。

 困惑したまま、孝は辺りがまだ明るく、夕方に近いとはいえ日が出ているということを確かめた。幽霊は昼日中、こんなふうに町中で人込みの中に立っていられるものだろうか。しかも人々は彼女をちゃんと避けており、時折ぶつかったサラリーマンらが邪魔そうに彼女を睨み付けている。

 体には透き通った箇所もないし、どうやら生身ではあるらしい。

 偽物だと考える方が納得がいく。もし本物だとすると、一体何のトリックか。

「あんたらが私の家をめちゃめちゃにしたんだ」

 唐突に、えぐるような声が歩道に落ちた。孝は目を細め、少女の動向をうかがう。彼女は小刻みに震えていた。貧乏揺すりか痙攣しているのかと思ったが、そこまではひどくないらしい。

「大丈夫……?」

 とっさに伸ばした手を、力いっぱい手の甲ではたき返された。包帯の洗いざらされた感触だけが、孝の手のひらに残される。

「そんな、ギゼンなんて、受けない」

 息が荒い。喘息とは違うらしい、何より少女は吸入器を探そうとはしなかった。

 ふと気付く。それは過呼吸の発作にも似ていた。

「大丈夫、落ち着いて」

「な、にが、……ッ」

 しゃがみ込んだ少女に、孝は野生の猫にするようにしてそっと近づく。

「近寄らないでよ!」

「怖がらないで良いよ、何かあったら僕がいるから」

 専門家ではないので接し方は分からない。ただこの少女の場合は精神的に落ち着かせねばますますパニックに陥る。

 とにかく安心させたくて、しゃがみこんで視線の高さを合わせた。

「大丈夫」

「何がよ!」

 振られた指の爪で頬を引っかかれた。

 確かに「大丈夫」というのは不用意な発言である。孝はちょっと反省した。それでもぐっと顔を上げた。

「僕が悩んで行動をためらっていても、何も変わらないから。僕は動くし、それで君がイヤだったらそれをちゃんと教えてほしい。それで――学んでいくから」

 本人はとても真剣だ。

「バッカじゃないの」

 瑠璃子はこれ以上はないというほどの勢いで吐き捨てた。つくづく、呆れた、という表情だった。そこには一点の肯定の情もない。

「本当に知らないんだねぇエ」

 粘るような語調がイヤで、孝は自分の腕を引き寄せる。

 横に引かれた薄い唇をなめ、少女は狙う先を見定めるかのような間を挟んだ。

 もう、発作は収まったようだった。

「あんたの家の母親、うちの父親とできてたんだよ」

 ナイフを突き返すように、彼女は自分で持った刃物で指を傷つけながらも孝を傷つけることを望み、それを確信しながら言葉を振り絞った。事実孝は直立し、息を飲んで静止している。

「全然周囲にばれてなくてさぁ、私もうどうしようかと思った。真面目な男で、気付いたのがうちの母親だけだったからましてやどうしようかッて思った」

 孝の胸元を掴み、瑠璃子は自身のもとへ彼を引きずり降ろそうとする。ぎらついた眼差しが餌を媚びながらも一撃を加えようと狙う野良犬のようで下卑ていた。

「あいつ切れてさぁ、ルリコ、あんた知ってたのって酒に溺れながら聞いてくるし。それでもやっぱりあの女からオヤジ取り戻したくて話シあイに行ったんだ」

 話し合いがどうなったのか、言葉だけが転がりでそうになった孝の口元に、瑠璃子が熱っぽい息を吐きかけてくる。

「首つりだったよ。あんた、見たこと無いだろ、ある日家に帰ったら何かぶら下がってンだよ。風もないのにギィギィ揺れちゃってさ。悲しいより先にうわって思った、うわー何コレ」

 くすくすと笑う。そしていきなり表情をなくした。胸ぐらを掴んでいた手指は孝が払うと思いの外簡単に外れて宙をさまよった。

 彼女の持つ病的な唐突さに、孝はどうしてもなじめない。くるくると変わる猫の目のようだ。気まぐれが過ぎて、立ち位置が見えない。

 制服を着せてかろうじて世界にとけ込ませている異物のように、何かが違っていると見えた。そう思うこと自体が相手に対して失礼な話だ、と自戒しつつ、孝はそれでも心のどこかで恐れてしまう。

