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 昼食を終えた3人は、1時間程動物園を見物した後、園外に出た。

 恭子がデパートで買い物をしたいと言い出したため、上野松坂屋に向かった。


 明智は食堂での恭子の奇妙な言動が気がかりだったが、彼女はあれ以後、何事もなかったかのように素知らぬ顔をしている。

 代わりに、何故か旭の方が、化粧室から帰って来てからずっと、浮かない表情をしている。何事か思い悩んでいるように見えた。


 意味がわからない。旭も恭子も。


 江戸時代から続く老舗デパートに到着すると、恭子は明智と旭に一人で見たいものがあるので、お茶でもして待っていてくれと頼んできた。


 それならいっそ帰らせてくれと言いたかったが、そうも行かず、売り場の隅にある休憩用の長椅子に座って待つことにした。



「楽しそうでしたね」



 隣に座っている旭が不意に呟いた。棘のある口振りだった。

 どうも、ひらひらとスカートを翻して去っていく華奢な後ろ姿が視界から消えるのを待っていたらしい。



「明智さん、恭子ちゃんと二人で話している時、ずっと楽しそうでした。私には見せない顔で笑っていた」



 旭は頬を膨らませ、拗ねた様子だ。面倒な展開になりそうな予感に、逃げ出したくなる。



「楽しそうっていつの話ですか?」



 まさか、さっきの動物園の食堂でのことではないだろうな。だとしたら、この女の観察眼はスパイマスターとして失格だ。

 作り笑いと本心からの笑顔の区別もつかないなんて。

 けれども、残念なことに、彼女は不満そうに答えた。



「さっき、私が動物園でお手洗いに行っていた時ですよ。やっぱ、明智さんも、女の人が苦手だと言いながら、美人が好きなんですね。ごめんなさいね、私なんかの恋人役をやらせちゃって」



 旭の視線は明智の方ではなく、自分の膝小僧を見下ろしている。膝の上に置いたハンドバッグの取っ手を、子供っぽい丸みの残った手が握りしめる。

 街頭写真屋の失言を引きずっているのかと一瞬思ったが、偽装恋人を演じるよう依頼してきたりと、思い返せば、あの不幸な事故以前から、今日の彼女はおかしかった。



「あの、勝手に怒らないで貰えませんか? あなたらしくないですよ。言っていることもやっていることも筋が通っていなくて、感情的で。まるで、女みたいだ」



 私だって女です!と元気良く反駁されるのを待ったが、そうはならなかった。

 代わりに俯いたまま、旭は力ない口調で、唐突に述懐し始めた。



「初めて気づいたのは、女学校3年の時でした。学校帰りに寄り道して食べていた今川焼き屋さんのおじさんが、私が買うと代金通りの個数しかくれないのに、恭子ちゃんが買うと、いつも一個おまけしてくれたり、そんなにいらないと言うと代金をまけてくれたりしたんです」



「当麻さん?」



「4年になってからは、私は、近くの中学の全然面識のない男の子何人もに手紙や贈り物を渡されて、『成瀬さんに渡して』とか『成瀬さんと話したいことがあるから、呼んできて』とか頼まれるようになりました。みんな玉砕してましたが、誰一人、私本人に手紙をくれる人や告白してくれる人はいませんでした。最初は深く考えなかったけど、こういうことが続くと、否応なく分かっちゃうんですよね。私って、女の子としての価値が低いんだなって。恭子ちゃんはずっと変わらず、私のことを頭が良いとか、一緒にいて楽しいとか、一番の友達とまで言ってくれてるのに、私も恭子ちゃんのことが大好きなのに、周囲から、お前たちは釣り合わないって言われているようで辛かった。恭子ちゃんばっかって、妬む自分が嫌だった。できることなら、ずっと女学校の中に籠ってしまいたかったです。あの中にいれば、私たちは平等でいられたから」



