第10話 後悔

死亡が確認された千恵子は、視界が悪く雨脚が強くなる中、

帰りを急ぐ余り、車道を不注意に自転車で走っているところを、

後から来たトラックにはねられてしまった。

すぐに病院に運ばれたものの、

搬送途中に心肺停止が確認され息を引き取った。


仕事の量を増やしたための、疲労からだったのだろうか?

恐らく注意力が散漫になったのが理由の事故。

千恵子の遺体と対面した大畑健一は、しばらくその場で立ち尽くした。

少し後から福井真理も来た。

福井は、健一の母・京子と同じ年の49歳であったが、

今まで独身と言うことと、喫茶店を数店経営している実業家だけあって、

年よりも若く見え、背が高く、髪も長く、プロポーションも

美貌も保っていた。

だが、福井にしても、放心状態の健一の姿をただ黙って見守るほかなかった。

「千恵子になんて酷いことをしてしまったんだ。早すぎたんだ!

すべてが・・・。もう取り返しがつかない!」

やがて自分自身をひたすら責め続ける健一に、福井は少し大きな声で

健一に叱る。

「どうして何も言ってくれなかったの?千恵子さんにこんなにも

負担をかけさせるなんて!」

それに対して健一は、大粒の涙をこぼしながら、

「でもどうしてもこれ以上、福井のおばさんに迷惑をかけたくなかったんだ。

千恵子も同じ考えだったし...」

と言葉にするのが精いっぱいで、後は只泣きじゃくるのだった。


2日後に行われた千恵子の葬儀は、気が動転したまま何もできなくなって

いた健一に代わって、福井と大阪から飛んで戻ってきた、

母・京子の2人がすべてを取り仕切った。

葬儀の日は、横浜に住んでいた弟の健二夫妻や千恵子の妹などの

親族が次々と集まり、所属していた教会で粛々と行われた。

だが、集まった誰もが、突然の不幸に声は失われ、沈黙が続いていた。

しかし、一人泰男だけが状況がわからずに無邪気にはしゃいでいるのだった。

そしてこの間、ほとんどうつむいたままの健一は、

静かに千恵子と初めて台北で出会った時のことが脳裏に浮かんでいた。



あれは、6年前の、1984年3月。健一はこの年の4月から

大学院に進む事が決まり、その間の休みを利用して、

早くも3度目のバンコクに旅立っていた。

1度目の最後に出会い、3ヵ月後に向かった2度目で更なる探求し続けた

タイ料理であったが、日本帰国後、食べたくても、

当時また日本では食べる所がほとんど無く、「それならば」と

自分で料理を学んで、日本でも自作で食べることができるようにするのが、

前回から1年ぶりになる今回の旅の主目的であった。

ただ、今までとの違いは、あえて台湾の台北を経由した事。

大学院生になるにあたり、あくまで中国史の研究を続ける立場として、

タイばかりに行くわけにもいかず、

帰りに台湾の台北にある故宮博物院に立ち寄って、

自分なりにレポートをまとめようと考えていたからであった。

今回の全行程10日間のうち、1週間バンコクに滞在。

今回は観光などは一切行わず。2日目から紹介してもらった

外国人観光客向け英語の料理教室で、数日間存分に学んだ。

こうして、健一がさまざまなタイ料理を実際に作って体得することができ、

将来自らタイ料理のレストランを開くきっかけになった。

さらに最終日には、タイ料理の出会いを作ってもらった“居酒屋源次”の

城山源次郎に、学んだばかりのタイ料理を試しに作って欲しいと

言われたので、源次の厨房を借りて始めてタイ料理を作ることになった。

初めて作った料理は次の5品。

この世界に嵌るきっかけになった世界3大スープ「トムヤンクン」、

海老と春雨を使ったサラダ「ヤムウンセン」、鶏の焼き物「ガイヤーン」。

さらに、これは前年にあった苦い経験だが、

日本のある中華料理店でこのメニューが入っていたので、

店の人に作り方を教えてもらおうとしたところ、あっさり門前払いを食らって

目的が果せず、今回一番習得したかったタイの焼きそば「パッタイ」、

そして緑色をしたタイカレー

「ゲーンキァオワーン(グリーンカレー)」である。

これらの料理を恐る恐る店の常連さんに、振舞った後、

面白がった常連のお客さんとそのまま宴会に突入することになった。

この時朝からの緊張から解き放たれた健一の酒量もいつも以上に

増えてしまった。

特に健一が、料理を作っている最中から、フラッシュを光らせながら、

一部始終を撮影する髪を後ろで結んでいる若者がいた。彼の名は吉野一也。


主に東南アジアを旅しながら、撮影を続ける写真家で、

彼もバンコクに立ち寄る時には必ず “源次”に立ち寄っていた常連客の一人。

「大畑さん、若いのに努力家ですね。料理も既に美味いし、

将来きっと立派な料理人になれますよ」と、ビール片手に

健一を褒めちぎる吉野に乗せられ、さらに健一の酒量が増えていく、

それだけでなくさらにタイ料理の世界に嵌るきっかけとなってしまう

のだった。

そのためバンコクを飛び立つ朝は、完全なる2日酔いの重苦しい状態で

前日の宴会で羽目をはずしたことを「後悔」するのであった。

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