第22話 宗教観の狭間で

千恵子の通ったスーパーから店に戻った健一は

ようやく気持ちが落ち着いたのか、とりあえず後片付けを行う。

カチカチに干からびたパッタイを捨てた後、店内の掃除を行い、

明日以降いつでも店を再開できるようにした。

そして久しぶりに店の厨房のガスコンロに火をつけた。

店の営業再開の目処はまだ立っていなかったが、

今日のお昼までは料理を作る気力もなく

コンビニの弁当やカップ麺といった、簡単なもので食事を済ませていた

健一がようやく、自らの手で料理を作る気力が戻ってきていた。


スーパーで仕入れた鯛を焼き、ご飯をセットして、

別れの前日に2人で食べたテーブルに作った料理を置く。

「千恵子の変わりに」と、事故前日の夜千恵子が座った席には、

あのピンクのぬいぐるみの熊を座らせて、一人で食べる。

時折涙が出掛かることもあったが、最後まで泣く事をせず

無事に食べて家に戻る。


「とりあえず、掃除は終わったけど・・・」

健一は翌日も店の営業を再開しようと言う気持ちが起きずにいるのだった。

妻・千恵子の急死をまだ完全に受け入れらない健一は、

相変わらず店には来ているが開店することもなく店内で一人

こもったままであったったままであった。

2人の世話をしている福井真理は、心配をしつつも、

「しばらく、そうっとしておいたほうがいいわ」と黙って昼の間は、

健一の息子泰男の面倒を見ていた。


夕方、一人の男が健一のいる店のドアをたたく。

健一がドアを開けると、「大畑、大変だったなあ。

俺はまだ独身だけど、いや、なんとなく気持ちがわかるよ」

と話してきた男は、健一の高校以来の親友である井本幸男であった。

井本は、憔悴して、ろくに洗濯もせずぼろぼろの服装に陥っている

健一とは対照的に、赤いネクタイに洗い立ての白いシャツ。

その上、今まさに、アイロンをかけた瞬間ようなズボンの折り目が

鋭い紺のスーツ姿で、靴も見事なまでに光り輝くように磨いていた。


健一と井本との出会いは、高校一年のときからの同級生で、

お互い一つの事に没頭する性格から、自然に意気投合し、

大学に進学後も親しい友として交流を深めているのだった。

「しかし、店のほうが大変だったと聞いたよ。

言ってくれれば、何らかの役に立てたかもしれないのに!」

やや、語気が強い井本に対して健一は、うつむき加減で、

「いや、もういいんだ井本。千恵子のことを考えれば、

あの時無理に独立をしなければよかったんだ。

いやお前のように大学院に留まって研究を続けていれば・・・。

今考えれば、それでも生活はやっていけたんだ。

タイに嵌りすぎたのがいけなかったんだ!」

そういいながら、今まで幾度となく続いていても、

決して枯れることのない涙を目に浮かべる。

「大畑!」井本の声が急に荒げる。

「お前の信じているキリストの神は失敗した事をしつこく

後悔するように言っているのか!

そんな筈はない!もう終わってしまったことをいつまでも

言うのは止めろ!!お前がタイの世界に嵌ってくれたおかげで、

俺も研究の対象を、上座仏教(タイなどに存在する原始仏教)に

絞る事ができたのではないか!」




実は井本は、親戚の中に、お寺の住職がいたために、

仏教との関わりが小さいときからあった。

しかし、どうも多くの日本人は、葬儀や法事の時にのみ、

仏教に関わっている事にいつの頃からか疑問を抱くようになり、

独自で仏教関連の研究を始めていた。

そのまま、大学・大学院でもその研究に没頭し続け、

その頃に健一がタイに嵌って通うようになってきてからは、

井本もタイの仏教である “上座仏教”に興味をもち始めた。

やがて研究テーマも、それに特化し、

健一とは無関係に研究のために独自でタイに通うようになっていた。

井本は、健一が日本で和本得男らと組んで始めた

タイ食文化研究会(TFCRA)にも興味を示し、何度か参加。

あるいはバンコクにいる時、健一の紹介で、

知った“居酒屋 源次”にもよく通っているのだった。

「もう過去の事は、忘れて新しい道に進め!もし、

レストランを続けるのが嫌ならあっさり辞めてしまうのも手だぞ。

人生これからじゃないか!」

「辞めてしまう・・・」井本の言葉に少しのひらめきを健一は感じた。

さっきと比べて若干表情に明るさが戻った健一だったが。

「井本、お前の言う事は良くわかるよ。

でも千恵子のことは忘れられないよ」と小さくつぶやく。

「いや、大畑。もう亡くなった人を追っても戻ってこないんだよ。

『輪廻転生りんねてんしょう』と言う言葉があるのを知っているか?」

「リンネ??何それ?」健一が首を横に振る。

「人は死んだら、中有(四十九日)と呼ばれる期間内に

必ず何かに生まれ変わるという話だ。

まだ亡くなられてから、日が浅いから生まれ変わっては

いないかも知れないが、

そのうち別のどこかで新しい人生が始まるんだ。



もちろんこれは、一つの仏教の思想であって、

別に科学的に証明されている訳ではないが・・・。

つまり、そう言うふうに考えれば少しは気が楽だろう。

だから、忘れるためにも早く次の道を進む事を考えろ」

そう言うと、井本は健一の右肩を軽く叩いた。

健一は、「生まれ変わる?それは違う!天使となって神の御許に行くんだ」と

井本に反論しようと喉元まででかかったが、

これは井本が自分を励ますために言った事。

健一はそのまま心の中で、気持ちを押さえた。

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