7
家族連れや学生の集団で賑わう食堂の片隅で、明智はひたすら無の状態を維持しようと心がけた。
余計な口は叩かず、話を振られた時のみ、当たり障りのない受け答えをする。
下手に場を盛り上げようと冒険するのは、危険だと判断した。
訓練生時代、キャバレーの会話慣れした女たちですら、通夜のお清めの席状態にした自分だ。素人女相手では、どんな惨状になるか分かったものではない。
また、普段は女らしさの片鱗さえ見せぬ旭が恭子と一緒にいると、あたかも『普通の女の子』のように見える時があり、何故か不安定な心持ちにさせられた。
「美味しかったね。お腹空いてたから一気に食べちゃった」
飲み込むように定食をかきこんだ旭は、満足そうな顔で、椅子にもたれかかり腹をさすった。
対する恭子は、ちびちびとのんびり蕎麦を啜っており、丼の中にはまだ半分以上残っている。
「旭ちゃん食べるの早いね、前からこんなだった?」
「男の人が多い職場だから、段々自分も早くなっちゃうの。恭子ちゃんはゆっくり食べて。私、ちょっとお手洗いに行って来るね」
言うや否や、旭はハンカチを片手に席を立つ。見たところ、多分今日もすっぴんなので化粧道具を持って行き、食後の化粧直しをする必要はないのだろう。
「え?」
妙にいつもと違う女の匂いをさせているとはいえ、頼みの綱である彼女の中座に、明智は面食らった。
テーブルに恭子と二人で取り残されるなんて、あまりに酷い仕打ちだ。
今日会ったばかりの、美人で優しくて、おっとりとしていて女らしい、ふわふわの綿菓子の如き女性と二人きりなんて、勘弁してくれ。
立ち上がった女上司をすがるような目で見上げたが、彼女は冷酷にも「それでは暫しのご歓談を」と言い残し、さっさと化粧室へと去ってしまった。
『旭の完全無欠の恋人』を演じている以上、歓談なんてできる訳がないだろうが、と異議を申し立てることすら許されない。
ちびちびとお冷を啜ってやり過ごそうと、ガラスコップに手を伸ばした時だった。恭子が思いもよらぬ行動に出た。
何と、右手に握っていた箸を膳の上に起き、立ち上がると、旭が立ち去ったばかりの席、明智のすぐ隣の席にストンと柔らかそうな尻を着地させたのだ。
石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
「うえ?! 」
狼狽のあまり、奇妙な声が漏れてしまった。咄嗟に、明智は上半身を反らせ、彼女から距離をとろうとしたが、先程までの緩慢な動きが嘘のような素早さで、手入れの行き届いた白く華奢な手が、テーブルの上に置いていた彼の左手の上に重ねられた。
心拍数が一気に上昇し、頭がカーッと熱くなり、顔や耳が朱に染まる感覚がする。
「ちょっと、恭子さん?! どういうおつもりですか。いけませんよ、こんなの」
冷静に諭すつもりが、声が裏返る。恭子は、しっとりと濡れた黒目がちの瞳を細めたものの、彼の質問には答えなかった。
逆に、甘く誘惑するような声音で、明智に尋ねた。
「明智さんは、旭ちゃんのどこが好きなの? 顔? 頭が良いところ? それとも……」
恭子は、ずいとさらに明智に身を寄せ、耳元で囁いてきた。耳朶に生暖かい息がかかり、一瞬だが弾力のある唇が触れた気がして、硬直する。
「からだ、かしら」
「?!」
甘噛みでもするかの如く、手の甲に爪を立てられた。清楚な田舎のお嬢様だと思っていたが、とんでもない思い違いだった。
男を十分に知っている女のもったりと胃もたれがする色気に、明智は震撼した。
「……その反応だと、からだではなさそうね」
「あ……いや……」
絶句しているうちに、彼女はつまらなさそうに嘆息し、食べかけの蕎麦が置いてある自席に帰ってしまった。今のは一体何だったのだろう。
