第7話 未知の食べ物への挑戦

“居酒屋 源次”の店の入り口は障子になっており、

外からは中を見ることができなかった。

しかし、いったん中に入ると、ここがタイであることを一瞬忘れてしまう

ような日本の小さな居酒屋のたたずまいで、長いカウンターと

小さなテーブルが3つ置いてあった。

また、細長い店内のいたるところに日本各地の観光地の土産物と

思われる民芸調の雑貨類が所狭しと並べられていた。

健一は、気がつけば気軽に通えるこのお店に、滞在中は毎日のように

通うようになっていて、店の人とも会話をするほど仲良くなっていた。


さて、健一がそろそろ日本への帰国が近づいてきたある日の夜のこと。

いつものように健一が源次のカウンターで“とんかつ定食”を食べていると、

頭に鉢巻をしめ、口とあごに髭を蓄えた、

熊のような風貌である店主が、やや甲高い声をかけてきた。

「やあ、いつもの青年よ!そろそろ帰国するそうだな、

どうだい初めてのタイ・バンコクは十分楽しんだかね」


健一はうれしそうに、「ええ、良い経験ができました。

ここに来る前はちょっと悩みがありましたが、もう忘れてしまった

ほどです。王宮とかの市内の観光名所はもとより、

ムエタイの試合を見たり、それから昨日は日帰りでアユタヤの遺跡も

見てきました。それから宿を中華街のあたりにしたんですが、

あそこから歩いて流れているチャオプラヤー川からの夕日も良かったですね。

そこは、自然の風が吹いているのでちょっとホットとする空間でした。

タイ語はさすがにわかりませんでしたが、

あの文字自体が新鮮で楽しかったです。

もうじき日本に帰らないといけないと思うとちょっとさびしいですね。

日本は今は冬ですし。」

と、堰を切ったように体験を話し始め、既に常連気取りの健一。

「悩み事も忘れたのかい!そうかい。

いやあ、楽しかったようでそりゃ良かった。

ところで毎日暑くて大変だったんじゃなかったの?」

「そうですね、確かに最初は暑くて大変でした。

でも僕は8月15日生まれのためか、

元々夏の暑さには強いんですよ。

と言いながらもさすがにここに来てバテ気味ですね。

もうすぐ日本に戻るので、まあ大丈夫ですよ」と、

汗まみれのためか、日本から来たときと比べて明らかに

黒ずんだ顔をしている健一が答える。

「そうかあ!で、青年よ、いつもここに来てくれているので、

俺としちゃあ非常にうれしいんだけど、ちょっと気になったんだけど、

ちなみに君は、タイ料理はしっかり食べたのかい?」

店主の意外な問いかけに、健一は少し不思議な表情を浮かべながら、

首を横に振った。

「えー?せっかくタイに来ているのに本場の料理を食べないとダメだよ!」

こういう店主に、健一は、

「実は僕、タイ料理は食べようと思わないんですよ。

だってあれ辛いでしょう。僕は辛いのがとにかく苦手なので、

タイ料理は食べていないんですよ」と小声でつぶやく。


すると、急に店主の語調が強くなり、

「何言ってるの?青年!確かにタイ料理は辛いけどさ、

実はぜんぜん辛くない料理もあるし、料理によっては自分で辛さを

調整するものだってあるんだぜ。

それにタイ料理はただ辛いだけじゃないんだよ。

辛さの裏にはうま味や香りもいいよ。この国は年中暑いからさ、

俺が言うのもなんだけど、辛い料理を食べないと体が持たないんだね。

食わず嫌いは良くないよ。そうだせっかくだからよ、

だまされたと思って一度体験してみるのがいい。

何ならお俺の勧めのお店を紹介するよ!」


健一は、源次の店主にそこまでいわれると、

さすがに今まで避けてきたタイ料理を一度食べようという気になった。

「それでは、せっかくなので、ぜひ紹介してください。

最後にタイ料理というものを記念に食べてみようと思います」と、

店主にタイ料理店を紹介してもらうことになった。

「タイ料理かあ、『辛いだけじゃない』といってたなあ。

旨みもあるし辛くないのもあるのかあ・・・。」

しかし、あのお店の人も変わっているねえ。

あんなにタイ料理のことを熱く語るなんて。

その上、他のお店を紹介するなんて。

そうかあ、そういう人だからこっちで仕事しているのかもね」

店を出た健一は帰り際一人でつぶやきながらも、

今まで避けてきたタイ料理というものに少し興味が沸いてくるのだった。


翌日健一は、”居酒屋 源次”の店主から紹介してもらったあるタイ料理店を

目指していた。

そこは、タイの中でも特に日本人の駐在者がが多く居住する

“スクンビット”と言う通り沿いのエリアの中にあった。

ところどころに日本料理店をはじめ、

“日本語表記”のタイマッサージのお店などが並んでいた。

そして、車の通行量が多いメイン通りから、

“ソイ”と呼ばれる路地を進んでいくと、その店が現れた。

「ここだな」健一は小さくつぶやいた後、店の中へ入った。

店内は高級な雰囲気が漂っていて、

伝統的なタイ様式の建物の造りで出来ていた。


また観光地などにある、旅行者向けの土産物屋で置いていそうな調度品や

南国の大きな植木などがところ

狭く並んでいて、不思議な空間を醸し出しているのだった。

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