第46話 新しい女性社員

過労で倒れ、社長の青木の命令で1週間の休暇をもらい

御殿場温泉で温泉と読書に明け暮れ、心身ともにリラックスした健一は久しぶりに

事務所に出社する健一。出迎えた大串や心配そうな事務スタッフに頭を下げながら

「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と謝罪する。


自分の席に着こうと事務所を見ると、健一が倒れる前と違い、デスクの数が2つ

増えていた。健一の隣は事務の席であったのにもかかわらず、間に新しい席が

1つ増えていて。それは目の前の大串の席もそのようであった。

「大畑さん。実は一昨日から新しい社員が入りまして、彼女の席なんですよ。

社長が、今回大畑さんが倒れられたことで人材が足らないことを痛感したそうで、

急遽募集したそうです。2人ほど入る予定でとりあえず1名採用が決まったということで

朝から社長と営業周りしています。まもなく戻ってくると思いますよ」


「社長に申し訳ないことをしたなあ。すべてを忘れるために仕事に専念したかっただけだったのに」

健一は、一人針の筵の上に載っているようないやな気分を味わうのだった。


しばらくして青木が戻ってきた。後ろに女性の人影が見える。

「おう、大畑君。元気になったようだ。これで無理なくがんばってくれたまえ。

あ、紹介しよう。一昨日からこの東京事務所に配属された山本さんだ」

「山本と申します。よろしくお願いします」

女性は健一に頭を下げる。しかしどこかで聞いたことがある声。

女性が顔を上げると、「あっ」思わず声を上げてしまった。

「スナックの人?」「はい、そうです。先日は名古屋でお世話になりました」

そう、新人のスタッフは、千恵子の働いていたスナックにいた女性で名古屋でもであった

リクルートスーツに身を包んだ山本明子であった。



「山本さんからはいろいろ聞きました。名古屋でも会ったそうだと」

青木がちょっとうれしそうにしゃべる。

「は・はい。でもスナックはどうするの。この仕事との両立だと僕みたいに・・・・」

すると山本は笑顔になって答える。

「大畑先輩。あそこはもう辞めました。今はこの青木貿易に専念します」


「山本さんとあと一人は名古屋から油場君が明日から来ることになっている。

大畑君は山本さんと大串君は油場君の面倒をお願いする。最終的には4人で力を合わせて

今回のようなことが今後起きないように勤めてもらいたい」

青木の気を引き締めなおす言葉に「わかりました」と3人が声を合わせるのだった。


この日から、基本的に健一は山本と一緒に回る。


「しかし驚いたよ。出会ったのは3回目だけどまさか同じ会社の同僚になるなんて」

出先の場合、自然と食事を共にすることになった山本に健一は声をかける。

「ああ、厳密には銚子屋のときも入れて4回目だけど、名古屋でも話したとおり

私はこういう会社での就職希望でしたから。

その上、実は学生のころから貿易の仕事に興味があったので、貿易会社希望だったの。

そしたら大畑先輩からこの前の時に聞いた、青木貿易に私のほうから募集していないかという

手紙を履歴書を添えて送ったのよ。

そしたら、『履歴書はお預かりします。しばらくお待ちください』と返事が着たけど、

たぶんダメだろうと思っていたら、先週電話があって、『早急に面接をお願いしたいんです』

と社長から電話がかかってきて、面接受けたら採用になったのよ。

だからスナックにはその事情を説明したらママも喜んでくれて、おかげで円満に辞めることができたわ」

でも、大畑先輩と一緒に仕事できるなんてちょっとうれしいかな。奥様にはずいぶん助けられた憧れの

人だったから」と笑顔で経緯を話す山本。



健一は、山本と仕事をする。当初山本のほうが少し健一に興味があるようなところがあったが、

健一には恋愛感情がまったく起きる事はなかった。むしろ名古屋で感じたような「妹」のにおいがした。

「職場の妹だなあ、彼女すごくまじめそうだし、勉強熱心だから将来楽しみだ。

さて抜かれないように俺もがんばらなくては」

そのように接する健一の対応に、一人っ子だったという

山本も徐々に健一のことを兄のように慕うようになっていった。


青木の命令で、健一への業務の内容は細かくチェックされ、無理のない範囲での作業になり

健一の体もずいぶんと楽になった。そしてその無理のないペースで無心にひたすら働いた。

それは正に、タイ料理のことを忘れるかのようでもある。


ところが、タイ料理に関しては、そう簡単に忘れる事が出来なかった。

青木から情報が行き渡っているのか、タイ関連のお店に行くとタイ料理への質問が

自然に飛びかってきた。

その都度、健一が丁寧に説明する。またこの時の雑談で、調味料がなかった時代には、

いろいろ考えて代用の調味料をつかって料理をしたエピソードなどを話すと、皆大変喜ぶのであった。

そして、同行している山本からの質問にも答える。タイという国の「タ」のことも知らない

山本にとって健一の存在は、インストラクターでもあり辞書でもあるからだった。


それでも精神的にも山本明子という「妹」ができたことで千恵子への寂しさはずいぶんまぎれた。

休日には息子の泰男と遊ぶ余裕もでき、体力的にも精神的にも充実した状態で

年越しを迎える。

青木貿易東京事務所の忘年会も盛り上がり、昨年のような金欠状態を苦しむこと

なく新しい年を越すこともできた。

このころ健一は千恵子の夢を見ることはほとんどなかった。

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