第44話 無心から生まれた過労

しかし、最初のうちは知人が来てくれて順調に見えたかのような営業であったが、

そう甘いものではなかった。外から気になっていた人がいたのか、

ようやく来店してくれる人が現れても、「タイ料理?辛いのはちょっと」

「ごめんなさいちょっと合わないです」と、すぐに引き返したり、

たとえ食べてくれたとしても、ご飯をほとんど残してすぐに出て行ってしまう人が多かった。


挙句の果てには、見るからに、遊び人風の格好をした2人の男性客。席に着くなり「なんだこの店?」

「こりゃあと1ヶ月でつぶれるわ」と言い放しかと思うつと、下品で明らかに店を小ばかにしながら大きく笑らいはじめるのだった。どうにか売上にはつながったものの、この間は、屈辱的な気持ちになり

終始辛い時間でもあった。


健一は日々、働いていた会社を辞めるときの店長の言葉をかみ締めるのだった。

「まだ早かったか・・・・。悔しいが本当に厳しい」毎日がストレスの溜まる日々であった。

千恵子はそんな健一を見て同じく辛そうであった。そのため「どうにかしなければ」と、

銚子屋のパートだけでは足りない。夜の仕事しなければと

翌年から紹介でスナックのアルバイトも始めるきっかけになっていく。


千恵子は、寒い冬の空を見ながら昼は銚子屋、夕方泰男を引き取り、

一旦戻ってきて夜からスナックで働き始めた。

泰男は、夕方からそれほど忙しくない店内で遊ばせることにした。

しかし、急激な仕事の増加は千恵子の体力を徐々に消耗させていくのだった。

その結果、無理がたたり、ついにあの日を迎えた・・・・。



健一は、かつての開業当初のことを思い出していくとどんどん悲しい気持ちが芽生えてきた。

それは千恵子のことではなく、かつて自らが夢と希望を持って作った店が、もうすでに他人のものに

なり、一部の名残は残っているもののその多くはすでになく、健一が現地で買い付けた食器類も

なくなっている。

自ら選んだ選択とはいえ、あの時の思い出は消えてしまったという現実が辛かった。

あたかも健一の記憶上でのみ残っている肉体を消し去った千恵子のように・・・。

そう思うと、いてもたってもいられなくなり、すぐに清算して静かに店を出る。

その時に健一は思った。「もうこの店に来ることは2度とないだろう。

仮に青木貿易が担当して配達などをすることがあっても、大串にやってもらおう」と。


この日から健一は、鬼のように仕事に猛進することにした。


千恵子のことそしてアジアンカフェに変貌してしまったかつての自らの店の存在・・・。

それらの記憶をすべて消し去りたいという思いが強かった。

たとえば、社長の青木からは新規開拓については特に何も言われていなかったが、

「東京事務所を大きくするためにも新規顧客を増やそう」と健一の強い思いが

飛び込み営業という形で爆発した。大串は、健一の強引な営業手腕に引き気味であったが、

「いや大串はいいよ。俺が一人でやる。でなければ東京に青木貿易の

事務所を作った意味がない」と言って、暇さえあれば独自に企業への訪問アポを取ったり、

電話営業で相手にされなくてもひたすらかけ続けたり。

突然出向いて門前払いを食らうことを毎日のように繰り返していた。


休日になっても健一は、午後まで事務所に一人で出勤して

たまっている事務作業を続けていた。


9月に入り、青木の指示で2人の担当エリアを分担することになった。

内訳は、郊外が大串に対して、健一は都内の中心部の担当であった。

これは港に荷物が着いたときに、英語と多少なりともタイ語が話せる

健一のほうが何かと都合が良いと考えた青木の判断でもあった。


しかし、健一は、青木に内緒で大串が担当するエリアにまで営業活動を続けていた。

「大畑さん。ここは私のエリアですから気になさらないでください」と大串が

訴えても健一は「気にしない気にしない。今が大事なときだ」と耳を貸さない。


大串は大学時代の後輩という立場に加えて、健一に引っ張ってもらった「恩」があるため

これ以上何も言えない。

しかし、さすがに異常なまでの働きぶりに健一自身疲労感を感じ始めていた。

「さすがに疲れたなあ。でもいいんだ。これで死んだら千恵子に会えるかもしれない」

と自分に言い聞かせながら、疲れた様子を他人にばれないように仕事を続ける。


しかし、ついに限界が来た、ある日事務所で作業をしている健一の耳元から心臓の鼓動が

聞こえ始めたかと思うと、急に胸に痛みが襲ってきた。

「うぐっ何だ。でもあと1時間でお昼休みだ、よしそこまでの辛抱だ」と言い聞かせながら耐え続ける。

しかし、次には全身からヒア汗が出てきたかと思うと、急激に目の前がぼやけてくる。

「こ・これは、ちょっとまずい!とりあえず椅子にもたれて休憩しよう」

と思うと同時に目の前が一瞬に暗くなり、視力がなくなった。

「大畑さん!」」あわてる事務員の声が聞こえるかどうかタイミングで

健一は椅子からずれ落ちて、床にそのまま倒れてしまった。

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