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 一月前、件の海軍将校は数ヶ月に渡る航海から戻り、久々の休暇だった。

 許嫁である恭子はその日を首を長くして待っており、当然に会えるものだと思っていた。


 だが、胸の高鳴りを抑え、嬉々と逢引の約束を取り付けようとした彼女に、受話器の向こうの彼は、申し訳なさそうに言った。


 休暇は休暇なのだが、東京で海軍省のお偉さんたちの接待の予定が入ってしまった。出世に関わる重要な会合なので、外す訳にはいかない。埋め合わせは後日必ずするからと。


 物分かりが良く従順な恋人であろうとした恭子は、落胆を隠し、明るい声音で受け入れた。


 ぽっかりと予定が空いてしまったので、彼女は横浜に買い物に出かけることにした。

 元町で新しい洋服やアクセサリーを購入し、次に彼に会う時には、さらに洗練された自分を見てもらおうと思ったのだ。


 けれども、結局、その判断が不幸の序章を開幕させた。


 小田原駅から東海道線に揺られ、横浜駅で下車した恭子は、改札からホームへと進んでくる人混みの中に、偶然にも許嫁を発見したのだ。

 そして、頬を赤らめ、控えめに彼のシャツの袖を引く、一人の見知らぬ女の姿も同時に見つけた。


 その女は小柄で瘦せぎすで、度の強い大きく分厚い眼鏡を掛けた冴えない女だった。

 夏だと言うのに、江戸時代の後家が着ていそうな燻んだ暗い色彩の着物を纏っていた。

 遠目でも分かる程の出っ歯で、顔色は色白というより、青ざめて不健康そうにも関わらず、化粧っ気はなかった。

 一人で買い物に来たとは言え、気を抜かずに化粧をし、お気に入りのスカートを履いた恭子とは何もかもが対照的な女だった。


 最初は、海軍将校の遠縁の女かと思ったが、彼は今日は東京で終日接待があると話していた。親戚の娘と横浜駅を歩いているのはずがない。

 何より、恥ずかしそうに彼に従う女の表情やそんな初心な不器量な女を労わり、手を差し伸べて先導する海軍将校の端正で優しげな笑顔は、彼らが単なる親戚や友人、或いは同僚ではないと如実に語っていた。


 あの二人は男と女の関係だ。


 そう本能的に悟ったと恭子は述懐した。



 呆然とホームに立ち尽くしていると、二人は恭子になんぞ全く気に留めぬ様子で、東京方面に向かう列車を待ち始めた。


 会話はぽつりぽつりとしかしていなかったようだが、それもまた初々しく、恋人然としていた。

 気づけば、恭子は彼らの隣のドアから同じ列車に乗り込んでいた。

 尾行なんてはしたないと思う余裕はなかった。何が起こっているのか受け入れられず、ただ残酷な真実が嘘であることを確かめたくて、仲睦まじい男女の後をつけた。



「あんな綺麗じゃない上に、綺麗になる努力もしていない人に、あの人を奪われたなんて認めたくなかった。二人は上野動物園に行ったり、公園を散歩して、松坂屋でお互いに贈り物をしあって、最後にこの店で夕飯を食べたの」



 クロスを薬指ですっとひと撫でし、恭子は言った。



「丸の内の街並みが綺麗に見えるこの席で」



 高畠華宵たかばたけかしょうの美人画に似た艶っぽい目元が、空席になっている明智の隣席を一瞥した。

 その席は空席で、荷物置きに使っていたが、彼女は荷物以外の何かを見出したように感じられた。

 刹那、明智は背筋がぞくりとした。



「私みたいな鈍臭い女に半日以上尾行されていたのに、彼も彼女も全然気づかないくらい、お互いに夢中だったの。私は、二人がこの席で仲睦まじく食事する様子をあっちのカウンター席から観察していた。そして、夕飯を食べ終えた二人は、帰りの電車には乗らず、東京駅近くのホテルに入っていったわ。もうその先はとてもじゃないけど考えられなくて、私は一人で東海道線に乗って帰った。涙が一滴も出なかったのは不思議だったなあ」



「それって二股かけてたってことでしょう? 酷いよ!」



 フグのように頬を膨らませ、義憤に燃える親友を見やり、恭子は力無く微笑んだ。



「そうね。酷い人だった。でも……好きだから、あの冴えない女の人とのことは、一時の気の迷いで、私のところに戻ってきてくれるって信じていたから、私は翌日の夜は、横須賀の彼が暮らす寮に押しかけたの。最初は彼は人違いだと言い張ったけど、女の人の容姿を事細かに言い当て、ホテルに入るところまでの行動を全部知っていると詰め寄ったら、白状したわ。そして、とても申し訳なさそうな顔で、私に土下座して言ったの。『彼女に本気で恋をしてしまった。彼女も僕を愛してくれている。だから、別れてくれ』って」



 海軍将校の中で、浮気はとっくに本気に変わっていたということか。

 人の恋心は理屈では説明できないと佐々木が言っていたのは、こういうことなのだろうか。

 やりきれない気持ちに、明智は眉間に皺を寄せる。



「彼女のどこがそんなに良いのよ、と聞いたら、言われちゃったの『君は見た目は綺麗だし、家事もできて女らしいけど、それだけだ。空っぽの何者でもないつまらない女だ。けど、彼女は違う。器量は良くないが、英学校を出て、貿易会社の事務員をしているだけあって、聡明で話も面白く、一緒にいて飽きない。初心な分、少しのことですぐに照れてしまうところがたまらなく可愛い』って」



 そんなことないよ、と旭が言いかけたが、恭子はそれを遮った。



「私ね、旭ちゃんのことがずっと羨ましくて、憧れていたの。旭ちゃんは頭が良くて、優しくて、旭ちゃんにしかない良いところや可愛いところ、沢山持ってて。私は色んな男の人に一目惚れされることはあっても、最後に選ばれるのは旭ちゃんみたいな子なんだって、女学校の頃から分かってたつもりだった。だけどあの時、あの女の人のことを愛おしげに話す彼を見て、やっと気づいたの。あの女の人も、旭ちゃんの方がずっと見た目は可愛いけど、きっと旭ちゃんと同じで、目に見えない、とてつもない魅力を持った人なんだろうって。私みたいな空っぽの女じゃ、絶対敵わない女の人なんだろうって」



 わっと顔を両手で覆う親友を前に、旭は暫く沈黙していたが、やがて絞り出すような声で反論した。



「……恭子ちゃん、それは違うよ。違うよ。違う。女は見た目より中身だとか綺麗事を言うけど、結局、男の人は美人に吸い寄せられちゃう生き物なんだよ。成績が良くても、面白い話ができても、美人じゃないと、女として見て貰える確率はグンと落ちるの」



 まん丸の瞳からも、涙が溢れ出る。



「私はずっと恭子ちゃんが羨ましかった。……いつだって、誰からも女の子として見てもらえる」



「でも、旭ちゃんには明智さんがいるじゃない! 私には誰もいないのよ」



 恭子が半ば叫ぶように発した反駁を、旭は店中に響き渡る大声でなされた告白でねじ伏せた。



「いないよ! 私にも誰もいない。恋人がいるなんて、全部嘘だもん! 恭子ちゃんに置いていかれるのが嫌で、この歳で恋人すらいないことが恥ずかしくて、嘘吐いちゃっただけ」



 さらに人差し指で明智を指差し、彼女は言い切った。



「この人はただの会社の先輩! 無理を言って、恋人のふりをして貰っていただけなの! ねえ、明智さん!」



 いきなり同意を求められ、明智は頬を引きつらせ、首肯するほかなかった。

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