第40話 千恵子の生まれ故郷

「大畑君、大串君、辞令を渡します。7月20日付で、東京事務所勤務を命じます」

名古屋の最終日の夕方この日の勤務終了後、社長室で研修担当だった営業部長の中堀立会いの下、社長の青木から辞令を交付される2人。


「さて、ご苦労様でした。明日から5日間リラックスしてもらって、いよいよ東京事務所の立ち上げだ。

すでに、事務員さんを雇って準備をしているので、事務所自体は開いているが、

君たちが正式に赴任してからが本当のスタート。5日後東京で会いましょう」

青木はそういうと、健一と大串に握手する。

「これで、無事に研修終わりましたなあ。さてこの後は2人の壮行会を青木貿易全体で行おうおもてますねん。

今日はみんな定時で仕事が終わりにして現地に向かってんねんで、社長、大畑君、大串君一緒に行きましょう」

中堀に案内されながら4人はリラックスしたムードで壮行会の会場へ向かう。

この日は暑気払いを兼ねた無礼講という事で、青木、中堀をはじめとする本社のメンバーとも楽しく飲む2人であった。


翌日、もう一日名古屋で過ごしてから明日東京に戻るという大串とは別に

健一はあるところを目指していた。

それは大阪、健一の母・京子が大叔父の店を手伝っているところ。

無事に研修が終わったので東京に戻る前に

大阪の京子に会っておこうと考えたのであった。


荷物は前日までにまとめておいたので、大串に頼んで業者を手配してもらった後、

健一は身軽な格好で名古屋を出発。しかし、そのまま大阪に向かうのではなく、南のほうを目指す。

実は健一はこの機会を使って、千恵子の生まれ故郷を見ておこうと考えたのであった。

ローカル列車を乗り継ぎ、紀伊半島を東側から周回する。この日は途中の「尾鷲」という町で一泊した。


「明日はいよいよ千恵子の生まれた新宮の町だなあ。いったいどんな町なんだろう」

健一は明日未知の場所に向かうことに期待と不安を交錯させていた。


実は、千恵子の生まれ故郷は和歌山・紀伊半島の南に位置する「新宮」という場所であるが、

別に千恵子の親族が住んでいるわけでなかった。

聞いたところによると千恵子の両親もまったく別のところで生まれていて、

仕事の関係で新宮にいたときに千恵子が生まれたという。

しかし、千恵子が小学生に入って間もない時に東京に引っ越したので、

実際新宮に行ったとしても別に千恵子の知人や縁者とかがいるわけではない。

でも健一は千恵子が幼いときに見た光景を見ておきたかったのである。


健一はこの日の夜夢に千恵子が出てきるのではと期待したが結局そういう夢を見ることはなかった。


翌朝、緊張があったのか非常に早い時間に目覚めた健一は、朝焼けが残る尾鷲の漁港を散歩した。

「海の香りがいいねえ。千恵子はこの海の香りをあの銚子屋に感じ取ったんだなあ」

朝食の後、尾鷲から列車に乗り、午前中には目指していた新宮の町に到着した。


「ここかあ、千恵子の生まれ故郷新宮」特に行くあてもなく駅を出て街中を散歩する。

すると徐福の墓というのを見つけた。これは中国秦の始皇帝が不老不死の薬を求めるために、

徐福という人物を派遣したが結局その薬が見つからず、徐福は皇帝を恐れて

この地で没したという伝説が残る町。


「中国の『秦』かあ、よく見ればタイの漢字表記『泰』に似ているなあ」

歴史的な真偽はともかく、千恵子が健一同様中国文化が好きだった理由がなんとなくわかるのだった。

お昼ごはんを食べ、今度は反対側にある熊野速玉大社のほうへ、熊野信仰というのがあり、

熊野本宮大社、熊野那智大社と並んで熊野三山といわれる由緒正しい神社でもあり、ある意味スピリチャルな場所。

こういうところで生まれ育った千恵子が気軽にこういう神社で遊んでいた可能性があると考えると、

彼女がそう言うことに興味を覚えていろいろ調べる理由もうなづけた。

「彼女が生きているときに一緒に来て見たかったなあ。

健一はかなわぬこととはいえそんなことをつぶやきながら、

かばんに入っているピンクの熊を取り出して眺めるのだった。


この後は、市内に流れる熊野川沿いを河口に向けて歩く。

「川といえばバンコクのチャオプラヤー川を思い出すなあ」健一は川を見ながら独り言。

河口までくるとその先にはまばゆいばかりの海が見渡せた。健一はしばらく眺めていたが、

そろそろ次のところに行こうと思い、駅に向かって歩き出す。

しばらく歩いていると小さな児童公園がある。

「ひょっとしたら子供の千恵子が使っていたかもしれない」そう感じた健一は誰もいない児童公園の中に入りブランコに腰掛けてみた。ブランコに座りながら子供のころの千恵子を想像していると、

突然横のブランコが動き出したように見える。そのブランコに人影が見える。

その人影がはっきり人として見えてくる。

よく見ると小さな女の子がピンクの小さな熊を持って楽しそうに

ブランコに乗っている気がした。


「ち・千恵子?」健一は一瞬あわてたが、その瞬間目が覚めてブランコから落ちそうになる。

「いつの間にか眠っていたようだ。危うく落ちるところだったよ。そろそろ次に行こう」


そういいながら健一は、千恵子の生まれ故郷を後にする。

別にここにきて何かが変わるわけでもなかったが、健一自身の気持ちの切り替えには

十分果たせたような気がしてそのまま列車に乗り込み

次の目的地である潮岬のある串本を目指すのだった。

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