第42話 東京に戻って

東京に戻った大畑健一は、大串洋次らと予定通り7月20日に都内に青木貿易東京事務所を開設した。

小さなオフィスは机が5つ並べられていた。正面が社長の青木。

その次に向かい合うように、健一と大串の2人。

その隣には、今回雇い入れたアルバイトの女性が座り、事務や受付を担当した。

ちなみに事務所のある建物は、大きな倉庫で、ここにはタイの食材や工場用の資材などが置いてあった。

最初2人は社長の青木とともに、日本に荷物を受け入れる港湾関係者をはじめ

今まで青木が開拓してきたお店や会社を一軒一軒回った。

ちなみにタイ食材はタイ料理専門店だけでなく、中華料理屋さんなどにも卸して

いるのだった。


健一が、東京事務所で働くようになって10日ほどたったある日。

いつも昼間泰男の面倒を見てくれている福井真里が経営するアジアンカフェに

立ち寄った。ここは4月まで健一が経営していた、「曼谷食堂」の跡にできたカフェ

カフェ自体は健一が名古屋で研修を受けていた6月にはオープンしていた。

福井からぜひ一度見に来てほしいと言われていたが、

東京に戻った直後は事務所立ち上げなどで忙しく、それどころではなかった。

ようやく落ち着いたこの日ようやく見に来ることができた。


健一は、つい3ヶ月ほどまでいた店の外観からじっくり眺め中に入る。開業時にタイから持ち込んだ

屋台は残っていた。席は以前と同じテーブルも残っていたが、半分は新しいテーブルに置き換わり

ソファー席などもあった。健一はちょうどあいていたソファー席に座る。

この席は窓があり、その窓枠にはかつて健一がいつも持ち歩いているピンクの熊が座っていた場所

であった。健一はアジアンカフェの中にある「ベトナムコーヒー」を注文する。

「懐かしいなあ。健一はそうつぶやきながら店内を見渡す。曼谷食堂時代の名残は残っているが

厨房の中の装備の一部などは別のものに置き換わっていた。


出されたベトナムコーヒーを静かにすすりながら、健一はこの店を福井から

譲り受け夢と希望に満ち溢れた飲食店開業のために改装したときのことを思い出した。



福井真里から店を使ってよいと言われ、その場で千恵子からも同意を得た健一は、

次の日には職場に辞表を出すという素早さを見せるのだった。

健一の所属していた店の店長はあまりの急なことだったので何がなんだか分からず慌てて、

「いったいどうしたんだ?急にこんなものだして?何か現状に不満でもあるのか??」と

健一に問いただすものの、健一は静かな口調で「タイ料理店を開業する目処が立ちましたので」と

あっさりと理由を言うに留まった。「いや、ちょっと待ってくれ、商売はそんなに甘くないよ。

普通“料理長”とか“店長”を経験してからなるのならわかるけど、君はまだホール担当を始めたばかりじゃないか?独立してもすぐに失敗するだけだぞ」と、

店長は必死に説得を試みるものの、もはや健一の耳には届かず、そのまま一ヵ月後の退職が決定した。


次にAFCA(アジア食文化協会)の和本に報告に向かった。「和本さん、僕ついに独立することにしました」和本は驚きながら「あらら?そうなんですか、それは大変すばらしい。あなたのお店をタイ料理の発信基地にしてください。応援します」「ありがとうございます」すかさず健一はお礼を言った。「大畑君、実は私のほうからも君に伝えたいことがあるんだ」「と、いいますと?」和本は熱く語る前の癖である、黒ぶちの眼鏡を直すと「今年の秋、ついに我がAFCAは法人団体としてスタートすることが決まったんだ

“社団法人アジア食文化協会”となるんだ」「すごい!それはおめでとうございます」感心しきる健一。

「そこで大畑君にも理事を引き続きお願いできそうなので安心したよ。

会社の正社員が、別の法人の理事だと何かとややこしいからね」しかしその問いに、

健一は首を横に振り「いや、僕はもうそれに関しては辞退したいと思います。代わりに後輩の野崎龍平か

大串洋次に任せたほうがいいと思うのですが、彼らは実質的にTFCRA(タイ食文化研究会)を仕切っていますので」和本は健一の答えに対して首を大きく横に振り「そうは行かないよ。こういう物は

立ち上げ時が肝心なんだ。最初のうちだけでいいのでお願いできませんか?

落ち着いたら交代してもいいですから」


和本があまりにもしつこく頭を下げるので健一も断りきれず「わかりました和本さん。とりあえず

引き受けますが、恐らく私は店の営業で忙しくなるので、会議とかは代理を立ててもよろしいですか?

野崎・大串2人のどちらかを役員待遇とかにしてもらうとか」健一の条件に和本は、

「それはわかりました。次の定例理事会で議案を出します。これからは個人の負担を

大きくならないように、組織で動く必要がありますからね」和本は、

最近新調した黒縁のめがねを再度かけなおしながら健一の提案を了承した。

その後、退職までにやることをいろいろ考えていると、

大阪にいる母・京子から電話がかかり、開業資金の足しにと100万円を貸してくれることになった。

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