第3話 別れの前に

「健一、私が帰ってきて5分も気づいていなかったわね」

黒山昭一との夢の会話に浸っていた大畑健一は現実に引き戻される。

「ああ、ごめんなさい。いつの間にお帰りなさい」

「もう、困ったものね・・・。でも先ほどのお客さんいい人ね」

千恵子の問いに健一の表情がほころぶ。

「うん、久しぶりに有意義なお客さんだった。こういう人が増えるとこの店

も安定するんだけどね。彼はマレーシアに住んでいたことがあって、

マラッカと言う町によく行ったそうなんだ。

うらやましいね。でも今の状況じゃいつの日になるやら。」

とため息をつく健一に甲高い声を出す千恵子。

「だから健一、今がんばってるんじゃないの!もう・・・。」


「ごめん、ちょっと弱気になってしまって」

「大丈夫きっとそうなれるよ。お互いがんばってるからね。

今年は温泉かもしれないけど来年か再来年にはタイとか

そのマレーシアにもいけるわよ。

そうね私はシンガポールにも行ってみたいわね。

あそこは、マレーシアの中でも中国の色が特に濃いらしいからね」

健一は笑いながら、「千恵子さすがだね。俺と同じ中国の文化・歴史が好きだ

からな。俺は、シンガポールも興味あるけどやっぱり

マラッカのババ・ニョニャとかプラカノンとか中国の人が現地の人と

一緒になった文化の足跡が見てみたいよ。あそこはオランダやポルトガル

の遺跡などが残っているからなあ。

交易の場所としての歴史をこの目で見てみたい。

そうそう、フランシスコザビエルもマラッカから日本に着たんだしね」

などと、歴史の話になると止まらなくなる健一。

千恵子はそういう健一を見るのが楽しくて仕方がなかったのだった。

「あらら、そろそろ時間ね。もう少し話したいけど残念。

では今からスナックに行ってくるからね。今夜も泰男のことお願いね」

と、スナックへの勤務のためいつも以上に派手なメイクと

ファッション姿の千恵子。


千恵子のスナック勤務に当初、健一は心配して反対したが、

千恵子の意志は強かった。

健一は、自らの不甲斐なさをひしひしと感じながら、

黙認せざるを得なかった。

1月から千恵子は朝から夕方までスーパーに、

一旦店に戻ってきて少し休憩してから、

スナックに向かうという日々が続いていた。

しかしやはり無理が重なったのか、

千恵子の表情には、明らかに疲れが見えるのがわかる。

日々やせ細っていき、目にも隈ができるまでになっていたので

スナックに行く時はメイクを厚くしてごまかしていた。


今日も、雨が降り続いている中、いつものようにスナックに出かける、

普段は気を張っていても、ふとしたときに疲れた表情をする千恵子に、

健一が心配になり、真顔になって声をかける

「千恵子、体調大丈夫?顔色が良くないよ!

無理しないで、辛いならいつ辞めてもいいから」

と言って、引きとめようとするものの、それに対して千恵子は笑顔で、

「だから、大丈夫だって行ってるでしょう。しつこいわね」と反論する。

「確かに疲れていないと言えばうそだけど、

あなたの夢のために働いていると思うと充実しているのよ。

そんな時こそ私には神様がいると信じているし、

それに時給がスーパーとは全然違うんだもん。

スーパーも確かに午前中だからきついけど、

あそこはあそこで、社長さんにはレジうちの速さ褒められているし、

『だったらもうちょっと時給上げろ』とか思う事はあるけど、

いろんなおタイプの客さんがレジに来るから、それを見ていると

『いろいろと勝手な事』を想像してしまい、

それだけでもでも楽しいからやめられないのよね。


まあ、家に帰れば健一や泰男の顔が見られるから大丈夫よ。

それより、今日は良いお客さん来たじゃない。今日は繁盛するかもよ。

じゃあ頑張ってね。夜ごはん楽しみにしているから!」

そのようなけなげな千恵子の姿をを見ながらも、

今の生活が厳しい状態では強引に引き止めることも出来ず、

ひたすら感謝の気持ちを持ちつつ笑顔で、

「そうかわかった、昨日から雨が降っているから道中は本当に気をつけてね」

と言って、千恵子を見送る健一であった。

「そうだよな、千恵子の言うように神様ついているからなあ」

実は健一と千恵子はキリスト教を信仰するクリスチャンであった。


さて雨の中、いつものように千恵子を送り出した健一は店に戻り、

営業体制にもどっていると2・3分ほどして人が入ってきた。

「今日はすごい。いらっしゃいませ」と声をかけたが

戻ってきたのは。千恵子。ちょっとあわてた表情をしていた。

「千恵子、どうしたのあわてて」

「ごめん、忘れ物しちゃった。私のピンクの髪留め知らない?」

「ピンクの髪留め??ああそうか、昨日つけていたね」

「そうなのよ。昨日せっかくだからピンクの髪留めつけたんだけど、

あの後忘れてしまって家にもなかったから、店にあると思っていたのよ。

あれは健一が私に始めてくれたプレゼントだから」

といいながら、あわてた表情で店内を探し回る千恵子。

「ああ、これこれ・・・やっぱり疲れているからだわもう」と、

千恵子が昨日座った椅子のソファの下に落ちていた

ピンクの髪留めを見つける。

「これがないとね。昼間のスーパーだと黒いゴムでないと

駄目だったりするけど、スナックはそれじゃ地味なのよ。

別になくてもいいのかもしれないけど、髪おろしたままだと

正直うっとうしいのね。

常連のお客さんもこれつけているほうが喜んでくれるし」と笑いながら

千恵子は早速ピンクの髪留めを付ける。

千恵子がいつも以上にあわてているのを見て、ちょっと不安になる健一。

「本当に大丈夫?」と健一が心配そうにしても、

「今日は本当にしつこいわね。もう大丈夫だといってるでしょう」と

千恵子はやや不機嫌ながらも、明るく振舞う。髪を整えると大きく深呼吸して

「さて、これで落ち着きました。ごめんねびっくりさせて」と

ニコッと笑うのであった。





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