第29話 ベンチャー社長の感動
熱く語る健一に、青木の表情は急に緩んだ。
「ああ、源次郎さんも言っていた通りだ。健一君、あなたと会えて嬉しいよ」
青木は嬉しそうに話を続けた。
「私もタイ語を勉強しているうちに、この国の事がどんどん好きになってしまってね。
実は3年前に本社に戻る辞令をもらったけど、この国にそのまま居たいということで、
思い切って会社を辞めちゃったんですよ。
そこで、10数年培ったここでの人脈を利用して独立して貿易会社を作ったわけなんですね。
最近になってようやく軌道に乗りつつあるけど、それまでは苦労の連続でなかなか大変でね。
正直精神的も非常に疲れていたんですよ。
私もまだ40になったばかりとはいえ、あなたの若さと熱心さに思わず元気をもらいました。大畑君ありがとう!
あ、そうだ、ちょっと待ってね」
そう言うと青木は席を立って事務所の本棚に向かい、何かを探し出した。
「あ、これだ、これをあなたに差し上げましょう」青木が健一に渡した本は、2冊。1冊目は、日・タイ&タイ・日辞典。
もう1冊はタイ文字と発音の解説書であった。
「え!社長、これ僕がもらっていいんですか?」
「ああいいよ、私はもうこれが無くても平気だから。できればタイ語を本気で勉強したいという人にあげようと思ったん
ですよ。それが大畑君、あなたと言うわけ」
健一はさっと立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。「青木社長!ありがとうございます。必ず僕はタイ語を習得します」
健一は感謝の意を必死になって青木に示そうとした。
青木は、笑顔で「いやいや、大畑君、そんなに感謝されると私も照れるじゃないですか?
そんなに喜んでくれれば、その本もきっと嬉しいと思うよ」
「本当にありがとうございます。僕は頑張ります」あまりの嬉しさに、
健一の目には、今にも涙がにじみ出てきそうな表情になっていた。
「ところで大畑君は、どこかに就職するのかは決まったの?」
「いえ、実は昨年の秋まで迷っていたのですが、この国に来て、もう少し学生として研究を続けようと大学院生になることにしました。
タイのことをもっと知りたいので」
「そうか、何かあったいつでも連絡しておいで。
私もタイと日本は、頻繁に往復しているし、私た名刺に日本の住所と電話番号も書いてあるから
気軽に会社に電話をかけてくるといいよ」「はい、必ずまた連絡します」
こうして健一は青木に再度挨拶をして、青木貿易を後にした。
健一が去った後、青木はひとりつぶやいた。「大畑健一君かあ、若くて熱い男だった。俺ももう一度彼のような情熱を
戻さなくてはならないなあ。たぶん彼は将来大物になるだろうなあ。ああ、できれば当社に欲しい人材なんだが・・」
と言いながら一人でニヤリと笑う青木「まあ、たぶん無理だろうね。いくらタイが好きとっても、
就職となれば一生ものだかられっきとした日本の企業で働くだろう。
でも、できたらこのタイとかかわりのある会社に就職して駐在員にでもなってくれれば、
また何かのつながりができる・・・わが社の今後の事を考えれば、それだけは期待したいところだ」
健一は心躍る気持ちでいっぱいだった。
「青木社長かあ。これも絶対神様が与えてくださった機会に違いない。・・源さん、本当にいい人を紹介してくれた。
これでタイ語も頑張って勉強しよう。そして次にくるくらいにはタイ人とタイ語で会話したいなあ。
そしたら、たぶんもっと深いことがわかるはずに違いない。あれ?さっき食べたばかりなのに緊張した後なのか、
また小腹がすいてきたような。さて、どの店に行こうかなあ」健一のタイへの熱い想いは、
灼熱のタイ・バンコクの暑さように、日々強さを増していくのであった。
こうして、青木と知り合った健一は、以後事あるごとに、青木と関わる機会が増えていった。
帰国後、頂いた辞書と発音の解説書で、毎日必死に勉強したおかげで、タイ文字こそまだ完全に理解できないものの、
元々英語が得意で、言語習得能力は高くかつ、英語に関しては人に教えるほどのレベルだった事も有利に働き、
日常会話レベルのタイ語に関しては、ほぼ問題なくやり取りできる状況にまで理解することができた。
その他にも、日本でタイ料理を自分で作りたい一心で、思わず頂いた名刺を
元に、青木貿易の事務所に電話をして、いきなり相談したこともあった。
それに対しても、青木は嫌がることはまったく無く、
快く現地の料理学校を紹介してくれるのだったた。
健一は、そこで学んだ味を、城山源次郎の計らいで、“居酒屋 源次”で試食会を行うことになった。
その時には青木を始め、オーケン土山や吉野一也ら“源次”で知り合った仲間が、
健一の作った料理を味わってくれたのだった。
そして、その食事会が終わった次の日にバンコクから台北に移動して、
千恵子と出会う事になるのであった。
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