第32話 スナックへの職場訪問

曼谷食堂の閉店が決まり、青木貿易に就職することが決まった健一は、

タイ食文化研究会(TFCRA)の野崎たちに連絡して、GW中に店を開放することにした。

これは、余っている食材やドリンク類をすべて使ってもらおうという趣旨で、イベントを開催。

野崎を始め、健一と一緒に就職が決まった大串らメンバーがそろい、上位団体である

アジア食文化協会(AFCA)の和本得男が音頭をとって、組織を挙げて盛大なパーティイベントが数日間続いた。イベントが終わった後は、アジアンカフェに改装するために必要な備品類以外のものを、研究会や協会に拠出する形で手渡した。

一連のイベントで売上げたお金は、健一が半分で残り半分を組織としてのTFCRAのものとした。

ただ、健一はこのイベントの開始前の準備と終了後の後片付けを除いて、基本的に顔を出さなかった。


イベントが終わり、店内の後片付けがすべて終わった日。

この日は健一が青木貿易に入社するために、名古屋に向かう日の前々日であった。

すでに夜になっていた。店に最後の鍵をかけると店に対して静かに一礼した健一。

「約1年間ありがとうございました。千恵子のことはいまだ辛いですが、新しい人生を今から歩みます」

こう一人でつぶやくと、福井の家に立ち寄りに店の鍵を返す。「お疲れ様でした。あ、おばさんちょっと

これから出かけたいので泰男をもうすこしだけ」と伝え、福井の了承を得たあと、一人夜道を歩いた。


健一が向かった場所は、スナック。そう千恵子が働いていたスナックである。

健一は新しい人生を始める前にどうしても千恵子が死の直前まで働いていた

スナックに立ち寄りたかったのであった。


途中、帰りに千恵子がトラックに引かれたところを過ぎた時、少し涙が出かけたが、

かばんの中にいつも持ち歩いている、ピンクの熊のぬいぐるみを手探りで強く握りながら、それを振り切るように早足で歩く。

駅近くの小さな歓楽街の中にそのスナックがあった。

やや重いドアを開ける健一。「いらっしゃい。あっ千恵子ちゃんの」遠くで声がしたのは

このスナックのママさん。店自体はカウンターが10席程度あるだけの小さなお店

ママさんと若い女性スタッフの2人と、常連と思われし男が一人だけ奥で座っていた。

その男も女性スタッフも一斉に健一のほうを向いた。


健一は静かに頭を下げるとドアの近くのカウンターに腰をかける。

「いらっしゃいませ。この度の事は・・・・」健一に、お絞りを渡す女性スタッフ。

健一が顔を上げるとどこかで見た顔である。「あ、この前銚子屋のレジにいた方では?」「ああ、そうです覚えておられましたか。あの時たしか社長とお話されていましたね」女性は、先日健一がスーパー「銚子」屋でレジをお願いしていたときに担当していてつり銭を間違えていた小柄の女性であった。

「私の妻と同じ職場で再度お会いできるとは。あなたも仕事を2つ兼ねているのですか?」と健一が声をかけると、女性は首を横に振り

「いえ、あそこはGW前に辞めました。実は、その大畑先輩の代わりにという事で募集されていたのでこのお店にお世話になったばかりです」と静かに答える。

「そう明子ちゃんは、入りたての新人さん。あっそうか千恵子ちゃんと同じスーパーにいた子だったわね」

と体格が明子という女性の2回りは大きいであろう恰幅と貫禄十分なママが声をかける。


「あ、あなたが千恵子ちゃんの」「そう御主人さんよ。」常連の男も健一のことが気になっていた。

「私たちもみんな驚いているの。あの日雨がひどかったから自転車置いて帰ってもいいといったんだけど

あの子は結構強情で、『待っている人がいるので』といって、そのまま帰って行ったわ。それが最後の姿だけど」

と言うと、ママの表情もさびしく暗くなる。

「すみません。楽しい場所なはずなのに、僕が来たために暗くしてしまいました。

ただどうしても妻の職場だった場所を見ておきたかったもので」

健一は、そういいながら注文した瓶ビールが注がれたグラスを口に運ぶ。

「でも、ママさん。妻の葬儀まで顔を出してくださりありがとうございました」とママに頭を下げる健一。

「そんなのは当然よ。でも千恵子ちゃん派手じゃなかったけど良い子だったわ」

「千恵子ちゃんかあ、いやあいい子だった。でも独身じゃなかったのが残念だな」

常連の男性もそういって千恵子のことを懐かしむ。


「千恵子が言っていた野球好きの常連とはあの人のことかなあ?」

健一は常連の男に聞くわけにも行かず勝手に想像を膨らませていた。


「あ、そうそうご主人様。よろしければ一曲どうですか?と健一にカラオケを歌うことを勧めるママ

あ、あのう歌はちょっと」と断る健一。「お金払いますので、代わりにママさんが歌ってもらえますか?」

健一の問いに、「うーんどうしようかな。あっ明子ちゃん歌ってみる?」

「わ、私が?」少し戸惑う女性スタッフの明子。「そうよ、あなた千恵子ちゃんの後輩だったんでしょう。せっかくだから」

ママに促され、やむなく一曲歌うことを決める明子。「ご主人さん。大畑先輩には、銚子屋で大変お世話になりました」

私の知っている曲はあまりないですけどこれを歌います」いって歌いだした曲は「花」という沖縄の歌であった。


「~いつの日か、いつの日か、花を咲かそうよ♪」明子が自分の世界に入ってるかのように歌うのを眺めながら健一は「いつか花を咲かすかあ。そうだな泰男のためにも」と一人でつぶやくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る