第24話 1年前の夢

千恵子との結婚を決意した健一は、周りの反対を押し切って

大学院の中退を決意。

本格的にタイ料理人を目指す決心を固めたのだった。

アジア食文化協会(AFCA)の和本氏の紹介で、

某大手レストランチェーンへの就職も無事に決まり、

そのまま入社したのだが、残念なことに当初希望していた

調理のほうではなく、ホール担当に配属された。

それでもしばらくは、黙々と頑張っていたが、

就職をして1年半を過ぎたころから、毎日同じような作業の繰り返しに、

徐々にマンネリと焦りが出始めていた。


「こんなことを毎日続けていて本当にいいのだろうか?

俺が今仕切っているタイ食文化研究会(TFCRA)では、

次々と新しくタイ料理を教える講師も誕生し、拠点も都内だけでなく、

神奈川・千葉・埼玉と言った近隣にも出来るようになったし、

会員数は200名を超えるまで

(ちなみに、AFCA全体では、700名存在していた)

に増えているというのに、今自分の本業は、レストランの一ホール担当。

同期の中には早くも主任・副店長クラスの者もいるというのに・・・」

と毎日のように愚痴をこぼすような日々が続いており、

毎日がつまらなくて仕方が無かった。

横にいた千恵子もいつも心配そうな表情で、

「健一大丈夫?出世する人なんか放っておいたら?

だって、出世すると言うことはその組織内にとどまるだけ。

あなたは、そこから飛び出して独立すると言う夢があるじゃない!

大丈夫。私がいつもそばにいるし、元は同じ魂。ソウルメイトでしょ」

と必死で励ますが「わかってるよ。その魂の話はもういいから・・・・」と

やや自棄になる健一の姿がそこにあった。

挿絵(By みてみん)


「福井のおばさん、僕は就職して3年になりますが、

毎日同じことの繰り返し。ずっとホール担当なので、包丁を握れるのは

タイの研究会のほうだけで、だんだん不安にってきています。

正直毎日がつまらないのです」

千恵子の心配顔をよそに、健一は福井に向かって、

小さい声で日頃の愚痴をこぼし始めた。

静かに聞いていた福井は、「健一君、そんなにいやな仕事を続けても

体に良くないわね。いっそのこと辞めちゃったら」

「でも僕はタイ料理店を開業するという“夢”があって、

今の仕事は修行の場だと思っているし」と健一がボソボソしゃべると、

福井は笑いながら「大丈夫よ、私なんかは全くの素人から始めた喫茶店

だったけど、こうやって今では3店舗を経営し、スタッフも何人か雇っているのよ。

ようは、日々の努力しだいよ」

「でも、今の仕事を辞めてしまっても次行くところはないし、

どうしたものやら・・・」更に暗い表情になる健一。


「実はね、健一君」福井の表情が真顔に変わった。

「もし、あなたさえ良ければ、この1号店を貸し出してもいいわ」

「え!」思わず驚く健一と千恵子。

「このお店は最初に開業したお店なので10坪程度と小さいけど、

2号店・3号店は倍以上広いお店なの。

さらに、今考えているのは今までの “喫茶店”と言うのをやめて“カフェ”と

いう名前にして、もっと大きい店を作る予定なの。

その再来月出す予定のお店がね」

挿絵(By みてみん)



福井は、話を中断し、奥へ入って行くと、

大きな設計図らしき物をもってきた。

「このお店なの。多分ここの5倍近くあるかしら。

単なるコーヒーだけでなく、他のドリンクや軽食も充実させて

いこうと思っているのよ。逆に言えばこのお店はもう用済みなんだけど、

最初のお店なので出来れば手放したくはなかったのよ。

そこで誰か信用できる人に貸し出そうと思っていたところに、

今の健一君の話を聞いているうちに、

それなら健一君に貸し出してみようかなあと思ったのよ」

「おばさん、急にこんな大きな話を持ち出されても、

ちょっと頭が混乱して・・・」

戸惑う健一に、福井は笑顔に戻って優しい口調で、

「まあ、ゆっくり考えなさい。

私の経験では、嫌な仕事を無理やり続けるよりは、夢を目指した方が、

きっと人生が楽しくなると思うわよ。

大阪の京子からもあなた達の面倒を見守って欲しいと言われているしね」


と、健一に店を預けようとする福井。健一は戸惑っていたが、

横で泰男を抱いていた千恵子は冷静な表情で口を開いた。

「福井のおばさん、今の話は本当なのですか?」

突然冷静になって話をする千恵子に驚く健一であったが

福井は笑顔で「そうよ。こんなことでわざわざ嘘はつかないわよ」

千恵子は表情一つ変えず。「そしたらお願いします。

今の健一は横で見ていて本当に可愛そう。

彼の夢をできるだけかなえてあげたいのです」と言って頭を下げる。

「おい、知恵子急にそんな話を、結構時間をかけないと」

「何に行ってるのよ!こんなチャンスめったにないわ。

世間ではいくらがんばって店長になっても、

独立となれば理想的な物件を探したり、工事費や開業の費用

それから営業後も運転資金とかのお金も必要以上に

かかっていろいろ大変なのよ。

もうこれはやるしかないの。

大丈夫数年で泰男が幼稚園とか小学校に行くときになったら

私も、就職先を探してがんばるから。ね、やりましょ」


「おばさん。本当にお願いします。私たちが努力すれば時間はかかりますが、

必ずその分をお返しますます」と再度頭を下げる。

千恵子の覚悟を知った健一も慌てて、

「おばさん、千恵子の言う通り、このチャンス無駄にしません

よろしくお願いします」と同じく頭を下げる。

福井は笑顔で、2人の頭を下げる姿に驚き気味の泰男に

頭をなでながら、「お父さんとお母さん、すごい必死で面白いわね」

と言いつつ、2人に対して「わかりました。

じゃあそういうことにしましょう。お返しなんて私が死ぬまでで

いいからゆっくりね」

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