第二章 古き神の末裔

第二章 古き神の末裔


   *


 校舎をつなぐ渡り廊下を駆けていた足を、日向(ひなた)はふと止めた。

 真っ白な蝶が舞っているのを見た、と思ったからだった。

 案の定、景色の中にあるものは、緑の木々と、積もり終わった雪が溶けていってつくった水たまりのみ。

 教科書を抱え直し、日向は次の授業の教室へ向かう。間違って違う教科書を持っていった日向は、再度ホームルームへ取りに戻ったのだった。チャイムの音が無情に鳴り響く。友達に事情を説明しておいたものの、教師に遅刻者と覚えられるのは嫌だった。出来るだけ速度を上げて走っていく。

 と。

 またひらりと視界の端を白い影が舞った。

 気にかけている暇はなかったが、思わず視線をからめ取られる。

「やっぱりチョウチョだ」

 寒い時分に飛ぶ蝶など今まで知らなかった。しかし季節はずれだとしても上空を弱々しく舞い、白い蝶が確かにいた。

「うわあ!」

 突然、正面を見ていなかった日向は、何かにぶつかって転んだ。日向は散らばった教科書を見て、痛みとともに自分の「ついてなさ」を深く感じた。ぶつかった相手の顔が見えなかったが、なにやらうめいているところから察すると、どうも人間らしい。反射的に謝らなければと思った彼女は、座り込んだままで頭を下げた。

「ごめんなさい……!」

「いえ……こちらこそ」

 その声に、はた、と日向が顔を上げる。程良く、声変わりをし終えた辺りの高くも低くもないまっすぐな響き。相手は思ったとおり水瀬裄夜だった。

「なんであなたなのよ……!」

 昨日訳の分からない扱いをされた事への怒りがまだ残っている。少女は右人差し指を裄夜の鼻先に突きつけて声を荒げた。

 目を丸くした裄夜だが、大声に慌てて日向の口をふさごうとした。それにまた日向は嫌悪を覚えて叫ぼうとする。

「(だから今は授業中なんだってば!)」

 しっ、と指を立てた裄夜の様子に、ようやく日向の理性が戻った。

 今更ながら辺りを見回し、特別教室の並んだ棟には静かな授業が続いていると言うことにほっとする。どうやら先刻の騒がしさは届いていないようだった。

「で。なんなの君は。ここは学校なのに、なんでこの学校に所属している僕が居てはいけないわけ?」

「そういうことじゃないわ、今は授業中でしょ、なんで水瀬君が廊下にいるの」

「中津川さんこそ」

「あたしは教科書を間違えたから取りに戻っていたの」

「僕の方は授業に出たものの、頭痛がするから保健室のご厄介になろうってだけ」

 沈黙。

 あっそう、と呟き、日向は立ち上がった。こんな奴の側に、一刻一秒も居たくなかった。理由は昨日と今日の出来事に基づく。苛立ちながらスカートのほこりを払ったとき、すっと教科書が差し出された。拾って、丁寧に重ねそろえられた教科書とノートとペンケースに、日向は決まり悪い思いでそれを受け取った。

「……ありがとう」

「昨日の事と考えたら、これでフェアってことじゃないの」

 その科白に日向はちょっとむくれる。そもそもぶつかったのは日向だけの所為ではないはずだ。向こうにも落ち度がある。それにこんな事で公平不公平を考えるほど、日向はせちがらくないつもりだった。

「はやく行ったら? 保健室に」

 突き放すように言い、少女は肩を怒らせて歩きだす。

 後ろ姿を見送って、裄夜はそうだねとひとりごちた。言葉とは逆に、足はその場を離れない。まだ外を舞っていた白い蝶に視線を向けて、去れ、と呟く。蝶は二つに裂けて落ちたが、地面につく前にひらりと旋回して浮き上がり、二つの蝶へと変貌を遂げていた。

