2 銀座ナンパ大作戦

1

 9月末の日曜日の昼下がり。


 明智湖太郎は、皇国共済組合基金社員寮、諜報員用寝室で、一人静かに読書に勤しんでいた。


 今日は、つまらない一発芸を執拗に披露してくる近藤も、良くない薬でもやっているのではないかと疑いたくなる程、陽気な小泉も仕事で外出している。


 広瀬は訳の分からない実験データを観測しに、陸軍の研究所に休日出勤しているし、あれやこれやとちょっかいを出してくる松田も、実家の両親と共に買い物に出かけていた。


 満島はどこにいるのか分からなかったが、多分、繁華街でナンパでもしているに違いない。



 とにかく、現在、寝室にいるのは、明智と佐々木、それに山本の三人だけだった。


 実に落ち着く空間だった。

 うるさい奴や鬱陶しい奴が全員外出しているなんて、夢のようだ。


 二階には当麻旭がいるはずだが、彼女は休日は殆ど部屋から出ない上、彼のペースを乱すようなことはして来ない。無害だ。


 窓から入る初秋の涼やかな風に吹かれ、名探偵がめくるめく活躍を遂げる大衆小説の世界に、明智はどっぷりと入り込んでいた。

 最早、自分が主人公の名探偵であるかの如き心境になってしまっているくらい、読書に熱中していた。


 佐々木も分厚い法律学の専門書を読み耽っていたし、山本はゴミ箱の上で、人差し指程の大きさの木片を一心不乱に彫刻刀で削っていた。

 何を作っているのか知らないが、きっと無骨な武士のような佇まいの彼のこと。仏像でも彫っているのだろう。


 ページをめくる音と木を削る音しか聞こえぬ室内で、ゆったりと文学を嗜む休日の午後は、酷く贅沢なものに思えた。



 日が翳り、夕方になれば、山本は夕餉の下ごしらえに立ち、自分と佐々木は本を閉じ、雨戸を閉め、部屋の灯りを灯してからお互いが読んだ本について語り合う。

 知的で穏やかな時間を満喫しているうちに、夕飯の時刻になる。


 うん、今日は良い日だ。

 今週1週間の英気を養うには十分な休息が得られる。

 明智湖太郎はそう確信していた。



 が、いつだって、彼の希望的観測というものは裏切られるのが世の理だ。



 突如、廊下から、ドタドタと騒々しい足音が近づいて来たかと思うと、足音の主は体当りするように、乱暴に寝室のドアを開けはなち、中に転がり込んで来た。


 やや小柄な体躯に、好奇心旺盛な子犬を彷彿させる、きらきらと輝く双眸。ちょろちょろと落ち着きのない挙動。

 無番地一期生の同期、満島は室内にいた3人の呆れの混じった視線を物ともせず、彫刻刀と木片を持ったまま静止している山本のところまで、一直線に歩いて行き、頭を下げた。



「兄貴! 頼む。今から一緒に銀座に行かないか? 兄貴ってさ、若干地味だけど、背も高いし、古風な男前だし、女の子の扱いも上手いし、きっとうまく行くと思うんだ」



「すまない、夕食の仕込みがあるから。また今度な」



 誰にでも優しいが、決して相手を甘やかしはしない山本は、間髪入れず、満島の頼みに苦笑いをし、首を横に振った。



「夕食なら外で食べようよ。声かけた女の子も一緒でさあ」



「いや、俺は他の奴らの分も作らなきゃいけないから」



 何かと思えば、ナンパの誘いか。


 明智は露骨に軽蔑の目で、キャンキャンうるさい同期を見やった。

 一体、初対面の尻軽女とお茶をしたり、飯を食うことの何が楽しいのだろう。うまく行けば、飯を食った後には、その女と連れ込みに入れると、満島や小泉はしきりにナンパの魅力を語っていたが、生真面目な明智には全く響かなかった。

