第25話 夢で挨拶

1年前、このような形で福井に後押しされ、

思わず有頂天になった大畑健一は、会社をあっさり退職。

大阪にいる母京子から100万円を借り、改装の業者などは福井

にお願いしてて一気に開業に踏み切ったのが、この曼谷食堂であった。


それだけ思い入れのある独立一号店であったが、

今、最愛の妻を失った健一には、もはやタイ料理人への熱意は冷め、

店にも愛着どころかむしろ忘れるべき存在のようにも感じるのだった。

「ごめんなさい。福井のおばさん。僕は新しい人生を歩みます。

泰男が立派に成長するまで」健一は、そう誓いながら、

ようやく眠りに入った。

この日の夜、健一の夢の中に一人の見慣れた女性が現れた。

それは、ぼやけていたが紛れも無い千恵子そのものであった。

健一が始めて台湾で出会った時の長い黒髪をツインテールに結んだ

バックパッカー姿で笑顔を見せていた。


「ああ、千恵子。きっちり君を見ていなかった俺が悪かった。許してくれ」

健一が夢の中で、必死で謝る。

だが、千恵子はひたすら笑顔のまま黙ってうなずくと、

少しずつ後ろに遠ざかって行く。

ん?これは井本が言っていた、リンネとか言う生まれ変わる前の挨拶??

いや、そんなはずはない。千恵子は神の国に行くための挨拶なんだ。

でも、今はそんなことどうでもいい。千恵子ありがとう!!

俺もいつかそちらに行くから、

それまで神様と幸せに過ごすんだぞ!それまで待って置いてくれ!!」

健一はどんどん遠ざかっていく千恵子に対してが精一杯の声で叫ぶ。


瞬間に目を覚ました。

横で、泰男がおびえた表情で泣き出してしまった。

「夢に千恵子が出てきてくれた。いや最後にきちんと謝る事が

で来て良かった。ようし!今日から新しい人生の始まりだ!」

健一の表情は清々しいものになっていた。

朝、約束の時間に福井が店に入ると、健一は黙って福井の目の前に来て

土下座する。「おばさん。店を閉店しようと思います。ご迷惑をおかけします

申し訳ございませんでした!」と大声で一気言いあげた。

「け、健一君。どうしたの?泰男ちゃんもびっくりしてるわよ。

とりあえず頭を上げて。座って話をしましょう」

と慌て気味の福井に伴われ、すぐ近くのテーブルに座る2人。

「福井のおばさん、今考えれば、この店を始めるために、

去年の5月のことですが、バンコクで買い付けを行ったときに、

いつものようにチャオプラヤー川の辺に来たんです。

でも、この日の流れがいつもより荒々しく感じたと思うと、

いきなりスコール(豪雨)が降り出したのは不吉な予兆だったのかも

知れません。

同意してくれたとはいえ、今考えれば千恵子は渋々で、

買い付けにも来なかったし、最初から店に入る気もなかったのです」


「そんなことないと・・・・」福井は慌ててそのこと否定する。

しかし、福井の否定が聞こえていない健一はその表情に悲しみを帯びてきた。

「今回僕は非常に大切な物を失ってしまいました。

その原因がこの店にあることはわかっています。

業績も改善しそうにもなく、

また気持ちの上でもタイ料理を作る気力が起きません。

中途半端な気持ちで辛いのですが、店をこのまま閉店しようと思います。

わがままを言って申し訳ございません。

もちろん撤退のお金は必ずお返しします。

とりあえずはこれを」といって一昨日千恵子の働いていたスーパーの

社長からもらった5万円の入った封筒を福井に手渡し、

立ち上がり、再び頭を下げる健一。


福井は、渡された封筒を確認すると、

「ちょっと待って、これはまず受け取れないわ」といって立ち上がると

優しく声を掛ける。「健一君の気持ちわかりました。

私も1年前に余計なことを言わなければと非常に後悔しています。

でもあの時に千恵子さんがあそこまで真剣

に『健一の夢をかなえてあげてくださいお願いします』と、

頭を下げるから私、本当に驚いたの。

そしてこの子なら大丈夫と思って任せることにしたの。

でも、確かにこんな状態で、無理に店を続ける必要はないわ。

そうねここは、私が引き取り、カフェとして再オープンさせるわ。

屋台とかあって、タイの雰囲気がそのまま出ているから

このままの内装で “アジアンカフェ”にでもしようかしら?

だから本当に気にしなくていいからね。

それに、そのお金は千恵子さんのスーパーの報酬じゃないの。

それは絶対受け取れない。

千恵子さんがんばった結果だからそれはあなたのもの。

いや泰男ちゃんのためにとっておくべきものと思うわ」

福井にそういわれ、ようやく落ち着きを取り戻した健一は席に座る。

福井も席に座る

「それよりこの後どうするの?仕事見つかりそうなの?」

福井の問いに、健一は首を横に振りながら小さい声で、

「すぐにあるわけではないのですが、しばらくの間は、

以前やっていた家庭教師のアルバイトでもしながらゆっくり探してみます。

厳しいけどわずかなお金が残っていますので、

どうにか生活できると思います。

ただ泰男のことだけ心配で、ご迷惑とは思うのですが・・・。」

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