第20話 研究会の引継ぎ

健一は千恵子に会うと、ゆっくり深呼吸をして一言「結婚しよう」と

プロポーズをしたのだった。

「え!健一本当にそれでいいの?」嬉しそうに問い直す千恵子に健一は、

「子供は絶対生んで欲しいし、やっぱり君のことが好きなんだ。

ツインソウルだったかな。

君がいつも言うように、二人の魂同士は本来一緒になるようになって

いるのだと思う。

ただ、問題がある今の大学院生の身分では、

生活ができるかどうかはわからないから、就職することに決めたんだ」

「えっ、大学院やめちゃうの?研究は??」驚いた千恵子に、

「うん、今の研究は正直なところ最近行き詰っているし、

将来続けたくなったらまた再開すればいいと思ったんだ。

それより今の僕には君の事とおなかの子供の事と“タイ料理 ”のことが大事。

昨夜考えたんだ。とりあえずどこかのレストランに就職しようと思う。

食文化協会の和本さんに言えば紹介してもらえるかもしれない。

そこでがんばってプロの料理技術を学んで、いずれは、

自分でタイ料理店を開きたいんだ」

「タイ料理店かあ・・大丈夫かなあ・・・。」

健一の就職までの話までは普通に聞いていたが”タイ料理店開業”と言う

キーワードには、少し戸惑いを見せた千恵子であった。

しかし、そんなことよりも今、健一と結婚しておなかの子供が

無事に産めることのほうの嬉しさが上回った。


「健一、ありがとう。幸せな家庭築こう!」

千恵子は涙ながらに健一に抱きつくのだった。

このとき、健一24歳、千恵子26歳であった。


千恵子との思い出に浸りながら、涙が止まらない健一に、和本の横にいて

モヤシのようにやせ細っている野崎がしゃがみこんで、

ハンカチを健一に手渡した。

野崎龍平は、健一の大学の2年後輩で、

健一がタイ料理の世界に引きずり込んだ一人。

タイ食文化研究会(Thai Food Culture Research Association:

TFCRA)では、常に健一のそばで助手を務め、

一緒にタイのバンコクにも連れて行ったこともあった。

健一が店を開業することになり、そちらで忙しくなってからは、

会長の健一に代わり、会長代行としてTFCRAを

実質的に取り仕切っていた。正にナンバー2の存在でもあった。

「大畑先輩。お気持ち非常に良くわかります。

でも自分を責めないでください。

先輩が、私をタイ料理の世界に誘ってくださったおかげで、

私もこの世界の虜になり、

TFCRAの活動もどんどん活発になっているではありませんか!

先輩の研究会での活躍と比べれば、

代理である私などまだまだ足元にも及びません。

でも、今回の事で店の再開に時間がかかってしまう気持ちもわかります。

その間よろしければ、TFCRAの研究会に「会長」

として積極的に顔を出していただければ、

そうすれば、つらいことは忘れることができるかもしれません。

僕は先輩にもう一度タイ料理の世界で輝いてして欲しいのです。

そのときには研究会をあげてこの店も全力で応援します。」



野崎の必死の励ましにも、健一は首を横に振り、

「野崎、ありがとう。でも、もうタイ料理への気力を振り絞れる状況では

無いんだ。

そうだ、ちょうど和本さんもいるからこの場で正式にTFCRAの

会長をやってくれ。

アジア食文化協会(Asia Food Culture Association:AFCA)

の理事もな。

俺は店をしてからは名誉的な会長に過ぎない。

実質的にはそうなんだからいいだろう」

実はTFCRAをはじめ、各国の料理研究会は、

AFCAから半独立した組織で、おのおのが独自に組織を作り

活動を行っていた。

AFCAは、持ち株会社のようなイメージで、

あらゆる料理研究会組織の上位に位置し、

各研究会の会長が、AFCAの理事を勤め、

全体としての理事会を定期的に行っているのだった。


健一は、TFCRAの会長として、発足から千恵子と共同で

独自に研究会内の組織を整備し、幹部会を作ってそれらの育成もしたため、

野崎のように代理を務める者にも不自由する事はなかった。

野崎は、立ち上がると心配そうな表情で、横にいる和本の様子を伺う。

和本はサングラスの奥にかすかに見える目をしばらくつぶって黙っていたが、

目をゆっくり開いたかと思うと、健一の目線に合わせるためにしゃがみこみ

「大畑さん、わかりました。今日付けで野崎君を正式に

TFCRAの会長とAFCAの理事として頑張ってもらう事にしましょう。

ただし、あなたはあくまで“最高顧問”扱いとします。

いろいろな気持ちもあると思いますが、是非ともこのまま顧問として

会に留まって欲しい。

いつでもいい、気が向いたときに戻ってくれればいいから」

「先輩、私はまだ、未熟者ですが、頑張って会を盛り上げていきます。

和本さん、よろしくお願いします」

野崎も再度しゃがみこみ和本の答えを聞いて表情が緩みながら答えた。

2人の決意を聞いた健一も、僅かばかりの笑顔になって、

正座をして土下座のような仕草で頭を下げる。

「2人とも僕のわがままを聞いてくださり、ありがとうございます。

今後のことは今しばらく一人で考えたいと思います」



「わかりました大畑君、早く元気を取り戻してお店を再開してくださいね。

では、私たちはこれで」と言い残して、

立ち上がった和本と野崎の2人は店を後にした。

しかし、健一はまだ座り込んで表情が暗いままであった。

「みんな、励ましてくれて嬉しいんだけど・・・」

そういいながらまた一人で泣きはじめた。

あれからどのくらいたったか、覚えていない。

ふと健一が時計を見るとちょうど午後2時前であった。

「ここにいても、悲しいだけだなあ。ん?そうだちょっと出かけよう。

ご挨拶しないといけないところがある」そう思った健一は涙を拭いて

すぐに身支度を整え、外出するのだった。

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