 どこの馬の骨かも分からない、愛してもいない女なんて抱きたくない。本来、その種のことは、相思相愛で、婚姻関係のある男女間だけに限られるべきことなのだ。

 退廃しきった昨今の若い男女の関係には、一言も二言も物申したかった。



「えー。小泉が急に仕事が入っちゃって行けなくなっちまったんだよ。そこを何とかならないかねえ、兄さん」



「何ともならない。そうだ、佐々木に行ってもらったらどうだ? 佐々木なら、女の方から声をかけてくるかも知れんぞ」



 しつこく食い下がる満島に困りきった同期最年長の男は、無番地一の美男子に話の矛先を変えさせようとした。


 しかし、へらへらとしていたはずの軽薄者二人組の片割れは、急に真顔で拒絶の意思を表明した。



「いや、佐々木はだめだ。俺が霞む」



「じゃあ、明智は?」



 二人の押し問答には興味を示していなかった佐々木が、唐突に自分の名を挙げたため、明智はびくりと肩を震わせた。


 冗談じゃない。

 俺が女が苦手なことは貴様は熟知しているだろうに、なんて無責任な提案をするのだ。



 脳内で、訓練施設時代の悪夢が蘇る。


 プロのジゴロに習う女の口説き方講座の試験を、明智は同期最低点で、ギリギリ突破した苦い経験がある。


 実際は、女を口説くという目的は達成できなかったので、本来なら落第点だったが、他の科目の成績は佐々木に次いで良好であると聞いたジゴロ講師が特別に情けをかけてくれたのだ。


 盛り上がる煌びやかなキャバレーで、たった一人で飲んだ水割りの味は今でも忘れられない。



「はあっ?! 明智は無理でしょう。佐々木、貴様本気で言っているのか? 明智なんか連れて行ったら、いくら顔はまともでも、それ以外が最低だ。引き立て役にすら使えないぞ。よもやジゴロ研修のこと、忘れた訳ではあるまいな」



 佐々木の提案に、満島は突拍子もない声を上げた。

 けれども、美し過ぎて近くにいる同性を全て引き立て役にしてしまう男は、涼しい顔で反論した。



「そりゃ覚えているさ。明智の周囲だけお通夜のお清め状態だったからね。だからこそ、稀代のナンパ師の貴様が良い機会だし、指導してやれば良いじゃないかと思っただけだよ」



 佐々木なりに親友の弱点克服を応援してくれているつもりなのかもしれないが、大きなお世話だった。



「おい、佐々木。俺はナンパなんか行きたくないし、任務ならば、表面上は女とも普通に接しられるぞ」



「そうだ、そうだ!本人も嫌がっているし、 明智を連れてくのは論外だ。やっぱり、山本がいい」



「勘弁してくれよ。仕込みがあると言っているだろう。今日は諦めろ」



 再び山本にはっきり断られ、やだやだと駄々っ子の如き、満島は喚いた。どうでもいいが、一応彼は、海外の大学に留学していたせいで、明智や佐々木より1、2歳年上のはずだ。

 恥ずかしくないのだろうか。



「仕方ないな。じゃあ今から僕とじゃんけん三本勝負をして、貴様が勝ったら山本を連れて行け。僕が飯はどうにかする。その代わり、僕が勝ったら、明智を連れて行け」



 腰掛けていたベッドから立ち上がり、佐々木は気障な仕草で右手をひらひらさせた。

 口元には好戦的な笑みが浮かべられている。

 勝負をする前から、勝ちを確信している面持ちだ。


 この場合、じゃんけん勝負に応じないことが、正しい選択であった。

 だが、軽薄者は好物を見つけた犬のように目を輝かせ、「やってやろうじゃないか」と腕まくりをした。



 そして、勿論惨敗した。



 満島の浅慮の巻き添えを食い、嫌々外出の仕度をしていると、山本が「お守りに」と先程まで彫っていた木片をくれた。

 受け取って見てみると、それは神聖な仏像ではなく、やたらと肉感的な女の裸体だった。

 激しく必要のない贈り物だったが、本人の目の前、捨てる訳にもいかず、上着のポケットに押し込んでおいた。

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