諜報員明智湖太郎の日常

十五 静香

1 厠奇譚

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 自分がどのような任務に就いていたのか、記憶はない。



 気づいたら諜報員明智湖太郎は、無番地所有の黒塗りの乗用車ごと、冷たい湖の底に入水させられていた。


 多分、敵に嵌められ、自動車に細工をされたのだろう。


 自分としたことが、迂闊だった。


 懸命にブレーキを踏んでも、自動車は前進をやめず、ズブズブと明智を乗せた車は湖水に浸かっていく。


 車は諦め、命だけでも助かろうと、ドアを開けようとしたが、既に窓の半分くらいまで水に浸かってしまった運転席ドアは、圧倒的な水圧で押さえつけられ、ビクともしなかった。


 窓を割ろうとダッシュボードに置いてある金槌で叩いても、群青色の世界にはヒビ一つ入らない。


 そのうちに、隙間から滲み出てくる冷たい水が彼を瞬く間に飲み込み、呼吸が苦しくなる。



 寒い、冷たい、息が出来ない。



 こんな事態に陥った経緯は、ようとして分からないが、死を意識せずにはいられなかった。



 こんなところで、俺は死ぬのか?



 まだ、何も成し遂げていないのに。



 明日のおやつに食べようと楽しみにしていた、こまどり饅頭もあるのに。



 当麻旭に借りた本も読み終わっていないし、近藤に貸した金も返して貰っていない。



 畜生、金返せ。



 死にたくない。



 饅頭も食いたいし、借りは返したいし、貸したものは返して貰ってからでないと、俺は死ねない。



 それなのに、意識が遠のいていく。



 嫌だ、嫌だ、嫌だ……。


 死にたくない、死にたくない……。






「起きろ眼鏡。仕事の時間だ」



 就寝中の他の諜報員たちには聞こえぬよう、低めてはいるが、ドスの効いた男の声で明智は悪夢から目覚めた。


 寝ぼけ目を擦って見上げれば、常夜灯に照らされた童顔の同期が、右手を布団の端で拭きながら、こちらを見下ろしていた。


 徐々に意識が覚醒してくると、鼻の辺りに、ついさっきまで誰かに摘まれていたような感覚が残っているのに気づく。


 肩までしっかりかけて寝たはずの布団も、全て剥がれていた。


 いくら真夏でも深夜は冷える。


 寒い訳だ。



「お手洗いに行きたいです。一緒に来てください」



 自由奔放、自分勝手を極めた悪魔、松田は愛らしい顔を綻ばせた。

 けれども、柔和な笑顔からは、自分の要請を明智が断るなんてあり得ない。と言うか、是が非でも従わすつもり満々の威圧感を醸し出している。


 今夜で連続3日目だ。

 深夜に用を足しに行くリズムが体に染み付いてしまっているのだろう。

 経験則上、松田の狂った生活リズムが何かの加減で元どおりに戻るまでは暫くかかる。


 その日が訪れるまで、毎晩、離れにある便所まで同行を強制させられる。


 自分かこいつ、どちらでも良いから、明日にでも所長に呼び出され、長期に渡る泊りがけの任務を命令されればいいのに。



「……構わないが、今度から普通に起こしてくれ」



 逆らっても厄介なので、溜息を吐きつつ、枕元に置いた眼鏡をかけ、起き上がった。

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