考える間もくれず、物憂げに頬杖をついた恭子は、値踏みするような冷ややかな目つきでこちらを見つめてきた。
「ねえ、明智さんはどうして旭ちゃんとお付き合いをしているのですか? 彼女のどこが好き? 全部とかはなしよ」
改めて問いただされ、明智は脳をめまぐるしく働かせ、最適解を探す。
付き合っていないのに、どこが好きなんて言えないとは絶対に言ってはならない。嘘は依頼人たる旭が許可するまでは貫かなければならない。
恭子が自ら例示したような内容で返せば良いのだろうか。
だが、顔が好きだとか、頭が良いところが好きだというのも、俗で薄っぺらいように思える。そもそも、旭に女性としての魅力を感じた記憶がないため、当てずっぽうで言うにも限界があった。
「思いつかないんだ」
考えあぐねているうちに、相手はしびれを切らした。そして、声を低め、続けた。
その台詞は明智の神経を的確に逆撫でするものだった。
「別に気にしないでください。正直、明智さんみたいな完璧な殿方と旭ちゃんって釣り合わないなって、感じていたのです。ほら、旭ちゃんって、友達としては良い子だけど、お洒落とか興味ないし、愛嬌はあるけど美人じゃないし、男の人に媚びないし、家事できないし、頭でっかちだから。明智さんなら、私みたいな、もっと綺麗で良いお嫁さんになりそうな子とお付き合いできそうなのに、勿体無いわって。お節介ですけどね」
本人が席を外した途端、ペラペラと悪口を吹き混んでくる卑劣な行為に対する怒りが、困惑に勝った。聞くに耐えない。だから女は嫌なのだ。友達面をしながら、裏では平気で陰口を叩く。
気づけば、彼は唾を飛ばす勢いで反論していた。
「お言葉ですが、俺はあなたのおっしゃるような完璧な男ではありません。見た目と学歴は確かに誇れるものなのかもしれませんが、それだけです。この歳で、未だに若い女と二人だけになると緊張でうまく話せなくなるし、すぐに腹を壊すし、小さなことでも、すぐにムキになる小者です。見栄っ張りで、必死になって流行りの服を着、東京弁を話している田舎者です。おまけに恋人のどこが好きなのか、なんて簡単な問いにもうまく答えられない馬鹿野郎だ。醜女でも美女でもない十人並みの、いつもすっぴんでボサボサの髪の、色気皆無な、粥一つ満足に作れないガリ勉女がお似合いなんですよ、俺みたいなのには。居心地が良いのです。レヴェルの低い者同士。だから一緒にいる。余計な詮索は止して貰えませんか。旭の親友とはいえ、不愉快です。それに俺は、あなたみたいに、婚約者がありながら、親友の男に気安く思わせぶりなそぶりを見せる女は嫌いです」
彼の豹変に、恭子は目を丸くしていたが、全て聞き終わると、柔らかい愛らしい微笑を浮かべた。首を傾げる明智を慈しむような笑みだった。
「ありがとうございます。その言葉を聞いて安心しました。あなたは本当に旭ちゃんが好きなのですね。こんなに愛されていて、羨ましいです、彼女が。あの子は真っ直ぐなところがあるから、都会の悪い男の人に騙されているのじゃないかって、心配だったのです」
「は?」
何がしたい、何を言いたいのだ、この女は。
眉間に思い切り皺を寄せていると、恭子はカラカラと声を立てて笑い、豊満な胸の前で手を合わせ、頭を下げた。
「試すようなことをして、ごめんなさい。けど、あなたたち、本当お似合いね。安心しました。旭ちゃんをよろしくお願いします」
意地の悪い淫乱女ではなかったようだが、印象よりずっと、したたかで賢い恭子の一面に慄いていることを隠しつつ、明智は苦笑いで首肯するしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます