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 古くて悪臭が酷く、薄気味悪いお手洗いに飛び込んだ僕は、できるだけ早く出ようと、慌てていました。


 だけど、用を足し終え、かじかむ手に喝を入れながら、身支度を整えている最中、北風の吹く音とは明らかに異なる音が、僕の鼓膜を揺さぶりました。


 それは、誰かがすすり泣く声でした。


 声の高さからして、子供か女の人のものです。

 しくしくと静かですが恨めしげに続く泣き声の合間に、時折低いうめき声も混ざります。


 今でこそ、幽霊、妖怪の類は信じない僕ですが、当時はまだ、完全に人ならざるものの存在を否定できる知識や心の強さはありませんでした。


 背筋に冷たいものが走り、ただでさえ寒さで自由に動かない指先が震えて、ズボンの前を閉めるのに難儀してしまい、もどかしくて止まっていた涙が再び流れ落ちてきたのをよく覚えています。


 生暖かい涙は頬を伝ううちに、瞬く間に冷え、顎の辺りに落ちる頃には、ひんやりと冷たかった。


 何とか元通りに服を着終わっても、正体不明の泣き声は止みませんでした。



 個室の扉を開けた途端、恐ろしい化け物にとって食われる妄想が過ぎり、いざ脱出しようにも、幾ばくか躊躇ちゅうちょしました。


 しかし、見知らぬ貧民窟の便所の中で、泣き声が止むのを待ち続けるのは、もっと恐ろしかった。



 僕は勇気を振り絞り、個室の扉を開けました。


 そして、何も襲いかかって来ないことに安堵し、手洗い用の手水鉢の方に視線を移したところで、泣き声の主を見つけました。


 僕と同年代くらいの男の子でした。


 小雪がちらつく凍るような冬の夜だというのに、ぺらぺらの絣の着物一枚しか着ておらず、寒さのせいか、嗚咽しているせいか定かではありませんが、膝を抱えてうずくまる小さな体は、小刻みに震えていました。


 着物の裾から覗く手足は小枝みたいに細くて、所々に紫色の痣や赤黒い傷があるのが、月明かりでも分かりました。


 彼は、雑巾みたいにボロボロの手拭いを握りしめ、俯いた顔の額辺りに当てているようでした。



 僕はさっさと手を洗って、ここから離れたかったのですが、手水鉢の前に居座られているせいで、叶いません。


 この際、手ぐらい洗わなくても良いと言われるかも知れませんが、あんな雑菌がうようよいそうなお手洗いに入った後です。

 できれば洗いたいじゃないですか。


 見る限り、男の子は陰気な雰囲気の子ですが、ちゃんと足も生えていましたし、薄っすら雪の積もり始めた地面には影ができていました。


 魑魅魍魎ちみもうりょうではなく、生きた人間に見えました。


 ですから、恐る恐る、咽び泣く痩せた背中に話しかけたのです。



 手を洗いたいから、少し退いてくれませんか、と。



 とんがった両膝の間にあった頭がゆっくり持ち上がり、雪のように真っ白で血の気のない顔がこちらを向きました。


 頬がこけ、目ばかりが異常に大きく見える顔立ちは、きちんと栄養を与え、身なりを整えてあげれば、かなり美しくなりそうでした。


 けれども、ぐしゃぐしゃに乱れた髪、頬にできた紫色の痣、端が切れて血が滲んだカサカサの唇、目の周りに隈取りのように出来た青たんが、彼の生来の美しさを著しく損ね、化け物じみた容貌に変えてしまっていました。


 焦点の合わない瞳は、僕を捉えると、みるみるうちに生気を取り戻し、強い光を宿し始めました。



 最初僕は、あの瞳に宿った光が何を源にしているか理解できず、棒立ちになっていました。


 しかし、腫れ上がった顔が醜く歪み、彼の細い眉の間に深い溝が刻まれた辺りから、漸く気づきました。



 清潔で上等な子供服を着、毎月床屋で整えて貰っている髪型をし、体つきは小柄だったけど、子供らしい柔らかな肉のついた健康そうな頬をしていた僕を、見るからにみんな愛され、大事に育てられている僕を、みすぼらしい傷だらけの男の子は睨みつけていたのです。