「あんたらが二人で生きてる間、私はずっと一人だった」

 指が再び孝を求めて伸ばされてくる。孝は夢中でそれを振り払った。ふりほどかれた指を無心に見つめ、瑠璃子はやがて高く笑う。

「あははははははは! バカはバカだね、自分が可哀想だとでも? あたしが可哀想だとでも思う!? バッカじゃない!? あたしの苦しみがそんなもんだけで説明がつくとでも!?」

 少女は鞄を投げつけて飛びかかって突き飛ばし、孝を路上に転ばせる。

「ざまぁ見ろ! お前が守られてる間に散々苦しんで死んでいった連中が山ほどいるんだよ! 分かってろってンだこの役立たず!」


 それから先は、覚えていない。孝は我に返り、人の波がすでにとぎれがちであることから登校時間を過ぎてしまったことを悟った。

 しまった、と唇で呟いて、駆け出そうとしてふと喉に手を当てる。

(あ)

 声が。

(出ない、かも)

 こういった場合、どう対処すればいいだろう。学校に行っても説明のしようがない、しかし自宅に――現在の自宅であるところのマンションに戻っても、そこには現在誰も残っていない。複数名で合宿のように群れて泊まっている場所とはいえども、全員昼間は留守である。

(兄貴、は……再雇用先探しに出かけてるし。相談して心配させるのもなぁ)

 既に声が出ないことよりどのみち知られる相手に対して懸念を抱いている辺り、孝は自身の思考の奇妙さに気が付いていない。

   *

 結局孝は自宅に戻り、携帯電話のメールで裄夜(ゆきや)に声のことを知らせた。風邪ということで高校には申告してもらい、医者に診て貰えと言われたがとりあえず横になる。

(そうそう、こういうのは気の迷いだし――)

 一眠りすれば、いつの間にか治っているかも知れない。

(治らなかったら)

 そう思うとゾッとした。これまで持っていたものを失うことを考えただけで、周囲の空気が一斉に冷えてよそよそしくなったような気がした。

(大丈夫――)

 兄と二人で住むことになった一室で、孝は自分の呼吸音だけを聞きながら唾を飲み込む。

(大丈夫、大丈夫、大丈夫)

 ここは地上から遠ざかりすぎていて、人のざわめく気配すらも感じられない。

(怖い)

 そう思ってしまったら後は雪崩のように不安が襲いかかってきた。このまま声が出ないなら歌えない、意志を伝えることもできない、心配されるのは目に見えている、医療保険は一族側のまわしてくれた保険証で何とかなったがそれにしても困る。

(どうしよう)

 恐れと共に、周囲に、じわり、と何かがしみ出すような気配を感じた。人ではない何かがかりかりと窓をかいている。布団にうつぶせた顔をあげられず、孝は体をこわばらせる。声は出てこないというのに息ばかりが喉でひゅう、と鳴った。

 菅浩太(すがこうた)の言葉が妙に明るく耳に甦った。

 ――部屋にはとりあえず唾付けといたから、一応ここは俺の山と同じ条件で扱えるよ、だから怖がらなくて良い。

 これをどう怖がるなと言うのだろう?

(助けて、)

 わなないた唇は殆ど、意志通り動かせない。動かせたところでうめき声も出ない。舌が口腔内で歯にまとわりついてうまく波打たない。

 子供がまだ喋れない頃の気分はこうなのだろうか。元から話せないのならばいざ知らず、それまでできていたことができなくなるのは孝を混乱に陥れた。

(早く、早く誰か)

 迷惑をかける、などという心配よりも恐怖が勝った。ざわつく衆目の気配だけが、一人きりの部屋に満ちていく。

 内心で悲鳴をあげながら、孝は混乱のうちに意識を手放した。


「――」

 裄夜は顔をあげる。そうしてしばらく耳をすませ、黒板の文字を写し取る音だけが聞こえる教室で息を吐いた。

 心臓の後ろを錐で突かれたような痛みと、右耳の後ろから通ったもの――悲鳴、に似ていた。先程来たメールを思い出すと、符合の一致は免れない。

(もしかして、里見……?)

