第38話 うたかたの思い出
最終日は、夕方までメンバー全員自由行動にした。
この日健一はガイド役ではなく千恵子を伴って最後のバンコクを楽しむ。
「千恵子暑くない、大丈夫?」「うん、平気よ。タイは暑いけど今晩のフライトで日本に帰国するから」
やや疲れた表情をしながらも声だけは元気な千恵子であった。
「よかった。疲れたらすぐに言ってね」と他のメンバーがいない分、健一も千恵子のことを特に気遣う。
といいながら、灼熱のバンコクの街中を歩いているとある仏教寺院が見えてきた。
「また、タイのお寺だね。上座仏教の国。井本さん元気かなあ」「千恵子、そりゃ元気だろう
この前の結婚式のときにも顔を出してくれたしな。でも彼は俺たちクリスチャンとは違うから
こういうのを見ると見方も違うんだろうね」
「健一」突然千恵子が立ち止まる。
「最初はヨーロッパだけでもいいと思っていたけど、やっぱりタイに来れて
良かったわ。健一があれだけこの国のことが好きな理由がなんとなくわかってきたから」
千恵子の言葉にうれしさがこみ上げる健一
「ありがとう。君とであったのはそう前回このバンコクの帰りに
台北に立ち寄ったときだから、その間君と出会い子供が生まれ、
そして結婚できた。これからもよろしく頼むよ」
「はい、こちらもよろしくお願いします」といって健一の手をしっかり握り締める千恵子であった。
「そうだ、そう最後にあそこに行かなくてはいけない。ちょっとタクシーに乗ろう」と健一が
タクシーを拾ってまで向かった先、それはタイのチャイナタウンである。
健一と同じく、やはり中国好きの千恵子にも、ぜひ見せておきたかったのである。
メインのヤワラー通りには、“大金行 “と書かれた大きな漢字表記の看板がひしめきあい、
通りのあちらこちらにツバメの巣などの中国料理の屋台があって、さらに市場に入れば、
ここがタイである事を忘れさせられる”中国っぽい匂い“が満ち溢れている。
健一は毎回タイに来るたびにこのエリアに足を運びながら、
いつも変わらないこの喧騒の雰囲気を今回も
五感で味わっていた。
「うわぁー、タイのチャイナタウンはイギリスのものとは全然違うね」千恵子の声のテンションが、
必然的に上がる。
「そうだろう、多くの中国人がタイに渡ってきたから、華僑の数は日本とは比べ物にならないくらい居るんだよ。
それに漢字とタイ文字の不思議な取り合わせが大好きで、タイに来るときは必ず一回はここに
来ていたんだ」
得意げに話す健一。
「そうなんだ、もっと早く知っていれば良かったわ。私も本当にタイのことが好きになってきたわ」
千恵子は満面の笑みを浮かべていた。
手をつないだまま2人はそのままチャイナタウンからバンコク市内を流れるチャオプラヤー川の辺に出た。川辺りをのんびり眺めながら「これからいろいろな苦難はあるけど、一緒に頑張ろう。僕は必ず立派なタイ料理人を目指すから」と、健一がつぶやくと、
千恵子も「よろしくお願いします。日本にいる泰男と3人ですばらしい家庭を作りましょうね」と応じた。こうして2人は、幸せな結婚生活を送れるように誓い合うのだった。
「おっ、久しぶりだね、大畑君じゃないか。隣にいるのは彼女かね」
突然、現れたのは、空手衣に身を包んだ本松親子。
「あっ本松さん。紹介します。僕は結婚しました。妻の千恵子です」
「始めまして、健一から空手の人がこの川にで練習しているとよく聞いていました。お会いできて光栄です」千恵子が深々と頭を下げる。
「おっ奥さんでしたか。失礼!わしは、本松友和。これが息子の和武だ」
「こんにちは」和武も挨拶をする。
「和武君。大きくなりましたね」健一がうれしそうに和武の頭を撫でる。
「今年9歳になる。まあ、日々の空手の鍛錬が実って、まもなくムエタイのジムに
入って本格的なトレーニングを積めるかなあと思っておる」
「本松さんは、駐在員の方ですか?」千恵子がさりげない質問をする。
「そうだ、勘が鋭いな。わしは一応駐在員であるが、今はそんな事よりも和武を一流の
ムエタイ選手にする事だけしか頭に無い。では、今から鍛錬を行うのでこれにて失礼!」
「話は聞いていたけど本当にスゴイ人がいるのね」千恵子が感動する。
「うん、大抵ここに来ると見事に会えるんだけど、やっぱり今日も会えたね。
お父さんは空手の有段者らしいんだけど・・・。
息子にムエタイかあ。泰男も鍛えようかなあ!」
「健一何言ってんの!」「ごめん、冗談だよ」
チャオプラヤー川にも千恵子の事を紹介した健一は、幸せの絶頂を謳歌するのだった。
こうして日本に無事帰国した健一と千恵子であったが、
この時こそが、2人のもっとも幸福な時であることはまだ、どちらも気づいていなかった。
「異文化のイギリスでの出来事・・・。バンコクで受けたみんなからの祝福。
それよりも、あのチャイナタウンで見た千恵子の笑顔・・・。
ああ、まさか千恵子をタイに連れて行けたのはあの一度きりだったなんて・・・」
忘れようにも決して忘れる事ができない、新婚旅行の思い出・・・。
暗い表情のまま独り言をつぶやく健一を見て慌てる大串洋次。
「あっごめんなさい。大畑先輩にまずい事言っちゃいましたね」
「いや別に気にするな。もうどうすることも出来ないし、ただやっぱり思い出すと寂しくなるなあ」
健一は常に手帳にはさんでいたロンドンで撮影したテムズ川の千恵子とピンクの熊が写っている
写真を見てぼそぼそつぶやくのだった。
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