 大きく息を吐き、それから呼吸を整える。

 そして片手の指を立てて地面に水平に一度、まっすぐに左から右に引く。

 思い描くのは糸。

 いつもそれが真っ先に脳裏に浮かぶ。

 ぴん、と両手の間に張られた銀の糸を思い、裄夜はそれを蝶に向けることを思う。それが蝶を捕らえ、千々に裂いて、破片すら取り込んでしまうことを考える。

 目を見開けば蝶の姿はない。

 糸の姿もないが裄夜はそれまでのことを幻覚とは思わない。

 幼い頃から糸のことを知っていて、なにかこの世ならざる者相手ならば有効な糸だと学んでいたから。だから少年は疑えない。いつからだったか定かでないが、記憶が密やかに息づいていた。唐突に記憶が存在を始めたと感じないわけではなかった。が、人間自体が、連綿と続く過去の上にありながらその実、過去の自分を他者に持ち出されると違和感を覚えるのだから、いまの自分の心がうまれるのは唐突だと、おもえて当然であった。自分、とは確実に現在。過去の自分は殆ど他人だ。

 記憶など、曖昧であって決して確実ではない。

 気がつくと雪が降り始めていた。

 地上を覆い隠してしまえ、と裄夜は思う。

 そうしてすべて忘れてしまうのだ。

 昨日の放課後に、中津川日向に対して口走った科白について、もっとも驚いていたのは言った当人だった。なにを彼女が忘れていたのだろう。自分はあのとき、とても焦っていた。

 ――覚えているくせに、オレのことを忘れたままで居る。思い出せよ、オレが誰なのか。

 そう話す自分が居た。

 実のところ裄夜は、クラスの人間の半分も把握していない。名前すら分からない者が多い。そんな無精な己が何故、中津川日向のことが分かったのだろう。

 ぼうっと立っていた少年の耳に、かすかな笑い声が聞こえた。

 自分が嘲笑われているようで情けない気がした。

 笑い声が、悲鳴に変わる。

 耳をつんざく悲鳴は、裄夜にはそれが日向の声だと思われた。

 保健室にいく羽目になった元凶の、鈍い頭痛は残っていたが、裄夜は声のした方へと駆け出した。


   *


「ったく! なんなのよ水瀬って奴はッ」

 と胸の内だけで怒鳴り、日向は階段を登っていた。一番上にある実験室がとても遠い。

 大体、態度がどうかしている。

 今までまったくの無関係だったのにどうしてこんなに突っかかってくるのだろう。そして何故、自分はこうまで彼のことが嫌いだと思うのだろう。意味不明の行動をとられて腹は立ったが、日向は水瀬裄夜のことを薄気味悪がって遠ざかればすむことだ。さっきだって、会話などなさずに、落とした物だけ拾って逃げれば良かったのだ。

「……わたしが、何を忘れてるっていうの」

 そして気づく。

 水瀬裄夜について思い出すとき、必ず、実際の彼を見たときとは違和感があることに。

 日向の記憶の底に残るのは闇色をした髪と着物の姿。

 不敵に笑うおもての中に、ちっとも笑んではいない冷たい金の瞳。

 僧と似た格好でいながら一般の寺院には属さない、「彼ら」とともに青年も存在する。

 自分の中の記憶にとまどいながら日向は階段を登る。

(え? でもわたし、あんな人は知らない)

 よく考えてみると水瀬裄夜の頭髪と瞳は茶色だったはずだ。なによりも僧侶の服装をした人など、盆や葬式に見かけたことがあるだけで(しかも彼らは頭を丸めていたし、着物には色があった)記憶にあるようなひとたちには見覚えがない。

(なんだか変なことばっかりだわ)

 