「先生」

 裄夜は現在開かれている教科書の頁を確認してから挙手をした。

「先生、ちょっと眩暈がひどくて……保健室に行って来ます」

 そのまま周囲の声も聞かずに裄夜は廊下へ駆け出した。とりあえず浩太にメールを転送し、それから保健室に向かう途中で自宅代わりの場所に電話をかけた。

 孝は、電話に出なかった。

 それで裄夜は決心する。

「キセ、責任とってよ」

「何故だ」

 保健室から明良に電話を入れて貰い、迫真の演技で帰宅許可を貰った裄夜は不機嫌そうに校門を出る。保護者代わりにキセを呼びつけてみたわけだが、却って不審だったかと少しだけ後悔した。しかしサボリではないことを主張するため、キセに寄りかかりつつ歩いていく。

「当たり前だろ、あんたの所為でこういう、面倒なことになったんだ」

「しかしこれはお前が判断したことだろうが」

 それもそうなのだが、裄夜は何だが苛ついて、キセに鞄を叩きつけた。

「帰る」

「知っている」

 鞄を甘んじて受け取り、キセは裄夜の頭をぽんとはたいてからその手を中空に差し出した。

「え?」

「帰るんだろう?」

 ぎょっとした裄夜の前に、ガラス越しのように歪んだ空間が現れた。

「何か猫型ロボットみたいだな……」

 呟いたが、さすがに気持ちの悪さは拭えない。裄夜はゼリー状の風呂に足を突っ込むような感触に思わず足を引きかけたが、キセに腕を掴まれて無理矢理、そこに引きずり込まれた。


(ぎゃ!)

 孝は水道水をコップに入れて振り返った瞬間、目の前に黒い影がさして内心でだけ悲鳴をあげた。反射的にコップを投げ、すぐに割れることを懸念して怯えたが、相手は軽くコップを受け止めてくれた。

「……これはまたご挨拶だな」

 さほど不機嫌でもなくそう呟くと、符崎キセが足下に裄夜を引きずり出した。どこから出てきたのかあまり考えたくない。フィルムのコマ送りで、どこか一瞬途切れた部分で継ぎ足されたような違和感がある。

「……何これ」

 しばらくフローリングに寝そべっていた裄夜は、汗で濡れた額を拭いながら呆然と呟き、身震いしてから「知らない見えない聞こえない、よし」と何やら自己暗示をかけていた。キセは室内を見回して眉をひそめ、やがてふいと居なくなる。

「あっそれより! 里見大丈夫!?」

 慌てて振り返られ、困惑するより先に涙がこぼれ出て、孝は自分で説明できなくてただ手の甲で顔をこすった。まさか、授業時間中に帰ってきてくれるとは、予想だにしないことだった。

   *

 言葉を選ぼうとしても、ただ意味のない音だけを吐こうとしても、どうしてもかすかな、あ、とも、う、ともつかない声ばかりしか出なかった。裄夜に呼ばれて仕方がなさそうに姿を現わしたキセは、状態を見てわずかに瞠目した後、こう見立てた。

「言葉の病だ、人は言葉をはき出せなくなったとき相当なストレスをため込む。うたうことであれ言葉を出すということは言葉を用いる者にとっては必要な行為だ、それを円滑に行えなくなったためつかえて言葉が出なくなる、肉体が辻褄をあわせに来る」

 言葉?

「その娘に言われたろう、毒のある言葉を」

 各務瑠璃子に出会ったとき、孝は確かに殆ど何も言い返せなかった。

 言い返す、内容も無かった。

 書き散らした文字の羅列が情けなく思えて孝は泣きたくなる。自身の文字は、死んだはずの瑠璃子に物を言われて言い返せなかったという「被害者ぶった」言葉しか書かれていない。

 本当のことは言いたくない。

 言えるはずもない、まさか自身の家族と瑠璃子の間にあんな関係があったかもしれないことなど――。

 でも。それでも。

「孝君?」

 先程昼休み時間に連絡を受けて戻ってきた日向(ひなた)が孝の顔をのぞき込み、それから急に、両手で孝の両手をぎゅっと包んだ。

「孝君、」

「怖、かった……」

 喉をひきつらせながら、孝は俯き加減に言った。その両目から涙がこぼれる。

「こわか……った」

「うん、」

 声が出た瞬間、裄夜がはっと辺りを見回す。

 ざわついた気配が急速に収まり、やがて名残惜しげに散っていく。キセが室内を見てから裄夜を一瞥した。孝が言葉を発すことができるようになった途端、周囲に満ちていた圧迫感のようなものが大人しくなった――裄夜は孝の声が「ウタウタイ」という危険な能力を持っているのだと肌で感じる。疑わしく思う気持ちもあったが、言葉が、確かに作用している部分がある。現に周囲の何物かの心配は、孝の一言に安堵して去ったのだから。

