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「全く、あの松田が幼少期の恐怖体験を引きずっていたなんて、驚きだった。あいつほど心臓の強い奴は早々いないと思っていたのだが」



「まあ、話を聞く限り、無理もないよ」



 浅草の寄席に、佐々木と共に潜入捜査へ赴いた帰り道。


 明智は気まぐれで、先日、松田から聞かされた怪談話をした。

 柳の木が並ぶ川沿いの道は、等間隔に灯篭が設置され、古き良き江戸の香りを残していた。

 この辺りも、大正の終わりにあった震災では壊滅的な被害を受けたはずだが、この道は辛くも難を逃れたようだった。



「口では幽霊なんていないと言ってたが、あれは未だにその子供の正体は幽霊だと信じているな。そうでなければ、『造りが似ているから』なんて理由で、夜中一人で便所に行かれないなんてあり得ないだろう?」




 明智の問いかけに、佐々木は頷かず、意味深な笑みを浮かべた。



「僕はそうとも言い切れないと思うけどね」



 作り物のように整った親友の横顔を灯篭の灯りが照らした。長い睫毛が陶器の如き白皙に影を落とし、貴族的な美貌から品の良い色香が漂う。



「じゃあ、貴様はどう思うのか?」



 昔から、常に自分の一歩先を歩く友人の見解が早く聞きたくて、明智はやや前のめりに尋ねた。

 佐々木は諜報員となっても、根の素直な性格を隠しきれていない旧友に苦笑しつつ、悠然とした口調で持論を展開し始めた。



「僕は、松田はその少年が幽霊ではなく、生きた人間だったと気づいていると思うよ。それでも彼が少年との記憶に怯える理由は、恐らく『罪悪感』だろうね」



「罪悪感? 同じ年頃なのに、貧しく、親に虐待されていた少年とは天と地のようにかけ離れた、恵まれた環境で生まれ育ったことに対して、か?」



 厚顔無恥なあの男なら、『どんな家に生まれるかなんて、運ですよ。僕はたまたま運が良かっただけだ』と開き直りそうなものだが。

 そんな謙虚な部分があったなんて驚きだ。


 けれども、佐々木はくすくすと愉快そうに笑って、首を横に振った。



「違う、違う。あいつはそこまでの聖人ではないよ。そうだね……。明智はさ、松田が見た不気味な少年は、何で夜遅くに、公衆便所でたまたま見かけた松田少年を怖がらせるようなことをしたのだと思う? 彼が生者であること前提でね」



 それは……。



 元は母親に虐待され、大怪我を負い、反射的に家を飛び出し、傷の手当てをしていただけだろう。そこにのこのこ現れた世間知らずの愛されて育っている坊ちゃんが羨ましくて、妬ましくて、憎かった。

 病院に行く金だって、彼にはなかったに違いない。

 だから、腹いせに幽霊のふりをして、驚かせてやっただけだろう。

 松田から見れば、地方の名家出身の自分なんて庶民の括りに入ってしまうのかもしれないが、親や周囲の愛情を一身に受け、大事に育てられている少年時代の明智が、件の少年と対峙しても、きっと同じ結末を迎えていただろう。

 持っている者は、時に持たざる者への配慮を無意識に欠き、彼らを傷つけ、恨みを買うのが世の常だ。



「松田の世間知らずっぷりが鼻についたのだろう? 綺麗な世界しか知らず、愛されることを当たり前だと信じて疑わない雰囲気が鬱陶しかった。自分の境遇や世界の不平等さへの怒りとか、そういった鬱憤をぶつけるちょうど良い相手として、松田を見出し、八つ当たりしただけだ」



「違うよ」



 話終わるや否や、旧友はピシャリと明智の解釈を切り捨てた。常に穏やかな物腰の彼には珍しい、拒絶するが如き冷徹な口振りに、焦る。

 何か機嫌を損ねるようなことを口にしてしまったのかと、自分の発言を振り返ってみたが、思い当たらなかった。


 繁華街の照明で白む夜空を見上げ、佐々木は詩でもそらんじるようにすらすらと続けた。



「少年は、松田に助けて欲しかったんだ。傷だらけで『母さんに殺された』なんて衝撃的な告白をすれば、誰かまともな大人に話してくれて、母親が逮捕されるとか、自分は施設に引き取られるとか、とにかく然るべき対処が取られ、生き地獄から脱出できるのではないかと期待し、一縷の望みをかけていたのさ。結局、作戦は失敗したけどね。でも僕は、その少年は、母親に虐待される度、同じような作戦で、ドブ臭い貧民窟に迷い込んだ人たちを驚かし、助けを求めていたと思うよ。抜け出したくて、這い上がりたくて、必死だったに違いない。そして松田も、いつ気づいたのかは分からないけど、少年がSOSを発していたのに、自分は臆病風に吹かれ、結果的に彼を助けられなかったと察したのさ。その罪悪感が奴を未だに苦しめている。そんなところだろう」




 その見解に、明智は言葉を失った。

 もし、少年の意図が、松田が深夜、一人で寮の便所に行かれない理由が、佐々木の話す通りだったとしたら、あまりに重過ぎる。

 もう、「いい歳をして、一人で便所に行かれない男」と松田を揶揄することもできない。否、他の誰かに、彼の深夜の傍若無人かつ迷惑な言動を愚痴ることさえ憚られる。

 気を抜くと頭に過ぎる少年がその後、どうなったかという疑問は、意図的に考えないようにした。

 考えたって、絶望的な末路しか思い至らない。



「ねえ、明智」



 眉間に皺を寄せ、陰鬱な表情で歩いていると、不意に呼びかけられた。



「何だ?」



 返事をすると、親友は徐にある提案をしてきた。



「今晩から、松田の付き添いは僕がするよ。貴様も毎晩のことだと、さすがに堪えるだろう? 幸い僕は一日3時間も眠れば十分だからね」




 無番地一の敏腕スパイにして、圧倒的な美貌を誇る男は、いつもどおりの柔和で非の打ち所がない美しい微笑みを湛えている。



「それは助かるが……。何故だ?」




 明智の問いを受け、程よい厚みが色っぽい唇が開く。

 ふとその時、一陣の風が吹き、川べりの柳をそよそよと揺らし、佐々木の芸術的な角度で垂らされた前髪を持ち上げた。

 月光を浴び、やや青みを帯びている白磁の如くきめ細やかで、吹出物一つない額と艶やかな黒髪の境目に、薄っすらと小さな引きつれが見えた。

 それは小ぶりのミミズ大の長さで、色も周囲の肌と同化してしまっており、前髪を垂らしてしまえば、気づく者はいないであろう微細な綻びだった。

 事実、10年近く友人をしている明智も、今この瞬間まで、その存在を認識していなかった。

 しかし、一度目に入れば、それが古傷であるのは明白だった。


 まさか、そんなことがあるのか?


 息を呑み、絶句している明智を興味深げに観察しているような瞳で見返し、佐々木は軽やかに答えた。



「怖がらせてしまったお詫び、かな」

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