 そう、たとえば今も。

「あたし、何階まで登ったのかしら」

 ふと呟き日向は足を止めた。

 考え事をしながら下を向いて歩いていて、日向はなかなか気がつかなかったが。

 この校舎は四階までしかない。

 階数表示はないから確かめられないが、四階以上に階段を踏んだ気がする。

 とりあえず何階にいるのか確かめようと、日向はそっと教室をのぞきに行った。

「くすくす」

 後ろで笑い声がする。

 廊下を通って教室をのぞこうとした日向が見たものは、ひしめき合う白い蝶だった。

「……っ!」

 下がろうとしたが、背中に衝撃があって止められた。

 見上げるとそこには、天井に届こうかという大きな体をやや曲げた、セーラー服の少女の顔がにたりと笑っている。

 悲鳴を上げて日向は走って逃げ出した。

「なんなのなんなのなんなのよっ」

 自慢ではないが足が速い方ではない。しかし白い蝶以外には追いつかれることなく少女は走ることが出来た。

 登っていた階段とは反対側の通路にある階段へ駆けていき、三段とばしで駆け下りる。

 一、二、三、

「四っ」

 よん。

「え……」

 四階にいたとしても、一階降りるごとに数えていたのだから……。

 三階に降りて一。二階に足をついて二。一階にたどり着いて三。

 では、数えた四は。

「地下一階、とか?」

 ひきつった笑いを浮かべて、日向が窓の外を見た。

 窓の外には、植えられた木々の「梢が」見えていた。

「嘘……」

 へたりこみそうになり、手摺りにすがって身体を支える。

 どうやら秋葉の言っていたとおりのようだった。

 「大丈夫姫」は言葉こそ発しはしなかったが……、秋葉の話とは異なり、階段が無限ループのようだったが……。

「うー」

 他の生徒は居ない。

 誰か居ないものかと見回したが、くすくすと笑い声が聞こえるだけで他の人気はなかった。

「ずっと同じ所を回ってるとしたら、いま何階にいるのかな」

 ひらひら。

 白い蝶が日向の方にとまる。

 

 突然、セーラー服が視界に入った。

 先ほどの幽霊(?)かと身構えたが、相手はそれにしてはこぢんまりとした大きさで、明るい栗色の長い髪を可愛らしくポニーテールにして、それにリボンをつけていた。

「なにやってるの?」

 きょとん、とその少女はくるくるした瞳を見開いていた。

 愛らしい少女に見覚えはなかったが、助かったと息を吐き、日向は説明しようとしたがまた動きを止めた。

 この子が人間だという、保証はない。

 躊躇った日向を眺め、少女はにゅーん? とうなって人差し指を自分の頬にあてた。ぴんと立った赤いリボンが、身体の動きにあわせて小さく揺れた。

「うーん……お姉さん、お名前きいても良いかなあ? 多分あなたも閉じこめられたんでしょうし」

 あなたも。

 その言葉に日向は仲間を得たと思った。

 

 その少女は千明(ちあき)カレンと名乗った。

「今日ここに転入する予定だったんだけど、どの棟か分かんなくてうろうろしてたの。そしたら出られないじゃない、びっくりしちゃった」

 別段驚いたふうもなくあっけらかんとしてカレンが言った。

 そして小柄な少女は日向の腕をとると、階段の途中までつれていき、段に隣り合って座った。

 階段にいれば何も起こらないことが分かったのだという。

「今朝からずうっとここにいてさぁ。おなか空いちゃったや」

「出られないの?」

「入ってきたのもあなたが初めてだと思うよ。出口を探したんだけど、そのときは一般生徒はカレン以外には居なかったもん」

 頬杖をつきカレンはため息をついた。カレンの腹の虫のなるのが聞こえたが、彼女はへへっと照れくさそうに笑っただけだった。相当に空腹らしい。何か持っていなかったかとポケットを探り、飴を三つ発見した日向はすべてカレンに渡した。カレンは礼を言うと一つを残して、他の二つを日向に返した。

「非常食にしておこうよ。いつ出られるか分かんないし。頼りないけど、無いよりはちょっとはましだから」

 カレンの笑みが明るい。それに救われる思いで、日向も微笑んだ。

「ねえ日向さんはアレって何だと思う?」

 そのままの表情でカレンが聞いた。

「やっぱぁー、幽霊かな、妖怪かなっ」

「……なんでうれしそうなの」

「カレンはねぇ、ファンタジックなことが好きなのだ」

 ファンタジーとは違うような気がしたが。

 ふうんと日向はうなずいた。

「わたしも他人事なら面白がってるんだろうけれど。小説とかは好きだな」

「へえ」

 

「……なにやってるの、君たち」

 明るい笑みが強張るのはやむを得ない。

 階下から声をかけたのは、水瀬裄夜だった。

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