 その理由が一つではないことに気付いていながら、キセは無言を貫いた。

   *

 少し遅くなってしまった――初日から、正規採用ではないにしても塾で仕事を手伝わされて、里見裕隆(さとみひろたか)は疲弊した肩を回しながら帰路についた。この分では孝(こう)も他の子供たちも寝入ってしまっているだろう。日付変更線を跨いで二時間が経過している。街は随分と静まって、浮かされた熱は欠片も見えない。

 マスコミで騒がれるような夜更かしの子供たちも居るには居るだろうが、住宅街に入ってしまえば声は殆ど聞こえなかった。帰りつく前に、一人の青年とすれ違う。高校生の少女が包帯を巻き付けた手で彼の腕に絡み、それから、裕隆を見て笑った。

 何故か嫌なものを感じ、裕隆は足をはやめる。徒歩で通える距離ではないが、初日からこの時間まで拘束されると予測しなかった上にタクシーを使うだけの手持ちが無く、今日は随分長いこと歩いていた。

 通り過ぎると、どっと疲れが体に感じられる。

(何だろう……)

 そう言えば、暗がりの中で表情は見えなかったが、背の半ばまで伸ばした髪を赤い組紐で束ねた男のほうは、裕隆をひどく睨んでいたような気がした。

 しかし気のせいだと片づけて、裕隆はマンションのオートロックを解除する。明かりに近づいてほっとした彼は、振り返ることをしなかった。


「ねぇ尚隆(なおたか)」

 少女が、ゴミ収集場に目を向けたまま薄笑いする。白色電灯の明かりがちらつく視界で、尚隆と呼ばれた男はかすかに歯を食いしばる。けれどすぐに「何ですか」と柔らかく返答した。

「……どうでも良いけどさ、あんたその気持ち悪い猫なで声、どうにかしてよ」

「しようがありませんよ、私はこれが地ですから」

「どうだか」

 立ち止まったままの男の足を見て、少女はふんと鼻を鳴らす。

「怖いンじゃん」

「誰が何を怖がると?」

 微笑んではいるがそこはかとなく暗い。少女は思わず彼の腕から手を離し、それから、その怯えに憤って包帯の巻かれた手首で男を打った。

「ッざけんなよ!」

「何がです?」

「そういう、なめたツラしやがッて……!」

「なめているのはそちらでしょう? 貴方がまともに術を使えないから、こんなことになったんです」

「一度で仕留められなかったのはあんたが札を間違えた所為だろ! それくらいなら自分でやってから文句言えッてんだよ!」

 青年はふと黙る。車のヘッドライトが近づいて、それからどこかへ消えていった。

「……謝らないよ」

 靴底をアスファルトにすりつけながら逃げようと退いた彼女の腕を掴み、尚隆は笑った。

「謝られなくても結構ですよ、ただ貴方がこれからも働くならば、私も自身の無力さを超えて札を書き続けてあげましょう」

「ヤなヤツ」

 拗ねたように唇をとがらせ、それから少女は不意に尚隆の手に噛みついた。

「ッ! 各務瑠璃子(かがみるりこ)ッ!」

 さすがに、商売道具でありなおかつ彼の矜持を支える唯一とでも言うべき技術の為の手である。尚隆は血相を変えて瑠璃子の頬を張り飛ばした。

「ふ、あはは! アハハははははは!」

「何が面白いんですか貴方は!」

 人差し指と中指を食いちぎられそうになった尚隆は、爆発しそうな心臓をなだめながら少女のことを睨み付けた。

「安易に触ろうとするカラじゃンかあ」

 腹を抱えながら笑い、空疎な笑みで急に止まって、少女はばァか、と満足そうに呟いた。

「あたしらは別に味方じゃナイんだかンねェ……忘れんじゃないよっての」

「生憎ですが、こちらも一時たりとも忘れてなんて居ませんよ」

 路上に沈黙が降り立った。その表面を革靴底のラバーで蹴りつけ、少女は、英語でくそったれと呟いた。

 すべてあいつが悪いのだ。

 それは、相手を違えるとは言えど、二人を繋ぐ共通点。

「……あたしらは復讐の為に手ェ組んでンだ……っ……」

 言い聞かせるようにして、瑠璃子は、ぎっと目の前の建物を睨み付けた。

 一族が何だ。

 お前の居場所なんて奪ってやる。

 うっぷんを晴らすこと、それが死者のできるせめてもの復讐。

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