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 どんな困難な任務も涼しい顔でやり遂げてしまうのが、諜報員というものだ。

 自分を殺し、平然と嘘をつき、他人になりすます。

 不本意なことだって、眉一つ動かさずにやってみせる。

 それができて、やっと一人前なのだ。

 そんな基本的な心得を、どうして自分は失念していたのだろう。


 漫才なんて柄ではない、なんていう本心はどうでも良いのだ。

 感情を押し殺し、芸人になりきり、全力で笑いを取りに行くことこそが、諜報員明智湖太郎のやるべきこと。



 とは、勿論ならない。



 所長から命令された任務ではなく、あくまで近藤が私的に依頼してきたことだ。


 自分を殺し、恥をかなぐり捨て、コメディアンになりきる義務なんぞ、全くない。



 朝食をかきこむと、明智は大股で寮の板敷きの廊下を踏み鳴らして進んだ。

 そして、諜報員たちの居室兼寝室の前まで来ると、乱暴にドアを開けた。


 室内では、漸く起床した近藤がだらだらと同じく、早起きが苦手な広瀬と話しながら、ワイシャツのボタンをとめている最中だった。



「おおっ、おはよう、明智。どうした? 般若みたいな顔をして。今朝は一層、陰気臭っ……」



 一気に間合いを詰め、能天気に笑う原人芸人の胸ぐらを締め上げた。



「俺は昨日、漫才なんぞやらんときっぱり断ったはずだぞ。なのに勝手なことを触れ回りやがって。許さん。貴様のことは、前から気に入らないと思っていたが、今日こそは許さん」



 身体中からの毛穴から怒り気を放ち、悪鬼の如き形相で迫ったが、近藤はまだへらへらしていた。

 明らかになめられているのは明白で、頭にさらに血がのぼったが、相手は動じている様子は一切なかった。

 摑みかかられながらも、平然と反駁する。



「何だよ、そんなに怒るなよ。心配しなくても、主に体を張ったり、滑稽なことをするのは俺の方だ。貴様は、いつもの辛気臭い顔で俺の奇行に突っ込んでくれればいい。衣装だって、紳士は普通の背広だ」



「そういう問題じゃない! 俺は漫才なんて、何が何でもやりたくないのだ! ボケだのツッコミだの知らんが、全部嫌だ。だから、断った。それなのに勝手に相方にされたことを怒っている」



 松田は完全に面白がっていたし、小泉や満島も同じに違いない。

 皆に笑い者にされるなんて、耐えられない。

 だが、近藤が悪びれている気配はなかった。ひらひらと右手を振り、言い訳した。



「ああ、すまんすまん。でも、どうせいずれは貴様はピテ紳の紳士の代打をやることになるのだから、構わないと思って。皆も予定があるし、稽古を見てもらうなら、早めに言っておかないといけないしな」



 松田も真っ青の独りよがりな言い分に、眩暈がする。

 こちらの主張なんぞ聞いちゃいない。自分の思う通りに事実を捻じ曲げるのも厭わない姿勢には、呆れを通り越し、僅かだが恐怖を感じた。


 その隙に、近藤は胸ぐらを掴んでいた手から逃れた。



「やってあげればいいじゃないか。たった一回なんだし、客は一人。出征する友達に見せるだけ。本もできている。僕だったら受けるけど、残念ながら近藤曰く、僕の見た目が本物の紳士と違いすぎるそうだ。代役とはいえ、できれば似た印象の奴がいいという言い分は、分かるだろう? 本物は生真面目で冷淡に見える男だったとか」



 突如、二人のやりとりを静観していた広瀬が口を挟んだ。

 窓から入る朝日に照らされた髪がキャラメル色の光沢を放っている。

 無番地きっての技術者で、近藤の親しい友人でもある彼をキッと睨みつけた。



 そんなことを言われたって。


 情に訴えようとしたって。


 無理なものは無理だ。


 こいつらはずるい。


 出征する友人との今生の別れになるかもしれない場で、餞をしたいというお涙頂戴の話から反則だ。

 断ったら、あたかもこちらが冷血人間みたいではないか。



「とにかく、俺はやらない。嫌いなんだよ、漫才とか。どこが面白いのかも分からんし、見たくもない。ポッと出のくだらん下賤な娯楽だと思っている。数年後には消えているさ。青春の思い出だか何だか知らないが、知ったこっちゃない。そんなものを演じるなんて、真っ平だ」



 感情のままに発した言葉は、意図していた以上にキツく、相手を傷つけるに十分な刃だった。


 ふざけていた近藤のいかつい顔からは笑顔が消え、みるみる悲しそうな表情になった。

 口に出してしまった言葉を無効にする術はない。

 気づいた時には遅い。後からどんなに取り繕っても、取り消しても、傷つけてしまった事実は消えない。



「……明智、言葉が過ぎるよ。本音さえ言えばいいというものじゃない。近藤は……」



「広瀬、構わん。勝手に先走った俺がいけなかった。すまん、明智。このことは忘れてくれ」



 明智の暴言を、渋い面持ちの広瀬が糾弾しようとしたが、他ならぬ近藤が制した。

 一重まぶたを苦しげに細め、がっちりとした肩を落としている彼は痛々しかった。



 猛抗議の甲斐あり、漫才の相方はしなくて済みそうになったが、明智の心は全く晴れなかった。

 むしろ、罪悪感のような自責の念に苛まれ、午前中の事務仕事ははかどらなかった。

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