第11話 風のように現れた女性

台北にある故宮博物院は、第2次大戦後、

中華民国政府が大陸から台湾に逃げる際に、

大陸の中国国内にあった財宝も一緒に台湾に運び、

それを一般公開している貴重なものだったので、健一は大学院での

中国史の研究に少しでも役立てようと、日本を発つ前から、

独自の調査ノートを作るなど念入りに準備をしていたのだった。

台北に到着後は、すぐに宿をチェックインし、荷物を置いて街に出た。

博物院へは、明日一日かけて回るので、

この日は、台北の街をぶらぶら回ることにした。

しかし、まだ少し酔いが残っているのか、頭が少し痛く重たかったので、

気分を変えるために中国茶を飲んでみることにした。

台湾には、“茶芸館 ”と言う中国茶専門の喫茶店がたくさんあり、

そういった存在をあらかじめ知っていたので、

目に入ったお店にとりあえず入ってみることにした。


店内に足を踏み入れると、さまざまな骨董品が並んでいて、

入ったお店を一瞬間違えたような気分になったが、

時間が経ってくると徐々に落ち着いた雰囲気を感じることが出来る。

しかし、そんなことより早くお茶を飲んで、

頭の重い気分を変えたいという思いが先行していたので、

迷うことなく空いている席に座り、烏龍茶を注文することにした。

テーブルには、茶葉以外にいろいろな茶の道具が並べられたものの、

茶芸館でのお茶を飲むための作法まで調べていなかった

健一は、どうしたものかと悩んでしまった。

「こんなにいろいろな道具があって、ややこしいものだったのか!

ちょっと後悔したなあ」

健一が一人でつぶやいていると、一瞬どこか懐かしいさわやかな風

のようなものを感じたかと思うと日本語の女性の声が聞こえる。

「日本人の方ですか?もし、

やり方ご存知ないのでしたら私が説明しましょうか?」

健一が振り返ると、髪が長くて後ろ髪をツインテールに束ねている

旅馴れたバックパッカー姿の

一人の若い日本人の女性が、声をかけてきた。


「あっ!はい、注文したもののよくわからないもので、

ご存知でしたらお願いします」

するとその女性は、手馴れた手つきで、

説明をしながら道具を使ってあっという間に烏龍茶を作ってくれた。

「ありがとうございます」

健一はすかさずお礼を言うと、その女性は

「気になさらないでください。旅先ではいろいろありますから」

そういって笑顔でその場を去っていった。


お茶を飲み、ようやく落ち着いた健一はその女性の笑顔を忘れる事ができず、

夕食時も一人でご飯を食べながら独り言をつぶやく。

「優しい人だったなあ。あの笑顔が素敵だったし、

ああ~でもあの時に、もっとお話できたら良かったのに、

2日酔いだったからそこまで考える余裕がなかったよ。

吉野さんにハメめられてしまったよ。全く」

その夜、宿のベットで横たわる時も、

どうしてもあの笑顔が気になって仕方が無くなかなか

眠ることができなかった。

ようやく眠ったと思えば、画面はややぼやけていたが、

間違いなくあの女性の「笑顔」が夢にまで出てきた。

翌日、昨日のことは忘れようと気分を引き締めながら

健一は故宮博物院へ向かった。


博物院に到着し、チケットを買い中へ入ると“本業”の研究員モードになって、

早速かばんからペンと調査ノートを取り出した。

そして、一つ一つの展示物をくまなくチェックしようとしたその時、

後ろからどこかで聞いたことのある女性の声と、

この時もさわやかな風が吹いたような気がした。

「あのう、昨日の方ですよね」健一は振り向くと、

昨日茶芸館でお茶の入れ方を丁寧に教えてもらった

笑顔のバックパッカーの女性が立っていた。

「ああ、こんなところでも!まさかお会いできるとは!!

いや昨日は、作法も勉強せず、茶芸館に入ってしまって、

どうしようかと困っていたところ、本当にありがとうございました」

こみ上げてくる嬉しさを誤魔化すかのように、慌てながらお礼を言う健一に、

女性は昨日と同じ笑顔を振りまきながら

「いえ、大したことないですよ。でもそんなことより、

ペンとノートを持って真剣に展示物をご覧になられていましたが、

大変失礼なことを言うかもしれませんが

ひょっとして中国の歴史とか詳しいんですか?」

女性の問いに、健一はやや自慢げに、

「ええ、僕は中国史を研究しているんです。といっても、

今年から院生になるので本格的にはこれからなんですが」

すると女性は嬉しそうな表情になり、

「あ・あのう、もし、お邪魔ではなければ一緒に回ってもらえませんか?

私も中国が好きなのですが、料理とかお茶の事とかはある程度わかるものの、

歴史とかになると詳しくはわからないんです。

それでも中国の歴史・文化をもっと理解したいなあと思って、

今回初めてこの博物院に来たところだったんです」

健一も嬉しそうに「そうなんですね。じゃあ是非ともそうしましょう。

一人で回るより絶対に楽しいですから。

でも僕もまだこれからなので、多少の間違いなどは先にお詫びしますね」


こうして健一と同じような背丈である笑顔が素敵なその女性は、

1日かけて一緒に博物院を見学することになった。

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