 上目遣いで、子供とは思えぬ強烈な意志の籠もった視線で。



 同じ国に生まれた同じ年頃の子供なのに、どうしてこんなにも違いがあるのか、という世界の理不尽に対する怒りも多分にはらんでいたのでしょうが、やはり、一番強く伝わってきた感情は、剥き出しの嫉妬と憎悪でした。



 お前なんか、死んでしまえ。



 いつか引きずり下ろして、地面に叩き落としてやる。



 そう彼の瞳は物語っていました。



 生まれて初めて、他人から本気で憎まれ、おまけに相手は名前も知らぬ、今出会ったばかりの少年だという事実に、僕は頭を強く殴られたような衝撃を受け、戦慄し、足がガクガクと震え始めました。

 逃げ出したいのに、叫び声を上げたいのに、体が言うことを聞かなかった。


 恐怖で動けぬ僕を前に、男の子はよろよろと立ち上がり、徐に、額の辺りを押さえていた手拭いを下ろしました。



 小汚い布にはべっとりと赤黒い染みができていて、まだぬらぬらと湿っているのが、夜目でも分かりました。


 手拭いを外すと、乱れた髪の間から、つうっと何筋も暗赤色の粘性の液体が流れ、男の子の腫れ上がった頬や鼻血が出た跡の残る高い鼻を伝っていきました。


 改めて正面から見た彼は、どう見てもこの世の住人ではありませんでした。

 足があるとか、影があるとか、そんなの現世の人間である証明にはならなかった。


 月光に照らされた満身創痍の男の子は、全身から恨み、憎しみ、妬み、悲しみといった壮絶な負の感情をとてつもない出力で放出していたのです。



 あんな芸当、生きた人間にはできませんよ。



 それを見て、僕はいよいよ錯乱状態に陥りましたが、ふと天女のように優しいお母様の言葉が頭の中で再生されたのです。



 弱っている人には、優しくしてあげなさい。



 呼吸をするのでさえ、ままならぬ喉を必死に動かし、掠れた声で言いました。



 大丈夫? 酷い怪我だから、病院に行った方がいいよ、と。



 すると男の子は、憎々しげに吐き捨てました。



 行ける訳ない、と。



 恐る恐る理由を尋ねると、彼は急に無表情になり、僕が唾を飲み込んだのを確認してから言ったのです。




 行けないよ。だって、僕を殺したのは母さんなんだから。




 それから、どうやって浅草の料亭に帰ったのか、正直記憶があまりありません。

 ただ、人目も憚らず、大きな声を上げながら、めちゃくちゃに夜の帝都を走り回り、何度も転んで、ボロボロになったのだけは覚えています。



 あの時は、さすがのお父様や爺やにも、かなりきつく叱られましたが、僕は泣きませんでした。泣けなかったのです。

 あの男の子の憎しみにまみれた目が忘れられなくて。

 誰よりも子供を愛し、慈しむはずの母親に殺されたという衝撃的な告白に心を深く抉られてしまって。



 結局、あの子のことは誰にも話せないまま、今の今まで来てしまいました。

 何でこんな話、よりによって明智さんなんかにしているのだろう、僕は。


 あの貧民窟は、震災の際に全壊した挙句、火事で灰になったと聞きます。

 人も家も全部燃えて、跡形もなくなってしまった。

 公衆便所も男の子を殺した母親も、みんな燃えてしまったでしょうね。


 けど、あの子の霊はどこに行ったのでしょうか?


 今も、すっかり変わってしまった街をさまよっているのか。

 幸福そうな人々を呪い殺さんばかりの、憎しみと妬みにまみれた目で。



 なーんてね。



 幽霊なんていないって分かっているはずなのに、ふと今でも考えちゃうんです。

 特に、あの公衆便所に似たお手洗いを見ると良くない。


 ああ、早く建て替えてくれないかなあ、あれ。

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