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 あの時、僕は幼稚舎の2年生でした。


 庶民風に言うと、尋常小学校2年ですね。

 秋に8歳になったばかり。

 女の子みたいに可愛らしい顔立ちで、品があり、声もまだ高くて、音楽の時間には先生にボーイソプラノを褒められました。もう親の贔屓目抜きで、当時の僕は天使そのものでした。

 学校の成績はいつも一番。運動も得意でしたので、多分同じ学級の女の子は、みんな僕に憧れていたのだと思います。

 声をかけれられなかったのは、高嶺の花だったからなのでしょうね。下手な女の子よりずっと、僕、可愛かったから。



 その日は、確か12月の初めくらいだったかな。


 学校から帰ったら、お父様に急に呼び出され、「今夜は日頃から懇意にしている取引先の社長と、浅草の料亭で宴席がある。お前ももう8歳になる。そろそろ大人の世界を勉強しておく必要があるから、一緒に来なさい」と言いつけられました。


 僕は我儘で強情ですが、それはやりたくないことを無理矢理やらされそうになった時とか、自分の意向に反することを強制された時のみです。

 お父様の商売は、お金が馬鹿みたいに集まるみたいで魅力的だったし、見習いとはいえ大人扱いされるのは、誇らしいものです。

 だから、素直に従いました。



 夕方、お抱えの運転手が運転する車に、僕はお父様と爺やと一緒に乗り込み、浅草の高級料亭に向かいました。



 そこで、取引先の社長だという太っていて、豚が上等な背広を着せられているみたいなおじさんに挨拶をしました。

 汗っぽい手で髪を撫でられたり、ぶよぶよの膝の上に乗せられたり、不愉快な思いをしました。


 でも、賢い僕はお父様の立場も考え、愛想良くにこにこしていたし、本当はうちの料理人が作る毎日の食事の方が美味しいと思ったけど、大人向けの割烹料理を「美味しい、美味しい」と喜んで食べるふりをしていました。



 そのうちお父様も豚社長もお酒が回ってきて、ご飯を食べ終えてしまった僕は退屈になりました。

 お手洗いに行った時に、こっそり爺やにつまらないとこぼすと、爺やがお店の人やお父様たちに掛け合ってくれ、宴会が終わるまで、特別に廊下で遊んでいて良いとの許しが出ました。


 暫くは爺やと話したり、見事な日本庭園を鑑賞したり、楽しく遊んでいたのですが、飽きました。


 しかし、大人たちの宴会は終わる気配すらない。


 ですので、料亭の外に探検に出掛けることに決めました。

 一応、爺やがお守り役としていましたが、正直彼を出し抜くなんて、お茶の子さいさいです。



 僕は、爺やにかくれんぼをしようと提案し、鬼役の爺やが目隠しをし、廊下の柱の前で数を数えている隙に、まんまと料亭の敷地外に脱出し、夜の浅草見物に繰り出したのです。



 いつも、高尚な文化と両親が判断したものだけしか娯楽を与えられていなかった僕にとって、雑多だけども活気溢れる浅草の芝居小屋の雰囲気は物珍しく、魅力的でした。


 お金は持っていなかったので、お芝居は見られなかったけど、色鮮やかな看板が提灯に照らされ、江戸時代の香りを多く残す街の風景は今でも目を閉じるとありありと浮かんできます。

 あの頃は震災前ですので、摩天楼のような浅草十二階も間近に見えたのです。



 夢中になって、往来を奥へ奥へと進んでいったのですが、あの頃の僕は、賢かったけど、年相応にお馬鹿さんでした。


 土地勘のない繁華街を目的もなく、帰りの道のことなんて一切考えず、興味の赴くままに歩いて行くうちに、見事に迷子になりました。


 気づいた時には、もう遅かったのです。


 あんなに華やいでいた景色は、いつの間にか灰色の燻んだ色となり、夜でも明るい大通りを行き交う立派な服装の紳士・淑女は消え、ちゃきちゃきと歯切れの良い江戸弁で話す芝居小屋の呼び込みの姿もなくなり、代わりに淀んだ目をした険しい顔立ちのおじさんをたまに見かけるくらいの寂しい場所にたどり着いてしまったのです。



 街灯も殆どなく、暗くてよく見えませんでしたが、狭くデコボコな道の両脇に建つ家は、どれも少しでも強い力を加えたら、すぐに倒壊してしまいそうな小屋や長屋ばかりでした。


 何かが腐ったみたいな臭いとドブみたいな臭いが、屋外なのに充満していて、鼻が曲がりそうでした。



 もうお分かりですよね。


 僕は、所謂いわゆる貧民窟に迷い込んでしまったのです。

 おまけに、空からは、ぱらぱらと小さな雪の結晶が舞い降り始めました。

 コートを着ないで、子供用の背広姿で出てきてしまったことを、猛烈に後悔しました。


 何だか汚い不穏な空気の漂う見知らぬ街で、夜に迷子になった挙句、雪まで降り出し、不安と恐怖、寒さに僕の繊細な心は耐えきれず、しくしく泣きながら、必死に記憶を辿り、元来た道へ戻ろうと試みました。


 が、さらなる不幸がこの哀れな天使を襲ったのです。


 爺やを出し抜いた罰にしたって、あまりに酷すぎる罰でした。

 雪が降り出し、急激に体を冷やしてしまったせいでしょう。



 とてつもない尿意が僕を襲いました。



 明智さんみたいに、田舎で粗野に育った方なら、迷うことなく立ち小便できたのでしょうが……。


 え? 自分もしない?


 ふーん。


 とにかく、華族のお坊ちゃんの僕は、慌ててお手洗いを探し、今にも倒れそうな長屋の前にあった公衆便所を発見し、飛び込みました。


 公衆便所だと思っていますが、もしかしたら、長屋の住民用の共同便所だったのかも知れません。

 話に大して影響はないですし、どっちでも構いません。



 そこは、男女で個室がわかれている訳でもない、ボロボロの木造の小屋でした。

 一応個室は2つあったのかな。


 そう、その便所こそ、無番地社員寮の男子用便所にそっくりであり、僕に未だ克服できぬ恐怖を植え付けた忌まわしい便所だったのです。

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