 丸めた背中が小刻みに震えていた。

 男同士でも、友人との実力や境遇の差を痛感させられることは多々ある。しかし、その差は努力である程度埋められる。容姿の冴えない男でも、初老の男でも、学と金があれば、認められる。

 生まれ持った容姿や若さなど、自分の努力では如何ともしがたい要素で優劣が決められがちな女の方がずっと理不尽だと言われれば、首肯せざるを得ない。



「女学校の中にいれば、美人であることも勉強ができることも、同列の美点なんです。けど、世間は違う。女の子は綺麗で家事ができて、従順で、お勉強なんてできない方がずっと好まれる。私が得意な勉強で頑張ったり、級長になって、みんなをまとめたりしても、褒めてくれるのは親や先生と友達だけ。私も恭子ちゃんも、それぞれ良いところがあるのに、そこをさらに伸ばそうと頑張っているのに、世間では、美人じゃない私は、それだけで劣っているのです」



 私だって、お手伝いさんじゃなく、お姫様になりたかった。


 赤裸々に吐露された、十人並みの容姿に生まれた女の悲痛な想いに、明智は胸が痛んだ。

 が、同時にだからどうしたとも感じた。確かに世間は理不尽だし、美人の隣で比較されながら生きるのはつらいのだろう。

 しかし、自分も理不尽な差別をする男の一人とされて恨み節をぶつけられることには、怒りさえ覚えた。


 だから、はっきり言ってやった。



「馬鹿なのですか? あなたは」



 恨めしそうな上目遣いで睨まれたが、知らんふりをする。



「おっしゃるとおり、あなたより恭子さんのような婦人の方が、大多数の男は好みます。けれども全員ではない。あなたみたいな聡明で、女っぽくない婦人が好きな男もいる。彼らを蔑ろにしているのはいただけませんね。あなたは確かに『みんなのお姫様』にはなれないかもしれない。でも、『誰かだけのお姫様』にならなれるかもしれない。その可能性に賭けずに、うじうじと愚痴を零すだけなんて、馬鹿でしょう。見栄を張って、偽の恋人を作って、嘘を積み重ねるより前に、できることはあるはずだ」



「……分からないですよ、男の明智さんに私の気持ちなんか。美人の隣でいないものとして扱われ続けた私の気持ちなんて、恋文を貰ったことのある人になんか分からない。私が一番なんて言ってくれる都合のいい王子様なんて現れない。そんなの、少女小説の中だけだって、とっくに気づいているのです」



 そんなことない、俺がいるじゃないかなどと無責任な慰めを口にし、肩でも抱き寄せられる程、明智は器用ではない。

 今にも泣き出しそうな女上司を黙って、見守ることしかできなかった。


 ただ、嫉妬や見栄のせいで歪になってしまった友情を修復させる手助けは、微力だができる。



「それより、恭子さんもあなたに何か隠していることがありそうですよ。当麻さんは嘘がバレないように繕うのに必死で気づいていなかったようですが、彼女もまた、違和感を抱かずにはいられぬ言動をしていた。恐らく、海軍将校の恋人のことでしょうね。古い親友同士とはいえ、全く隠し事を持たないのも窮屈です。本人が話す気になるまで待つのも手ですが、どうします? このままお互い隠し事をしたまま、当たり障りなく過ごしますか?」



「え?! どういうことですか? それ。詳しく聞かせてください」



 つい先刻まで、自分のことで頭がいっぱいだったくせに、旭はガバリ顔を上げ、食いついてきた。

 丸く愛嬌のある瞳は気迫に溢れ、大事な親友を真剣に心配していることがまざまざと伝わってくる。


 ああ、やはり当麻旭はこうでなきゃいけない。頼りないくせに、真っ直ぐで一生懸命で、仲間想いで、そんなところが自分は……。



 自分は何なのだろう?



 はたと疑問に思ったが、恭子が戻らないうちに早く詳細を教えろと迫る旭の相手をしているうちに、その問いについては、明智はすっかり忘れてしまった。

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